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第73話 灰の主は門に立つ

 ベルディアの東門前には、朝から人が集まっていた。


 王都から勇者訓練隊が来る。


 その知らせは、前日の夕方には街中へ広がっていた。

 冒険者、商人、学院生、宿屋の客、門番の家族までが、少しでも見える場所を探して道の端に立っている。


 勇者。

 聖女。

 剣聖。

 賢者。


 その名は、ベルディアでも十分に強い響きを持っていた。


 だが、群衆の声はそれだけではなかった。


「勇者様が来るんだろ」

「灰の主と会うのかね」

「王都の剣聖って、ギルドのダグラスより強いのか?」

「さあな。けど、灰の主は魔剣の術式だけを斬ったって話だぞ」

「青針の封印師も一緒に来るかな。うちの甥が封印科で、その話ばっかりしてる」

「骨噛みの親玉、生きたままギルド地下にいるんだってよ」


 勇者の噂と、灰の噂。


 二つが混じりながら、門前を満たしていた。


 城壁の上では、門番たちが慌ただしく動いている。

 ギルド長レオナ・グランツは、門の内側で腕を組み、王都からの馬車列を待っていた。


 その隣には、透たちがいる。


 透は灰色の外套をまとい、腰に灰骸刀を差していた。

 右腕には灰殻手甲。

 黒鎖は外套の内側に隠しているが、近くで見れば鈍い金属音がする。


 リィンは透の少し後ろではなく、隣に立っていた。


 腰には封印針。

 そのうち数本には、薄い青い封印線が巻かれている。

 昨日救出された者たちの口札と恐怖誘引札を、証拠として崩さず保つための仮封印だ。


 彼女の指先は時折、腰の針に触れる。


 ただの仕草ではない。


 封印袋の中で暴れかける黒い術式の呼吸に合わせ、青い線の圧をほんの少し変えている。

 強く縛れば証拠が割れる。弱ければ札が自壊する。

 そのぎりぎりを、彼女は表情一つ変えずに保っていた。


 近くにいたギルドの証拠封印班が、緊張した顔でその手元を見ている。


「まだ持ちますか」


 職員が小声で聞いた。


 リィンは頷く。


「持つ。でも、馬車が揺れると少し逃げる」


「封印箱に移す時、声をかけます」


「うん」


 短い返事。


 それだけで、職員は深く頭を下げた。


 その様子を、門前にいた学院生たちが遠巻きに見ていた。


「青針、本当に証拠封印を支えてる……」

「封印箱に入れる前の術式を、針で仮固定してるんだろ」

「普通、あの段階は封印班が三人でやるぞ」

「それを歩きながらやってるのか」


 リィンへの視線は、ただの容姿へ向けるものではなくなっていた。


 彼女の銀髪や青い目を見る者もいる。

 けれど、少しでも封印術を知る者は、その指先と針に目を奪われる。


 彼女は、壊さずに止める。


 その意味を、ベルディアの者たちはもう知り始めていた。


 バルザは腕を組み、門柱に背を預けている。

 大柄な獣人がそこにいるだけで、群衆は自然に距離を取った。

 だが、近くにいた子どもが転びかけると、彼は片手で襟を掴んで立たせた。


「足元見ろ。人に踏まれるぞ」


 子どもは驚きながら頷く。


「ありがとう、獣牙のおじさん」


「おじさんじゃねえ」


 バルザは不満げに唸ったが、子どもは笑って逃げた。


 シェラは門の横で、王都からの馬車列を観測している。


「騎馬十二。大型馬車二。神殿馬車一。補給車二。魔力反応、強一、聖光一、剣気一、幻術微弱一、風属性一、薬術一、暗殺系気配一、賢者系魔力一」


 レオナが眉を上げる。


「遠目でそこまで読むか」


「遮蔽物、少。観測容易」


 セイルは顔色を悪くしながら、門の内側に用意された記録机を確認している。

 ルカは透の近くで、群衆と馬車列を交互に見ていた。


「人が、勇者を見に来てる」


「ああ」


「トオルも見られてる」


「そうだな」


「嫌?」


 透は少しだけ考えた。


「面倒だ」


「嫌とは違う?」


「少し違う」


 ルカは納得したように頷いた。


「じゃあ、道を見る」


「頼む」


 ルカは胸元の小型灰印を握る。


 この街の中で、戻る場所を失わないために。


