第89話 名前を戻す者たち
境目房は、一晩で形になった。
灰骨外壁の内側でも外側でもない場所。
骨杭を半円に組み、内側に灰布を張り、床には薄く砕いた灰導石を撒く。
外からの呪いを中へ通さず、中で暴れた者を灰骨外壁の内側へ入れないための区画だ。
牢ではない。
だが、自由でもない。
ルカが言った通り、まだ道が決まっていない者の場所だった。
ゼグラはそこで目を覚ました。
胸の黒炎爆札は抜かれている。
代わりに、リィンの青い封印線と、イーシャが巻いた灰布が傷口を押さえていた。
彼は最初に天井を見た。
骨杭。
灰布。
黒炎皿。
古い石壁。
そして、少し離れた場所に立つ透。
「……生きているのか」
「そうだ」
透は短く答えた。
ゼグラは自分の胸に触れ、顔を歪めた。
「爆札を外したのか」
「命令だけ喰った。札は残した」
シェラが横で記録板を掲げる。
「黒炎爆札外殻、証拠保全中。構造解析、三割完了」
ゼグラは苦く笑った。
「魔族の黒炎炉が見たら、喉から手が出る記録だな」
ネイラが境目房の外に立っていた。
腕を組み、冷たい目でゼグラを見る。
「黒炎炉の話をしろ」
ゼグラはそちらを見た。
「相変わらず短気だな」
黒炎が小さく跳ねる。
ゼグラは肩をすくめようとして、傷に響いたのか呻いた。
「……黒炎炉は、魔王軍の一部だ。だが、魔王の直轄ではない。古い黒炎術を扱う研究炉で、魔族の血、角、火、封印耐性を使って兵器を作る」
セイルがいれば震えただろう。
今ここにいるのは、透、リィン、バルザ、シェラ、ネイラ、ガルド、ルカ。
そして外縁にイーシャとケイルが控えている。
透は問う。
「ネイラを捨てたのも、そこか」
「ああ。黒炎炉は適性の低い者を炉屑と呼ぶ。使えなければ廃棄。燃えすぎれば封印。従わなければ処分」
ネイラの目が冷える。
「覚えている」
「だろうな」
ゼグラは少しだけ目を伏せた。
「お前の炉番だった老女、グラナは炉屑を逃がしていた。お前も、その一人だ」
ネイラの表情が動いた。
「婆様が?」
「そうだ。お前は廃棄穴へ落とされたことになっているが、本当は落とされる前に封印を少し緩められていた。だから奈落で燃え尽きずに済んだ」
黒炎が、音もなく揺れた。
ネイラは何も言わない。
透は彼女の横顔を見た。
怒りだけではない。
知らなかった痛みがある。
捨てられたと思っていた。
ただ廃棄されたと思っていた。
だが、その中に、逃がそうとした者がいた。
それは救いでもあり、別の傷でもある。
ネイラは低く言った。
「婆様はどこにいる」
「魔族領東端、黒焦げ谷の廃炉跡。追われている。長くはもたない」
バルザが鼻を鳴らした。
「また遠そうな名前が出たな」
ゼグラは続ける。
「黒炎炉は王核派と繋がった。王核派は黒王核を開くために、黒炎適性と封印耐性を集めている。人族の白倉も似たものを集めている。どちらも、理由は同じだ」
透の目が細くなる。
「黒王核」
「ああ」
ゼグラは天井を見た。
「魔族領の境界を支える古い核。王核派はそれを開き、魔王の権威を完全に握ろうとしている。人族神殿は、それを帰還儀に使おうとしているらしい。どちらにせよ、核を開くには、生きた鍵がいる」
リィンが静かに言った。
「封印鍵」
ゼグラは彼女を見た。
「お前は、かなり近い」
透の灰が、床へ薄く沈んだ。
ゼグラはすぐに手を上げる。
「脅しているわけではない。事実だ。古い封印に適応した生体鍵、黒炎適性、灰処理、異界人の門座標。これらを組み合わせれば、黒王核を傷つけずに開ける可能性がある」
シェラが記録する。
「仮説。黒王核開封条件。生体封印鍵、黒炎適性、灰処理、異界座標。人族白倉および魔族王核派が収集対象を重複している可能性」
