第81話 灰色の夜食
その夜、ベルディアの街はいつもより長く起きていた。
ギルドの鐘が鳴った後、酒場の卓では同じ話が何度も繰り返されている。
王都の聖令。
灰の主。
拒否権はないという言葉。
灰核抽出。
帰還儀素材。
そして、聖令に込められていた従属魔力を、透が灰で抜いたこと。
噂は熱を持ち、形を変えながら広がっていく。
「聖令を燃やしたらしいぞ」
「違う、紙は残したって聞いた」
「命令だけ喰ったんだとよ」
「命令だけって何だよ」
「灰の主ならやるだろ」
「王都とやり合うつもりなのかね」
「もうやり合ってるだろ」
そんな声を背に、透たちは角鹿亭へ戻った。
宿の主人は、扉を開けた瞬間に透の顔を見て、何も聞かず奥を指した。
「湯は沸いてる。飯も残してある。酒場は騒がしいから、裏の小部屋を使え」
透は少しだけ目を細めた。
「助かる」
「礼は飯を食ってから言え。顔が死んでる」
「死んではない」
「死んでるやつは皆そう言う」
主人はぶっきらぼうに言い、厨房へ引っ込んだ。
バルザが喉を鳴らして笑う。
「地上の宿主ってのは、なかなか肝が据わってるな」
セイルが疲れきった顔で答える。
「今日の私たちに普通に食事を出せる時点で、かなりの胆力です」
ルカは鼻をひくつかせた。
「いい匂い」
その一言で、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
裏の小部屋には、丸い卓が二つ用意されていた。
焼いた黒パン。
豆と肉の煮込み。
香草を散らした卵焼き。
干し果物。
薄く切った燻製肉。
大きな水差し。
そして、ルカの前には小さな蜂蜜入りの温乳が置かれていた。
ルカは両手で杯を持ち、真剣な顔で湯気を見つめた。
「甘い水?」
宿の女将が笑う。
「乳だよ。蜂蜜を少し入れた。熱いから、ゆっくり」
「変な水の、甘いやつ」
「変な水じゃないってば」
女将は笑いながら部屋を出ていった。
ルカは恐る恐る口をつける。
次の瞬間、目を丸くした。
「……あまい」
バルザがにやりとする。
「よかったな、道案内」
「うん。これは、覚える」
シェラが横から記録板を開く。
「ルカ、蜂蜜乳を好む。地上食品記録に追加」
「シェラも飲む?」
「味覚機能、未復旧。摂取不可」
ルカは少し考え、杯を抱え直した。
「じゃあ、部品を探す。飲めるようにする」
シェラの右目が青白く瞬いた。
「目的、継続」
「うん」
そのやり取りを見て、セイルが小さく笑った。
笑った後で、疲れが戻ったように肩を落とす。
透は席につき、黒パンをちぎった。
食欲はあまりない。
だが、食べる必要はある。
灰は死んだものを喰う。
けれど、透の体はまだ人の体でもある。
食べなければ、動けなくなる。
リィンは隣で豆の煮込みを静かに口へ運んでいた。
その食べ方は綺麗だが、早い。
奈落で水と食料の重さを知った者の食べ方だった。
バルザは大皿の燻製肉を遠慮なく取る。
「地上の飯は味が多いな。奈落の肉はだいたい灰か腐りか毒だった」
セイルが顔をしかめる。
「食事中にその説明はやめてください」
「事実だろ」
「事実だから嫌なんです」
ルカは温乳を飲みながら頷く。
「奈落の水は、重い」
その言葉に、小部屋の空気が一瞬だけ静かになる。
水。
灰置き場の掟。
水は奪わない。
水は隠さない。
水は汚さない。
地上では、宿の卓に水差しが置かれている。
誰かが奪い合うこともない。
隠す必要もない。
それだけのことが、奈落の者にはまだ眩しい。
透は水差しへ手を伸ばし、自分の杯に少しだけ注いだ。
飲む。
冷たく、澄んでいる。
それでも、灰置き場の水の方が重かった。
リィンが静かに言う。
「持って帰りたいね」
「水か」
「うん。あと、甘い乳」
ルカが即座に頷いた。
「甘い乳は、みんなびっくりする」
バルザが笑う。
「ガルド爺がどんな顔するか見ものだな」
セイルは少し考える。
「保存は難しいですが、蜂蜜なら持ち帰れます。乳は……粉にする方法がある地域もありますが、ベルディアでは高価でしょう」
シェラが記録する。
「灰置き場持ち帰り候補。蜂蜜、乾燥豆、塩、保存肉、布、封印針素材、機兵味覚部品」
「最後はお前の希望だろ」
バルザが言うと、シェラは即答した。
「はい」
ルカが小さく笑った。
その笑い声は、本当に小さい。
けれど、透は聞き逃さなかった。
今日、ルカは狙われた。
灰印の子どもを殺せば、道が乱れる。
その命令があった。
透の内側で、冷たい灰が少しだけ動く。
敵の腕を砕いた感触。
膝を折った音。
死ぬ逃げ道を奪った時の刺客の目。
後悔はない。
ルカを狙った。
リィンを殺そうとした。
