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第69話 灰の名は隠せない

 王都中央ギルドの朝は、ベルディアから届いた封印文書で始まった。


 黒い革筒に入れられた文書は、通常の報告便ではなかった。

 封蝋にはベルディア冒険者ギルド長レオナ・グランツの印。

 さらに、門番隊の公印、リンド商会の証言印、証拠封印班の青い補助印まで重ねられている。


 受付長は革筒を見た瞬間、顔色を変えた。


「緊急封印報告。東方辺境、ベルディア発。剣杯商会、黒鞭商会、迷宮学院、黒札区域……」


 読み上げる声が、途中で止まる。


 中央ギルドの奥にいた老職員が、眉をひそめて文書を受け取った。


「声に出すな。上へ回せ」


「ですが、記載対象が……」


「上へ回せと言った」


 文書は、ギルド上層部へ運ばれた。


 だが、王都の文書は一つの部屋だけで止まらない。


 剣杯商会の名がある。

 黒鞭商会の名がある。

 迷宮学院の講師が絡んでいる。

 黒札区域に餌場があった。

 人が生きたまま救出された。

 恐怖誘引札と、証言封殺術式が押収された。


 そして、報告書の中央には、一人の少年の名があった。


 篠宮透。


 職能、《灰喰い》。

 奈落より帰還。

 ベルディア冒険者ギルド仮C級登録。

 通称、灰の主。


 その名を見た中央ギルドの監査官は、椅子から立ち上がった。


「奈落帰りだと?」


 隣の書記官が答える。


「ベルディア側の証言では、本人が門でそう名乗っています。岩背猿を退け、ギルド試験でB級冒険者ダグラスを制し、魔剣の術式だけを停止。剣杯倉庫の地下檻を発見し、迷宮学院の灰札区画に仕掛けられた証拠消去術式を止めています」


「一人でか」


「いいえ。同行者あり」


 書記官は別紙をめくった。


「封印師リィン。青い封印針を使用。証言封殺術式を対象の皮膚に刺さず空中で縫い止め、被害者の口札・恐怖誘引札を破壊せず保存。ギルド証拠封印班の記録では、対象別に封印圧を変え、術式痕を壊さず処置したとあります」


 監査官の眉が動いた。


「証拠を残したまま救出したのか」


「はい。封印班が、教本級ではなく監査級の技術だと所見を添えています」


「他は」


「獣人バルザ。前衛。黒札区域にて迷宮犬複数を制圧。古代保守機兵シェラ。証言再生、術式記録、搬送路解析。補修術師セイル。補助登録の子どもルカ。帰還路感知に寄与。さらに、ベルディア迷宮学院のアルマ・ヴェルクが外縁調査に同行」


