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第86話 街に散る灰

 白鎖陣の残骸は、広場の中央に残された。


 王都神殿の封印官たちが展開した陣。

 拘束命令。

 灰止め命令。

 灰骸刀(かいがいとう)への所有権干渉線。


 透はそれを壊さなかった。


 灰断刃(かいだんじん)で命令だけを喰い、形を残した。

 だから、誰でも見られる。


 神殿が何をしようとしたか。

 ただの監査ではなく、灰の主とその武器を縛り、奪おうとしたことを。


 ベルディアの広場に集まった者たちは、遠巻きにその白い線を見ていた。


「これが、神殿の封印陣か」

「ギルドの証拠室を封じるだけじゃなかったんだろ」

「刀も奪おうとしたって聞いたぞ」

「灰の主の刀を?」

「無茶するな……」

「でも、神殿がそこまで欲しがるってことは、本当に帰還儀に灰がいるんじゃないか」


 噂は、もう止まらない。


 レオナは広場の中央で、ギルド記録官に指示を飛ばしていた。


「白鎖陣はこの場で三写し。封印班、外枠を壊すな。門番隊、見物人を線の内へ入れるな。学院側の封印科にも確認を依頼しろ。商業ギルドへは、所有権干渉線の写しだけ先に回す」


 記録官たちが動く。


 学院の封印科生が、青ざめた顔で白鎖陣を覗き込む。

 門番隊は神殿封印官たちが去った方向に兵を置き、再接近を警戒している。


 ラザレスたちは完全に引いたわけではない。


 広場から離れただけだ。


 王都騎士三十と聖封監査官が、黙ってベルディアを去るはずがない。


 透はその背を見送った後、レオナへ近づいた。


「証拠は散ったか」


「三系統は出した。中央ギルド、リンド商会、学院経由。門番隊の公文書便も準備してる」


「足りるか」


「足りない」


 レオナは即答した。


「王都は握り潰す。神殿は封じる。剣杯の残党は金で盗む。黒鞭は殺す。だから、もっと増やす」


 シェラが右目を光らせる。


「追加複製候補。鍛冶組合、薬師組合、亜人街自治会、旧東方道商隊連絡網」


 セイルが慌てて言う。


「待ってください。亜人街自治会まで巻き込むと、王都側が反乱扱いしかねません」


 レオナは冷たく笑った。


「王都側は、もう勝手に反乱扱いするさ。だったら、黙って潰されるより、見ている目を増やした方がいい」


 バルザが頷く。


「首輪を売る連中は、暗いところで強い。明るい場所に引きずり出せば、少しは動きが鈍る」


 透は広場の周囲を見る。


 冒険者。

 商人。

 学院生。

 門番。

 宿屋の者。

 荷運び。

 亜人の職人。


 皆が見ている。


 灰の砦は、奈落の底にある。

 けれど、地上でその手足になる者たちが増え始めていた。


 それは、王国のような支配ではない。


 頼み、受け、返す。


 証拠を運ぶ者。

 写しを隠す者。

 札を読む者。

 灰布を縫う者。

 道を知る者。


 点が線になっていく。


 レオナが言う。


「透。お前たちは、ここで待つな」


「次の中継点か」


「ああ。王冠印の候補が三つある。そのうち一つ、旧東方荷捌き場の反応が消えかけている。剣杯と黒鞭の残党が先に証拠を消すつもりだ」


 セイルが地図を広げる。


 ベルディア南東、古い荷捌き場。

