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第19話 首輪を断つ牙

 透は、眠っていた。


 深い眠りではない。


 奈落で目を閉じる時、体のどこかは必ず起きている。耳は音を拾い、皮膚は空気の冷たさを覚え、胸の奥の灰は、暗闇に沈みきらないよう静かに揺れている。


 それでも、前よりは眠れた。


 入口、水瓶、保存食。


 三つの灰標(かいひょう)が、小さな灯のように意識の端にあった。目で見る灯ではない。灰の奥に置いた目印。そこに何かが触れれば、眠っていてもわかる。


 だから、異変にも気づいた。


 入口ではない。


 水瓶でもない。


 保存食でもない。


 もっと近い場所で、灰が跳ねた。


 重い呼吸。石床を削る爪。首元で弾ける白い光。


 透は目を開けた。


「ぐ……っ」


 バルザが膝をついていた。


 太い腕で喉を押さえ、牙を食いしばっている。首の封環が強く光っていた。白い輪の内側から細い棘のような光が伸び、獣人の首筋へ食い込んでいる。


 周囲の者たちが起き始める。


 ガルドが真っ先に立った。


「バルザ」


「近づくな」


 バルザは低く唸った。


 声が震えている。


「こいつが、勝手に締まってる」


 透は立ち上がろうとして、脇腹の痛みに顔をしかめた。


 灰補修した傷がまだ硬い。だが、座って見ているわけにはいかない。


 リィンもすぐに起きていた。封印針を手に取り、バルザの首を見つめる。


「封環が再起動してる」


「何もしてないぞ」


 バルザが吐き捨てる。


 セイルが青ざめた顔で近づいてきた。


「たぶん、抵抗行動の蓄積だ。落とされた後も何度も命令に逆らった扱いになって、罰の刻印が溜まってる」


「さっき戦ったからか」


 透が言うと、セイルは頷いた。


「灰鼠を潰した時、封環が反応していた。あれで限界を超えたんだと思う」


 バルザの首から、血がにじんだ。


 白い光が肉に食い込み、首を内側から焼いている。


 このままではまずい。


 透は一歩踏み出した。


 リィンが腕を掴む。


「脇腹」


「今は後だ」


「後にしたら、トオルも倒れる」


「でも、こいつは今倒れる」


 リィンは一瞬だけ黙った。


 それから、封印針を握り直す。


「なら、短く。深く喰べない。私が止める」


「頼む」


 シェラが灰の上から立ち上がった。


 ぎこちない動きだった。壊れた体のどこかが軋み、胸の核が弱く光る。


「封環構造、解析補助可能」


「動けるのか」


 透が聞くと、シェラは無表情に答えた。


「低速なら可能。戦闘行動ではないため、崩壊率低」


「なら頼む」


「受領」


 シェラはバルザの前まで歩き、片膝をついた。


 青白い右目が、封環をなぞるように動く。


「神殿式隷属封環。命令線、痛覚線、破裂刻印、所有者印を確認」


「破裂?」


 透の声が低くなる。


 セイルが唇を噛んだ。


「無理に外すと、封環が首ごと弾ける」


「いい趣味してるな、神殿は」