 監査官は報告書を机に置いた。


「これほどの内容なら、王都騎士団と神殿にも写しが回るな」


「すでに、神殿側から閲覧要請が来ています」


「早すぎる」


 監査官の声が低くなった。


「誰が知らせた」


 書記官は答えられなかった。


 王都の神殿にも、同じ頃、別の写しが届いていた。


 白い石造りの廊下。

 高い天井。

 聖火の灯る広間。


 神官長は、自室で報告書を読んでいた。


 最初は静かだった。


 剣杯商会。

 黒鞭商会。

 ベルディア迷宮学院。

 黒札区域。


 そこまでは、眉をひそめるだけで済んだ。


 だが、ある行に目が止まった瞬間、指が紙を強く掴んだ。


 篠宮透。


 《灰喰い》。


 奈落より帰還。


 神官長の顔から、薄い笑みが消えた。


「ありえぬ」


 部屋にいた若い神官が、びくりと肩を震わせる。


「神官長猊下?」


「奈落から戻るなど、ありえぬ」


 声は小さい。

 だが、怒鳴り声よりも冷たい。


 神官長は報告書の続きを読む。


 灰骸刀。

 魔剣術式のみ停止。

 証拠消去命令の切断。

 封印師リィン。

 青い封印針。

 古代保守機兵。

 獣人。

 灰の主。


 紙が、指の間で歪む。


「この報告を勇者訓練隊へ流した者は誰だ」


「ま、まだ正式には……ただ、中央ギルドと王都騎士団へ写しが入りましたので、噂はすでに」


「止めろ」


 神官長は顔を上げた。


「《灰喰い》の名を、勇者たちの前で口にするな。奈落帰りという表現も禁じる。ベルディアで確認された者は、灰を操る不明職の冒険者。そう扱え」


「ですが、報告書には篠宮透と」


「同名の可能性がある」


「しかし、勇者召喚時の異界人名簿と一致します」


「同名の可能性があると言った」


 若い神官は息を呑んだ。


「承知しました」


 神官長は窓の外を見た。


 王都の空は明るい。

 召喚の間で見た少年の目が、脳裏に浮かぶ。


 怯え。

 怒り。

 諦め。


 いや、最後にあったのは諦めではなかった。


 こちらを、記憶した目だった。


 神官長は奥歯を噛む。


「灰は、終わったものに巣食う。王都へ近づけてはならん」


 その日の午後、勇者訓練場にも噂は届いた。


 最初に持ち込んだのは、速水陸だった。


 彼は訓練用の槍を肩に担ぎ、息を弾ませながら久世蓮司の元へ来た。


「おい、また出たぞ。ベルディアの灰の主の話」


 久世は木剣を振り下ろしたばかりだった。


 汗を拭いもせず、面倒そうに振り返る。


「まだその話してんのか」


「今度は正式報告らしい。剣杯の地下檻を見つけたとか、迷宮の黒札区域から人を連れ帰ったとか」


「冒険者の報告は盛るからな」


「いや、今回は中央ギルドに封印文書が来たって。しかも名前がさ」


 速水は声を落とした。


「篠宮透」


 木剣が止まった。


 久世の表情から笑みが消える。


「……誰から聞いた」


「騎士見習い。中央ギルドに親戚がいるってやつ。あとは商隊護衛も同じ名前を言ってた」


「くだらねえ」


 久世は木剣を肩へ担ぎ直した。


「篠宮が奈落から戻って、灰の主? 銀髪の封印使いを連れて? 獣人や機兵まで従えて? そんな都合のいい話があるかよ」


 速水は笑おうとした。


 だが、うまく笑えなかった。


「でも、正式報告なら……」


「だから何だよ。名前が同じだけかもしれないだろ」


 久世の声が少し荒くなる。


 自分でも、それが不自然だとわかっていた。


 否定したい。


 篠宮透は、外れ職だった。

 クラスの端にいた。

 何もできず、奈落へ落とされた。


 そうでなければ困る。


 もし、その篠宮が地上へ戻り、強い仲間を連れ、剣杯や黒鞭の檻を開け、灰の主などと呼ばれているなら。


 あの日、彼を見下ろしていた自分は何だったのか。


 久世は木剣を強く握った。


 少し離れた場所で、その会話を藤堂絵里香が聞いていた。


 彼女は眉をひそめ、腕を組む。


「でもさ、もし本当に篠宮くんだったら、ちょっと意味わかんないんだけど」


 姫野朱里が隣で回復術の練習を止める。


「どういう意味?」


「だって、銀髪の封印使いとか、機兵の女の子とか、獣人とかでしょ? そんな人たちが篠宮くんの周りにいるってことでしょ。ありえる?」


 藤堂の声には、困惑と苛立ちが混じっていた。


 篠宮透は、彼女の中で目立たない男子だった。

 声をかければ反応は薄く、クラスの中心には入らず、何か大きなことをする人間には見えなかった。


 その彼の隣に、噂になるほどの銀髪の封印師が立っている。


 それが、うまく飲み込めない。


 姫野は曖昧に笑った。


「噂って、綺麗な人が出てくると盛られがちだし……」


「でも、封印術の記録まであるって」


 近くにいた小鳥遊芽衣が、小さく口を挟んだ。


 藤堂が振り向く。


「芽衣、知ってるの?」


「治療班の神官さんたちが話してた。青い針で、証言封殺術式を止めた封印師がいるって。被害者の喉を傷つけずに札を外して、証拠も残したって……それ、ただ綺麗な人って話じゃないと思う」


 藤堂は黙った。


 姫野の回復術の光が、手元で少し揺れた。


「証言封殺……そんな危ないものを?」


 芽衣は頷く。


「うん。治療師からすると、口札や喉の呪いを外す時って、だいたい傷が残るらしいの。でも、その封印師は札を壊さず、喉の動きも残して処置したって。神官さんたち、悔しそうだった」