 東水路ほど大きくはないが、旧道商隊が使っていた倉庫群の跡がある。


 そこに、王冠印の薄い中継反応。


 シェラが補足する。


「旧東方荷捌き場。現在、表向きは廃倉庫。剣杯支店の帳簿に、破損荷物一時保管区として記載あり。黒鞭南枝の移送経路とも一部重複」


 レオナは指で地図を叩いた。


「神殿の監査は一度退けた。だが、そっちへ戦力を割いた分、残党が動く。今夜まで待つと消される」


 透は頷いた。


「行く」


 リィンが封印針を確かめる。


「王冠印なら、青線が要る」


 バルザが爪を鳴らした。


「残党狩りなら俺も要る」


 シェラが記録板を閉じる。


「記録、必要」


 セイルは青い顔で資料袋を抱えた。


「読解も必要ですよね。はい、わかっています……」


 ルカが道番の板を握る。


「荷捌き場、道が多い?」


 レオナが答える。


「多い。倉庫、地下水路、古い荷車道、商会の抜け道。迷いやすい」


「じゃあ、行く」


 透はルカを見た。


 昨日から何度も狙われている。

 灰印の子どもを殺せば道が乱れる、と敵は知っている。


 連れていく危険はある。


 だが、道が要る。


 ルカ自身も、それをわかっている顔だった。


「透」


 声をかけたのは相良だった。


 王都組が広場の端に立っている。


 相良、美琴、真由、黒瀬、芽衣。

 少し離れて久世、速水、藤堂、姫野。


 相良は聖剣を抜いていない。


「俺たちも行く」


 透は即答しなかった。


 相良は続ける。


「王都側としてじゃない。証言者として、見届ける。神殿がまた何かを消そうとするなら、俺たちも見ておく必要がある」


 真由が頷く。


「王冠印の中継点が消されれば、帰還儀と灰核抽出の繋がりも曖昧にされる。私も記録したい」


 美琴は少し不安そうに透を見る。


「邪魔はしない。前にも出ない。言われた位置にいる」


 黒瀬は肩をすくめた。


「暗い倉庫なら、私の目も少しは役に立つかもね」


 芽衣は薬袋を握っている。


「怪我人が出たら、処置できる」


 透は彼らを順に見た。


 まだ仲間ではない。


 信用しきってもいない。


 けれど、昨日までとは違う。


 彼らは王国の後ろに隠れず、自分で前へ出てきている。


「指示に従え」


 透が言うと、相良はすぐに頷いた。


「わかった」


 久世が一歩前へ出る。


「俺も行く」


 空気が少しだけ張った。


 透は久世を見る。


 久世の顔には、まだ嫉妬も意地も残っている。

 だが、東水路で石人形を止められなかった悔しさもある。


「何を斬るか、わかるのか」


 透が問う。


 久世は歯を食いしばった。


「わからない」


 以前なら、そうは言わなかっただろう。


「でも、わからないまま立ってたら、また何もできない。だから見る」


 透は少しだけ黙った。


「前へ出るな」


「……わかった」


「勝手に剣を振るな。斬る前に聞け」


 久世の顔が歪む。


 剣聖にとって、屈辱に近い条件だ。


 だが、彼は頷いた。


「わかった」


 速水が驚いた顔をした。


「久世、お前……」


「うるせえ」


 久世は短く返した。


 藤堂と姫野は迷った末に同行しないことを選んだ。

 レオナが別室で証言整理と聖令の魔力検証を手伝わせると言うと、藤堂は少し安堵した顔をした。姫野は複雑な表情で透たちを見送った。