 やがて、馬車列が丘を越えて見えた。


 王国旗。

 神殿旗。

 騎士たちの鎧。

 白く飾られた馬車。


 群衆がざわめく。


「来たぞ!」

「勇者様だ!」

「聖女様もいるのか?」

「剣聖はどれだ?」


 門が開かれる。


 馬車列はゆっくりとベルディアへ入った。


 先頭の騎士が下馬し、門番へ書状を渡す。

 神官監督官エルド・カッサが馬車から降り、法衣の裾を整えた。

 もう一人の神官監督官、武装神官のベリオは、腰に聖杖と短剣を下げている。


 エルドはまずレオナへ向かって歩いた。


「ベルディア冒険者ギルド長、レオナ・グランツ殿ですね。王都神殿および王国騎士団の通達により、現地確認に参りました」


 レオナは軽く顎を引く。


「遠路ご苦労。事件現場と証拠は保全してある。確認はギルド立ち会いで行う」


「もちろんです。ただし、神殿関与が疑われる術式については、我々に優先確認権があります」


「証拠を消さない範囲ならな」


 レオナの声は硬い。


 エルドは穏やかに微笑んだ。


「当然です。神殿は真実を重んじますから」


 その言葉に、セイルの肩が小さく震えた。


 透は、何も言わずにエルドを見ていた。


 エルドの視線が、ようやく透へ向く。


 灰色の外套。

 腰の灰骸刀。

 右腕の灰殻。

 そして、黒い瞳。


 一瞬、エルドの目に確認の色が走った。


 その後ろで、大型馬車の扉が開く。


 相良迅が降りた。


 聖剣を腰に下げた、クラスの中心だった少年。

 王都で勇者として扱われてきた彼は、ベルディアの門前に立つ透を見て、その場で足を止めた。


「……篠宮」


 声は小さかった。


 けれど、美琴には聞こえた。


 彼女は馬車から降りる途中で、手すりを強く握った。


 視線の先に、透がいる。


 生きている。


 けれど、彼女の記憶にある透とは違った。


 傷が増えている。

 立ち方が違う。

 視線が逃げない。

 誰かの後ろに隠れていない。

 むしろ、彼の周りに立つ者たちが、彼を中心にして自然に位置を取っている。


 銀髪の少女は、透の隣で封印針に触れている。

 大柄な獣人は、透の言葉を待つ位置で門柱から体を起こす。

 古代機兵の少女は、透の横で王都組の魔力反応を読み上げている。

 灰布を握った子どもは、透の袖を掴むのではなく、帰り道を見るように周囲を確かめている。


 守られているだけの少年ではない。


 誰かを率いる立ち方だった。


 美琴の腕輪が鋭く痛んだ。


 それでも、彼女は目を逸らさなかった。


「篠宮君……」


 真由も馬車から降り、透を見た瞬間に息を止める。


 黒瀬は一歩遅れて降り、口元に笑みを浮かべた。


「……ほんとに生きてた」


 その声は、いつもより少し低かった。


 久世蓮司は馬車の出口で固まった。


 透。


 そこにいるのは、確かに篠宮透だった。


 だが、久世の知っている篠宮ではない。


 腰の刀から、ただの武器ではない気配がする。

 横に立つ銀髪の少女は、久世が視線を向けた瞬間、顔ではなく彼の剣気の流れを見ていた。

 獣人の男は、久世の足運びを一目で測るように目を細めた。

 機兵の少女は、感情の薄い目で「剣聖職能反応」と小さく記録した。


 久世は、自分が値踏みされていることに気づいた。


 それが、無性に腹立たしかった。


 速水陸が小声で呟く。


「まじかよ……本当に篠宮じゃん」


 藤堂絵里香は、リィンを見て言葉を失っていた。


 ただ綺麗だからではない。


 リィンの腰の針から伸びる青い線が、封印袋の中の黒い術式を押さえている。

 指先が動くたび、封印袋の表面に浮かぶ黒い棘が沈む。

 近くのギルド職員が、彼女の合図を待って証拠箱を開いている。


 藤堂は、そこでようやく理解した。


 噂の銀髪の封印師は、篠宮の隣に飾りとしているのではない。


 この街の事件の証拠を、今この瞬間も支えている。


 姫野朱里は、救出者の一人が治療所から門前へ連れて来られているのを見た。


 獣人の少女だった。

 喉には薄い布。

 胸元には青い封印線の残り。


 少女はリィンの前に立ち、小さく頭を下げる。


「今日は、声が出ます」