ルカは難しい顔で聞いていた。
「つまり、ネイラも、リィンも、トオルも、ほしい?」
ゼグラはルカを見る。
「そういうことになる」
ルカは胸元の灰印を握った。
「じゃあ、あげない」
ネイラが一瞬だけルカを見た。
それから、そっぽを向く。
「当然だ」
透はゼグラへ問う。
「王核派と白倉は繋がっているのか」
「直接ではない。少なくとも俺が知る範囲では、互いに奪い合っている。ただし、間に商人がいる」
「黒鞭と剣杯か」
「人族側ではそう呼ぶらしいな。魔族側にも似た連中がいる。灰境商と呼ばれる境界商人だ。人族にも魔族にも荷を売る。命も売る」
バルザが吐き捨てる。
「どこにでもいるな、そういう虫は」
「虫にしては、根が深い」
ゼグラは目を細めた。
「灰境商は、奈落にも道を持っている」
その一言で、空気が変わった。
ガルドの杖が床を鳴らす。
「この周辺にもか」
「可能性はある。古い廃棄路、腐水門、迷宮外縁、魔族領の裂け目。奈落は捨て場であると同時に、境界の裏道でもある」
シェラの右目が強く光る。
「既知未探索地点。廃棄昇降路下部、大型機構残骸活動音。外部接続可能性、再評価」
透は黙った。
灰置き場の下。
まだ探索していない縦穴の底。
大型機構の残骸音。
これまで後回しにしてきた場所。
そこが、外部勢力の裏道と繋がっている可能性。
敵は地上からだけではない。
下からも来るかもしれない。
透はガルドを見る。
「下部警戒を増やす」
ガルドはすぐに頷いた。
「骨杭を二段下へ移す。水番とは別に、下見張りを置く」
シェラが記録する。
「新役割候補。下見張り。担当、ガルド隊より二名、シェラ補助板一」
ルカが手を上げる。
「下の道、私も見る」
透は一瞬だけ考えた。
危険だ。
だが、道番の役割として必要でもある。
「一人では行くな」
「うん」
「バルザかガルド隊と一緒だ」
「わかった」
ネイラがゼグラを見下ろす。
「婆様のところへは、いつ行ける」
透は答えた。
「今すぐは無理だ」
ネイラの眉が動く。
黒炎が揺れる。
透は続ける。
「ベルディアの王冠印を潰す。白倉の情報を取る。灰置き場の下を固める。その後だ」
「その後では遅いかもしれない」
「今行けば、ここが薄くなる」
透の声は冷静だった。
「黒炎炉がネイラを狙い、神殿が俺たちを狙い、灰境商が下から来るかもしれない。今、灰置き場を空けるわけにはいかない」
ネイラは歯を食いしばる。
「見捨てろと言うのか」
「違う」
透はネイラを見た。
「拾いに行くために、先に道を作る」
ネイラの黒炎が、少しだけ弱まった。
「道……」
「黒焦げ谷へ行くなら、帰る道も要る。逃がす者がいるなら、受け入れる場所も要る。今のまま行けば、連れて帰っても守れない」
言葉は優しくない。
だが、まっすぐだった。
ネイラはしばらく黙り、やがて小さく息を吐いた。
「……役割か」
「ああ」
「なら、受ける。だが、婆様を見捨てたら燃やす」
「見捨てない」
透は即答した。
ネイラは目を逸らす。
「ならいい」
ゼグラがそのやり取りを見て、かすかに笑った。
「黒角が人族の言葉で止まるとはな」
ネイラの黒炎が伸びる。
「黙れ。怪我人」
「怪我人に優しくしろ」
「黙らなければ増やす」
バルザが笑った。
「仲良さそうで何よりだ」
「どこがだ」
ネイラとゼグラが同時に言った。
ルカが小さく笑う。
それだけで、境目房の張り詰めた空気がわずかに緩んだ。
しかし、透はすぐにガルドへ向き直る。
「会議を開く」
「全員か」
「役持ちだけでいい。水番、道番、黒炎番、灰布番、名簿番候補、下見張り候補。ゼグラの情報も共有する」
ガルドは頷く。
