第87話 名前を消す倉
旧東方荷捌き場から戻る道は、行きよりも重かった。
捕縛した白手袋の男。
黒鞭の残党。
剣杯の私兵。
焦げかけた名簿。
底の欠けた王冠印。
そして、新しく浮かび上がった言葉。
白倉へ送付済み。
黒炎適性個体、再取得要。
ネイラを指している可能性が高い。
誰も口には出さなかった。
だが、透の背中を見ている者たちは、その意味を感じ取っていた。
バルザは捕縛者二人を片手ずつ引きずるように歩き、低く唸っている。
リィンは名簿を封じた箱の横に立ち、青い針を一本浮かせたまま歩く。
シェラは記録板を胸に抱え、時折、右目を点滅させる。
セイルは名簿の写しを両腕で抱え、唇を噛んでいた。
ルカは道番の板を握りしめ、透のすぐ後ろを歩く。
いつもより静かだった。
透が振り返らずに聞く。
「道は」
「戻れる」
ルカは答えた。
「でも、後ろから誰かの道が消えてる」
黒瀬が目を細める。
「追跡を切ってるってこと?」
ルカは少し考え、首を振った。
「違う。来た道を、なかったことにしてる」
真由がすぐに反応した。
「証拠の移動経路そのものを薄めている……?」
セイルが青い顔で頷く。
「王冠印の補助術式にあり得ます。荷を運んだ後、道の記憶や痕跡を薄める。現場検証の時に、ただの古い倉庫に見えるようにする」
透は足を止めた。
灰域を薄く広げる。
灰域が石畳の下へ沈み、荷捌き場からギルドへ続く道の残滓を拾う。
車輪跡。
黒鞭の革。
剣杯の香油。
白手袋の男の血。
焦げた名簿の紙粉。
その周囲に、白い薄膜のような術式が残っていた。
記憶を洗う線。
人の記憶ではない。
場所の記憶を、薄くする線だ。
透の目が冷える。
「シェラ」
「はい」
「この道も記録しろ。消される前に」
「実行中」
シェラの右目から青白い光が伸び、通路の壁や石畳、荷車跡をなぞる。
ルカが道番の板に新しい線を書き込む。
リィンの青い針が、道を洗う術式の端を空中で縫い止めた。
「線、薄い。すぐ消える」
「残せるか」
「少しなら」
透は灰糸を伸ばす。
灰糸が白い薄膜の下へ入り込み、場所の記憶を消そうとする死んだ命令だけを喰った。
石畳に、古い車輪跡が少しだけ戻る。
黒瀬が小さく笑った。
「場所の記憶まで消すとか、やり口が徹底してるね」
真由は険しい顔で言う。
「逆に言えば、ここまでしないと隠せないほど、何度も使っていたということ」
相良は聖剣の柄に手を置いたまま、黙って聞いていた。
王国と神殿。
彼が信じようとしていたものの影が、どんどん濃くなっていく。
ギルドへ戻ると、広場はさらに騒がしくなっていた。
白鎖陣の残骸は封印線で囲われ、学院の封印科とギルド証拠班が交互に確認している。
神殿封印官たちは一度退いたが、王都騎士はまだ通りの外れに残っていた。
聖封監査官ラザレスの姿は見えない。
レオナはギルド入口で待っていた。
透たちの持ち帰った捕縛者と証拠箱を見るなり、目を細める。
「取れたか」
「ああ」
セイルが名簿を差し出す。
「移送名簿です。名前を消されかけていました。王都東の白い倉、底の欠けた王冠の中に白い目、灰核候補とは別の帳簿、魔族血、亜人血、封印耐性、黒炎適性……」
言葉が多すぎて、セイル自身が息を詰まらせた。
レオナは一瞬だけ黙った。
それから、低く言う。
「地下へ」
ギルド地下記録室。
今度は王都側を全員入れなかった。
透たち、レオナ、ダグラス、メリザ、アルマ、門番隊代表。
王都組からは相良、真由、美琴、黒瀬、芽衣、久世だけ。
エルドたちは別室で監視付き待機とされた。
藤堂と姫野、速水は上階で証言補助と休憩。
彼らはまだ、これ以上深く入る覚悟を決められていない。
地下記録室の卓に、焦げかけた名簿が広げられる。
リィンが青い針を四隅へ置き、焦げた紙が崩れないよう封じる。
シェラが記録光を走らせ、文字の写しを浮かべる。
セイルと真由が並んで読み解く。
名簿には、名前があった。
ミレア。
イーシャ。
ケイル。
ほかにも、見知らぬ名前が数十。
その横には、印がある。
亜人血あり。
孤児。
借財あり。
身元薄。
封印耐性小。
黒炎適性疑い。
魔族混血疑い。
灰核候補外。
番号化済。
美琴が口元を押さえた。
「人の名前の横に、こんな……」
芽衣は顔を青くする。
「薬の材料表みたい……」
その一言に、部屋の空気が凍った。
誰も笑わない。
その通りだったからだ。
人を、人としてではなく、性質と価値で分けている。