 リィンは封印針を一本抜き、少女の喉元へ近づけた。


 刺さない。


 布の上から、青い線を少しだけ緩める。


「引っかかり、減った?」


 少女はゆっくり息を吸い、吐いた。


「はい。痛くないです」


「なら、もう半日で外せる」


「ありがとうございます」


 姫野はそのやり取りを見て、胸の奥がざわついた。


 回復光で傷を塞ぐこととは違う。

 喉を傷つけず、術式の反動を逃がし、声が戻るのを待つ処置。


 聖女として持ち上げられてきた彼女は、初めて、自分の白い光では届かない種類の助けを目の前で見た。


 小鳥遊芽衣は、思わず一歩前へ出ていた。


「あの処置……喉の内側を圧迫してない。札の棘を外側へ逃がしてるんだ」


 誰に言うでもなく呟く。


 リィンが芽衣へ視線を向けた。


 芽衣はびくりと肩を震わせる。


 リィンは怒ったわけではなかった。


「薬師?」


「え、あ、はい。《薬師》です」


「喉の腫れを見るなら、あとで。今は触らない方がいい」


 芽衣は何度も頷いた。


「はい。わかります。今触ると、たぶん線が戻ります」


 リィンは少しだけ目を細める。


「見える?」


「少しだけ。薬の反応としてなら……」


「なら、あとで」


「はい」


 短いやり取りだった。


 だが、芽衣の表情は変わっていた。


 彼女はリィンを、噂の美しい封印師としてではなく、自分とは違う方法で患者を守る術者として見ていた。


 エルドは、その場の空気が王都側の思惑通りに進んでいないことを感じ取っていた。


 群衆は勇者を見ている。

 だが、同時に灰色の一行を見ている。


 そして、ベルディアの者たちは、透たちをただの危険人物として見ていない。


 救出者が頭を下げる。

 ギルド職員が敬意を払う。

 門番が道を空ける。

 学院生が遠巻きに観察する。


 灰の主という呼び名が、この街ではすでに根を張り始めている。


 それが、エルドには不快だった。


 彼は一歩前へ出た。


「篠宮透、で間違いありませんね」


 透はエルドを見る。


「ああ」


 その一言に、王都組の中で息を呑む音がいくつも重なった。


 久世の顔が強張る。

 藤堂の目が揺れる。

 相良は唇を開きかけて、言葉を失う。

 美琴は手首を押さえたまま、涙をこらえるように瞬きをした。


 エルドは穏やかな声で続ける。


「王都神殿監督官、エルド・カッサです。あなたは異界召喚儀式によってこの世界へ招かれた者であり、現在、王国および神殿の確認対象となっています」


 レオナの目が細くなる。


「ここはベルディアだ。彼は当ギルドの正式登録冒険者で、現在進行中の事件協力者でもある」


「承知しています。しかし、彼の身柄と力の確認は、王都神殿の管轄です」


 エルドの声は丁寧だった。


 だが、そこに透へ尋ねる響きはない。


「篠宮透。あなたには王都への同行を求めます。神殿にて奈落汚染の検査、職能再鑑定、灰の力の封印安定処置を受けていただく必要があります」


 門前が静まり返った。


 相良が顔を上げる。


「エルドさん、今ここで言うことですか」


「勇者様。これは必要な手続きです」


 美琴が一歩前へ出かける。


 真由がその腕を押さえた。

 まだ早い、という目だった。


 透はエルドを見ていた。


 感情を荒げない。

 声も上げない。


 ただ、その目の奥で灰が静かに沈んでいく。


「俺が断ったら?」


 エルドは、まるで予想していた質問だというように微笑んだ。


「拒否権はありません」


 その言葉は、ベルディアの門前に落ちた。


 美琴の腕輪が鋭く焼ける。

 彼女は痛みに顔を歪めた。


 相良の聖剣が、腰で小さく白く揺れた。


 久世は息を詰める。

 藤堂は目を見開く。

 芽衣は薬袋を握りしめる。

 黒瀬は笑みを消した。


 ベルディアの群衆も、何かを感じ取って静かになる。


 拒否権はない。


 その言葉が、この灰色の少年に何を思い出させるか、王都の神官はわかっていない。


 いや、わかる必要がないと思っている。


 リィンの指が、封印針から離れた。


 バルザが門柱から体を起こす。


 シェラの右目が強く光る。


