第72話 帰る場所
王都からベルディアへ向かう街道は、よく整えられていた。
馬車の車輪が石敷きの道を規則正しく叩く。
左右には麦畑が広がり、遠くには低い丘と森が見えた。
王都近郊の村々では、王国旗を掲げた馬車列を見るたびに人々が道端へ出て、頭を下げる。
先頭には護衛騎士。
その後ろに神官監督官の馬車。
中央に勇者訓練隊の大型馬車。
さらに補給車と従者の馬車が続く。
大げさな行列だった。
だが、王国にとっては必要な見せ方なのだろう。
勇者が動く。
聖女が動く。
剣聖が動く。
異界から召喚された者たちが、王国の旗の下で任務に向かう。
それだけで、街道沿いの民へ示す力になる。
相良迅は馬車の窓から外を見ていた。
手元には、神官から渡された薄い冊子がある。
表題は、帰還儀に関する基礎説明。
召喚された直後にも聞かされた話だ。
魔王領から広がる大災厄。
それを抑えるため、異界より勇者たちが招かれた。
魔王を討ち、その核となる黒王核を神殿へ捧げれば、召喚術式の逆門を開くことができる。
そうすれば、元の世界へ帰る道が生まれる。
だから、戦え。
だから、鍛えよ。
だから、王国と神殿に従え。
最初に聞いた時は、現実感がなかった。
異世界。
勇者。
職能。
魔王。
帰還儀。
何もかも、ゲームや漫画の言葉みたいだった。
けれど、もう何週間もこの世界で訓練している。
剣の重さも、魔法の熱も、神官たちの期待も、兵士たちの視線も、本物になってしまった。
それでも、冊子の最後に書かれた一文だけは、今も相良の胸に引っかかる。
――帰還儀の執行時期および対象者の選定は、王国および神殿の協議により定める。
対象者の選定。
つまり、魔王を倒せば全員が自動的に帰れる、とは書かれていない。
相良は冊子を閉じた。
向かいの席で、久世蓮司が退屈そうに足を組んでいる。
「またそれ読んでんのか、相良」
「一応な。ベルディアでも聞かれるかもしれないし」
「帰還儀の話か?」
「ああ」
久世は鼻で笑った。
「魔王を倒せば帰れる。単純でいいだろ」
綾瀬真由が横から口を挟んだ。
「単純じゃない。帰還儀に必要なものは黒王核だけじゃないと書いてある。神殿中枢の承認、召喚陣の再起動、異界人の魔力安定、世界間の座標補正。曖昧な言葉が多すぎる」
久世は眉をひそめた。
「また難しく考えてるな、賢者様は」
「難しくしているのは神殿の説明よ」
「魔王を倒す前から帰る心配かよ。先にやることがあるだろ」
三枝美琴は、黙って手首を押さえていた。
監視封環が、じわじわと熱を持っている。
透の名前を考えると痛む。
灰の主の噂を思い出すと痛む。
帰還儀の説明に疑問を持つだけでも、少し痛む。
この腕輪は、彼女の思考の先にあるものを見張っている。
それがわかるから、余計に気持ちが悪かった。
小鳥遊芽衣が小さな声で言う。
「でも、帰りたい人はいるよね」
馬車の中が、少し静かになった。
芽衣は薬袋を膝に抱えたまま、視線を落としている。
「私、お母さんに何も言わずに来ちゃったし。家のことも、学校のことも、そのままだし。こっちで力をもらったからって、急に全部平気にはならないよ」
藤堂絵里香は窓の外を見ながら、少しだけ唇を尖らせた。
「それはそうだけどさ。でも、帰ったら普通の高校生だよ。こっちだと私たち、特別じゃん。王宮の人たちも丁寧だし、魔法も使えるし」
芽衣は藤堂を見る。
「帰りたくないの?」
「帰りたくないっていうか……今すぐじゃなくてもいいかなって。魔王倒せば帰れるって言われてるんだし、それまでにできることやればいいじゃん」
速水陸が軽く笑った。
「俺もそれ派。せっかく異世界来て、職能もらって、騎士たちに先生つけてもらってんだぜ? 何もせず帰る方がもったいなくね?」
真由の目が冷たくなる。
「帰れる保証があるならね」
「またそれかよ」
「王国は帰還儀を餌にして、私たちを従わせている可能性がある」
藤堂が眉をひそめる。
「餌って言い方、悪くない?」
「悪く聞こえるなら、それだけ構造が悪いのよ」
久世が不機嫌そうに言った。
「じゃあどうするんだよ。今すぐ王国に逆らって、帰せって騒ぐのか? できるわけないだろ。魔王がいて、災厄が広がってて、俺たちに力がある。だったらやるしかない」
相良は久世の言葉に頷きかけた。
責任。
その言葉は、相良の中に深く刺さっている。
勇者として選ばれた。
聖剣を持った。
民は期待している。
王国は頼っている。
自分たちが戦わなければ、この世界の人々が苦しむ。
それは嘘ではない。