「炉前に集める」
しばらくして、灰置き場の中央炉前に人が集まった。
ガルド。
ネイラ。
イーシャ。
ケイル。
ダン。
ルカ。
シェラ。
リィン。
バルザ。
ゼグラは境目房に横たえられたままだが、シェラの記録板越しに声が届くようにされた。
透は炉の前に立った。
かつては、ただ暖を取る場所だった。
今は、灰置き場の中心になっている。
地図板には、新しい線が加えられていた。
地上ベルディア。
旧東方荷捌き場。
王都白倉。
魔族領黒焦げ谷。
灰置き場下部未探索区。
灰境商の可能性路。
線は増えた。
敵も増えた。
だが、同時に、役割も増えている。
透は言った。
「敵が増えた」
誰も笑わない。
「王国、神殿、王冠印、白倉。そこに魔族の黒炎炉と王核派、灰境商が加わる」
セイルがいたら卒倒しそうな内容だ。
だが、灰置き場の者たちは、もう怯えて固まるだけではなかった。
ガルドは静かに聞いている。
ネイラは黒炎皿を抱え、イーシャは灰布を握り、ケイルは荷の記録板を持ち、ダンは水路板を抱え、ルカは道番の板を胸に当てていた。
透は続ける。
「だから、こっちも増やす」
シェラが記録板を構える。
「第一。灰骨外壁を二重化する。外側は灰と黒炎。内側は骨杭と封印線」
ガルドが頷く。
「外側は敵の命令を鈍らせる。内側は魔物を止める。役が分かれるな」
「第二。境目房を正式に作る。敵か味方か決まらない者、呪いや爆札を持つ者、情報を持つ捕縛者はここへ置く」
イーシャが小さく言う。
「灰布を厚くします。血止めと呪い避け、両方に使えるように」
「頼む」
「第三。名簿番を始める。地上で拾った名前、番号にされた者、消されかけた者を記録する。イーシャ、ケイル、できるか」
イーシャは頷いた。
「やります」
ケイルも続く。
「荷の帳簿と同じだ。違うのは、荷じゃなく人の名前だってことだろ。間違えないようにする」
透は頷いた。
「第四。下見張りを置く。廃棄昇降路下部の大型残骸、灰境商の裏道の可能性を見る。ルカは道を覚えるが、一人で行かない」
「うん」
「第五。地上との連絡を増やす。ベルディア、ギルド、リンド商会、学院。灰置き場から直接は出さない。帰灰標を通す」
シェラが記録する。
「灰信線、仮構築」
「灰信線?」
ダンが聞く。
シェラは淡々と説明した。
「帰灰標を用いた短文反応伝達線。危険、物資、道、名前、敵影などを符号化」
ケイルが目を細める。
「つまり、荷札みたいなものか」
「近似」
「なら、俺も手伝える」
透は頷いた。
「第六。黒炎番を増やす。ネイラ一人に頼らない。黒炎皿を扱える者を二人選ぶ」
ネイラが眉をひそめる。
「下手に触れば燃えるぞ」
「だから教える」
「私が?」
「役割だ」
ネイラは舌打ちした。
「その言葉は便利だな」
「使える」
「……二人だけだ。燃えても泣かない奴にしろ」
バルザが笑う。
「優しいじゃねえか」
「燃やすぞ」
炉前に小さな笑いが起きる。
透はその笑いを待ち、最後に言った。
「第七。灰骸刀を強くする」
空気が変わる。
透は腰の灰骸刀へ手を置いた。
「王冠印、白倉、黒炎爆札。これから斬るものは増える。この刀が覚えれば、次に同じものが来た時、早く断てる」
リィンが頷く。
「刃が覚える。灰も覚える」
シェラが記録する。
「灰骸刀強化方針。王冠印、黒炎爆札、白倉印、灰境商印を喰わせ、対命令・対呪具・対結界攻撃性能を向上」
ガルドが片目を細める。
「武器庫も要るな」
バルザが笑った。
「砦っぽい」
ケイルが言う。
「武器だけじゃない。灰布、骨槍、黒炎皿、封印針、帰灰標の予備。全部まとめる場所が要る」
イーシャが続ける。
「布と札を分けます。子どもが触っていいものと駄目なものも」
