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第82話 戻る道を太くする

 翌朝、ベルディアの空は薄い灰色だった。


 雨は降っていない。

 けれど、街全体に湿った雲がかかり、迷宮塔の先端が霞んでいる。


 角鹿亭の裏庭で、透は荷を確かめていた。


 蜂蜜の小瓶。

 塩。

 乾燥豆。

 薄く切った保存肉。

 布。

 簡易薬草。

 シェラ用の小型魔道部品。

 リィンの封印針素材。

 そして、ギルドから受け取った細い灰導石の欠片。


 全部、灰置き場へ持ち帰るものだ。


 ルカは蜂蜜の小瓶を両手で持ち、真剣な顔で布袋へ入れていた。


「割れたら、甘いのが逃げる」


「割るなよ」


「うん。これは、ガルドに見せる」


 バルザが横から笑う。


「爺に蜂蜜を見せたら、まず毒かどうか疑うぞ」


「毒じゃない」


「奈落じゃ甘いものほど怪しいからな」


 ルカは少し考え、蜂蜜の小瓶をもう一枚布で包んだ。


「じゃあ、最初はトオルが食べる」


「俺か」


「毒じゃないってわかる」


 シェラが記録板を開いた。


「蜂蜜、安全証明手順。透が先に摂取。ルカ、信頼度高」


「変な記録を残すな」


「重要です」


 シェラは淡々と答えた。


 透は小さく息を吐き、灰導石の欠片を手に取る。


 今日の目的は、ただ荷を持ち帰ることではない。


 ベルディアと灰置き場を繋ぐ帰灰標(きかいひょう)を補強する。


 王国と神殿が動き出した。

 王冠印の連中は、灰印の子どもを狙った。

 帰る道を乱せば、透たちの動きも灰置き場の守りも鈍ると判断している。


 なら、道を太くする。


 奪われないように。

 消されないように。

 帰る場所が、ただの隠れ穴ではないと示すために。


 リィンは腰の封印針を確認していた。


「今日は、地上側の標を強くする?」


「ああ。換気塔跡、旧道側、森の分岐、できればカラント宿場の手前まで」


「逆流止め、入れる」


「頼む」


 短い役割確認。


 そこへ、レオナとアルマが裏庭へ入ってきた。


 レオナはいつもの黒い上着。

 アルマは革鎧に外套を重ね、腰に剣を差している。


「出るなら、私も行く」


 レオナが言った。


「ギルド長が街を離れていいのか」


「長くは離れない。換気塔跡までだ。王都側が勝手に後をつけないよう、公式同行という形にする」


 アルマも一歩前へ出る。


「私も同行を希望します。学院には、外縁調査の延長として届け出ました」


 透は二人を見る。


 レオナは実務のため。

 アルマは、自分の目で道を見たいのだろう。


 どちらも、軽い好奇心ではない。


「足は止めるな」


「承知しています」


 アルマは即答した。


 その時、裏庭の入口に相良たちが現れた。


 相良、真由、美琴、黒瀬、芽衣。

 少し遅れて久世と速水。

 藤堂と姫野もいた。


 護衛騎士と神官監督官の姿はない。

 だが、遠くの通りに王都騎士の見張りが二人立っている。


 相良は透の荷を見て、すぐに察した。


「どこかへ行くのか」


「戻る道を補強する」


「俺たちも――」


「来るな」


 透は遮った。


 声は強くない。

 だが、拒絶は明確だった。


 相良の言葉が止まる。


 美琴が一歩前に出かけ、踏みとどまった。


 真由が静かに聞く。


「灰置き場へ関わる道だから?」


「ああ」


 透は荷袋を肩にかける。


「あそこは、王国にも神殿にも見せない。今は、お前たちにも見せない」


 美琴は唇を噛んだ。


「……わかった」


 速水が少し苛立ったように言う。


「俺たちも王国側ってわけじゃないだろ。昨日から色々見てるし」


 バルザが鼻で笑った。


「昨日見ただけで信用を買えるなら、首輪商売はとっくに潰れてる」


「何だよそれ」


 速水が言い返そうとする。


 透の視線が向いた。


 速水は口を閉じた。


 透は言った。


「お前たちが何を選ぶかは、お前たちの問題だ」


 灰色の目が、相良たちを順に見る。


「でも、俺の戻る場所を見せるかどうかは、俺たちの問題だ」