けれど、その正しさの中に、別のものが混じっている気がした。
透を奈落へ落とした時も、神官たちは正しいことをしている顔をしていた。
災厄職だから。
世界のためだから。
勇者たちを守るためだから。
そう言って、拒否権を奪った。
「相良君はどう思うの?」
美琴が聞いた。
相良は少しだけ息を詰まらせた。
彼女の声は責めるようではなかった。
けれど、それがかえって答えにくかった。
「俺は……帰りたい気持ちはある。でも、この世界を見捨てて帰るのも違うと思う」
「魔王を倒せば帰れるって、本当に信じてる?」
美琴の問いに、相良はすぐ答えられなかった。
聖剣の柄に触れる。
白い光は、今は静かだ。
「信じたい」
ようやく出た言葉は、それだった。
黒瀬真琴が小さく笑った。
「信じたい、か。相良らしいね」
「何だよ」
「いや、責めてないよ。信じたいって言えるだけ、まだ正直だと思ってさ」
黒瀬は窓の外へ視線を向ける。
「私は、神殿が全部本当のことを言ってるとは思ってない。帰還儀も、篠宮の件も、灰の主の件もね」
久世の眉が動く。
「また篠宮か」
「そりゃ出るでしょ。今から会いに行くかもしれない相手なんだから」
「会いに行くんじゃない。事件の視察だ」
「建前はね」
黒瀬の声は軽い。
だが、その目は笑っていない。
「王都の神官たちは、灰の主を確認しに行く。篠宮透なら、連れ戻す。そうじゃないなら、不明職の危険人物として調べる。どっちにしても、向こうの自由にはさせないつもりだと思うよ」
芽衣が不安そうに顔を上げる。
「連れ戻すって……本人が嫌だって言ったら?」
馬車の中に沈黙が落ちた。
美琴の手首が熱く痛む。
真由が静かに言った。
「神官監督官は、拒否権はないと言っていた」
藤堂が息を呑む。
「聞いたの?」
「ええ」
久世は顔をしかめた。
「危険なら管理するのは当然だろ。奈落から戻ったんだぞ。普通じゃない」
美琴の声が震えた。
「普通じゃないから、また奪っていいの?」
「そういう話じゃ――」
「同じだよ」
美琴は久世を見た。
「奈落へ落とした時も、危険だからって言った。今度は戻ってきたから管理するって言う。ずっと篠宮君の意思はどこにもない」
久世は言葉を詰まらせた。
藤堂は気まずそうに視線を逸らす。
姫野朱里は膝の上で手を重ね、何かを言おうとして言えなかった。
相良は胸の奥が痛んだ。
あの日、自分は声を上げた。
だが、最後まで奪わせないために動いたか。
答えは出ている。
動かなかった。
馬車の外から、神官監督官エルドの声がした。
「皆様、まもなく昼の休憩です。降車の準備を」
会話はそこで途切れた。
街道脇の休憩地には、小さな祠と井戸があった。
護衛騎士たちは馬に水をやり、従者たちは簡易の食事を用意する。
神官たちは祠の前で短い祈りを捧げた。
勇者たちは馬車を降り、思い思いに体を伸ばす。
久世はすぐに木剣を振り始めた。
速水は騎士たちと軽口を交わす。
藤堂は髪を整え、姫野は神官に声をかけられて祈りの輪へ入った。
芽衣は井戸の水質を確かめるように、薬草の小瓶を覗き込んでいる。
美琴と真由と黒瀬は、少し離れた木陰へ移動した。
美琴は痛む手首を押さえながら言う。
「もし本当に篠宮君だったら、どう話せばいいんだろう」
真由は答えを急がなかった。
「謝ることは必要。でも、謝れば済むとは思わない方がいい」
「うん」
「彼はもう、私たちの知っている篠宮君ではないかもしれない。ベルディアの報告が本当なら、彼には仲間がいて、立場があって、守るものがある」
黒瀬が続ける。
「そこに、昔のクラスメイト面して近づいたら、多分嫌われるね」
美琴は俯いた。
「……そうだよね」
「でも、何も言わないよりはいい」
黒瀬の声は少しだけ柔らかかった。
「美琴は、あの時止めようとしてた。篠宮がそれをどう受け取るかは別として、嘘ではない。だから、変に取り繕わない方がいい」
真由が頷く。
「それと、神官たちが彼を拘束しようとしたら、私たちはどうするか決めておくべき」
美琴が顔を上げる。
「止める」
即答だった。
真由は彼女を見る。
「相手は王国と神殿よ。私たちも監視されている」
「それでも」
美琴は手首の腕輪を握った。
「また黙って見てるのは嫌」
腕輪が熱を増す。
痛みが走る。
それでも、美琴は手を離さなかった。
黒瀬が小さく笑う。
「いいね。じゃあ、私は逃げ道を探す。真由は理屈を用意。美琴は正面から言う役」
「黒瀬さん、軽い」
「軽い方が動きやすいんだよ」
