第66話 迷宮外縁の消失点
ベルディア迷宮の入口は、街の中心に口を開けていた。
遠くからは黒い塔のように見えていたものは、近くで見ると、巨大な縦穴を囲む監視塔群だった。石造りの塔が八本、円を描くように並び、その間を鉄橋と魔道鎖が繋いでいる。
中央には、闇。
地面が抜け落ちたような大穴が、街の真ん中に沈んでいる。
穴の縁には厚い城壁めいた囲いがあり、いくつもの門が設けられていた。門ごとに札の色が違う。
白札。
黄札。
赤札。
灰札。
黒札。
学院で学んだばかりの迷宮管理札だ。
ルカは穴の縁から少し離れた場所で、じっと迷宮を見ていた。
「下に、街があるの?」
セイルが答える。
「街ではありません。通路、広間、古い施設、魔物の巣、採取場、遺跡の残骸……階層によって違うと聞いています」
「奈落と似てる?」
セイルは少し迷った。
「似ている部分もあります。でも、ここは管理されています。少なくとも浅い場所は」
バルザが鼻で笑う。
「管理されてる穴に、人攫いが出入りしてりゃ世話ねえな」
セイルは何も言い返せなかった。
迷宮入口には、多くの人間がいた。
冒険者。
荷運び。
素材買い付け人。
治療師。
学院生。
警備兵。
そして、商会の使い。
剣杯商会の看板を背負った者は、昨日までより明らかに少ない。
残っている者も、周囲の視線を避けるように動いている。
噂はもう広がっていた。
南三番倉庫の地下檻。
黒鞭の回収人。
学院講師オルベンの拘束。
灰色の新人と、青い封印針の少女。
透たちが迷宮門へ近づくと、道が自然に少し開いた。
誰かが小声で言う。
「灰の主だ」
別の声が返す。
「隣の封印師、あれが学院の罠を止めた子か」
「針一本で証拠線を残したって、封印科が騒いでたぞ」
「古代機兵もいる。記録をそのまま再生したらしい」
「獣人の方は、黒鞭の男の腕を片手で潰しかけたとか」
バルザが耳を動かし、口元を歪めた。
「潰しかけた、とは失礼だな。潰してはいない」
「そこは威張るところじゃないです」
セイルが小声で言う。
シェラは周囲の声を拾いながら歩いている。
「噂拡散速度、想定より高。名称固定傾向、灰の主、青針、機兵少女、獣牙」
「最後のは誰だ」
バルザが眉をひそめる。
「該当、バルザ」
「悪くねえが、もう少し強そうな名がいいな」
「改善提案、不要」
「おい」
リィンは迷宮の闇を見ていた。
入口の周囲には魔道灯が並んでいる。
だが、その光は穴の深くまでは届かない。
青い目が、わずかに細くなる。
「下に、古い封印がある」
透は彼女を見る。
「感じるのか」
「薄い。切れた線が多い。まだ生きてる線もある」
「危険か」
「場所による」
短い答え。
それだけで十分だった。
レオナは門の前で待っていた。
隣にはダグラス。
ギルドの調査員が二人。
門番隊の兵士が二人。
そして、アルマ・ヴェルク。
アルマは学院服ではなく、動きやすい革鎧を着ていた。
腰の剣は古いが、鞘紐まで丁寧に整えられている。
彼女は透たちへ軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
バルザが笑う。
「緊張してるな」
「しています。迷宮外縁の実地調査は初めてではありませんが、今回はただの採取実習ではありませんから」
「怖いか」
「怖いです」
アルマは即答した。
「でも、見ると決めました」
その言葉に嘘はない。
透は頷いた。
「勝手に前へ出るな。見たものは言え。迷ったら止まれ」
「はい」
レオナが地図を広げる。
「失踪偽装に使われた可能性が高いのは、一層外縁の灰札区画だ。管理通路から少し外れた旧採取路。薬草や低位鉱石が取れるから、補助採取人も入る。魔物は弱いが、横穴が多い」
地図の一部に赤い印がついている。
「消えた者たちの報告地点が、この周辺に集中している。昨夜の黒鞭札に残っていた位置情報とも重なる」
シェラが自分の灰路板に地図を写す。
「位置照合完了。追跡札残響三。未確認反応二」
「未確認?」
「移動している可能性」