 美琴は布を巻いた手首を握った。


 その言葉は痛い。

 けれど、当然でもあった。


 謝ったから、見せてもらえるわけではない。

 神殿へ疑いを持ったから、すぐ仲間になれるわけでもない。


 透には、透の守る線がある。


 真由は小さく頷いた。


「理解した。こちらは、ギルドで証言書の整理を進める」


「そうしろ」


 黒瀬が肩をすくめる。


「信用稼ぎからってことね」


 透は答えなかった。


 否定もしない。


 相良は拳を握り、それから力を抜いた。


「篠宮」


「何だ」


「戻ってきたら、話をしたい。王国のことでも、帰還儀のことでもなく……あの時のことを」


 透は少しだけ相良を見る。


 拒絶はしない。

 だが、受け入れもしない。


「戻ったらな」


 それだけ言って、透は歩き出した。


 ベルディアの南門を抜け、旧道へ入る。


 街の外へ出ると、空気が変わった。


 石と人の匂いが薄れ、草と湿った土の匂いが増える。

 ルカはすぐに顔を上げた。


「風が違う」


「昨日より湿ってるな」


 セイルが周囲を見回しながら答える。


「雨が近いかもしれません。道標の補強には、むしろいいかもしれません。湿った地面の方が灰を馴染ませやすい」


 シェラが右目を光らせる。


「周辺脅威度、低。追跡反応、二。王都騎士ではない。距離、百二十歩」


 レオナの顔が険しくなる。


「もうつけているのか」


 バルザが鼻を鳴らす。


「匂いは神殿じゃねえ。商会崩れか、王冠印の見張りか」


 透は歩みを止めない。


「放っておく」


 アルマが少し驚く。


「よろしいのですか」


「今はな」


 透の声は静かだった。


「道を見るだけなら見せる。手を伸ばしたら折る」


 アルマは背筋を伸ばした。


「承知しました」


 旧道を進むと、かつてリンド商会を助けた場所の近くに出た。


 岩背猿と小型魔物に襲われた荷車の跡は、もうほとんど消えている。

 だが、灰域を細く沈めると、透にはまだわずかな残りがわかった。


 折れた車軸の木片。

 岩背猿の棘の欠け。

 小型魔物の血が乾いた跡。


 そこに、最初の帰灰標(きかいひょう)を置く。


 透は灰導石の欠片を地面へ埋め、掌をかざした。


 灰が指先から落ちる。


 ただ撒くのではない。


 地面に残る死んだ魔力、乾いた血、古い車輪跡の灰を拾い、灰導石の周りへ細く編み込む。


 灰糸(かいし)が地中を走り、小さな輪を作った。


 リィンが封印針を一本抜く。


 針を地面へ刺さず、灰導石の少し上で止める。


 青い線が、標の外周へ巻きついた。


「逆流、止める。探された時、匂いだけ返す」


「どんな匂いだ」


「古い車輪と、濡れた土」


 バルザが笑った。


「地味だな」


「地味な方が見つからない」


 リィンは淡々と答える。


 シェラが記録する。


「帰灰標、旧道第一点補強。機能、帰還方向感知、灰域補助、逆探知時の偽装応答」


 レオナはその作業を見ていた。


「標というより、もう小さな境界杭だな」


 セイルが頷く。


「奈落の保守術式に近いですが、透さんの灰が混ざっているので、通常の魔道標とは違います。道を示すというより、戻る意志を拾う感じです」


 ルカは灰導石の上に手をかざした。


 目を閉じる。


「うん。戻れる」


 透は頷いた。


「次へ行く」


 森へ入る。


 木々の間は薄暗く、湿った葉が足元で音を立てた。

 かつて地上へ出た時、ルカが初めて草に触れた森だ。


 換気塔跡は、蔦と石で隠されたままだった。


 外から見れば、ただの崩れた古い排気口。

 しかし、透たちにとっては奈落と地上を繋ぐ最初の口だった。


 ルカはその前に立ち、しばらく黙っていた。


「ここから、空を見た」


「ああ」


「最初、広すぎて怖かった」


「今は?」


 ルカは空を見上げる。


 雲が低い。


 それでも、奈落の天井とは違う。


「まだ広い。でも、戻る穴があるから大丈夫」


 その答えに、透は少しだけ目を細めた。


 戻る穴。


 地上だけが自由ではない。