 バルザが苦しげに笑った。


「笑えねえぞ」


「笑っておかないと、噛み殺したくなる」


「今は噛むな」


「わかってる」


 バルザは石床に爪を立てた。


 その爪が石を削る。


 痛みに耐えているだけで、床が砕けていた。


 透は膝をつき、バルザの首元に手を近づける。


 熱い。


 封環は白い光を放っているが、その奥に黒い淀みがあった。命令、痛み、恐怖、服従。そういうものを線にして、首へ縫い込んでいる。


 透は灰域を狭く広げた。


 広範囲ではない。


 バルザの首元だけ。


 灰が封環の表面を撫でる。喰うのではなく、形を見る。どこが生きた肉に繋がり、どこが命令の線で、どこが罰の光なのか。


 情報が鋭すぎて、こめかみが痛んだ。


 リィンが封印針を床に打つ。


 青い線がバルザの足元から首元へ伸び、封環の光を少しだけ鈍らせた。


「今なら見やすい?」


「少し」


 シェラが淡々と言う。


「破裂刻印は右後方。所有者印は正面下部。痛覚線は内側全周。命令線は三本、首筋から魔力経路へ侵入」


「全部壊せばいいわけじゃないんだな」


「全破壊、死亡率高」


「だよな」


 透は息を吐いた。


 灰糸を伸ばす。


 細く。


 いつものように歯や粘液を落とすのとは違う。これは、首に巻きついた呪いの鎖をほどく作業だった。


 まず痛みを弱める。


 白い光の棘に灰糸を触れさせる。直接喰い尽くすのではなく、棘を支える古い命令の残滓を払う。バルザの肩がわずかに緩んだ。


「少し楽になった」


「喋れるなら上等だ」


「上等ってほどじゃねえ」


「文句が言えるならまだいける」


 バルザは苦しげに牙を見せた。


 次に命令線。


 これが厄介だった。


 封環から伸びる三本の白い線が、バルザの首筋の奥へ食い込んでいる。肉体だけではない。魔力の流れ、獣人の本能、戦う意志そのものに絡んでいる。


 無理に抜けば、バルザの力まで削る。


 それは駄目だ。


 透は灰糸をさらに細くした。


 灰殻の手甲が熱を持つ。


 脇腹の傷が内側から引きつった。


 リィンの声が飛ぶ。


「深い」


「わかってる」


「トオルの灰が、バルザの魔力まで触ってる」


「触るだけだ。喰わない」


「触りすぎないで」


「努力する」


「今は努力じゃなくて、成功して」


「厳しいな」


「大事」


 リィンの声があると、灰が暴れにくい。


 透は命令線とバルザ自身の魔力の境目を探った。


 似ている。


 神殿の術式は、服従を本人の魔力に偽装している。まるで、最初からバルザが従うべきものだったかのように、内側へ入り込んでいる。


 気持ち悪い。


 透の灰が、怒りに反応して膨らみかけた。


 その瞬間、黒鎖が締まる。


 リィンが言う。


「怒っていい。でも、切るところを間違えないで」


「……ああ」


 透は奥歯を噛んだ。


 怒りを灰に渡さない。


 指先に集める。


 命令線の根元に、灰糸を添えた。


 切る。


 喰うのではなく、断つ。


灰断(かいだん)