 藤堂は言葉を失った。


 銀髪の美少女。


 そんな薄い噂ではない。


 その少女は、技術で神官たちを黙らせたのだ。


 そして、その少女が篠宮透の隣にいる。


 その事実が、余計にわからなかった。


 訓練場の端では、三枝美琴、綾瀬真由、黒瀬真琴が集まっていた。


 美琴は手首を押さえている。

 監視封環の痛みは、朝からずっと消えない。


 真由は小さな紙片を開いた。


 王都中央ギルドへ出入りする雑用係から、黒瀬が手に入れた情報だ。

 正式文書ではない。

 だが、記載名だけは写されている。


 篠宮透。

 灰喰い。

 ベルディア。

 奈落帰り。

 灰骸刀。

 封印師リィン。


 真由はその文字を指でなぞった。


「一致しすぎてる」


 黒瀬が低く笑う。


「同名の別人って逃げ道、まだ使う?」


「使えない」


 真由は即答した。


「篠宮透という名前。灰喰い。奈落帰り。神殿が隠したがっている。これで別人なら、その方が不自然」


 美琴の腕輪が熱を帯びる。


 彼女は痛みに耐えながら言った。


「生きてる……」


 黒瀬は美琴の手首を見た。


「その腕輪、名前を聞いただけで反応してる?」


「うん」


「なら、神殿にとっても本物ってことだ」


 真由が周囲を確認する。


 神官の目は近くにない。

 だが、訓練場ではいつ誰に聞かれるかわからない。


「王都からベルディアへ行く理由がいる」


 美琴は顔を上げた。


「行けるの?」


「可能性はある。剣杯商会、黒鞭商会、迷宮学院、黒札区域。これだけの事件なら、勇者訓練隊に現地視察や迷宮実習の名目が出てもおかしくない」


 黒瀬が口角を上げる。


「むしろ、出るように仕向ければいい」


 美琴が黒瀬を見る。


「どうやって?」


「相良に聞こえるところで言えばいい。ベルディアで人が攫われて、灰の主とかいう不明人物が先に救ってる。勇者として放っておいていいのか、って」


 真由は少し考えた。


「相良君は動くかもしれない。でも神官長が止める」


「止めたら、余計に怪しい」


 黒瀬の目が細くなる。


「久世や速水は篠宮じゃないって笑う。藤堂も否定する。でも、現地へ行って確かめる機会があるなら乗るはず。笑いに行くつもりでね」


 美琴は胸の奥が冷えるのを感じた。


 笑いに行く。


 透が本当に生きているなら、それはどれほど残酷なことか。


 けれど、会うためにはその流れを使うしかない。


 美琴は腕輪の痛みに耐えながら頷いた。


「行きたい」


 真由が静かに答える。


「行こう。ちゃんと、今度は自分の足で」


 その頃、相良迅は聖剣の調整室にいた。


 神官が聖剣の根元に手をかざし、白い魔法陣を浮かべている。


「勇者様、最近、聖剣の光に乱れが見えます。お疲れでしょうか」


「少し、考え事を」


「王国のために選ばれた御身です。迷いは光を曇らせます」


 相良は苦笑した。


「すみません」


 神官は優しく見える表情で続ける。


「ベルディアの噂をお聞きになったのなら、気にする必要はありません。不明職の冒険者が、現地で騒ぎを起こしているだけです。勇者様が心を乱すことでは」


「名前が」


 相良は神官を見る。


「篠宮って聞きました」


 神官の表情が、ほんの一瞬だけ止まった。


「同名の可能性があります」


「でも、灰喰いだって」


「誤記でしょう」


「奈落帰りだって」


「冒険者の噂は、死地から戻った者をすぐ大げさに語ります」


 相良は聖剣を見下ろした。


 光が、また根元で揺れる。


「もし、本当に篠宮だったら」


 神官の声が低くなった。


「勇者様」


 その呼びかけには、命令の響きがあった。


「奈落へ落とされた者が、そのままの姿で戻ることはありません。戻ったとしても、呪いや魔に汚染されている可能性が高い。情に流されてはなりません」


「情……」


「勇者様は、多くの民を守る存在です。一人の過去に縛られてはいけません」


 相良は黙った。


 神官の言うことは、正しいように聞こえる。


 だが、胸の奥に刺さった棘は抜けない。


 召喚の間で、透が落とされた時。


 自分は何をした。


 止めようとはした。

 声も上げた。

 だが、最後まで走らなかった。


 聖剣を抜かなかった。


 神官長に逆らいきれなかった。


 相良は拳を握る。


「ベルディアへ行く任務が出たら、俺は行きます」


 神官の目が細くなる。


「勇者様には王都での訓練が」


「人攫いの事件なんですよね。迷宮で人が消されているなら、勇者が行く理由はあります」


 相良の声は、いつもの明るさを少し失っていた。


 神官はしばらく彼を見た。


 それから、柔らかく笑う。


「その件は神官長へ確認しましょう」


「お願いします」


 相良は頭を下げた。


 その後ろで、聖剣の光が小さく揺れた。


 夕方、勇者訓練隊に通達が出た。


 ベルディア迷宮都市における黒鞭商会および剣杯商会関連事件の現地確認。

 迷宮外縁の安全調査。

 勇者候補および一部職能者による実地訓練を兼ねる。


 参加予定者。


 相良迅。

 久世蓮司。

 姫野朱里。

 綾瀬真由。

 三枝美琴。

 黒瀬真琴。

 速水陸。

 藤堂絵里香。

 小鳥遊芽衣。

 護衛騎士団数名。

 神官監督官二名。


 通達を読んだ久世は、鼻で笑った。


「ちょうどいい。灰の主とやらの顔を見に行くか」


 速水が軽く乗る。


「本当に篠宮だったらどうする?」


「ありえねえって言ってるだろ」


 藤堂は腕を組み、少し不機嫌そうに呟いた。


「でも、銀髪の封印使いっていうのは見てみたいかも。どんな人なのか」


 姫野は曖昧に微笑む。


「危ない人じゃないといいけど」


 芽衣は何も言わず、自分の薬袋を握った。


 美琴は通達の紙を見つめていた。


 腕輪は痛い。


 けれど、痛みよりも強いものが胸にあった。


 会えるかもしれない。


 今度こそ、目を逸らさずに。


 真由は隣で静かに言った。


「準備しよう」


 黒瀬は笑った。


「面白くなってきた」


 王都の空が夕焼けに染まる。


 その下で、勇者たちの一行がベルディアへ向かう準備を始めた。


 灰の名は、もう隠せない。


 笑う者も、疑う者も、痛みに耐える者も、その名の方へ歩き出していた。


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