 奈落だけが檻でもない。


 戻れる場所があるから、外へ出られる。


 透は換気塔跡の前に膝をついた。


 ここには、すでに帰灰標がある。


 だが、今のままでは細い。


 王国や神殿が本気で道を探しに来れば、いずれ見つかる。

 見つけられた時、ただ隠すだけでは足りない。


 偽装し、逸らし、必要なら喰い止める。


 透は灰骸刀を抜かなかった。


 かわりに、右腕の灰殻手甲へ灰を通す。


 灰域(かいいき)を細く、深く、換気塔の内側へ沈めた。


 浄水室。

 排泥路。

 廃棄昇降路。

 崩落地点。

 換気塔下部。

 灰置き場。


 遠い。


 けれど、繋がっている。


 帰灰標を通じて、微かな反応が返ってくる。


 骨杭。

 水路。

 炉。

 灰幕。

 ネイラの黒炎標。

 ガルドが置いた見張り骨。

 シェラが残した補助板。


 そして、灰置き場の中央。


 そこにある、透の灰を覚えた場所。


 胸の奥が、静かに鳴った。


 ルカが顔を上げる。


「みんな、いる」


 リィンも目を閉じた。


「下で、黒い火が動いた。ネイラ」


 バルザが笑う。


「こっちの気配に気づいたか。勘のいい小娘だ」


 透は灰を送り込んだ。


 言葉ではない。


 危険。

 王国。

 神殿。

 帰還儀。

 灰核抽出。

 地上道補強。

 防衛段階引き上げ。


 それらを、灰標の反応として沈める。


 向こうでシェラの古い補助板が受け、ネイラの黒炎標が揺れ、ガルドの骨杭が反応するはずだ。


 しばらくして、返答が来た。


 強い黒炎の熱。

 短く荒い。


 ネイラだ。


 ――燃やす準備はある。


 言葉ではない。

 だが、意味は伝わった。


 バルザが喉を鳴らす。


「やっぱり燃やす気だ」


 続いて、重い骨の響き。


 ガルド。


 ――水を守る。門を固める。戻れ。


 透は目を閉じたまま、灰を返した。


 まだ戻らない。

 地上側を固める。

 蜂蜜を持ち帰る。


 最後の情報を送ると、反応が一瞬乱れた。


 ルカがぱっと顔を上げる。


「ガルド、蜂蜜わからないって」


 バルザが吹き出した。


「そりゃそうだ」


 リィンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 透も、わずかに息を吐く。


 その小さなやり取りが、森の湿った空気の中で妙に温かかった。


 だが、次の瞬間。


 換気塔跡の外側に置いた帰灰標が、鋭く震えた。


 ルカが顔を強張らせる。


「誰か、道を嗅いだ」


 シェラの右目が強く光る。


「追跡反応、接近。先ほどの二名とは別。数、六。神殿系探索札あり」


 レオナが舌打ちする。


「もう嗅ぎつけたか」


 アルマが剣に手をかける。


 バルザが牙を見せる。


「来るなら早く来い」


 透は立ち上がった。


 換気塔跡の前に、灰が薄く広がる。


「ここから先へは通さない」


 声は静かだった。


 リィンが針を抜く。


「道、隠す?」


「隠す。だが、一人は戻す」


 レオナが透を見る。


「伝言か」


「ああ」


 森の奥から、白い札を手にした男たちが現れた。


 法衣ではない。

 狩人風の外套。

 だが、手首には神殿探索札。

 腰には拘束具。


 王冠印ではない。


 神殿支部の斥候だ。


 先頭の男が、換気塔跡と透を見比べる。


「篠宮透。王国聖令に基づき、地上外縁の不明通路を確認する。道を空けろ」


 透は答えない。


 男は札を掲げる。


「拒否は認められない」


 その言葉に、透の灰が静かに冷えた。


 まただ。


 拒否は認められない。


 拒否権はない。


 道を空けろ。


 水を奪い、人を縛り、捨てた後で所有を主張する連中は、いつも同じ言葉を使う。


 透は一歩前へ出た。


「ここは、俺の戻る道だ」


 灰が地面を這う。


「灰置き場の者たちの道だ」


 白札の男が眉をひそめる。


「奈落の汚染区域を私有する権利はない。王国と神殿の管理下に――」


 透の姿が消えた。


 次の瞬間、男の右手首が不自然に曲がった。


