第20話 灰の牙、初陣
バルザが透の横に立つようになってから、灰置き場の空気は少し変わった。
大きく変わったわけではない。
水はまだ貴重で、保存食も十分とは言えない。入口の灰幕は補強されたが、喰屍が本気で押し寄せれば耐えきれる保証はない。壁の隙間からは冷たい風が入り、炉の火は相変わらず灰色に揺れている。
だが、怯え方が変わった。
何かが来るかもしれない。
それは同じだ。
けれど、来たら終わりだ、という顔は少し減った。
来たら、誰が前に出るのか。
どこへ逃げるのか。
何を守るのか。
誰が知らせるのか。
そういう話が、少しずつ出るようになった。
ガルドは炉の近くに石を並べ、簡単な見取り図を作っていた。
「入口は三つに分ける」
灰の義手で石を動かす。
「正面は今まで通り。喰屍のような大きいものはここで止める。右の細穴は灰鼠や虫が入る。ここには骨網を置く。左の古い排気路は普段閉じるが、逃げ道にもなる」
バルザが腕を組む。
「俺は正面だ」
「当然だ」
ガルドは即答した。
「お前は目立つ。敵を引ける。封環も外れた。前に置かない理由がない」
「言い方が雑だな」
「褒めている」
「そうは聞こえん」
透は壁際に座ったまま、そのやり取りを聞いていた。
脇腹はまだ痛む。
灰補修で塞いだ傷は、リィンの封印で少し落ち着いたが、完全には馴染んでいない。動けないわけではない。だが、走れば開く。跳べば灰がずれる。無理をすれば、リィンに本気で怒られる。
だから、今は座っている。
ただし、何もしていないわけではなかった。
入口、水瓶、保存食。
三つの灰標に加え、ガルドの許可を得て、右の細穴の前にも小さな骨片を置いた。今の透が安定して扱える数は三つが限界だったが、灰域を短く繋ぐだけなら、四つ目を一瞬見ることはできる。
見張りというより、瞬きする目に近い。
長く見れば頭痛がする。
だが、一瞬なら拾える。
リィンはその様子を見ながら、封印針を指先で回していた。
「四つ目は長く見ないで」
「わかってる」
「三呼吸まで」
「短いな」
「今はそれで十分」
「その十分、便利だな」
「ガルド語」
「うつったか」
「少し」
透は苦笑しかけて、脇腹の痛みに顔をしかめた。
バルザがそれを見て、鼻を鳴らす。
「座ってろ、王様候補」
「その呼び方をやめろって、何回言えばいい」
「候補を外してほしいのか?」
「逆だ」
「なら、まだ優しい」
「どこがだよ」
バルザは楽しそうだった。
首輪が外れてから、彼はよく笑うようになった。と言っても、人を安心させる笑いではない。牙を見せ、敵がいれば噛み砕きそうな獰猛な笑みだ。
だが、それでも以前の苦しげな顔よりはずっといい。
首元には封環の痕が残っている。
赤黒く焼けた輪の跡。
それを見るたび、透の胸の奥に冷たい怒りが戻る。
だが、その怒りを灰に渡すつもりはない。
喰うべきものは、まだ選ぶ。
「来る」
不意にシェラが言った。
灰の上に座ったまま、右目だけを入口へ向けている。
彼女の胸の核はまだ弱い。だが、感知機能だけは透の灰標と繋げることで少し補助できるようになっていた。
透も同時に、灰標の揺れを感じた。
正面入口ではない。
右の細穴。
床に置いた骨片の灰が、かすかに震えている。
軽い。
数が多い。
灰鼠より速い。
「右の細穴。小さいのが来る。たぶん群れだ」
透が言うと、ガルドの声が飛んだ。
「骨網を上げろ。ルカ、下がれ。セイル、細穴の線を閉じろ」
「は、はい!」
セイルが慌てて術式石へ手を伸ばした。
ルカは一度だけ細穴を見てから、水瓶の方へ走った。逃げるのではない。自分が守ると決めた場所へ向かったのだ。
細穴の奥から、かさかさと音がした。