証拠を消そうとした。
その時点で、透の中では線を越えている。
必要なら、次はもっと早く壊す。
それでも今、目の前でルカが甘い乳を飲み、シェラの味覚部品を探すと言い、バルザが肉を取り、リィンが静かに煮込みを食べている。
この光景を守るためなら。
透は、自分の中の冷たさを否定しない。
リィンが横から見た。
「灰、動いた」
「少しな」
「怒ってる?」
「残ってる」
「なら、食べて」
透は彼女を見る。
リィンは煮込み皿を少し押した。
「空だと、灰が尖る」
透は短く息を吐いた。
「わかった」
煮込みを口へ運ぶ。
豆は柔らかく、肉の脂が舌に残る。
香草の匂いが鼻へ抜けた。
奈落では、味より生きることが先だった。
今は、味がある。
それだけで、少し違う。
食事が半分ほど進んだ頃、扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのはアルマだった。
学院服ではなく、簡素な外套姿。
腰には剣。
手には包みを持っている。
「遅くに失礼します」
レオナも後ろにいた。
「私が連れてきた。学院から戻る途中で捕まえた」
アルマは包みを卓に置いた。
「学院の薬草庫から、喉に良い乾燥草と、疲労回復用の茶葉を少し。正式な支援としてはまだ許可が要りますが、私個人の手持ちです」
セイルが目を丸くする。
「よろしいのですか」
「ミレアを助けていただいた借りがあります。それに、今日の東水路で私も見ました。これは学院だけの問題ではありません」
アルマは透へ向き直る。
「シノミヤさん。学院内でも、意見が割れ始めています。王都の勇者を歓迎すべきという者。神殿に逆らうなという者。逆に、灰の主側の証拠を守るべきだという者」
「アルマは」
「私は、証拠を守る側です」
即答だった。
「学院は、迷宮から人を帰すために教える場所です。人を消す道に沈黙するなら、学院で剣を学ぶ意味がありません」
透は彼女を見た。
迷いはある。
怖さもある。
だが、アルマは自分の足で立っている。
「なら、明日から忙しくなる」
「はい」
バルザが肉を口に入れながら言う。
「剣の嬢ちゃん、飯は食ったか?」
「いえ、まだですが」
「なら座れ。細い腕で剣を振るなら食え」
アルマは一瞬戸惑い、レオナを見る。
レオナは肩をすくめた。
「食っていけ。どうせ明日も荒れる」
アルマは少しだけ笑い、席へついた。
ルカが蜂蜜乳の杯を見せる。
「これは甘い」
「蜂蜜乳ですね」
「知ってる?」
「子どもの頃、飲んだことがあります」
「おいしい?」
「はい。好きでした」
ルカは満足そうに頷いた。
「じゃあ、いい地上の水」
アルマは少し驚き、それから柔らかく微笑んだ。
「そうですね。いい地上の水です」
その言葉に、リィンが少しだけ目を細めた。
いい地上の水。
ルカの中で、水と味と場所が少しずつ増えていく。
それは、戦いの勝利とは別の成果だった。
食後、レオナは卓の端へ地図を広げた。
ベルディア周辺図。
東水路、旧水門、迷宮外縁、剣杯支店、黒鞭倉庫。
そこへ、さらに赤い印が三つ加えられている。
「今日の証言と東水路の記録から、王冠印の中継点候補が三つ増えた」
透は地図を見る。
「全部潰すのか」
「潰したい。だが、王都からの圧力も来る。明日には神殿支部が動く可能性が高い。ベルディアの貴族評議会も巻き込まれる」
セイルが弱々しく言う。
「王都本隊が来る前に、証拠を街の複数勢力へ渡しておく必要があります」
シェラが頷く。
「複製先候補。冒険者ギルド、門番隊、学院、リンド商会、商業ギルド内反剣杯派、辺境監察、独立鍛冶組合」
バルザが笑う。
「ばら撒くなあ」
レオナが地図を叩いた。
「握り潰されるくらいなら、街中に噛ませる。王都が一つを潰しても、別の口から出るようにする」
透は地図の上を見た。
赤い印。
王冠印。
神殿。
王国。
帰還儀。
その全てが、自分の灰へ伸びてくる。
だが、ベルディアにはもう目撃者がいる。
救出者がいる。
証言者がいる。
街の中に、灰の味方ではなくとも、神殿の言葉をそのまま信じない者が増えている。
これは、ただ逃げる戦いではない。
足場を作る戦いだ。
レオナは透を見る。
「お前はどうする」
「証拠を守る。王冠印の中継点を潰す。灰置き場へも連絡する」
「灰置き場か」
アルマが小さく反応した。
レオナも少しだけ目を細める。
灰置き場。
奈落の底にある、捨てられた者たちの場所。
ベルディア側には、まだ詳しく話していない。
だが、透の言葉の端々から、そこがただの隠れ家ではないことは伝わり始めている。
ルカが胸元の灰印を握った。