 人数が決まる。


 透、リィン、バルザ、シェラ、セイル、ルカ。

 相良、美琴、真由、黒瀬、芽衣、久世。

 レオナからはダグラス、アルマ、門番隊二名、ギルド記録官一名。


 灰の砦。

 ベルディアギルド。

 王都から離れ始めた勇者たち。


 三つの線が、同じ場所へ向かう。


 旧東方荷捌き場は、ベルディア南東の外れにあった。


 かつては旧道商隊の荷が集まり、迷宮産の素材や東方の塩、布、薬草が積み下ろしされた場所だったという。

 今は半分以上が廃倉庫になり、錆びた滑車と壊れた荷台が放置されている。


 周囲には人気がない。


 日暮れ前だというのに、倉庫群の奥は妙に暗かった。


 ルカが道番の板を胸に抱え、立ち止まる。


「道が、絡まってる」


 透が問う。


「消されてるか」


「ううん。多すぎる。行ったふりの道、戻ったふりの道、落ちた道」


 黒瀬が目を細める。


「偽装路が多いってことね」


 リィンが倉庫の壁を見る。


「札の匂いが古い。最近、上から塗ってる」


 シェラが右目を光らせた。


「王冠印残滓、検出。強度、東水路の三割。現在減衰中。証拠消去進行」


 ダグラスが幅広剣を抜いた。


「急ぐか」


 透は灰域を沈める。


 灰域(かいいき)が倉庫群の床下へ広がった。


 湿った土。

 腐った縄。

 古い血。

 荷油。

 剣杯の香油。

 黒鞭の革。

 そして、白い封鎖札の新しい匂い。


 敵はいる。


 倉庫の中だけではない。


 地下にも。


 透は指示を出した。


「正面は俺とバルザ。リィンは中央。シェラ、記録。ルカ、道を見る。相良たちは後ろ。黒瀬、横道を見る。久世、抜けてくるものだけ止めろ」


 久世が頷く。


「わかった」


 アルマが久世の横へ立った。


「私も後方を見ます」


 久世は一瞬彼女を見た。


 以前なら、没落貴族令嬢の学院生が隣に立つことを軽く見たかもしれない。


 だが、黒札区域での彼女の動きと、東水路での判断を見ている。

 軽くは見られない。


「……頼む」


 アルマは少しだけ驚いたが、すぐに頷いた。


「はい」


 倉庫の扉は半開きだった。


 中へ入ると、床一面に古い木箱が積まれている。


 空箱。

 破れた布袋。

 壊れた車輪。

 見た目は廃倉庫だ。


 だが、奥の床板だけが新しい。


 バルザが鼻を鳴らす。


「下だな」


 透は灰糸を伸ばし、床板の継ぎ目をなぞった。


 隠し扉。


 開閉命令はすでに消されかけている。

 自壊ではない。

 証拠を薄め、ただの腐食に見せる処理。


 透は灰骸刀を抜かず、指先の灰で命令を喰った。


 床板が静かに浮く。


 地下へ続く階段が現れた。


 同時に、奥の木箱が一斉に弾けた。


 中から飛び出したのは、人ではない。


 革紐で繋がれた小型の骨人形。

 胸に黒鞭の札。

 背に剣杯の小印。

 頭部には、薄い王冠印の残滓。


 数は十二。


 その全てが、証拠箱ではなく、ルカへ向いた。


 相良が息を呑む。


「またルカを――!」


 透の目が冷える。


 骨人形が一斉に跳ぶ。


 その瞬間、透の灰域が沈んだ。


 床の灰、木箱の埃、骨人形に混じった死んだ魔力が、一つの網になる。


灰縛糸(かいばくし)