「強制移送発言を記録」


 ルカが胸元の灰印を握る。


 セイルは青ざめながらも、透の背後に立った。


 透は一歩前へ出た。


 灰色の外套が、風に揺れる。


「俺を奈落へ落とした時も、そうだった」


 声は大きくない。


 だが、門前の誰もが聞いた。


「災厄職だから。世界のためだから。勇者を守るためだから。俺の意思は、どこにもなかった」


 相良の顔が歪む。


 美琴の目から、涙が一筋落ちた。


 透は続ける。


「今度は、俺の力が必要になったから管理するのか」


 エルドの表情が少し硬くなる。


「必要な管理です。あなた自身のためでもあります」


「違う」


 透は短く言った。


 その瞬間、足元に薄い灰が広がった。


 攻撃ではない。


 だが、門前の石畳に残っていた小さな死んだ魔力が、透の周囲へ集まり、灰色の輪を作る。


 リィンが隣に立つ。


 バルザが一歩後ろで腕を組む。

 シェラが記録板を展開する。

 ルカが戻る道を確かめる。

 セイルが震えながらも記録紙を握る。

 アルマがギルド側から歩み寄り、剣の柄に手を置いた。


 ベルディアで拾った線が、そこに並ぶ。


「俺の灰は、お前らのものじゃない」


 透の声は冷たい。


「俺の仲間も、俺が拾った場所も、誰にも渡さない」


 エルドの背後で、武装神官ベリオが聖杖に手をかけた。


 レオナが即座に前へ出る。


「ベルディアの門前で武器を抜くなら、神殿相手でも拘束する」


 ダグラスも群衆の中から姿を見せ、剣を肩に担いだ。


「俺もいるぞ。王都の偉いさん方」


 空気が張り詰める。


 相良が一歩前へ出た。


「待ってください」


 その声は、少し震えていた。


 だが、確かに前へ出た。


「篠宮と話をさせてください。神殿の手続きとか、管理とか、その前に」


 エルドが横目で相良を見る。


「勇者様」


「お願いします」


 相良は透を見た。


 透も彼を見る。


 かつて同じ教室にいた二人。


 一人は勇者として王都から来た。

 一人は奈落から這い上がり、灰の主と呼ばれ始めた。


 間にあるものは、軽くない。


 沈黙の中、美琴が一歩前へ出た。


 腕輪の痛みに耐え、真由の制止を振り切る。


「篠宮君」


 声が震える。


「ごめん」


 その言葉に、透の目がわずかに動いた。


 美琴は続けようとする。


 だが、腕輪が強く光った。


 痛みが走り、彼女の膝が崩れかける。


 真由が支える。


「美琴!」


 リィンの視線が、美琴の手首へ向いた。


 青い目が細くなる。


「監視封環」


 エルドの顔がわずかに変わった。


 透も、その腕輪を見た。


 灰域が細く伸びる。


 美琴の手首に絡む命令線。

 考えるな。

 言うな。

 近づくな。

 灰に触れるな。


 それは、透が奈落で何度も見てきた支配の線と似ていた。


 透の灰が、静かに冷える。


「それも、神殿の管理か」


 エルドは答えない。


 門前の空気が、さらに重くなった。


 再会は、抱擁でも歓声でもなかった。


 謝罪と痛み。

 管理と拒絶。

 そして、灰色の少年の前に、また拒否権はないという言葉が置かれた。


 だが、今度は奈落の縁ではない。


 ベルディアの門前。


 灰の主の隣には、彼を選んだ者たちが立っている。


 透は美琴の腕輪を見たまま、静かに言った。


「リィン」


「うん」


「あれ、見えるか」


「見える。喉じゃなくて、思考に噛んでる」


 美琴は痛みに耐えながら、透を見た。


 透は一歩、彼女へ近づく。


 エルドが声を強める。


「篠宮透。その封環は神殿管理下のものです。勝手な干渉は――」


 透は振り向かなかった。


「拒否権はないんだろ」


 静かな声。


 エルドの言葉が止まる。


 透は灰骸刀の柄に手を置いた。


「なら、今度はこっちが言う」


 灰が、門前の石畳を薄く走った。


「俺の前で、人を縛るな」


 青い封印針が、リィンの指先で静かに光った。


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