第88話 黒炎を呼ぶ者
灰置き場へ戻る道は、急いでも崩れなかった。
帰灰標が太くなったおかげで、排泥路の曲がり角も、廃棄昇降路の傾いた足場も、以前よりはっきり感じ取れる。
ルカは先頭近くを走った。
胸元の小型灰印を握り、時々立ち止まっては壁や床の気配を確かめる。
「こっち。下の道、起きてる」
透は頷く。
リィンはその横で、逆流しそうな古い封印線を青い針で押さえた。
バルザは後方を守り、ダグラスはさらにその後ろで幅広剣を肩に担いでいる。
シェラは右目を光らせ、通路の変化を記録し続けていた。
外縁に魔族の匂いを持つ者。
王冠印ではない。
神殿でもない。
だが、ネイラが知っている可能性がある。
それだけで十分だった。
透は灰骸刀の柄に手を置く。
鞘の奥で、刃が静かに沈んでいる。
王冠印の残滓を喰った刃は、以前よりも深く、重い。
だが、今向かっている相手が王冠印とは限らない。
魔族。
魔王軍。
ネイラを失敗作として捨てた者たち。
もし、そちらからの手なら。
透の目が冷える。
灰置き場へ近づくにつれ、黒炎の匂いが強くなった。
ネイラが外縁で火を起こしている。
けれど、燃やしてはいない。
黒炎標が反応し、相手を囲むように立っているだけだ。
灰置き場の入口に出る前に、シェラが告げた。
「外縁防衛、第二段階起動中。侵入なし。対象一。魔族系魔力反応。武装あり。敵対度、未確定」
バルザが鼻を鳴らす。
「血の匂いがする。怪我人だな」
ルカが小さく言う。
「道、迷ってない。わざと来た」
透は足を速めた。
灰置き場の外縁に出る。
そこには、灰骨外壁が低く光っていた。
骨杭の間に薄い灰線が走り、黒炎標が三箇所で静かに燃えている。
ガルドは防衛隊を骨杭の内側へ並べ、ダンは水路側の避難路を閉じている。
イーシャとケイルは子どもたちを後ろへ下げ、灰布を配っていた。
ネイラは外縁の中央に立っていた。
黒角。
黒い炎。
小柄な体に似合わない鋭い殺気。
その前に、一人の男が膝をついている。
黒い外套。
灰色の皮膚。
額の片側に折れた角。
肩から血を流し、左腕には黒い鎖の痕が巻きついていた。
魔族だ。
男は透を見た。
次に、ネイラを見る。
「……生きていたか、黒角の失敗作」
その一言で、黒炎が跳ねた。
ネイラの目が細くなる。
「その呼び方をするな」
男は乾いた笑みを浮かべた。
「なら、何と呼べばいい。魔王軍黒炎炉で使い潰され、廃棄穴へ落とされた出来損ないを」
黒炎が強く燃える。
セイルが後ろで息を呑んだ。
透は一歩前へ出た。
灰が足元へ沈む。
「口を選べ」
男は透を見上げた。
「お前が灰喰いか」
「そうだ」
「人族に拾われたか、ネイラ。堕ちるところまで堕ちたな」
ネイラの黒炎が男の喉元へ伸びた。
だが、触れる寸前で止まる。
透が灰糸を伸ばしていた。
黒炎そのものを止めたのではない。
黒炎が食いつこうとした男の傷口に、別の呪いが絡んでいた。
燃やせば、傷ごと爆ぜる。
ネイラもそれに気づき、舌打ちした。
「自爆札か」
男は笑う。
「さすがに見えるか」
リィンが青い針を一本抜く。
「胸の奥。黒い輪がある。死ぬと、火が広がる」
シェラが記録する。
「対象体内、自壊型黒炎爆札。起動条件、死亡または強制拘束解除。周辺被害、推定中」
ガルドが低く言う。
「敵なら厄介だな」
男は肩で息をしながら答えた。
「敵かどうかは、お前たち次第だ」
バルザが牙を見せる。
「こういう言い方をする奴は、だいたい面倒だ」
透は男へ近づいた。
灰骨外壁の内側には入れない。
男は外側に膝をついている。
灰線と黒炎標が、彼の動きを封じていた。
「名は」
男は一瞬黙り、答えた。
「ゼグラ。魔王軍東域斥候だった」
「だった?」
「今は追われている」
ネイラが冷たく笑う。
「魔王軍が斥候を捨てたか。珍しくもない」
ゼグラはネイラを見る。
「お前を捨てたのは軍ではない。黒炎炉の連中だ」
「同じだ」
「違う」
その声だけ、少し鋭かった。
ネイラの眉が動く。
ゼグラは咳き込み、黒い血を吐いた。
「魔王軍は一枚岩ではない。黒炎炉、血角院、王核派、辺境軍。連中は別々に動く。お前を廃棄した黒炎炉は、今は王核派へ尻尾を振っている」
