第70話 ベルディアへ来る者たち
ギルド地下の獣房に、骨噛み犬の親玉が横たわっていた。
鉄格子の檻は二重。
外側にはギルドの封印鎖。
内側には、透の灰が薄く敷かれている。
リィンの青い封印線は、顎と前脚の関節だけを縫っていた。息はできる。目も動く。だが、噛むことと飛びかかることはできない。
骨噛み犬は、時折、低く喉を鳴らした。
怒りではない。
命令を失った獣が、何をすればいいかわからず迷っている音だった。
透は檻の前にしゃがんでいた。
灰域を細く伸ばし、骨噛み犬の首筋に残る命令輪の痕を読む。
黒鞭の札。
剣杯の荷札。
恐怖誘引の術式。
そして、奥に残る王冠のような印。
昨日よりも輪郭がはっきりしている。
餌場にあった札と、骨噛み犬に残っていた命令輪を合わせたことで、薄い印が一つの形になり始めていた。
シェラが檻の横で記録板を展開している。
「王冠印、再照合。候補縮小。王都神殿系儀礼印、二件。王国貴族家紋、五件。旧東方保守区管理印、一件」
セイルの顔色が悪くなる。
「旧東方保守区管理印……換気塔のあったあたりですか」
「形状類似度、四十二パーセント。確定不可」
「でも、無関係ではない可能性があると」
シェラは頷いた。
「はい」
レオナは腕を組み、檻の外から骨噛み犬を見ていた。
「剣杯と黒鞭だけでも十分厄介だが、旧東方保守区まで絡むなら話が広がるな。奈落へ通じる古い設備と、迷宮都市の搬送路が繋がっている可能性がある」
バルザが鼻を鳴らす。
「地上も地下も、穴だらけだな」
「穴が多いから、悪党が荷を隠す」
ダグラスが答える。
彼は檻の前に立ち、骨噛み犬の目を見ていた。
「こいつも、元から人食いだったわけじゃねえな。迷宮犬は危険だが、ここまで餌場に縛られるのは不自然だ」
リィンが骨噛み犬の顎の封印線を少し調整する。
骨噛み犬の呼吸がわずかに落ち着いた。
それを見ていたギルドの獣房係が、息を呑む。
「暴れないよう締めているんじゃないんですね」
リィンは短く答えた。
「締めると、噛もうとする」
「だから、顎の動きを止める線と、喉の呼吸を逃がす線を分けている……?」
「うん」
獣房係は檻の記録板へ急いで書き込んだ。
「封印線二層。拘束線と呼吸逃がし線を分離。大型魔物の鎮静処置に応用可能……」
レオナがその様子を見て、低く笑った。
「リィン、お前の針を見た職員が全員仕事を増やしているぞ」
リィンは少しだけ眉を寄せた。
「増やした覚えはない」
「見れば増える。そういう技だ」
透は立ち上がった。
骨噛み犬の命令輪から読めるものは、今はここまでだ。
これ以上灰を深く入れれば、証拠が崩れる。
「奥の搬送路は」
透が聞くと、レオナは地図を広げた。
「黒札餌場の奥は、旧獣道を通ってさらに下の未管理区画へ続いている。問題は、その先だ。シェラの記録と門番隊の古地図を照合したら、迷宮の外へ抜ける古い排出路があるらしい」
「街の外へ?」
「ああ。南西の旧水門跡だ。今は埋まっているはずだが、黒鞭が使っていたなら別だ」
バルザが笑う。
「人を攫って、街の外へ出し、別の道へ運ぶ。わかりやすい」
「わかりやすいが、証拠が要る。昨日の今日で踏み込めば、向こうも罠を張る」
レオナは地図を畳んだ。
「半日待つ。王都へ送った報告の返事も来る頃だ」
その時、獣房の扉が叩かれた。
受付嬢が入ってくる。
いつもの落ち着いた顔ではない。
「ギルド長。王都中央ギルドより緊急返信です。あわせて、王国騎士団名義の通達も」
レオナの眉が動いた。
「早すぎるな」
彼女は封筒を受け取り、その場で開いた。
読み進めるうちに、表情が変わる。
最初は苛立ち。
次に警戒。
最後に、透へ向ける視線。
「面倒なのが来る」
透は黙って待った。
レオナは通達を読み上げる。
「王都勇者訓練隊、ベルディア迷宮都市における黒鞭商会および剣杯商会関連事件の現地確認、迷宮外縁の安全調査、実地訓練を兼ねて派遣。到着予定、明後日午後」
地下獣房の空気が変わった。
セイルが小さく息を飲む。
バルザは透を見る。
リィンも視線だけを動かした。
シェラの右目が青白く光る。