 短く名付けた。


 灰糸が、白い命令線を一本だけ断ち切る。


 バルザの体が跳ねた。


「がっ……!」


 血が首元から噴きかける。


 だが、リィンの封印がすぐに押さえた。


 シェラが告げる。


「命令線、一。本体魔力、保持」


「成功か」


「成功。ただし、負荷上昇」


「あと二本」


 透は額に汗を浮かべた。


 脇腹が痛む。


 灰補修の継ぎ目が、動くなと訴えている。右腕の灰路も熱い。だが、今止めれば、一本切れた命令線の反動が残りの二本へ流れる。


 そうなれば、封環はもっと締まる。


 透は二本目へ灰糸を伸ばした。


 今度は少しだけ見える。


 一度断ったことで、封環の構造が灰に残った。白い線の癖、命令がどこで曲がるか、所有者印からどう力が流れるか。


 喰ったわけではない。


 だが、断った感触を覚えている。


 二本目を断つ。


 バルザの爪が床を深く抉った。


 リィンの青い封印が強く光る。


 セイルが悲鳴に近い声を上げた。


「破裂刻印が動く!」


「シェラ!」


「右後方、抑制必要」


 シェラが壊れた右腕を無理やり持ち上げた。


 火花が散る。


 彼女の指先から青白い細線が伸び、封環の右後方に触れる。破裂刻印の光が一瞬だけ鈍った。


 シェラの胸の核が大きく揺れる。


「稼働限界、接近」


「無理するな」


 透が言うと、シェラは即答した。


「番人保護、優先」


「それをやめろって言ってるんだよ」


「命令未確認」


「後で確認するから今は崩れるな」


「了解。崩壊回避を試行」


 会話が噛み合っているのかいないのか、わからない。


 だが、シェラは破裂刻印を押さえている。


 透は最後の一本を見た。


 これが一番深い。


 首の内側、バルザの魔力の芯に絡んでいる。力を封じるためではない。心を折るための線だった。


 逆らえば痛む。


 戦えば締まる。


 牙を向ければ罰する。


 獣人の誇りそのものに、首輪をかけている。


 透の中で、灰が冷たく燃えた。


 教室の空気を思い出す。


 王国の広間を思い出す。


 何もしていないのに危険だと決めつけられ、枷をはめられ、奈落へ落とされた瞬間を思い出す。


 形は違う。


 でも、同じだ。


 勝手に決めて、勝手に縛り、勝手に捨てる。


 透は灰糸を最後の線へ添えた。


「バルザ」


「あ?」


「力を抜くな」


「普通、抜けって言うんじゃねえのか」


「この線は、お前の牙に絡んでる。力を抜いたら、そっちまで持っていかれる」


 バルザの目が見開かれる。


 それから、獣のように笑った。


「いいぜ。噛み締めてやる」


 バルザの魔力が膨らんだ。


 封環がそれを罰しようと白く光る。


 その瞬間、透は灰糸を滑り込ませた。


 バルザの魔力ではない。


 その上にかぶせられた命令だけ。


 牙に巻きついた鎖だけ。


 灰が白い線を断った。


 封環が割れた。


 白い輪に亀裂が走る。


 破裂はしない。


 リィンの封印、シェラの抑制、セイルが読み取った術式、透の灰糸。その全部がぎりぎりで噛み合い、封環は首を吹き飛ばす代わりに、黒い灰となって崩れた。


 バルザが大きく息を吸った。


 初めて空気を吸ったような音だった。


 首元に残った傷から血が流れる。だが、白い光は消えていた。服従の線も、痛みの棘もない。


 封環は、床の上でただの灰になっていた。


 透は力が抜け、その場に手をついた。


 脇腹が激痛を訴える。


 右腕の手甲も熱い。


 リィンがすぐに支えた。


「だから、短くって言った」


「短かっただろ」


「長かった」


「体感の問題だな」


「トオルの体の問題」


「はい」


 反論できなかった。


 シェラもその場に座り込んだ。胸の核が弱く点滅している。


「稼働限界、接触。休息を要求」


「登録できてるじゃないか、休息」


 透が言うと、シェラは小さく頷いた。


「トオル命令により登録済み」


「変なところで律儀だな」


 バルザは、まだ膝をついたままだった。


 彼は自分の首に触れた。


 何度も。


 まるで、そこに何もないことを確かめるように。


 やがて、ゆっくり立ち上がる。


 大きかった。


 封環があった時も大柄だったが、今は違う。肩が上がり、背筋が伸び、押さえつけられていた獣の気配が全身から戻ってくる。


 灰置き場の空気が震えた。


 バルザは透を見た。


 その目には、もう痛みの濁りがない。


 彼は一歩、透の前へ進む。