灰色の虫が現れる。
甲虫ではない。
細長い。
人の指ほどの長さの虫が、壁を這い、床を這い、骨網の隙間へ向かって押し寄せてくる。頭には小さな鋏があり、背には灰色の薄い翅が畳まれていた。
ルカが青ざめる。
「灰切り虫……骨も布も切る。群れだと網も駄目」
「最悪の種類が多すぎるな」
透は立ち上がりかけた。
リィンの視線が刺さる。
「座って」
「でも」
「座ったままでもできることがある」
リィンは封印針を構え、透の前へ立った。
ガルドが骨杭を持つ。
「バルザ」
「ああ」
バルザが前へ出た。
封環のない首を回し、肩を鳴らす。
その一歩だけで、周囲の者たちが息を呑んだ。
抑えられていた獣が、ようやく鎖のない場所で立つ。
バルザは右手を開き、左手を軽く握った。
「透」
「何だ」
「どこを潰す」
その問いに、透は一瞬遅れた。
敵が来た。
自分が前に出る。
灰で削る。
それが、これまでの流れだった。
だが、今は違う。
バルザがいる。
ガルドがいる。
リィンがいる。
シェラがいる。
透が全部をする必要はない。
透は目を閉じ、灰標へ意識を触れさせた。
細穴の骨片。
虫の群れ。
先頭、中腹、後続。
骨網に取りつく数匹。
奥で翅を震わせ、指示を出すように動いている一回り大きな個体。
見えた。
いや、輪郭だけだ。
だが、十分だった。
「奥に大きいのがいる。たぶん群れの芯だ。骨網を切ってる小さいのは囮。奥のやつが来たら、まとめて抜けられる」
バルザが笑う。
「なら、奥を潰せばいいんだな」
「細穴が狭い。正面からは届かない」
「俺なら壁ごと行ける」
「崩すな。灰置き場の壁まで落ちる」
「注文が多い」
「守る場所だからな」
バルザは少しだけ目を細めた。
それから、牙を見せた。
「いい命令だ」
「命令じゃない」
「では指示だ」
「それも慣れない」
「慣れろ」
バルザは床を蹴った。
速かった。
首輪が外れる前も、彼は力があった。だが、今は違う。動きに詰まりがない。踏み込み一つで石床が割れ、腕が風を裂く。骨網へ取りついた灰切り虫が反応するより早く、バルザの爪が横から走った。
虫が潰れる。
一匹二匹ではない。
爪の一振りで、細穴の入口にいた十数匹が壁ごと削り飛ばされた。灰色の体液が飛び、潰れた虫の脚が床で痙攣する。
残酷な光景だった。
だが、爽快でもあった。
今までなら、一匹一匹に怯え、食料を守るために必死で押し返していた相手が、バルザの前ではただの虫に見える。
灰置き場の者たちから、低いどよめきが起きた。
バルザは止まらない。
細穴の縁へ片手を突っ込み、内側の壁を掴む。無理に崩さない。爪を石の継ぎ目にかけ、体を低く沈める。
「透」
「奥、右上。灰が集まってる」
「わかった」
バルザの腕が伸びた。
獣人の腕は、人間のそれより長く、太い。だが、それでも普通なら届かない距離だった。
しかし、彼は肩を外すように関節をずらした。
骨が鳴る。
見る者が顔をしかめる音。
それでもバルザは笑っていた。
「獣人の傭兵を、ただの力自慢だと思うなよ」
爪が奥へ届いた。
細穴の奥から、甲高い鳴き声が上がる。
群れの芯が逃げようとした。
透は灰糸を伸ばした。
遠い。
だが、細穴の床には虫の死骸が散り、灰が生まれている。その死んだ灰を伝えば、糸は届く。
透は奥の個体を喰おうとはしなかった。
ただ、逃げ道に積もった死骸の灰を軽く起こす。
細穴の奥で、灰がふわりと舞った。
群れの芯が一瞬だけ足を止める。
その一瞬で、バルザの爪が届いた。
ぐしゃり。
嫌な音が響いた。
細穴の奥から、潰れた大きな虫が引きずり出される。腹は裂け、翅は半分千切れ、頭の鋏がまだかちかちと動いていた。
