第68話 黒札帰還
黒札区域から戻る道は、来た時よりも長く感じられた。
救い出した四人の足取りは重い。
獣人の少女はバルザの外套を肩にかけ、まだ喉を押さえている。
若い男は何度も後ろを振り返り、餌場の闇が追ってこないか確かめていた。
商人風の中年は、震える手で自分の胸元を探り続けている。そこにはもう恐怖札はない。
子どもはルカの隣を歩いていた。
ルカは水袋を持ち、歩く速さを子どもに合わせている。
「こっち、石が乾いてるから大丈夫」
子どもは声を出せず、小さく頷いた。
口札は外れている。
喉も焼けてはいない。
けれど、すぐに言葉が戻るわけではない。
声を奪われた時間は短くても、恐怖は喉に残る。
リィンは隊列の中央で、四人の胸元に残した青い封印線を見ていた。
それは縛るための線ではない。
剥がした札の痛みが戻らないよう、傷口の周りを薄く押さえる線だ。
歩くたび、線はわずかに揺れる。リィンはその揺れに合わせ、指先で封印針の角度を変えた。
ギルド調査員の一人が、その手元を見ながら呟く。
「歩行で呼吸が変わるたび、封印圧を変えているんですね」
リィンは視線を上げない。
「同じにすると、喉が引きつる」
「四人分、全部違うのに?」
「刺さり方が違うから」
調査員は言葉を失った。
リィンの青い線は、ただ綺麗な光ではない。
獣人の少女には胸の札の返りを逃がす細い輪。
子どもには喉を圧迫しない浅い支え。
中年男には心臓近くに残った黒棘を囲む二重の線。
若い男には手首の封環痕から逆流しないよう、腕の外側へ逃がす線。
同じ救出者でも、処置が違う。
調査員は記録板に急いで書き込んだ。
「封印処置、対象別調整。詠唱なし。針接触最小。術式痕保存状態、良好……」
ダグラスが横から覗き込む。
「お前ら、戦闘より熱心だな」
「戦闘記録より貴重です。普通なら被害者の札は外す時に壊れます。痛みを止めるために破壊すれば証拠が消える。証拠を残そうとすれば被害者が苦しむ。リィンさんの処置は、その両方を避けています」
ダグラスはリィンを見た。
「だそうだ」
リィンは短く答える。
「必要だっただけ」
「そこが怖いんだよな」
ダグラスは笑ったが、その声には軽さだけではないものが混じっていた。
黒札区域を抜け、灰札区画へ戻る。
割れた黒札の向こうに、薄い魔道灯の光が見えた瞬間、救出者たちの肩から少し力が抜けた。
だが、本当に空気が変わったのは、黄札通路へ戻ってからだった。
人の足音がある。
管理札がある。
壁に帰還印がある。
地上の秩序が、かろうじて届く場所。
そこで待っていた門番隊が、捕獲された骨噛み犬の親玉を見て絶句した。
巨体は、リィンの青い封印線と透の灰壁で四肢と顎を押さえられている。
命令の輪を斬られたせいか、暴れる力は弱まっていた。
それでも、迷宮犬の群れを率いていた大型個体だ。普通なら討伐班が組まれる。
門番隊の兵士が槍を構えた。
「そ、それを生かして持ち帰るのですか!」
レオナが疲れた声で答える。
「証拠だ。餌場に人を置いて、この個体に食わせていた。恐怖札との反応も残っている」
「街へ出すには危険です」
「だから封じている。檻車を用意しろ。ギルド地下獣房へ運ぶ」
兵士はまだ戸惑っていたが、レオナの声に逆らわず走っていった。
迷宮入口へ戻る頃には、騒ぎは広がっていた。
最初に見えたのは、待機していた冒険者たちの顔だった。
彼らは、透たちが救出者を連れているのを見て声を失う。
次に、骨噛み犬の親玉を見て一斉に後退した。
「おい、黒札の骨噛みじゃねえか」
「生きてるぞ!」
「なんで捕まえて帰ってきてんだ!」
「被害者もいる……本当に餌場があったのか」
誰かがそう言った瞬間、迷宮入口の空気が重くなった。
噂ではなく、現物。
恐怖札をつけられたまま救われた四人。
命令の輪を切られ、封じられた骨噛み犬。