レオナの目が鋭くなる。
「まだ誰か運ばれているか」
「可能性あり」
透は迷宮門を見た。
遅らせる理由はない。
「行く」
レオナは頷き、門番へ合図した。
灰札門が開く。
冷たい空気が、下から上がってきた。
奈落の空気とは違う。
湿った石。
土。
薬草。
魔物の糞。
人の足跡。
油と鉄。
管理された迷宮の匂い。
だが、その奥に薄く混じる死んだ魔力は、透にとって馴染みのあるものだった。
一行は階段を下りた。
一層外縁は、想像より広かった。
石壁の通路が枝分かれし、ところどころに人工の補強柱が立っている。
天井には魔道灯。
床には白や黄の管理札。
壁には矢印と帰還印。
奈落と違い、人の手が入っている。
けれど、すべてが安全なわけではない。
黄札区域へ入ると、壁の苔が増え、足元に小さな骨が落ちていた。
小型魔物のものだろう。
透の灰は、その骨の古さを静かに読んだ。
「新しくない」
バルザが前方を嗅ぐ。
「魔物はいるが、離れてる。人の匂いが濃いな。昨日今日のものだけじゃねえ」
アルマが壁の傷を見た。
「荷車の擦れ跡です。採取人の道具にしては幅が広い」
レオナが調査員へ合図する。
「記録」
調査員が石板に傷を写し取る。
シェラが淡々と補足した。
「擦過痕、荷車幅約一・二倍。車輪材質、硬質迷宮木。一般採取用より重搬送向け」
「人を運ぶ檻か」
ダグラスが低く言う。
「その可能性が高い」
通路をさらに進む。
灰札が現れた。
調査中区域。
管理が不完全で、地図も曖昧な道。
レオナが隊列を整える。
「前衛、バルザとダグラス。中央に調査員、セイル、ルカ。リィンとシェラは中央後方。透とアルマは遊撃。私が最後尾を見る」
透は少しだけ首を振った。
「俺が前を見る。バルザは左の横穴。ダグラスは右。リィンは中央の線。シェラは後ろの記録。アルマはミレアの布に似た痕を探せ」
レオナは一瞬だけ透を見た。
それから笑った。
「では、それで行く。現場の勘を優先する」
ダグラスが肩をすくめる。
「登録二日目に指揮を取られるとはな」
「不満か」
「いや。楽でいい」
バルザは左の横穴へ鼻を向けた。
「こっち、血が古い。あと、薬の匂い」
アルマは床に膝をつき、石の隙間から細い糸を拾った。
「学院の薬草袋に使う紐です。ミレアが持っていたものと同じ編み方」
セイルが顔色を変える。
「ここまで運ばれていたんですね……」
ルカは黙って透の近くにいた。
地上に出てから、彼は何度も驚いていた。
水、街、噴水、食べ物、人の多さ。
だが、この迷宮外縁で見ているものは、奈落に近い。
誰かが通った痕。
逃げようとした痕。
奪われた声の残り香。
ルカの指が、胸元の小型灰印を握る。
「トオル」
「どうした」
「あっち、戻りたがってる」
ルカは右奥の細い通路を指した。
レオナが眉を上げる。
「戻りたがっている?」
ルカはうまく言葉にできないように、唇を噛んだ。
「道が、こっちじゃないって言ってる。足が、戻りたいのに、引っ張られてる感じ」
透は灰域を細く伸ばした。
右奥の通路。
そこには、かすかな灰が残っていた。
足跡。
小さい。
子どもか、亜人の若者。
何度も踏ん張った跡。
その上を、重い靴が引きずった。
「当たりだ」
ルカの顔が少し引き締まる。
レオナはすぐに調査員へ命じた。
「右奥を記録。ルカの感知も報告に入れる」
ルカが少し驚いたようにレオナを見る。
「僕のも?」
「役に立った情報は記録する」
ルカは胸元の灰印を握り直し、小さく頷いた。
通路の奥には、崩れた採取場があった。
低い天井。
壁に生える白い薬草。
中央には、魔物に荒らされたような跡。
骨が散らばっている。
人のものではない。
小型魔物の骨だ。
だが、不自然だった。
骨の並びが整いすぎている。
血の染みが浅い。
爪痕は壁の表面だけで、奥まで食い込んでいない。
偽装。
魔物に襲われたように見せるための場所。
アルマが顔をしかめる。
「学院の実習報告で見た魔物痕と違います。これは、爪を持った道具で引っかいただけです」
ダグラスが壁を見て頷いた。