セイルが顔をこわばらせる。
「王核派……?」
ゼグラはセイルを一瞥する。
「人族もその名を知っているのか」
「黒王核という言葉なら、王国の帰還儀説明に出ています」
ゼグラの口元が歪んだ。
「黒王核を帰還儀に? なるほど。人族の神殿は、そこまで腐ったか」
相良たちはここにいない。
だが、もし聞いていたら顔色を変えただろう。
透は短く問う。
「黒王核とは何だ」
ゼグラは透を見た。
「魔王を殺せば出る石ではない」
セイルの喉が鳴る。
ゼグラは続けた。
「黒王核は、魔族領の古い王権炉の中核だ。魔王の心臓ではなく、魔族領の封印と境界を支える核。王が触れるから黒王核と呼ばれる。奪えば、魔族領の境界が崩れる」
リィンが小さく言った。
「古い封印の核」
「ああ」
ゼグラはリィンを見る。
「青い封印の娘。お前も古いものに近いな」
リィンは答えない。
透はゼグラを見下ろす。
「王国は、魔王を倒して黒王核を持ち帰れば帰還儀ができると言っている」
「嘘ではない」
ゼグラは言った。
「黒王核ほどの古い核なら、異界の門をこじ開ける力はある。だが、使えば境界が壊れる。魔族領だけで済むかはわからない。人族の王国も、迷宮も、奈落も、まとめて揺れるかもしれない」
セイルの顔が白くなった。
「そんなものを、帰還儀に……」
「使うつもりなら、人族神殿は帰還など考えていない。開いた門を支配するつもりだろう」
ゼグラの声は掠れていた。
「あるいは、異界人の力を固定するために使うか」
透は黙っていた。
帰還儀。
黒王核。
灰核抽出。
白い倉。
王国と神殿が説明していた「魔王を倒せば帰れる」という言葉が、また別の形に歪む。
ゼグラは続ける。
「黒炎適性個体を探しているのは、人族だけではない。黒炎炉もだ。黒炎炉は、失敗作を捨てたくせに、最近になって廃棄個体の再取得を始めた」
ネイラの目が冷える。
「私を取り戻しに来たのか」
「違う。俺は逃がしに来た」
黒炎が揺れた。
ネイラの表情が、一瞬だけ変わる。
怒りではない。
疑い。
そして、ほんのわずかな動揺。
「誰に頼まれた」
ゼグラは咳き込みながら答えた。
「黒角の老女。お前の炉番だった者だ」
ネイラの顔が固まった。
「……婆様が、生きている?」
「黒炎炉から逃げた。だが、長くはもたない。お前が奈落で生きていると聞き、俺に伝言を託した」
「なぜ今さら」
「黒炎炉と人族神殿が、同じ獲物を探しているからだ」
シェラが右目を強く光らせた。
「推定接続。王冠印白倉、黒炎適性個体再取得。魔族側黒炎炉、廃棄個体再取得。対象、ネイラ」
透の灰が静かに広がる。
ゼグラの足元へも届く。
敵意はまだない。
だが、逃がしもしない。
「証拠は」
ゼグラは笑った。
「人族らしいな」
「証拠なしに、ネイラは渡さない」
その言葉に、ネイラが透を見た。
透は視線を返さない。
当然のように言っただけだ。
渡さない。
所有物だからではない。
ここへ逃げ込んだ者だから。
ゼグラは懐へ手を入れようとした。
バルザの爪が動く。
リィンの針が光る。
透の灰糸がゼグラの腕へ絡んだ。
ゼグラは動きを止め、乾いた声で言う。
「札だ。攻撃ではない」
「ゆっくり出せ」
ゼグラは黒い金属片を取り出した。
半分に割れた札。
表面には黒い炎の紋。
裏には、古い魔族文字が刻まれている。
ネイラの表情が変わった。
「婆様の炉札……」
リィンが札を見た。
「古い。嘘の線は少ない。でも、罠が一つ」
ゼグラは苦笑した。
「やはり見えるか」
「開くと、場所を知らせる」
「追手に追われている。俺がここへ来た時点で、半分は漏れている」
透は札へ灰糸を伸ばした。
場所を知らせる命令だけを探る。
魔族文字は読めない。
だが、死んだ命令なら喰える。
灰糸が札の裏の黒い線へ絡む。
じり、と音がした。
伝達命令が灰になる。
札は残る。
ネイラがそれを受け取った。
指がわずかに震えている。
彼女は札の文字を読み、唇を噛んだ。
「……黒炎炉は、私を回収対象にした。王核派と人族白倉が、黒炎適性を奪い合っている。捕まるな。黒炎を誰にも渡すな」