証拠袋に入れられた黒鞭の札。
剣杯の荷札。
黒札区域へ続く搬送路の記録。
否定できるものではなかった。
レオナは門番隊とギルド職員へ次々に指示を出す。
「救出者は治療所へ。口札と封環痕はリィンの封印線を崩すな。証拠班が来るまで触るな。骨噛みは檻車へ。灰壁と封印線が解ける前に獣房へ入れる。黒札区域は即時閉鎖。出入り記録を三十日分洗え」
職員たちが走る。
透は救出者たちを見送った。
獣人の少女が、治療所へ向かう途中で振り返る。
まだ声は掠れている。
けれど、彼女は喉に手を当てながら言った。
「……ありがとう、灰の人」
透は首を横に振る。
「礼は、声が戻ってからでいい」
少女は泣きそうな顔で、少しだけ笑った。
リィンが彼女の封印線を最後に調整する。
「走らないで。喉が引っかかる」
「はい……」
少女は素直に頷いた。
それを見ていた周囲の冒険者たちの中に、低い声が広がる。
「あの封印師、被害者を歩かせながら術式支えてるのか」
「普通、外した札の反動って治療師が押さえるよな」
「札を壊してない。証拠として残してるんだと」
「壊さず助けるって、そんなことできるのか」
「目の前でやってるだろ」
リィンは何も言わない。
ただ、針を一本ずつ布で拭き、腰へ戻していく。
青い光は消えているのに、見ていた者たちの目にはまだ残っていた。
その横で、骨噛み犬の檻車が用意された。
鉄格子のついた大型の荷車だ。
本来は危険魔物の搬送に使うものらしい。
骨噛み犬を入れるには、まず灰壁を少しずつ動かし、リィンの封印線で顎を押さえたまま、バルザとダグラスが巨体を押し込む必要があった。
バルザが肩で骨噛み犬を押しながら笑う。
「重いな。肉は硬そうだ」
ダグラスが反対側で呻く。
「食う気か」
「食わん。匂いが悪い」
「なら言うな」
透は灰瞬壁を檻の内側へ薄く張り、骨噛み犬の頭が格子へぶつからないよう角度を調整した。
暴れれば格子が歪む。
だが、押さえすぎると命令を失った獣の恐慌が戻る。
リィンが顎の封印線を細く直す。
「噛む力だけ止める。息は通す」
シェラが観測する。
「呼吸安定。攻撃反応、低下。恐怖札への再反応、なし」
レオナは檻車の扉が閉じたのを確認し、大きく息を吐いた。
「よし。これで街が食われずに済む」
ダグラスが腕を回しながら言う。
「生きた骨噛みの親玉なんて、中央ギルドが泣いて喜ぶぞ」
「泣くのは書類係だ」
レオナはそう返しながら、透へ視線を向けた。
「これで外縁失踪の証拠は揃った。剣杯と黒鞭は言い逃れできない。あとは、上位印だ」
「奥の搬送路」
「ああ。だが、今日は入らない。救出者と証拠の保全が先だ」
透は頷いた。
奥へ行きたい気持ちはある。
だが、餌場で救った四人がいる。
骨噛み犬という証拠もある。
黒札区域の記録もある。
これを持ち帰り、線を太くする必要がある。
焦って奥へ踏み込めば、上にいる者が線を切る。
レオナは調査員から記録板を受け取り、内容を確認した。
「篠宮透。外縁失踪調査、救出四名、生存証拠確保、黒札餌場発見、恐怖誘引札回収、骨噛み大型個体捕獲。仮C級にしては働きすぎだ」
「ランクは何でもいい」
「そう言うと思った。だが、ギルドはそうはいかない。働きに見合う評価をしなければ、依頼の釣り合いが壊れる」
レオナは短く笑う。
「戻ったら正式C級。状況次第でB級推薦も出す」
周囲の冒険者がざわついた。
登録二日目で正式C級。
B級推薦。
普通なら反発が起きる。
だが、今回は誰も大きく異議を唱えなかった。
目の前に証拠がありすぎた。
岩背猿。
ダグラスとの手合わせ。
剣杯倉庫。
学院講師。
黒札餌場。
骨噛みの親玉。
新人扱いを続ける方が無理だった。
アルマは少し離れた場所で、剣を鞘に戻していた。
指先がわずかに震えている。
透が近づくと、彼女はすぐに気づいた。
「情けないところを見せました」
「動けていた」