封印に耐えるか。
黒炎に適するか。
魔族の血が混じっているか。
灰核候補か。
使えるか。
使えないか。
レオナは拳を握りしめた。
「ミレアの名前があるな」
アルマの顔が強張る。
「はい」
ミレアは救出された。
だが、名簿に残っている。
つまり、救出されなければ彼女も番号になっていた。
アルマの指が剣の柄へ触れる。
久世はそれを見た。
その横顔には、静かな怒りがある。
没落貴族令嬢。
学院生。
自分より格下だと思っていた相手。
だが今、彼女は自分の剣が何を守るためにあるのか、久世よりもはっきり見ているように思えた。
真由が別の欄を指す。
「ここ、灰核候補外と書かれている。つまり、候補内の名簿が別にある」
セイルが頷く。
「白手袋の男もそう言いました。灰核候補とは別の帳簿だと」
相良の声が掠れる。
「灰核候補って……篠宮以外にもいるのか」
セイルは迷いながら答える。
「可能性としては。灰喰いほど直接的な適性ではなくても、帰還儀や古い封印に使える体質を持つ者を候補として集めていたのかもしれません」
黒瀬が低く言う。
「勇者召喚の裏で、素材集めもしてたってこと?」
セイルは答えられない。
だが、沈黙が答えだった。
透は名簿を見ていた。
文字の列。
名前。
番号。
適性。
消されかけた命。
胸の奥で灰が冷える。
奈落に落とされた時、彼もまた名前ではなく職能で見られた。
《灰喰い》。
災厄職。
処理対象。
そして今は、帰還儀素材。
同じだ。
名前を消し、性質だけを見る。
人を道具へ変える。
透は名簿の端へ指を置いた。
灰は流さない。
壊さない。
これは喰ってはいけない。
残すべきものだ。
「名前を写す」
透が言うと、全員が彼を見る。
「一つも消さない。読めないものも、読めないまま残す。番号になった奴も、元の名前を探す」
レオナが頷く。
「名簿番が要るな」
シェラが即座に反応する。
「灰の砦、役割候補。名簿番。担当候補、イーシャ、ケイル、セイル補助、ベルディア記録官連携」
セイルがぎょっとする。
「私もですか」
「適性あり」
「否定できないのがつらい……」
真由が静かに言う。
「私も手伝います。王都側の名簿や召喚者名簿と照合できるかもしれない」
美琴も頷く。
「私も。名前を写すくらいならできる」
芽衣が小さく手を上げる。
「薬師組合の記録に、亜人の患者名や孤児院の薬配布記録があるかも。全部は無理でも、照合できるかもしれません」
黒瀬が肩をすくめる。
「私は、消された名前を探す方が向いてるかな。裏通りとか、商会の噂とか」
レオナは短く笑った。
「いい。王都組が本気で証言するなら、仕事を渡す。口だけなら切る」
相良が言った。
「俺は何をすればいい」
レオナは相良を見る。
「お前は勇者だろ。なら、王都騎士と神殿が力を使う時、そこに立て。王都側の兵は、お前を無視しにくい」
相良は息を呑む。
透を見る。
透は何も言わない。
相良は頷いた。
「やります」
久世は拳を握っていた。
「俺は」
レオナは容赦なく言う。
「今のお前にできるのは、勝手に斬らないことだ」
久世の顔が歪む。
だが、反論できない。
東水路でも、荷捌き場でも、彼は何を斬るか迷った。
迷わず斬れば、証拠を壊していたかもしれない。
アルマが横から静かに言った。
「久世さん。後方で抜けてくるものを止める役は、必要です。私一人では足りません」
久世は彼女を見る。
慰めではない。
実務として言っている。
「……わかった」
その返事に、アルマは頷いた。
レオナは地図を広げた。
「次の問題は、白い倉だ。王都東の神殿管理庫。ここはベルディアの手だけでは届かない」
セイルが恐る恐る言う。
「正面から行けば、完全に王都神殿の管轄です。監査権も、軍も、王国法も向こうにあります」
バルザが笑う。
「じゃあ、殴って入るか」
「一番駄目な案です」
セイルが即答した。
透は地図を見る。
ベルディアから王都までは距離がある。
いきなり王都東倉庫区へ踏み込むのは無理だ。
灰置き場の道も、ベルディア側の足場も、まだそこまで伸びていない。
だが、白い倉は次の目標になる。
その前にやるべきことがある。
「ベルディアの中継点を全部潰す」
透が言うと、レオナは頷いた。
「同意だ。足元を固めず王都へ行けば、背中を刺される」
「灰置き場も強くする。名簿番を作る。地上の連絡を増やす」
シェラが記録する。