「参加者名簿、確認希望」
レオナは二枚目の紙を開いた。
「相良迅、久世蓮司、姫野朱里、綾瀬真由、三枝美琴、黒瀬真琴、速水陸、藤堂絵里香、小鳥遊芽衣。護衛騎士団数名、神官監督官二名」
名前が、一つずつ地下に落ちた。
相良迅。
久世蓮司。
三枝美琴。
綾瀬真由。
黒瀬真琴。
透の灰が、ほんのわずかに揺れた。
奈落へ落ちる前の光景が、胸の奥に戻る。
召喚の間。
水晶。
歓声。
神官長の声。
床に開いた闇。
相良の叫び。
美琴の顔。
久世の目。
藤堂の引いた表情。
黒瀬の読めない笑み。
全部、灰の奥に残っている。
リィンが短く聞いた。
「知ってる人?」
「ああ」
「敵?」
透は少しだけ黙った。
「まだ、分けてない」
バルザが腕を組む。
「なら、会って分ければいい」
「そうする」
レオナは通達を机に置いた。
「神官監督官がつく。お前の名を確認しに来る可能性が高い。表向きは事件調査だが、実際は灰喰いの確認も兼ねるだろう」
セイルが震える声で言う。
「神殿が来るなら、気をつけるべきです。王都神殿は、透さんを災厄職として処理した側です」
「わかってる」
透の声は静かだった。
怒りはある。
だが、今すぐ噴き上がるものではない。
灰置き場へ戻る道。
ベルディアで救った者たち。
黒鞭と剣杯の線。
迷宮の奥。
地上で作り始めた足場。
それらを壊すような動きはしない。
レオナは透の表情を見て、少しだけ息を吐いた。
「会わせない選択もある。お前たちを外縁調査に出し、勇者隊とは時間をずらすこともできる」
「ずらさない」
透は即答した。
「向こうは俺の名を聞いて来る。逃げれば、神殿が話を作る」
「堂々と会うか」
「ああ」
バルザが牙を見せた。
「いいな。そうこなくちゃ」
リィンは腰の封印針を確認する。
「神官の術式、見る」
「触るなよ」
「触らない。見るだけ」
シェラが記録する。
「王都勇者訓練隊、接触予定。警戒対象、神官監督官。観測対象、勇者、剣聖、聖女、賢者、暗殺者、疾風騎士、幻術師、薬師」
ダグラスが笑う。
「すげえ面子だな。ベルディアが祭りになるぞ」
「祭りで済めばいい」
レオナは通達を折り畳んだ。
「到着まで二日弱。その間にやることは多い。救出者の証言整理。骨噛み犬の状態維持。剣杯支店の追加捜索。旧水門跡の見張り。そして、勇者隊を迎える準備だ」
透は頷いた。
「俺たちは何をする」
「今日の午後、正式な功績登録と報酬受領。表に出ておけ。お前が隠れていないことを街に見せる。明日は旧水門跡の下見。勇者隊到着日は、ギルドで迎える」
「わかった」
獣房を出ると、ギルドの一階はすでに騒がしかった。
王都から勇者隊が来る。
その噂は、通達が届いてから半刻も経たずに広がり始めていた。
「勇者様が来るって本当か?」
「剣聖も来るらしいぞ」
「聖女もだろ」
「灰の主と会うのか?」
「王都の勇者と、奈落帰りの灰色の少年か……」
「どっちが強いんだ?」
「馬鹿、そういう話じゃねえだろ」
酒場の空気は、期待と不安で熱を持っていた。
透が階段を下りると、声が少し小さくなる。
視線が集まる。
昨日までの視線とは違う。
ベルディアの者たちは、透が何をしたか知っている。
商隊を救い、地下檻を開け、学院の罠を暴き、黒札餌場から人を連れ帰った。
そのうえで、王都の勇者たちが来る。
誰もが、何かが起きると感じていた。
受付嬢が登録証を差し出した。
「シノミヤさん。ギルド長の承認により、正式C級登録となりました。こちらが新しい登録証です」
透は金属札を受け取る。
仮印が消え、C級の刻印が入っている。
端には、灰色の細い線。
「リィンさんはC級相当の封印師として特別登録。バルザさんもC級。シェラさんは特殊補助登録ですが、ギルド契約対象者として別枠認定。セイルさんはE級補修術師、ルカさんは補助登録継続です」
ルカは自分の登録証を確認し、ほっとしたように胸元へしまった。
「まだ補助」
バルザが笑う。
「補助は大事だぞ。昨日も道を当てた」
「うん」
ルカは真剣に頷いた。
受付嬢は続ける。
「また、黒札区域での救出により、ギルド長から追加報酬が出ます。現金のほか、宿泊費補助、迷宮装備購入券、証拠協力手当です」