その頃、相良は祠の裏でエルドと話していた。
エルドの手には、神殿の封書がある。
「勇者様。ベルディア到着後、灰色の冒険者と接触する場合、必ず我々神官監督官の同席を求めてください」
「なぜですか」
「彼が篠宮透本人であった場合、感情的な混乱が予想されます。あなた方は同郷です。情に流され、危険性を見誤るかもしれません」
「危険性って、さっきからそればかりですね」
相良の声に、少しだけ棘が混じった。
エルドは穏やかなまま答える。
「事実です。灰の力は、王国の魔道武器を無力化し、神殿の封印術式にも干渉する可能性がある。これを野放しにはできません」
「でも、人を助けています」
「力の使い方と、力の所有権は別です」
相良は眉をひそめた。
「所有権?」
「異界召喚は、王国と神殿が莫大な代償を支払って行った大儀式です。召喚された力は、この世界を救うために用いられるべきもの。個人の感情で勝手に使われては困るのです」
相良は息を呑んだ。
人ではなく、力。
エルドは最初からそう見ている。
勇者も、聖女も、剣聖も。
そして、灰喰いも。
「俺たちは、道具じゃありません」
相良が言うと、エルドは少しだけ目を細めた。
「もちろんです。皆様は尊き勇者候補です。だからこそ、正しく導かれる必要がある」
「導く、ですか」
「はい。篠宮透が本人であれば、彼にも同じ導きが必要です。奈落で得た仲間や地位があるとしても、それは王国の秩序の外にある不安定なもの。正規の管理下へ戻すことが、彼自身のためでもあります」
相良は、もう返事をしなかった。
エルドの言葉は、丁寧だ。
正しそうに聞こえる。
でも、その中に透の意思はない。
奈落で何を見たのか。
誰を拾ったのか。
何を守ろうとしているのか。
それを聞く前から、管理下へ戻すと決めている。
相良は聖剣の柄を握った。
光は出ない。
ただ、手の中で冷たく感じた。
休憩を終え、馬車列は再び街道を進む。
午後には森へ入り、夕方には小さな宿場町へ到着した。
宿場では、すでにベルディアからの噂が届いていた。
酒場の客たちが、勇者隊の旗を見るなりざわめく。
「王都の勇者様か」
「ベルディアへ行くんだろ」
「灰の主に会うのか?」
「黒札の餌場を潰したって話、本当なのかね」
「銀髪の封印師が、口を封じる札を傷なしで外したって聞いたぞ」
「骨噛みの親玉を生け捕りだとよ。見てみてえな」
久世の眉がぴくりと動いた。
まただ。
どこへ行っても、灰の主の噂が先にいる。
勇者隊が到着したのに、人々は勇者だけを見ていない。
ベルディアにいる灰色の少年の名を、一緒に口にする。
速水が小声で言った。
「噂、かなり広がってるな」
久世は吐き捨てる。
「盛りすぎなんだよ」
藤堂は酒場の女給たちが話す声を聞いていた。
「灰の主の隣にいる封印師、神殿の人より丁寧に札を外すんだって」
「銀髪で青い針を使う子でしょ。怪我人が、声を返してくれたって泣いてたらしいよ」
「機兵の女の子もいるんだって。古代遺跡の記録を読めるとか」
「獣人の男は怖いけど、子どもに水を渡してたって聞いた」
藤堂は唇を結んだ。
ただの美少女連れ、では片づけられない。
それぞれが、何かをしている。
誰かを助けている。
ベルディアの人々が、その具体的な行いを話している。
それが余計に、彼女の中の篠宮透と結びつかなかった。
宿場の夜。
美琴はなかなか眠れなかった。
窓の外には、王都とは違う星空が広がっている。
日本で見た空とも違う。
この世界の夜。
透は奈落で、この星を見ただろうか。
いや、奈落には空がなかったはずだ。
なら、初めて地上へ戻った時、何を思ったのだろう。
美琴は手首の腕輪を見た。
痛みは少し落ち着いている。
だが、透のことを考えれば、また熱を持つ。
「拒否権はない……」
小さく呟く。
あの言葉を、今度こそ許したくない。
翌朝、馬車列は宿場を出た。
街道は南東へ曲がり、遠くにベルディア方面の丘陵が見え始める。
昼前、先行していた騎士が戻ってきた。
「前方、ベルディア迷宮都市の外壁を確認!」
馬車の中がざわめく。
相良は窓から身を乗り出しかけ、慌てて姿勢を戻した。
久世は無言で剣の柄を確かめる。
藤堂は髪を整え、姫野は祈りの印を切る。
芽衣は薬袋を抱え、美琴は手首を握る。
真由は紙片を畳み、黒瀬は薄く笑った。
ベルディアの城壁が、遠くに見える。
その向こうに、迷宮の塔群が立っている。
そして、その街にいる。
灰の主。
篠宮透。
馬車列は、ゆっくりとベルディアへ近づいていった。