「最後、子どもの縄を解く時、手が震えました。あの子が……ミレアと重なって」
「それでも解いた」
アルマは目を伏せた。
「はい」
「ならいい」
その言葉に、アルマは少しだけ表情を緩めた。
「あなたは、随分短く言いますね」
「長く言うことじゃない」
「そうかもしれません」
彼女は迷宮入口の闇を見た。
「私は学院で、剣を振る理由を少し見失っていました。家の名は落ちて、支援もなく、剣杯の魔剣を持つ者たちが上に行く。正しい剣なんて、ただの負け惜しみかもしれないと思っていた」
アルマは自分の古い剣の柄に触れた。
「でも、今日見ました。奪われた人を戻すために、剣が要る場面がある。斬らないために、止める剣も要る」
透は彼女を見る。
アルマの剣は、まだ弱い。
少なくとも、バルザやダグラスと比べれば戦場経験が足りない。
だが、目は死んでいない。
拾うべきものは、強さだけではない。
「外縁の奥へ行く時、来るか」
アルマは顔を上げた。
「よろしいのですか」
「勝手に前へ出ないなら」
「出ません。必要な時だけ出ます」
その答えに、透は頷いた。
バルザが横から口を挟む。
「剣の嬢ちゃん、採用か?」
「同行だ」
「似たようなもんだろ」
「違う」
アルマは少し困ったように笑った。
その様子を、離れた場所の学院生たちが見ていた。
講習に来ていた者たちだ。
彼らは迷宮入口まで様子を見に来ていたらしい。
その中にはカインもいた。
沈黙した細剣は、すでにギルドへ預けられている。
腰に剣はない。
彼はアルマが透たちと並んでいるのを見て、唇を噛んだ。
昨日まで、アルマは没落貴族の意地っ張りな剣士だった。
支援もなく、上位にはいるが決して中心ではない生徒。
それが今、灰色の一行と並び、黒札区域から帰ってきた。
カインの胸中に浮かんだものは、悔しさか、焦りか、それとも羨望か。
彼自身にもわからなかった。
迷宮入口の騒ぎは、夕方には街中へ広がった。
灰の主が黒札区域から生存者を連れ帰った。
青い針の封印師が恐怖札の反動を止めた。
獣牙の獣人が迷宮犬を壁に叩きつけた。
機兵少女が搬送路を記録した。
没落ヴェルク家の剣士が救出に同行した。
骨噛みの親玉が生きたままギルドへ運ばれた。
噂は増え、形を変え、酒場の卓から商業区、学院、門番詰所へ広がっていく。
剣杯商会ベルディア支店の前には、朝にはなかった封鎖札が貼られた。
黒鞭の名を口にする者は、昨日よりも増えた。
商業ギルドの役人たちは顔色を悪くし、何人かは姿を消した。
そして、ギルド地下記録室では、王都へ送る追加報告がまとめられていた。
レオナは封印文書の最後に、黒札区域の地図写しを添える。
シェラの記録。
調査員の証言。
リィンが保存した恐怖誘引札の術式線。
透が灰で読んだ搬送路の残滓。
骨噛み犬の命令輪の破片。
封印蝋を落とす直前、レオナは透へ言った。
「この報告が王都へ届けば、向こうは無視できない。中央ギルドだけじゃない。神殿、騎士団、勇者訓練隊にも話が流れる」
透は黙っていた。
「お前の名前も、今度ははっきり書く。篠宮透。奈落帰りの灰喰い。灰の主と呼ばれ始めた冒険者」
レオナは少しだけ声を落とす。
「嫌なら今言え」
透は首を振った。
「隠すより早い」
「敵も来るぞ」
「来れば見る」
「強いな」
「強くなっただけだ」
レオナは封印蝋を押した。
文書が閉じられる。
王都へ向かう二度目の報告。
そこにはもう、ただの噂ではなく、名前があった。
篠宮透。
その名は、灰の主という呼び名と共に、ベルディアから王都へ走り出す。
遠く、王都の誰かが笑い飛ばすだろう。
誰かが疑うだろう。
誰かが痛みに耐えながら、その名を握りしめるだろう。
だが、ベルディアではもう、彼が生きていることを疑う者は少なかった。
灰色の少年は、奈落から戻った。
そして、地上の檻も開け始めている。