 そして、片膝をついた。


 周囲が静まり返る。


 透は目を見開いた。


「何してるんだ」


「傭兵の礼だ」


「礼なら立って言え」


「これは立って言う礼じゃない」


 バルザは首を垂れた。


 獣人の誇りを折るためにつけられていた封環は、もうない。


 その首を、自分の意思で下げている。


「俺の牙を、お前に預ける」


 低い声だった。


 灰置き場の奥まで届く、重い声。


「お前が俺を縛ったんじゃない。俺の首輪を断った。なら、この牙は俺の意思で使う」


「バルザ」


「敵を示せ。道を示せ。守るものを示せ。俺はそこに立つ」


 透は言葉を失った。


 命令することに慣れていない。


 従われることにも慣れていない。


 けれど、バルザの言葉を軽く扱ってはいけないことだけはわかった。


 これは冗談ではない。


 王様候補などという軽口でもない。


 命を救われ、首輪を断たれた獣人が、自分の意思で差し出している忠誠だった。


 透は拳を握りかけて、力を緩めた。


 壊さないように。


 逃げないように。


「俺は、まだ何を示せるかわからない」


 正直に言った。


「地上に戻りたい。王国が何をしたのか知りたい。捨てられた人たちを、これ以上喰わせたくない。それくらいしかない」


「十分だ」


 バルザが言った。


 ガルドの口癖のような言葉。


 だが、今は違う響きに聞こえた。


「なら、まずそれを守る。俺の牙は、そのために使う」


 透はバルザを見た。


 そして、小さく頷いた。


「わかった。頼む」


 バルザの口元が、獣のように笑った。


「任された」


 その瞬間、灰置き場の者たちの間に、何かが走った。


 音ではない。


 合図でもない。


 だが、全員が見ていた。


 封環を外された獣人が、透に膝をついた。


 それは、ただの治療ではなかった。


 ただの礼でもなかった。


 ここにいる者たちは、見てしまった。


 透が首輪を断ち、バルザが牙を預けるところを。


 リィンが小さく言った。


「また、見られた」


「言うな」


「でも、事実」


「わかってる」


 ガルドが近づいてきた。


 その表情は険しいが、どこか満足げでもあった。


「これで前衛が一枚増えた」


「お前、感想が実務的すぎるだろ」


「実務は大事だ」


 セイルが封環の灰を見て、震える声で言った。


「神殿式の封環を、壊さず断った……」


「何かまずいのか」


「いや……普通はできない。封印師でも、専用の解除符がいる。それを灰で……」


 セイルは透の右腕を見た。


 怯えはまだある。


 だが、それだけではない。


 理解できないものを見る術師の目だった。


 シェラが座り込んだまま告げる。


「灰断、戦術登録。対封印、対命令術式に有効」


「勝手に登録するな」


「必要」


「みんなそれ言うな」


 リィンが透の脇腹を確認する。


「傷、開きかけてる」


「やっぱり?」


「やっぱり。座って」


「はい」


 透は素直に座った。


 今度は誰も笑わなかった。


 バルザが立ち上がり、透の前から横へ移動する。そして、そのまま壁際に立った。まるで、透を守る位置を選んだように。


「何してるんだ」


「休め。俺が立つ」


「見張りなら他にも」


「俺が立つ」


 短い言葉だった。


 透はそれ以上言えなかった。


 リィンが傷口に封印針を当てる。


 青い光が灰補修の継ぎ目を押さえる。


 痛い。


 だが、さっきより少しだけ耐えられた。


 灰置き場の入口では、灰標が静かに反応している。水瓶のそばも、保存食のそばも、異常はない。シェラは休息状態に入り、ガルドは封環の灰を拾わせている。セイルは震える手で、今見た解除手順を石板に書きつけていた。


 そしてバルザは、透の横に立っている。


 首輪のない首で。


 自分の意思で。


 透は目を閉じかけた。


 王などではない。


 まだ、そんなものではない。


 けれど、誰かの牙が自分のために向けられることの重さを、初めて知った。


 灰置き場の炉が静かに揺れる。


 その火の前で、老婆が小さく呟いた。


「牙持つ者が、灰に膝をついた」


 誰も返事をしなかった。


 けれど、その言葉は灰置き場の中に残った。


 小さな噂の種のように。


 いつか別の呼び名へ変わるかもしれない、最初の灰の粒のように。


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