静寂。
ネイラの声は低かった。
「婆様の字だ」
バルザが舌打ちする。
「敵が二方向に増えたか」
セイルが頭を抱えた。
「王国、神殿、王冠印、黒鞭、剣杯、今度は魔族黒炎炉……」
ダグラスが笑おうとして失敗した。
「盛りだくさんだな」
透はゼグラを見た。
「なぜここを知った」
「黒炎の匂いを追った。だが、この外縁で迷った。灰の壁が邪魔をした」
ゼグラは灰骨外壁を見る。
「奈落にこんな砦があるとは思わなかった」
ガルドが低く言う。
「まだ砦と呼ぶには粗い」
「粗くても、壁だ。魔族の斥候を足止めした」
ゼグラは苦しげに笑う。
「悪くない」
ネイラが冷たく言う。
「褒めても入れないぞ」
「入れてほしいとは言っていない」
ゼグラは透へ視線を戻した。
「取引をしたい」
透は黙っている。
「俺は黒炎炉と王核派の動きを知っている。人族白倉と魔族側がどこで接触しているかも、断片ならわかる。代わりに、この爆札を外せ。俺はまだ死ねない」
リィンがゼグラの胸を見る。
「外すと、爆ぜる」
「知っている」
「生かして外すのは難しい」
ゼグラは頷いた。
「だから、ここへ来た。黒炎を殺さず、命令だけ喰える灰喰いの噂を聞いた」
透はゼグラの胸へ灰域を沈めた。
爆札は、生きた肉に食い込んでいる。
魔族の黒炎を燃料に、死んだ命令が輪を作っている。
無理に喰えば、肉ごと抉る。
だが、できないわけではない。
リィンの針が必要だ。
ネイラの黒炎も、火力を抑えて使えば命令の表面を剥がせる。
透は言った。
「助ける理由はまだ薄い」
ゼグラの目が細くなる。
「なら、殺すか」
「殺すだけなら簡単だ」
透の声は冷たい。
「でも、死ぬと爆ぜる。爆ぜれば灰置き場の外縁が汚れる。お前の情報も消える」
ゼグラは黙った。
透は続ける。
「だから生かす。吐く間は」
その言葉に、セイルが息を呑んだ。
慈悲ではない。
計算だ。
情報を吐くなら生かす。
灰置き場を汚すなら殺し方を選ぶ。
ネイラを狙うなら、敵。
透の中の線は明確だった。
ゼグラは苦しげに笑った。
「人族にしては、まともだな」
「人族で括るな」
「悪い」
ゼグラは素直に謝った。
ネイラが透を見る。
「外すのか」
「外す」
「私もやる」
「黒炎を荒らすな」
「わかっている」
リィンが青い針を三本抜いた。
「胸、左、喉、背中。三箇所止める」
透は頷く。
「シェラ、記録。爆札構造も残せ」
「了解」
ガルドが周囲へ指示を飛ばす。
「子どもと非戦闘員は水路側へ。防衛隊は骨杭の内側。黒炎番、ネイラの火に干渉するな。水番、念のため外縁水瓶を閉じろ」
灰置き場が動く。
混乱は少ない。
役があるからだ。
誰が下がるか。
誰が残るか。
誰が何を持つか。
昨日決めたものが、今日すでに働いている。
ゼグラは灰骨外壁の外側に横たえられた。
中には入れない。
だが、外縁処置台として骨板が運ばれる。
イーシャが灰布を持ってきた。
「これ、血止めに使えます」
セイルがいなくても、彼女はもう自分で動ける。
ケイルが古い鉄鉤を運び、ダンが水を置く。
ルカは道番の板を抱え、退避路の前に立つ。
ネイラはゼグラの胸に手をかざした。
黒炎が細く伸びる。
いつものような荒い火ではない。
針のように細い火。
リィンの青い針が、胸の黒い輪の三点を縫う。
「止めた。長くは無理」
「十分だ」
透の灰糸がゼグラの胸へ沈む。
肉を喰わない。
生きた魔力は触らない。
爆札の死んだ命令だけを探る。
黒炎が表面を焦がし、青い針が輪を止め、灰糸が命令を喰う。
ゼグラが歯を食いしばる。
喉から声が漏れた。
透は表情を変えない。
「暴れるな。失敗したら爆ぜる」
「……わかっている」
ネイラが低く言う。
「情けない声を出すな、斥候」
「失敗作に言われるとはな」
「燃やすぞ」
「今はやめろ」
そのやり取りに、バルザが少しだけ笑った。
だが、処置は綱渡りだった。
爆札の輪が、一度強く光る。
リィンの針が震える。
「奥、動いた」
「場所は」
「心臓の下」
透は灰骸刀へ手を伸ばした。
抜くほどではない。
だが、鞘の中の刃から薄い灰を引く。
灰骸刀が王冠印を覚えたように、黒炎爆札の死んだ命令にも刃の灰は反応した。