シェラが即座に反応した。
「装備購入券、用途制限確認希望」
受付嬢は少し笑った。
「魔道部品にも使えます」
「有用」
シェラの右目がわずかに明るくなった。
その時、ギルドの扉が開いた。
入ってきたのはアルマだった。
彼女は革鎧を着たまま、片手に学院からの封書を持っている。
「シノミヤさん。ギルド長はいらっしゃいますか」
「二階だ」
「ありがとうございます」
アルマは階段へ向かいかけ、透の手元の登録証に気づいた。
「正式C級になったのですね」
「ああ」
「おめでとうございます」
そう言ってから、彼女は少しだけ表情を曇らせた。
「王都の勇者隊が来ると聞きました」
「早いな」
「学院にも通達が回りました。上位生の一部は、勇者隊の迷宮視察に同行する可能性があると」
「アルマもか」
「まだ未定です。ただ、カインが希望を出したようです」
カイン。
剣杯の魔剣を失った学院上位生。
アルマは小さく息を吐いた。
「彼は、昨日からずっと焦っています。自分が騙されていたこと、剣を預けられたこと、私が黒札区域へ同行したこと。全部が、彼の中で折り合っていない」
「来るなら見ればいい」
「厳しいですね」
「見るしかない」
アルマは少し黙り、それから頷いた。
「そうですね」
その背後で、ギルドの若い冒険者たちがリィンを見ていた。
ただの好奇ではない。
数人は封印具や魔道具を持っている。
学院から話を聞いた者たちだろう。
一人が意を決したように近づいてきた。
「あの、リィンさん」
リィンが視線を向ける。
若い冒険者は緊張で背筋を伸ばした。
「昨日の恐怖札の処置について、少しだけ聞いてもいいですか。俺、封印具を使う斥候なんですけど、札を壊さずに出力を落とす時、どこを見れば……」
リィンは少し考えた。
「札じゃなくて、札がどこへ噛んでるかを見る」
「噛んでる場所……喉とか、胸とかですか」
「そこ。あと、逃げる場所」
「逃げる場所?」
「力を止めるだけだと、相手の中へ戻る。外へ逃がす線を作る」
若い冒険者は真剣に頷き、手帳に書き込む。
「止める線と逃がす線を分ける……ありがとうございます」
周囲にいた冒険者たちも、そのやり取りを聞いていた。
誰も「綺麗な封印師」とだけは見ていない。
彼女の針が何を止め、何を残し、何を逃がしたのか。
それを知った者ほど、軽い言葉を失う。
リィンは説明を終えると、透の隣へ戻った。
「疲れたか」
「少し。言葉にすると、ずれる」
「なら、無理に話さなくていい」
「うん」
短いやり取り。
だが、それを見ていた者たちはまた小声で話し始める。
「あの二人、役割が違うんだな」
「灰の刀で命令を切る方と、青い針で残す方」
「どっちも証拠を壊さないのが厄介だ」
「敵に回したくねえ」
バルザが満足そうに笑った。
「ようやくわかってきたか」
セイルはため息をつく。
「目立ちすぎていますけどね」
「もう隠す段階じゃねえだろ」
その言葉に、透はギルドの窓から外を見た。
ベルディアの街は動いている。
商人は荷を運び、冒険者は迷宮へ向かい、学院生は訓練場へ歩く。
だが、その下で噂が走っている。
王都の勇者隊が来る。
灰の主と会う。
奈落帰りの少年の正体が確かめられる。
避けるつもりはなかった。
透は登録証を握り、腰の灰骸刀を確かめる。
地上へ戻った時、すぐに会うつもりはなかった。
だが、引きずるつもりもない。
会うなら、今の姿で会う。
灰置き場の主として。
ベルディアで檻を開けた者として。
リィン、バルザ、シェラ、セイル、ルカと並ぶ者として。
その夜、ベルディアの門前では、王都からの一行を迎えるための準備が始まった。
旗が立つ。
宿が押さえられる。
騎士団用の馬房が空けられる。
学院には視察用の席が用意される。
街の者たちは、勇者を見るためにざわめく。
けれど、もう一つの名も同じように囁かれていた。
灰の主。
篠宮透。
その二つの名が、同じ少年を指すと知っている者は、ベルディアにはもう多い。
王都から来る者たちだけが、まだそれを自分の目で見ていなかった。