バルザはそれを床へ叩きつけた。
石床に、灰色の染みが広がる。
残った小虫たちが一斉に乱れた。
統率を失った群れは、散り散りに逃げようとする。
「ガルド!」
透が叫ぶより早く、ガルドは動いていた。
骨杭が床へ打ち込まれる。
リィンの封印針が青い線を走らせる。
セイルが震えながらも術式石を押さえる。
細穴の入口が一瞬だけ狭まり、逃げようとした灰切り虫がそこへ詰まった。
バルザが爪を振り下ろす。
虫の群れがまとめて潰れた。
灰置き場に、湿った音が何度も響く。
残酷だった。
だが、誰も目を逸らさなかった。
それは、奪われる側ではなくなり始めた証のようでもあった。
透は灰標で周囲を探る。
まだ数匹いる。
水瓶の裏へ向かう小さな気配。
「ルカ、右の瓶の裏!」
「うん!」
ルカが骨棒を構えた。
飛び出してきた灰切り虫を、真正面から叩く。
一撃目は外れた。
虫がルカの腕へ飛びかかる。
透の心臓が跳ねた。
だが、ルカは逃げなかった。
体を低くし、もう一度骨棒を振る。
今度は当たった。
灰切り虫が床へ落ちる。
ルカは小さな足で、それを踏み潰した。
ぱき、と乾いた音。
ルカの顔は青い。
それでも、保存食を守った時と同じ目をしていた。
「やった」
ルカが小さく言った。
透は息を吐いた。
「助かった」
ルカは少しだけ笑った。
「うん」
最後の一匹は、シェラが止めた。
座ったまま、壊れていない左手を持ち上げる。指先から青白い細線が伸び、逃げる虫の足を絡め取った。
虫が床でもがく。
シェラは淡々と言う。
「捕獲。解析可能」
「潰さないのか」
バルザが聞く。
「群れの侵入経路を把握するため、生体反応を一時保持」
「虫にも容赦ないな」
「容赦の定義、不明」
「今のは褒めてる」
「褒称、受領」
シェラは少しだけ右目の光を強めた。
灰置き場の防衛は、終わった。
被害は少ない。
骨網が一部切られ、布が裂け、床が汚れた。だが、水瓶も保存食も無事だった。怪我人もいない。
以前なら、それだけで奇跡だったかもしれない。
今は違う。
灰標が知らせ、透が位置を読み、バルザが潰し、ガルドが塞ぎ、リィンが封じ、セイルが術式を押さえ、ルカが守り、シェラが捕えた。
一人ではない。
それが、透には一番大きかった。
バルザが潰した大きな灰切り虫を足で転がす。
「こいつ、食えるのか?」
「食うな」
透は即答した。
「お前に聞いてない。灰としてだ」
「ああ、そっちか」
透は虫の死骸を見る。
灰切り虫。
骨も布も切る。小さな鋏と群れの統率。細い道を探して入り込む性質。
喰えば、何か得られるかもしれない。
細い隙間を探る感覚。小さな敵を読む精度。灰標の改良。あるいは、灰糸をより細くする感覚。
だが、全部喰う必要はない。
透は右手を伸ばした。
リィンがすぐ横に立つ。
「少しだけ」
「わかってる」
「ほんとに?」
「三呼吸」
「よし」
リィンに管理されている気がする。
だが、今はそれでいい。
透は潰れた群れの芯から立ち上る灰に触れた。
死んだ個体の灰だけ。
群れを呼ぶ飢えは捨てる。食い荒らす性質も深くは入れない。ただ、細い隙間を読む感覚と、鋏の噛み合わせだけを拾う。
灰が指先から右腕へ入る。
痛みは少ない。
代わりに、視界の端が細く研がれた。
壁の隙間。骨網の目。布の裂け目。封印線の途切れ。今まで見逃していた小さな穴が、いくつも見える。
透は息を吐いた。
「……入口、まだ穴がある」
ガルドが眉を寄せる。
「どこだ」
「骨網の下。あと、右の壁の裂け目。灰切り虫はそこから入った」
シェラの右目が光る。
「解析結果と一致」
セイルも術式石を見て頷いた。
「本当だ。古い補修線が切れてる。外から削られたんじゃない。前から弱ってた」