 灰糸が床から伸びた。


 細い。


 だが、十二体すべての足首、首、背の札へ絡む。


 骨人形の動きが止まる。


 リィンの青い針が三本飛び、王冠印の残滓だけを浮かせる。

 シェラが記録を開始する。


 バルザが一体を踏み砕こうとした瞬間、透が言った。


「札を残せ」


「了解」


 バルザは足の角度を変え、骨の脚だけを砕いた。


 久世は後方で一体が抜けてくるのを見た。


 反射的に斬りそうになる。


 だが、透の言葉を思い出す。


 斬る前に聞け。


「どこだ!」


 久世が叫ぶ。


 透は振り返らずに答える。


「背の札」


 久世は剣を振る。


 斬るのは胴体ではない。

 背に貼られた札の端。


 刃が札を裂き、骨人形の動きが鈍る。


 アルマが横から柄で首を打ち、床へ倒した。


 透の灰糸が札の命令だけを喰う。


 骨人形は崩れた。


 久世は息を吐く。


 倒せた。


 だが、自分一人ではなかった。

 透の指示があった。

 アルマの補助があった。

 灰糸の処理があった。


 それでも、何もできなかった東水路よりは一歩進んだ。


 久世は唇を噛み、次の骨人形を見る。


 相良も聖剣で骨人形の正面を押さえた。

 斬り払うのではなく、光で動きを鈍らせる。

 真由が命令線の位置を指摘し、黒瀬が横から足の関節を切る。

 美琴はルカの前に立ち、芽衣は後方の負傷者確認に回る。


 王都組も、少しずつ役を持ち始めていた。


 戦闘は短かった。


 骨人形十二体はすべて動きを止め、札は半数以上が証拠として残った。


 シェラが告げる。


「小型骨人形、全停止。黒鞭札九、剣杯小印七、王冠印残滓十二。ルカ集中標的設定、確認」


 ルカは道番の板を握ったまま、透の背を見ていた。


 怖くないわけではない。


 だが、逃げない。


 透は一度だけルカを見る。


「立てるか」


「立てる」


「道は」


「下。三つある。一つは嘘。一つは落ちる。一つが本当」


 透は頷く。


「案内しろ」


 ルカは小さく息を吸い、地下階段の前へ立った。


「こっち」


 地下へ降りる。


 空気が冷たくなる。


 壁には荷運び用の古い滑車があり、床には新しい車輪跡が残っていた。


 黒瀬が壁を触る。


「最近、人が通ってる。しかも慣れてる」


 バルザが低く唸る。


「奥に三人。いや、五人。焦ってやがる」


 地下通路の先に、広い荷室があった。


 そこには、燃やされかけた書類箱がいくつも積まれている。

 白い封鎖札ではない。

 黒鞭の火札と、剣杯の自壊油。


 そして中央に、石の台座。


 底の欠けた王冠印が刻まれていた。


 東水路よりも小さい。


 だが、役割は違う。


 これは命令を送る中継印ではなく、荷の記録をまとめて消すための印だ。


 セイルが青ざめる。


「移送名簿です……ここで、人の名前を消していたんです」


 書類箱の一部はすでに燃えている。


 炎が広がれば、誰がどこへ運ばれたか、誰が戻らなかったか、その記録が消える。


 透は一歩踏み込んだ。


 奥にいた五人が振り返る。


 黒鞭の残党二人。

 剣杯の私兵二人。

 そして、白い手袋をした男が一人。


 神官服ではない。

 商人服でもない。


 だが、その首元には薄い王冠印があった。


 男は透を見て、顔を歪めた。


「灰喰い……!」


 手元の火札を台座へ押し当てる。


 王冠印が赤く光った。


 書類箱の炎が一気に広がる。


 リィンが針を飛ばす。


「火の線、四つ!」


 透は灰骸刀を抜いた。


 刃に灰が伸びる。


灰刃延(かいじんえん)


 灰の刃が炎の根元へ届く。


 斬るのは火ではない。


 火を広げる命令。

 書類の文字を先に焼く指示。

 証拠だけを選んで消す赤黒い線。


灰断刃(かいだんじん)