シェラが記録する。
「新設備候補。灰具庫」
ルカが嬉しそうに言う。
「灰具庫」
透は静かに頷いた。
また一つ、場所が増える。
外縁房。
名簿番。
下見張り。
灰信線。
黒炎番。
灰具庫。
灰置き場は、昨日よりまた砦になった。
ただ壁を作るだけではない。
役と記録と道が増えていく。
その時、境目房の記録板からゼグラの声がした。
「灰喰い」
透はそちらを見る。
「何だ」
「お前は、自分が何を作っているかわかっているのか」
炉前が少し静まる。
透は答えない。
ゼグラは続けた。
「水を守り、名を戻し、敵と味方の境目を作り、武器庫を持ち、連絡線を引き、外から人を拾う。砦の次は、集落だ。集落の次は領だ」
ガルドが黙って聞いている。
バルザはにやついている。
セイルがいれば止めただろうが、今はいない。
ゼグラは言った。
「王国も魔王軍も、こうして始まった。最初は、水場と壁と、名前を数える者だ」
ルカが小さく言う。
「名前を数えるのは、悪いこと?」
ゼグラは首を横に振った。
「違う。名前を数える者が、誰のために数えるかだ」
透は炉の火を見た。
王国は名を番号に変えた。
神殿は職能で人を処理した。
黒炎炉は失敗作と呼んで捨てた。
なら、自分たちは逆をやる。
番号を名前に戻す。
捨てられた者を拾う。
道を作る。
水を分ける。
それが何になるのかは、まだ知らない。
だが、進む方向はわかっている。
透は炉前に集まった者たちを見渡した。
「ここは、まだ国じゃない」
誰も笑わなかった。
「でも、捨て場でもない」
灰が、炉の中で低く鳴る。
「名前を消された奴がいるなら、戻す。道を塞がれた奴がいるなら、作る。水を奪われた奴がいるなら、分ける。首輪をつけられた奴がいるなら、断つ」
透の声は静かだった。
だが、炉前の全員が聞いていた。
「そのために壁が要るなら作る。武器が要るなら拾う。敵が来るなら斬る」
灰骸刀の鞘が、微かに鳴った。
「王国でも、神殿でも、魔王軍でもない」
透は言った。
「ここは、俺たちが拾った場所だ」
ルカが胸元の灰印を握る。
リィンは静かに頷く。
バルザは牙を見せる。
ネイラの黒炎が低く揺れる。
ガルドは片腕で杖を握り、イーシャは灰布を抱え、ケイルは名簿板を見つめ、ダンは水路板を胸に当てた。
シェラが記録する。
「灰の砦、基本方針更新。名前を戻す。道を作る。水を分ける。首輪を断つ。敵を斬る」
ガルドが低く笑った。
「掟に加えるか」
透は少しだけ考え、頷いた。
「ああ」
ガルドは炉の横に置かれた骨板へ、新しい言葉を刻み始めた。
水は奪わない。
水は隠さない。
水は汚さない。
水は弱い者から渡す。
水を守る者は、最後に飲む。
この場所で人を所有しない。
この場所へ逃げ込んだ者を、誰にも渡さない。
その下に、新しい一行。
――名を消された者の名を、戻す。
ルカがそれを見て、小さく頷いた。
「名前戻し」
ネイラがぽつりと言った。
「婆様の名前も、戻す」
透は彼女を見る。
「ああ」
「黒炎炉から」
「ああ」
短い返事。
それだけで、ネイラの黒炎が少しだけ静かになった。
炉の灰が、ゆっくり舞う。
灰の砦は、その日、新しい掟を得た。
王国の白い倉が名前を消すなら、灰の砦は名前を戻す。
魔族の黒炎炉が失敗作と呼ぶなら、灰の砦はその者の名を呼ぶ。
まだ旗はない。
けれど、骨板に刻まれた言葉は、旗より先に立つものだった。
透はその一行を見つめた。
名を消された者の名を、戻す。
それは小さな掟だ。
だが、王国と神殿と魔王軍のやり方に、真正面から逆らう掟だった。
そして、灰の砦はまた一つ、ただの隠れ場所ではなくなった。




