第71話 拒否権なき召還令
王都を出る馬車列は、朝靄の中に並んでいた。
白地に王国紋を刺した旗。
神殿の聖印を掲げる小型馬車。
勇者訓練隊のために用意された大型馬車が二台。
護衛騎士の騎馬が十数騎。
名目は、ベルディア迷宮都市における黒鞭商会および剣杯商会関連事件の現地確認。
加えて、勇者候補たちの実地訓練。
だが、馬車の周囲に立つ神官たちの顔は、ただの視察へ向かう者のものではなかった。
彼らは、何かを回収しに行く顔をしていた。
相良迅は聖剣を腰に下げ、馬車の前で空を見上げていた。
ベルディア。
灰の主。
篠宮透。
その名が、頭の中で何度も重なる。
奈落へ落とされたはずのクラスメイト。
王国と神殿が災厄職だと断じた少年。
自分たちが訓練を受けている間に、地上へ戻り、迷宮都市で人攫いの檻を開けたという。
信じたいのか、信じたくないのか。
相良自身にもわからない。
ただ、胸の奥が落ち着かなかった。
「相良君」
声をかけてきたのは、神官監督官の一人だった。
名はエルド・カッサ。
白い法衣に銀の肩飾り。年は四十前後。細い目をしており、話す時は常に相手を諭すような口調になる。
「出立前に、確認しておきたいことがあります」
「確認、ですか」
「はい。ベルディアで噂されている灰色の冒険者についてです」
相良の指が、聖剣の柄に触れた。
「篠宮のことですか」
エルドはわずかに眉を動かした。
「まだ同一人物と決まったわけではありません」
「でも、報告には名前があったんですよね」
「報告というものは、現地の混乱を含みます。誤記、聞き違い、同名の別人。いくらでも可能性はあります」
「《灰喰い》も同じで?」
相良がそう言うと、エルドの目から一瞬だけ温度が消えた。
だが、すぐに穏やかな表情へ戻る。
「勇者様。大切なのは、事実確認の後です」
「後?」
「仮に、その者が召喚時に失われた篠宮透本人だとしても、彼は王国召喚術式によってこの世界へ招かれた異界人です。すなわち、王国および神殿の保護対象であり、管理対象でもあります」
「管理対象……」
相良の声が低くなる。
エルドは当然のように頷いた。
「彼は奈落で汚染された可能性があります。本人の自覚の有無にかかわらず、その力は危険です。灰を操り、魔剣の術式を停止させ、証拠消去術式を切断する。報告が事実なら、放置できる力ではありません」
「だから、どうするんですか」
「王都へ同行していただきます。神殿で検査し、浄化を受け、必要な管理下に置く」
相良は息を止めた。
「本人が嫌がったら?」
エルドは、不思議そうに目を細めた。
「拒否権はありません」
その言葉は、朝の冷気よりも冷たかった。
「彼は召喚された者です。勇者様方と同じく、王国の大義に連なる存在です。まして、災厄職と判定された者が奈落から戻ったとなれば、本人の意思を尊重している場合ではありません」
相良はエルドを見た。
諭すような声。
穏やかな顔。
だが、その奥にあるものは、あの日の神官長と同じだった。
正しいと信じている顔。
誰かを落とすことも、縛ることも、救いの名で命じられる顔。
「篠宮は、人攫いの被害者を助けたんですよね」
「それも確認が必要です。灰の力で被害者を取り込み、周囲を惑わせている可能性も否定できません」
「そんな言い方……」
「勇者様」
エルドの声が少しだけ強くなる。
「あなたは王国の剣です。情で曇ってはなりません。もし彼が本当に篠宮透なら、あなたこそが彼を正しい道へ戻す役目を負うべきです」
相良は答えられなかった。
正しい道。
その言葉が、ひどく空っぽに聞こえた。
少し離れた馬車の陰で、三枝美琴はその会話の一部を聞いていた。
腕輪が痛む。
拒否権はありません。
その言葉が耳に刺さる。
美琴は手首を押さえ、唇を噛んだ。
綾瀬真由が隣に立つ。
「聞こえた?」
「うん」
「神殿は、篠宮君を保護するつもりじゃない。回収するつもりね」
美琴は小さく頷く。
黒瀬真琴が馬車の車輪に背を預け、低く笑った。
「回収か。いいねえ、わかりやすくて。本人が戻ってきたら、今度は便利な危険物扱いか」
「笑い事じゃない」
美琴が睨むと、黒瀬は肩をすくめた。
「笑ってないと腹が立つからね」
真由は馬車列の先頭を見る。
「もう一人の神官監督官もいる。あっちは武装神官寄りね。強制執行を想定してる可能性がある」
美琴の顔が強張る。
「戦うつもりなの?」
「篠宮君が拒否すれば、そうなる」
「そんな……」
美琴の脳裏に、召喚の間での透の顔が浮かぶ。
あの時も、拒否権はなかった。
災厄職と決められ、奈落へ落とされた。
声を上げても、止められなかった。