 一閃。


 炎が縮んだ。


 燃えていた紙の端は黒く焦げたが、文字は残る。


 リィンの青い針が燃え広がる線を押さえ、シェラが記録光を走らせる。

 セイルと真由が同時に書類箱へ飛びつき、燃え残った束を引き離した。


 白手袋の男が舌打ちし、奥歯を噛む。


 自壊毒。


 透の灰糸が先に口元へ届いた。


 毒札の命令だけを喰う。


 男の目が見開かれる。


 バルザが踏み込み、男の腹へ拳を入れた。


 体が折れ、床へ転がる。


 黒鞭の残党が逃げようとする。


 黒瀬が一人の足を切り、アルマがもう一人の手首を柄で打つ。

 久世は剣を構え、剣杯私兵の剣を受けた。


 今度は、聞く余裕があった。


「こいつは?」


 透が短く答える。


「武器だけ」


 久世は剣杯私兵の剣を弾き上げ、柄を狙って斬った。


 剣が飛ぶ。


 アルマが踏み込み、首元へ刃を当てる。


「動かないでください」


 剣杯私兵は膝をついた。


 久世は荒く息を吐く。


 まだ、透のようにはできない。


 それでも、言われた通り武器だけを殺した。


 その事実が、彼の中に小さく残った。


 透は白手袋の男の前にしゃがむ。


 首元の王冠印が、自壊しようと赤く震えている。


 リィンの針が飛び、印の上を縫った。


「消えようとしてる」


「残せ」


「残す」


 透の灰糸が、印の根元へ絡む。


 男は苦しげに呻いた。


「やめろ……これは、王都の……」


「王都の誰だ」


 男は口を閉ざす。


 喉の印が焼けようとする。


 リィンが縫う。


 透の灰が命令だけを喰う。


 男は死ねない。


 透は淡々と言った。


「ここで消した名簿は、どこへ繋がる」


 男は震える。


「知らない……」


 灰糸が喉元へ深く絡む。


 締めない。


 だが、嘘を吐けば証言封じの線が動く。

 その動きは、リィンと透には見えている。


「次はない」


 男の顔から汗が噴き出した。


「……王都東の、白い倉。そこへ、写しが行く。剣杯でも黒鞭でもない。王冠の、保管所だ」


 セイルが顔を上げる。


「白い倉……王都東倉庫区の神殿管理庫?」


 男の喉が赤く光る。


 リィンが針を強める。


 透が命令を喰う。


 男は咳き込みながら続けた。


「名前を消した者は、白い倉で番号になる。亜人、孤児、借金農民、身元なし……灰核候補とは、別の帳簿……」


 部屋が静まり返った。


 灰核候補。


 その言葉が出た。


 透の目が冷える。


「灰核候補とは何だ」


 男は首を振る。


「知らない。俺は荷だけだ。灰喰いとは別に、古い封印に合う者を集めてると……魔族の血、亜人の血、封印耐性、黒い火……」


 黒い火。


 ネイラの黒炎が、透の脳裏をよぎる。


 魔族。

 失敗作として捨てられた少女。

 黒角。

 黒炎。


 真由が小さく呟く。


「魔王軍だけじゃなく、神殿も魔族や亜人を集めてる……?」


 セイルの顔は紙のように白い。


「召喚、帰還、封印、魔族素材……王国と神殿は、何を作ろうとしているんだ……」


 透は男から手を離さない。


「白い倉の印は」


 男は震えながら答えた。


「底の欠けた王冠。中に、白い目」


 シェラが記録する。


「新上位印。欠け王冠内、白目紋。王都東神殿管理庫候補。拉致対象番号化。灰核候補、別帳簿。魔族血、亜人血、封印耐性、黒炎関連」


 リィンが透を見る。


「ネイラにも関係あるかも」


「ああ」


 透の声は低かった。


 王冠印は、透だけを狙っているのではない。


 亜人。

 孤児。

 魔族の血。

 黒炎。

 封印耐性。


 捨てられた者たちの中にも、狙われる者がいる。


 灰置き場が強くなる理由が、また増えた。


 透は白手袋の男の首元から灰糸を引いた。


 男は床へ崩れる。


「殺さないのか」


 黒瀬が静かに聞いた。


 透は男を見下ろした。


「まだ吐く」


「吐き終わったら?」


 透は少しだけ目を細めた。


「その時決める」


 冷たい声だった。


 美琴は息を呑む。


 だが、もう驚かなかった。


 透は優しいだけの少年ではない。


 人を救う。

 証拠を残す。

 道を守る。


 そのためなら、敵の痛みには容赦しない。


 真由とセイルが名簿を確認する。