透は灰を指先へ集める。
「灰断」
細い灰の刃が、胸の奥の命令輪だけを切った。
ゼグラの体が跳ねる。
ネイラの黒炎が瞬間的に強まる。
リィンの青い針が三本同時に沈む。
次の瞬間、黒い輪がほどけた。
爆札の命令が灰になり、胸の表面へ浮かぶ。
透はそれを摘み上げるように灰糸で引き出した。
黒い小札。
肉片に似たそれが、空中で震える。
シェラがすかさず記録光を当てた。
「黒炎爆札、抽出成功。構造記録中。起動命令、除去済み」
透は小札を黒炎皿の上へ落とした。
ネイラの黒炎が命令だけを焼く。
札の外枠は残った。
証拠として。
ゼグラは大きく息を吐き、骨板の上で動かなくなった。
死んではいない。
気絶しただけだ。
イーシャが灰布で傷を押さえ、ダンが水を渡す。
ガルドが片腕でゼグラの脈を確認した。
「生きている」
ネイラは黙ってゼグラを見下ろしていた。
その表情は複雑だった。
憎しみ。
疑い。
安堵。
そして、昔の何かを思い出したような痛み。
透は言った。
「中には入れない。外縁房を作る」
シェラが即座に記録する。
「新設備候補。外縁尋問房、兼隔離処置場」
セイルがいればまた頭を抱えただろう。
ガルドは頷いた。
「骨杭の外と内の間に作る。敵でも客でもない者を置く場所が要る」
バルザが笑う。
「勢力らしくなってきたな。牢も必要か」
「牢じゃない」
ルカが言った。
皆が彼女を見る。
ルカは道番の板を抱えたまま、真剣に言う。
「まだ、道が決まってない人の場所」
リィンが少しだけ目を細める。
「境目」
シェラが記録する。
「外縁房、別称候補。境目房」
バルザが牙を見せる。
「悪くねえ」
透はゼグラを見た。
魔族の斥候。
敵か、味方か、まだ決まっていない。
だが、情報を持っている。
そして、ネイラに繋がる過去を持っている。
王国と神殿だけではない。
魔族側にも、捨てる者と拾う者がいる。
この世界は、単純な敵味方ではない。
それでも、透の線は変わらない。
この場所へ逃げ込んだ者を、誰にも渡さない。
この場所を狙う者は、敵。
情報を出すなら、生かす。
手を伸ばすなら、折る。
ネイラが低く言った。
「トオル」
「何だ」
「黒炎炉が来るなら、私が焼く」
「一人ではやるな」
「命令か?」
「役割だ」
ネイラは少しだけ笑った。
「なら、受ける」
透はガルドへ向く。
「防衛段階を上げる。黒炎標を外縁全周へ。灰骨外壁を二重にする。境目房を作る。名簿番も始める」
ガルドは重く頷いた。
「人手が足りんな」
「地上から増やす」
「誰を」
「ベルディアの協力者。逃げてきた者。名前を消される前に拾う者」
ガルドは片目を細めた。
「砦では収まらなくなるぞ」
透はしばらく黙った。
灰置き場。
灰の砦。
まだ旗はない。
だが、役割は増え、壁は増え、外縁房まで作ろうとしている。
名簿番は、消された名前を戻すために動く。
黒炎番は、魔族側の追手にも備える。
これは、ただの隠れ家ではない。
透は静かに言った。
「収まらないなら、広げる」
ガルドは笑った。
老兵の顔に、深い皺が刻まれる。
「なら、壁を増やすだけだ」
ネイラの黒炎が外縁で揺れる。
リィンの青い針が、境目に線を引く。
シェラの記録板に、新しい区画が追加される。
灰置き場は、また形を変えた。
王国と神殿が白い倉で名前を消すなら。
魔族の黒炎炉が捨てた者を再び奪いに来るなら。
灰の砦は、名前を戻し、道を繋ぎ、境目に立つ者すら拾う場所になる。
透は外縁から奈落の闇を見た。
その闇の向こうに、まだ見えない敵がいる。
白い倉。
黒炎炉。
王核派。
神殿。
王国。
増え続ける敵の名を、透は一つずつ灰の中へ沈める。
そして、炉の方へ振り返った。
蜂蜜の小瓶が、子どもたちの手で棚の奥に大事に置かれている。
灰布が積まれ、骨杭が運ばれ、水瓶が守られている。
それが、守る理由だ。
透は低く言った。
「来るなら、来い」
灰が、外縁の骨杭へ静かに流れる。
「ここは、もう捨て場じゃない」
黒炎が応えるように揺れた。
灰の砦は、魔族の影すら飲み込みながら、また一つ強くなった。