そして今、戻ってきた彼に、また同じ言葉が向けられようとしている。
拒否権はない。
美琴は手首の痛みをこらえながら言った。
「今度は、黙って見ていたくない」
真由は静かに頷く。
「そのために、まず事実を見る」
黒瀬は王都の門の方を見た。
「事実ね。たぶん、向こうの方がずっと先に進んでるよ」
その言葉には、軽さの裏に確信があった。
久世蓮司は、別の場所で速水陸と話していた。
「神官たち、ずいぶん物々しいな」
速水が小声で言う。
「灰の主が本物だった時のためだろ」
久世は鼻で笑う。
「本物、本物ってうるせえな。篠宮がそんな大物になってるわけねえだろ」
「でも、神官があそこまで警戒してるってことはさ」
「灰の力が危険だからだろ。危険なだけで強いとは限らない」
久世は木剣ではなく、実剣を腰に下げていた。
王都を出る任務だからだ。
「仮に篠宮だったとしても、奈落で変な力を拾っただけだ。剣で斬れる相手なら問題ない」
速水は半笑いで頷いた。
「まあ、剣聖様がそう言うなら」
「茶化すな」
久世は不機嫌そうに言った。
だが、胸の奥には苛立ちがあった。
銀髪の封印使い。
古代機兵の少女。
獣人の前衛。
迷宮学院の没落貴族剣士。
灰の主と呼ばれる篠宮透。
ありえない。
そう思うたびに、なぜかその光景が頭に浮かぶ。
クラスの端にいた篠宮が、自分の知らない仲間を連れている。
それも、噂になるほどの強者や美しい少女たちを。
久世はその想像を振り払うように、剣の柄を握った。
藤堂絵里香は馬車の中で、姫野朱里と並んで座っていた。
「ねえ、朱里」
「何?」
「もし本当に篠宮くんだったら、どうする?」
朱里は少し困ったように笑う。
「どうするって……無事だったなら、よかったねって」
「でも、奈落帰りでしょ。神官さんたちは危ないって言ってるし」
「うん……」
朱里は自分の手を見る。
聖女の回復光。
最近、その光の縁が濁ることがある。
神官には疲れだと言われた。
けれど、小鳥遊芽衣は何かに気づいているようだった。
「ねえ、芽衣はどう思う?」
向かいに座る芽衣は、薬袋を膝に置いたまま顔を上げる。
「私は……見てみないとわからない」
「慎重だね」
「だって、治療もそうだから。見ないで決めると、違うところを切ったり、違う薬を使ったりする」
藤堂は少し黙った。
芽衣は続ける。
「ベルディアの封印師の話、神官さんたちは悔しそうだった。被害者の喉を傷つけずに札を外したって。それが本当なら、その人は危険なだけじゃなくて、ちゃんと助けたんだと思う」
朱里の表情が少し曇る。
「聖女の回復とは、違う助け方……」
藤堂は窓の外を見た。
「でもさ。篠宮くんの隣に、そんな人がいるっていうのが、やっぱり想像できない」
馬車が動き出す。
王都の門が開き、勇者訓練隊の一行はベルディアへ向かって進み始めた。
街道はよく整備されていた。
王都周辺の畑。
小さな村。
白い祠。
遠くに見える森。
馬車の中では、誰もがそれぞれの思いを抱えていた。
相良は黙って聖剣を見つめる。
久世は腕を組み、苛立ちを隠さない。
美琴は腕輪の痛みに耐え、真由は手元の紙片を何度も確認する。
黒瀬は窓の外を見ながら、時折楽しそうに目を細める。
藤堂はまだ信じきれず、朱里は自分の回復光の濁りを気にし、芽衣は薬袋の紐を握る。
そして、神官監督官エルドは、馬車の奥で別の文書を読んでいた。
そこには、神殿からの密命が記されている。
灰喰いの確保。
灰骸刀の押収。
封印師リィンの身柄確認。
古代保守機兵の所有権調査。
獣人バルザの封環歴確認。
必要に応じ、王国管理下へ移送。
エルドはその文書を閉じた。
彼にとって、それは当然の処置だった。
危険な力は、神殿が管理する。
異界人は、王国の大義に従う。
獣人や機兵は、登録し、所有関係を明確にする。
封印師は、神殿の監督下で術を使う。
秩序とは、そういうものだ。
本人たちの意思は、秩序の下に置かれる。
拒否権など、初めから想定されていない。
同じ頃、ベルディアでは灰色の一行が旧水門跡へ向かっていた。
迷宮都市の南西にある古い水門は、半ば土に埋もれ、表向きは使われていない場所だった。
周囲には壊れた水路、崩れた石橋、草に埋もれた排水溝が残っている。
レオナは騎士数名とギルド調査員を連れ、慎重に周囲を封鎖していた。
「ここが黒札区域の奥から繋がる可能性のある出口だ」
シェラが右目を光らせる。
「地下空洞反応あり。閉塞偽装。最近の使用痕、微弱」
バルザが鼻を鳴らす。
「荷油。黒鞭の革。あと、馬車の匂いが古い」
アルマが草の中から金属片を拾う。