ガルドはすぐに指示を出す。
「塞ぐぞ。骨杭を薄く割れ。布を灰水に浸せ。リィン、封印針は使えるか」
「一本なら」
「十分だ」
透は自分の右手を見た。
灰が、また少し馴染んだ。
急に強くなったわけではない。
だが、できることが増えた。
灰域で気づく。
灰標で見張る。
灰糸で道を作る。
死骸の灰から、敵の性質を少しだけ拾う。
成長が、積もっていく。
一つひとつは小さい。
けれど、積もる速度が上がっている。
透はそれを、少し怖いと思った。
同時に、必要だとも思った。
バルザが近づいてくる。
彼の爪には、灰切り虫の体液がこびりついていた。腕も胸も汚れている。だが、顔には満足そうな笑みがある。
「今のは悪くなかった」
「虫を潰すのがか?」
「違う。お前が見て、俺が潰す。ガルドが塞ぎ、リィンが止める。役割がある戦いは悪くない」
「傭兵っぽい感想だな」
「傭兵だからな」
バルザは少しだけ声を落とした。
「だが、今の指示はよかった」
「指示ってほどじゃない」
「俺には届いた。十分だ」
透は黙った。
その十分は、今までより重く聞こえた。
バルザはさらに続ける。
「お前は全部自分でやろうとするな。俺の牙は飾りじゃない」
「わかってる」
「なら使え」
その言葉は、命令ではなかった。
むしろ、差し出されたものだった。
透はバルザを見る。
首輪の痕が残る首。
自分の意思で立つ獣人。
透の敵に牙を向けると誓った男。
使う、という言葉には抵抗がある。
だが、頼るならできるかもしれない。
「次も頼む」
透が言うと、バルザは牙を見せて笑った。
「任せろ」
灰置き場の者たちが、そのやり取りを見ていた。
また見られている。
透はため息をついた。
「だから、そんなに見るなって」
ルカが首を傾げる。
「でも、見ないとわからない」
「何が」
「トオルがどこにいるか」
透は返す言葉をなくした。
リィンが静かに言う。
「目印だから」
「灰の目印ってやつか」
「うん」
ガルドが骨杭を持ち上げながら言った。
「今は目印でいい。いずれ、もっと重い名になる」
「ならない方向で頼む」
「それは俺が決めることではない」
「誰が決めるんだよ」
ガルドは灰置き場の者たちを見た。
「後ろに立つ者たちだ」
透は何も言えなかった。
炉の灰が揺れる。
虫の死骸は外へ運ばれ、穴は塞がれ、入口の灰幕はまた少し強くなる。灰標は小さく震えながら、拠点の周りを見張っている。
透はまだ傷ついている。
まだ座っている。
だが、戦いは勝った。
自分一人で無理をして倒したのではない。
仲間を動かし、配下の牙を借り、拠点全体で守った。
それは、透が初めて得た別の強さだった。
自分の腕だけではない。
自分を中心に集まる力。
その感覚は、灰補修の痛みよりもずっと深く、透の胸に残った。
シェラが捕えた灰切り虫を見下ろしながら、淡々と言った。
「防衛成功。群れの中心個体撃破。拠点損耗、軽微」
「報告みたいだな」
透が言うと、シェラは頷く。
「報告」
「誰に?」
「トオルに」
「俺か」
「中心個体」
「その呼び方もやめろ」
「では、トオル」
「それでいい」
バルザがまた笑う。
ガルドは否定しない。
リィンは少しだけ困ったように透を見ている。
ルカは灰標のそばにしゃがみ、小さな骨片をそっと撫でていた。
灰置き場は、まだ弱い。
だが、もうただの捨て場ではない。
牙がある。
目がある。
封がある。
名がある。
そして、守るために戦う者たちがいる。
透は右腕の黒鎖を見た。
灰は静かだった。
喰うためだけではない。
繋ぐために。
見つけるために。
任せるために。
灰は、少しずつ別の形を覚え始めていた。