「方針。ベルディア内王冠印網の掃討。灰の砦防衛強化。名簿番設置。王都白倉調査準備」
ルカが小さく言った。
「名前、持って帰る?」
透は頷いた。
「写しを持って帰る」
「灰置き場で、名前を読む?」
「ああ」
ルカは真剣な顔で言う。
「番号じゃなくする」
その一言に、部屋が少し静かになった。
番号じゃなくする。
単純な言葉だった。
だが、それが核心だった。
王冠印の連中は、名前を番号に変えた。
灰の砦は、番号から名前を取り戻す。
レオナは目を細める。
「いいな、それ」
シェラが記録する。
「名簿番目的。番号化対象の名前復元。呼称、名前戻し」
セイルが小さく笑った。
「少し子どもっぽいですが、わかりやすい」
ルカは胸を張った。
「名前戻し」
透は名簿を見下ろす。
そこにある焦げた文字の向こうに、灰置き場の者たちの顔が浮かぶ。
イーシャ。
ケイル。
ネイラ。
ルカ。
まだ拾っていない誰か。
名前を消される前に拾う。
消された名前を戻す。
それもまた、灰の砦の仕事になる。
その時、シェラの右目が強く点滅した。
「地上帰灰標、反応。灰置き場より通信。緊急度、中」
透が顔を上げる。
「繋げ」
シェラが記録板を炉の灰片へ接続する。
リィンが青い針で逆流を止める。
透が掌をかざし、灰を通す。
灰の中から、黒い熱が返ってきた。
ネイラではない。
ガルドの重い骨の響き。
――外縁に人影。
――王冠印ではない。
――魔族の匂いを持つ者。
――ネイラが知っている可能性。
透の目が細くなる。
ネイラ。
魔族の匂い。
白倉の名簿に、黒炎適性個体再取得とあった直後だ。
バルザが低く唸る。
「王冠印か、魔王側か」
セイルが青ざめる。
「魔族……ここで魔王軍まで動くのですか」
リィンは静かに言った。
「まだ、わからない。匂いだけ」
レオナは地図を畳んだ。
「透。戻るか」
「ああ」
即答だった。
名簿も、白い倉も重要だ。
だが、灰置き場の外縁に魔族の匂いを持つ者が現れた。
ネイラに関わる可能性がある。
放置はできない。
相良が立ち上がる。
「俺たちも――」
「来るな」
透は即座に言った。
相良の言葉が止まる。
「灰置き場の外縁だ。王都組は入れない」
相良は拳を握った。
だが、今度は食い下がらなかった。
「……わかった。こっちは名簿を守る」
真由も頷く。
「写しを進めます」
美琴が言う。
「名前を消させないようにする」
黒瀬は軽く手を振る。
「裏通りで白い倉の噂、拾ってみる」
芽衣は薬袋を握る。
「名簿の中で、生存者がいるか薬師組合に当たります」
久世は黙っていた。
透は彼を見ない。
だが、久世は自分から言った。
「俺は、ここに残る。抜けてくる奴を止める」
アルマが頷く。
「私も残ります」
透は短く言う。
「任せる」
久世はわずかに目を見開いた。
任せる。
たったそれだけの言葉が、胸に引っかかる。
信頼ではないかもしれない。
完全に認められたわけでもない。
それでも、役割は渡された。
久世は剣の柄を握り、頷いた。
「ああ」
透は名簿を見た。
「シェラ、写しを一つ持つ」
「了解」
「セイルはここに残って読解。リィン、バルザ、ルカ、シェラは戻る。ダグラス、レオナ、灰置き場入口までは来るか」
レオナは少し考えた。
「私はギルドを離れられない。ダグラスを出す。入口まではベルディアの護衛として同行させる」
ダグラスが幅広剣を肩に担ぐ。
「任された」
透は頷いた。
地下記録室を出る。
上階では、まだ広場が騒がしい。
王都騎士は遠巻きに動き、神殿側の視線は鋭い。
だが、透は足を止めない。
ルカが道番の板を抱え、横に並ぶ。
「戻る道、急ぐ?」
「ああ」
「じゃあ、短い道」
透たちはギルドの裏口から出た。
街の喧騒を背に、ベルディアの外へ向かう。
灰の砦に、魔族の匂いを持つ者が近づいている。
王国。
神殿。
王冠印。
白い倉。
そこへ、別の勢力の影が重なり始めた。
透は灰骸刀の柄に手を置く。
鞘の奥で、刃が静かに沈む。
守るものが増えるたび、敵も増える。
なら、こちらも増やす。
壁を。
道を。
名を。
仲間を。
そして必要なら、敵を灰にする力を。
透は低く言った。
「急ぐぞ」
リィンが頷く。
「うん」
バルザが牙を見せる。
「魔族の匂いか。面白くなってきたな」
ルカは道番の板を握りしめた。
「灰置き場へ、戻る」
街の外へ出た時、夕方の空は赤黒く染まり始めていた。
その色は、奈落の黒炎に少し似ていた。