 焦げかけた紙の中には、名前が並んでいた。


 ミレア。

 イーシャ。

 ケイル。

 知らない孤児の名。

 亜人街の下働き。

 借金農家の娘。

 旅の荷運び。


 そして、いくつかの欄に赤い印。


 灰核候補ではない。

 封印耐性あり。

 黒炎適性疑い。

 魔族混血疑い。


 透はその紙を見る。


 地上で消された者たち。

 奈落へ落とされた者たち。

 番号にされかけた者たち。


 王冠印の網は、思ったより広い。


 黒鞭と剣杯は末端。

 神殿は表の顔。

 その奥に、白い倉がある。


 透は灰骸刀を鞘へ納めた。


「全部持ち帰る」


 セイルが頷く。


「はい。名簿は最優先証拠です」


 ルカが紙束を見つめていた。


「名前、消されるの嫌だ」


「ああ」


「灰置き場の名前も、消される?」


 透はルカを見る。


「消させない」


 ルカは頷いた。


「じゃあ、名前、守る」


 その言葉に、透は少しだけ息を吐いた。


 名を守る。


 水を守る。

 道を守る。

 証拠を守る。


 灰の砦に、新しい役が増えた。


 シェラが小さく記録する。


「新規役割候補。名簿番」


 セイルが苦笑する。


「また増えましたね」


 バルザが牙を見せる。


「いいじゃねえか。砦ってのは忙しいもんだ」


 地下荷室の奥で、王冠印がまだ赤く震えている。


 透はそれへ向き直った。


 リィンが青い針を構える。


「残す?」


「残す。命令だけ斬る」


「うん」


 青い線が王冠印の外周を浮かせる。


 透の灰骸刀(かいがいとう)が静かに抜かれる。


 王冠印は震えた。


 灰に喰われることを、もう知っているかのように。


 透は刃を走らせた。


灰断刃(かいだんじん)


 赤黒い命令が灰になる。


 台座の印は、証拠として残る。


 その下から、新しい文字が浮かび上がった。


 ――白倉へ送付済み。黒炎適性個体、再取得要。


 透の目が、さらに冷えた。


 ネイラだ。


 失敗作として捨てた者を、また拾い直そうとしている。


 バルザが低く唸る。


「主」


 透は台座を見下ろしたまま言った。


「伝える。防衛を上げる」


 リィンが頷く。


「黒炎標、増やす」


 シェラが記録する。


「灰の砦、防衛段階第三移行推奨。対象、黒炎適性個体再取得脅威」


 相良はその言葉を聞いていた。


 灰の砦。


 最初はただの仮称に聞こえた。


 だが、今は違う。


 そこには守るべき者がいる。

 狙われる者がいる。

 役割が生まれ、壁が作られ、地上へ証拠を伸ばしている。


 王国でも神殿でもない場所。


 相良は聖剣の柄を握った。


 自分は勇者だ。


 なら、何を守るべきなのか。


 王国の命令か。

 帰還儀か。

 それとも、目の前で名前を消されかけた者たちか。


 答えはまだ完全には出ない。


 だが、以前より少しだけ見えてきた。


 透は白手袋の男を灰糸で縛り直し、名簿の束をセイルへ渡した。


「戻る」


 レオナがいない場で、誰も異論を挟まなかった。


 透の指示に従い、それぞれが動く。


 証拠を封じるリィン。

 記録を複製するシェラ。

 捕縛者を運ぶバルザとダグラス。

 名簿を抱えるセイルと真由。

 道を見るルカ。

 後方を警戒するアルマと久世。

 負傷者を確認する芽衣。

 周辺の影を見る黒瀬。

 聖剣の光で残火を押さえる相良。


 寄せ集めではない。


 まだぎこちないが、隊として動き始めている。


 灰の砦は、また一つ証拠を拾った。


 そして同時に、次の敵の名を知った。


 白い倉。


 欠けた王冠の中の白い目。


 王都の奥で、捨てられた者たちの名前を番号に変える場所。


 透は地下倉庫の階段を上りながら、灰骸刀の柄に手を置いた。


 刃は鞘の中で静かに沈んでいる。


 だが、王冠印の味をさらに深く覚えた。


 次は、もっと早く斬れる。


 もっと深く喰える。


 そして、もっと遠くへ届く。


 透は低く呟いた。


「白い倉まで、道を作る」


 誰も聞き返さなかった。


 その言葉が何を意味するのか、皆が理解したからだ。


 守るために、進む。


 拾った名前を、消させないために。


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