 探索札が地面へ落ちる。


 悲鳴が遅れて響いた。


 透は男の前に立っていた。


 灰骸刀は抜いていない。


 左手で、男の手首を折っている。


「権利の話をするな」


 透の声は低い。


「そこにいる奴らを捨てたのは、お前たちだ」


 残り五人が動く。


 拘束札が飛ぶ。

 白い網が展開される。

 神殿の封鎖術式が、換気塔跡へ向かって伸びる。


 リィンの封印針が三本飛んだ。


 白い網の結び目を一点ずつ縫い止め、広がる前に止める。

 シェラが旧排気口の偽装板を起動し、換気塔跡の輪郭を森の岩場へずらして見せる。

 バルザが二人へ踏み込み、腹へ拳を入れて地面に沈める。

 アルマは逃げようとした一人の足元を払い、剣の柄で手首を打って札を落とす。


 透は残り二人を灰糸(かいし)で縛った。


 拘束札に込められた命令だけを喰い、札をただの紙へ戻す。


 戦闘と呼ぶには短すぎた。


 神殿斥候たちは、ほとんど何もできず地面に転がっている。


 透は最初の男の襟を掴み、立たせた。


 手首は折れている。

 だが、歩ける。


「戻れ」


 男は痛みに顔を歪めながら、透を見る。


「貴様……神殿に逆らって――」


 透の灰が、男の喉元まで上がった。


 締めない。


 ただ、そこにある。


 男の言葉が止まる。


「伝えろ」


 透は森の奥、ベルディアの方角へ視線を向けた。


「この道に二度と手を出すな」


 灰が、男の折れた手首の周りで冷たく舞う。


「次に灰置き場へ伸びた手は、|手首だけでは済ませない《・・・・・・・・・》」


 男の顔から血の気が引いた。


 透は襟を離す。


 男はよろめきながら後ずさった。


 残りの斥候たちは、バルザとアルマによって武器と札を奪われ、レオナの部下に縛られる。


 レオナは低く言った。


「一人だけ戻すのは危険だぞ」


「戻さないと、また同じ言葉で来る」


「戻しても来る」


「その時は潰す」


 透の答えは静かだった。


 レオナはしばらく透を見て、それから肩をすくめた。


「わかった。記録は取った。神殿支部斥候による非公開通路探索、拘束具所持、聖令の名を使った強制確認。こちらも報告する」


 シェラが淡々と言う。


「記録済み」


 透は換気塔跡へ戻り、帰灰標へ灰を注ぐ。


 今度は、ただ道を示すだけではない。


 外からの探索札が触れた時、偽の岩場へ誘導する。

 強引に掘ろうとすれば、灰が標を切り離す。

 王冠印や神殿系の拘束命令が近づけば、灰置き場側へ警告が落ちる。


 リィンが青い線を重ねた。


「これで、道が噛まれても逃げられる」


「噛まれたら?」


「噛んだ方の歯が折れる」


 バルザが笑った。


「いいな、それ」


 ルカは帰灰標の上に手をかざした。


 目を閉じる。


「太くなった」


「戻れるか」


「うん。みんなも、こっちがわかる」


 透は頷いた。


 森の湿った風が吹く。


 空は相変わらず灰色だ。

 だが、換気塔跡の奥から返ってくる灰置き場の反応は、朝よりもはっきりしている。


 水を守る骨杭。

 炉の熱。

 黒炎の揺れ。

 灰幕のざらつき。

 帰る場所の重さ。


 透はその反応を胸の奥に沈めた。


 王国が何と言おうと。

 神殿がどんな聖令を出そうと。


 この道は渡さない。


 この先にいる者たちは、もう捨てられたままではない。


 まだ名はない。

 灰の国などと呼ぶには、あまりにも小さい。


 それでも、そこには水があり、炉があり、戻る道がある。


 透は灰骸刀の柄に手を置いた。


 鞘の中で、刃が静かに沈む。


「戻るぞ」


 ルカが蜂蜜の袋を抱え直す。


「蜂蜜、守った」


「ああ」


 バルザが笑い、リィンが小さく頷き、シェラが記録し、セイルが安堵の息を吐く。


 一行は森を後にした。


 背後の換気塔跡は、もうただの岩場にしか見えない。


 だが、その奥には太くなった道がある。


 灰は、帰る場所を覚えている。


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