「みんなに、甘い乳と、空と、王都のことを伝える」
バルザが肩を回す。
「ガルド爺も準備を始めるだろうな。ネイラは喜んで火を磨く」
セイルがげっそりする。
「喜んで燃やす、の間違いでは」
「似たようなもんだ」
リィンは地図を見ながら言う。
「戻る道、太くした方がいい」
透は頷く。
「明日、帰灰標を補強する」
シェラが記録する。
「帰灰標補強。地上ベルディア連絡線構築。灰置き場防衛段階、引き上げ推奨」
レオナは腕を組む。
「お前たち、もう小さな逃亡集団じゃないな」
バルザが笑う。
「今さらか?」
「今さらだな」
アルマは地図の上の灰置き場という言葉を見つめていた。
「王国でも、神殿でも、ギルドでもない場所……」
ぽつりと漏らした声だった。
ルカが首を傾げる。
「灰置き場」
「はい。でも、それだけでは収まらない気がします」
アルマは透を見る。
「捨てられた人たちが戻る場所なら、いつか別の名が必要になるかもしれません」
部屋が少し静かになった。
バルザがにやりと笑う。
「灰の国か?」
セイルが慌てる。
「国なんて言ったら、王国が本気で潰しに来ますよ!」
「もう来てるだろ」
バルザは悪びれない。
ルカは考え込む。
「灰の国……水、ある?」
「ある」
透が答えると、ルカは真剣に頷いた。
「じゃあ、いい国」
あまりに単純な答えに、レオナが吹き出しかけた。
リィンは小さく呟く。
「名前は、まだ早い」
「ああ」
透は頷いた。
国。
そんなものを作るつもりはない。
少なくとも、今は。
ただ、水を奪わせない場所を作った。
人を所有させない場所を作った。
逃げ込んだ者を渡さない場所を作った。
それを続けた先に、誰かが何と呼ぶか。
今はまだ、決める段階ではない。
けれど、バルザの軽口とルカの真剣な頷きは、透の胸の奥に小さく残った。
灰の国。
まだ、笑い話のような響きだ。
だが、王国が透を所有物として扱うなら。
神殿が彼を素材として見るなら。
捨てられた者たちが、自分たちの場所に名を求める日が来るかもしれない。
夜が深くなり、食器が片づけられた。
レオナとアルマはギルドへ戻り、セイルは証言書の整理に向かった。
バルザは宿の裏庭で見張りに立つと言い、シェラは部屋の隅で記録の複製を続ける。
ルカは蜂蜜乳の余韻に満足したのか、椅子でうとうとしていた。
リィンは窓辺に立ち、夜空を見ていた。
透は隣へ行く。
「眠らないのか」
「少し見てる」
窓の外には、ベルディアの灯りがある。
その上に、星があった。
奈落では見えなかったもの。
リィンは空を見たまま言う。
「地上は広い」
「ああ」
「王国だけじゃない」
透は少しだけ彼女を見る。
リィンは続けた。
「古い封印の奥に、魔族の線もある。迷宮の下にも、王国と違う匂いがある。黒い火の匂いも、遠くにある」
「魔王か」
「たぶん。まだ遠い」
透は夜空へ視線を戻した。
王国と神殿。
黒鞭と剣杯。
王冠印。
帰還儀。
それだけでも十分に厄介だ。
だが、この世界には魔王がいる。
魔族領がある。
ネイラを失敗作として捨てた者たちがいる。
勇者召喚が必要だと言われた災厄が、本当にあるのかもしれない。
王国の嘘があるからといって、魔王の脅威まで嘘とは限らない。
世界は、まだ広い。
透は灰骸刀の柄に手を置いた。
「今は、目の前からだ」
「うん」
「王冠印を潰す。灰置き場へ戻る道を太くする。王都が来るなら、迎える」
リィンは頷く。
「それでいい」
透は窓の外を見る。
ベルディアの夜灯り。
遠くの迷宮塔。
さらに遠くの闇。
そのどこかに、王都がある。
そのどこかに、魔族領がある。
そのどこかに、まだ見ぬ敵と、まだ拾っていない者たちがいる。
ルカが椅子で小さく寝息を立てた。
シェラが記録板から顔を上げる。
「ルカ、睡眠移行」
バルザが扉の外から声だけ投げる。
「寝かせとけ。今日はよく歩いた」
透はルカを見た。
灰印を握ったまま眠る子ども。
この小さな手を狙った者がいる。
次に狙う者もいるだろう。
透の中の灰が、静かに冷える。
日常は、薄い。
簡単に壊される。
だから守る。
奪いに来るなら、奪えない形にする。
伸びた手は折る。
命令は喰う。
証拠は残す。
必要なら、敵そのものを灰にする。
その冷たさを抱えたまま、透はルカの肩へ毛布をかけた。
ルカは目を覚まさず、少しだけ丸くなる。
リィンがそれを見て、小さく言った。
「こういう夜、増えるといい」
「そうだな」
「増やす?」
「ああ」
透は窓の外の夜へ視線を戻した。
「増やす」
そのために戦う。
そのために壊す。
そのために、灰は命令に従わない。
ベルディアの夜は、少しずつ更けていった。