「荷車の留め具です。剣杯の倉庫で見たものと同じ形」
透は水門の石壁に触れた。
灰が薄く走る。
古い水路の死んだ魔力。
閉じたはずの門。
その奥に、何度も開け閉めされた痕。
そして、王冠印。
やはりここにもある。
透は灰を深く入れず、指を離した。
「使われてる」
レオナが頷く。
「踏み込むか?」
「入口だけ開ける。奥はまだ」
「勇者隊が来る前に証拠を増やすか」
「神官が来たら、ここも隠そうとするかもしれない」
レオナの表情が険しくなる。
「そう見るか」
「そういう連中だ」
短い答えだった。
セイルは青い顔で頷いた。
「神殿は、不都合な古い設備を封じる時、聖浄の名で記録ごと消すことがあります。灰や封印、旧保守区の痕跡は特に……」
「なら先に残す」
リィンが封印針を抜いた。
水門には、閉塞術式がかかっている。
表向きは崩落防止。
だが、実際には開閉痕を隠すための覆いだ。
リィンは針を石壁へ刺さない。
水門の左右、石の継ぎ目に一本ずつ。
そして、足元の水路跡に一本。
青い線が三点を結び、閉塞術式の表面を持ち上げる。
透は灰骸刀を抜いた。
灰の刃が、持ち上がった術式の下をなぞる。
斬るのは門ではない。
崩落防止の本来の術式でもない。
開閉痕を隠す偽装の膜だけ。
灰が薄く舞い、水門の表面に古い扉の輪郭が浮かび上がった。
レオナの調査員が息を呑む。
「隠し搬出口……」
シェラが記録する。
「旧水門搬出口、現存確認。偽装術式、剣杯倉庫および黒札区域術式と部分一致。王冠印残滓あり」
レオナは即座に指示を出す。
「記録。封印写し。石片採取。周囲の足跡も全部取れ」
ギルド職員たちが動き出す。
リィンは青い線を保ったまま、閉塞術式を支えていた。
その手元を見ていた調査員が、また小さく呟く。
「崩落防止は残して、偽装だけ浮かせてる……雑に剥がせば水門が崩れるのに」
別の職員が頷く。
「だから灰の刀が入れたんだ。針で膜を浮かせて、灰で偽装だけ切った」
透とリィンの動きは、言葉少なだった。
だが、見ている者にはわかる。
灰骸刀がすべてを斬っているのではない。
リィンの針が、斬るべき線を浮かせている。
灰と青。
二つが合わさって、証拠を壊さず暴いていた。
その時、ルカが水門の奥を見た。
「ここ、戻る道じゃない」
透が振り向く。
「どういう意味だ」
「連れていかれる道。帰ってこない道。匂いが、片方だけ」
バルザも鼻を鳴らす。
「確かに。出ていく荷の匂いばかりだ。戻ってくる匂いが少ねえ」
レオナの顔がさらに険しくなった。
「ここから外へ出し、別の輸送路へ乗せる。戻りは空荷か、別の道か」
透は水門の暗い隙間を見た。
そこに続く線は、まだ長い。
だが、今はその手前で止める。
王都から来る者たちに、見せるためにも。
隠せない証拠として。
「ここを封じるな。見張りを置く」
透が言うと、レオナは頷いた。
「同意だ。王都の連中が到着するまで、この状態で保全する。触れた者は全員記録する」
セイルが不安そうに言った。
「神官監督官が、聖浄を理由に消そうとしたら」
透は水門から手を離した。
「止める」
短い言葉。
その場の誰も、それ以上聞かなかった。
夕方、ベルディアの門前には、王都からの一行を迎える準備が整いつつあった。
街の者たちは勇者を見るために集まり、商人たちは屋台を出し、学院生たちは遠巻きに場所を取っている。
その喧騒の中で、灰色の一行はギルドへ戻った。
水門の証拠は残した。
黒札餌場の記録もある。
剣杯倉庫の帳簿も、学院の外部干渉線も、骨噛み犬もある。
そして、明後日には王都の者たちが来る。
透はギルドの二階から、夕暮れの街を見た。
奈落に落とされた時、拒否権はなかった。
だが、今は違う。
灰置き場がある。
帰る道がある。
拾った者たちがいる。
隣にリィンがいる。
背後にバルザ、シェラ、セイル、ルカがいる。
ベルディアで救われた者たちの証言がある。
誰かがまた、拒否権はないと言うなら。
今度は、灰が答える。
扉が叩かれ、リィンが入ってきた。
「見てた?」
「ああ」
「来る人たち」
「明後日だ」
リィンは窓辺に並んだ。
夕焼けが銀髪を淡く染める。
「トオルを連れていこうとする?」
「たぶんな」
「行く?」
「行かない」
リィンは頷いた。
「じゃあ、止める」
短い言葉だった。
そこに迷いはない。
透は少しだけ息を吐いた。
「ああ」
ベルディアの街に夜の灯りがともる。
王都からの馬車列は、まだ街道の先にいる。
だが、その言葉はもう、灰の中で待っていた。
拒否権はない。
そう言う者たちへ返す答えを、透は静かに決めていた。