「本物の迷宮犬なら、もっと石ごと持っていく。こりゃ浅すぎる」
シェラが周囲を解析する。
「偽装痕多数。血液量、不足。骨配置、人為的。失踪偽装地点と判断」
レオナの顔が険しくなる。
「ここで消えたことにする。実際には、別の道へ運ぶわけだ」
透は採取場の奥へ歩いた。
壁の一部が、わずかに冷たい。
普通の石に見える。
だが、灰域には空洞が引っかかる。
隠し通路。
灰骸刀を抜く。
灰の刃が、壁の継ぎ目をなぞった。
鍵は壊さない。
隠蔽術式だけを喰う。
石壁の一部が、音もなく浮き上がった。
奥から、濃い匂いが流れ出す。
黒鞭の札。
剣杯の荷油。
そして、人の恐怖。
バルザの目が金色に細まる。
「生きてる匂いがある。奥だ」
レオナが短く命じる。
「救出優先。証拠も残せ。全員、武器を抜け」
通路は狭かった。
人工的に掘られた横道だ。
壁には古い迷宮石ではなく、新しく削った跡がある。
床には荷車の轍。
奥から、くぐもった声が聞こえた。
「早くしろ。上が騒がしくなってる」
「倉庫の件は本当なのか?」
「知らん。だが、南枝から連絡が途切れた。剣杯の奴らも捕まったらしい」
「なら、今残ってる分を先に流すしかねえ。迷宮犬の餌場に撒いて、死んだことに――」
声はそこで止まった。
透たちの足音に気づいたのだろう。
黒い革装備の男が二人、通路の奥に現れる。
黒鞭の回収人。
片方が鞭を振る。
狭い通路で伸びる黒い線。
先端には痛みの術式。
触れれば筋肉を硬直させる仕組み。
リィンの針が飛んだ。
鞭に刺さらない。
鞭が空中で最も強くしなる一点を、青い線が縫い止める。
黒鞭は、まるで宙に引っかかったように止まった。
男の腕だけが前へ泳ぐ。
バルザが踏み込む。
拳一つ。
男は壁に叩きつけられ、崩れ落ちた。
もう一人が逃げようとする。
アルマが前へ出た。
細い通路で、彼女の剣が抜かれる。
派手さはない。
だが、足運びが低く、迷いが少ない。
相手の膝を狙うと見せて、剣の柄で手首を打つ。
短剣が落ちる。
返す刃で首元へ寸止め。
黒鞭の男が動きを止めた。
アルマは冷たい声で言う。
「膝を切られたくなければ、床へ」
男は従った。
ダグラスが笑う。
「いい剣だ」
アルマは息を整えながら答える。
「ありがとうございます」
透は奥へ進む。
そこには、小さな空間があった。
荷車が二台。
檻が一つ。
中には三人。
獣人の少年。
年若い女。
そして、片腕に採取籠を抱えた老人。
三人とも口に札を貼られ、手足に細い封環をつけられている。
まだ生きている。
透は檻の錠に手を置いた。
灰が走る。
命令線だけを喰い、錠が開く。
リィンがすぐに札と封環へ向かう。
今度は学院生も見ていない。
ギルドの調査員だけが、その手元を息を殺して記録している。
青い針が、札の縁を縫う。
痛みの棘を抜く。
喉に残った命令を止める。
封環の焼き戻しを防ぎながら、透の灰が支配線を喰う。
獣人の少年が激しく咳き込んだ。
バルザが水袋を渡す。
「ゆっくり飲め」
少年は震える手で水を受け取り、何度も頷いた。
老人が声を取り戻す。
「迷宮犬の餌場へ……連れて行くと……」
レオナの目が鋭くなる。
「餌場はどこだ」
老人は震える指で奥の壁を指した。
「あの先……黒札の古い穴……」
シェラが地図を照合する。
「黒札区域、旧獣道。管理外。大型魔物生息可能性」
「そこで死んだことにするつもりか」
レオナが低く言う。
黒鞭の男が床で笑った。
「もう遅い。先に運んだ分は、餌場に――」
言葉が途切れた。
透の視線が向いたからだ。
灰が通路の空気を沈める。
殺気ではない。
怒鳴り声でもない。
ただ、灰が冷たくなる。
黒鞭の男は、口を閉じた。
透は静かに聞いた。
「何人だ」
男は答えない。
リィンが男の首元を見た。
「封殺線がある」
「喋れば焼けるやつか」
「そう」
リィンは封印針を抜いた。
男が怯えた顔になる。
針は彼を傷つけない。
首の横に走る黒い線を、空中で縫い止める。
「今なら喋れる」
リィンの声は平坦だった。
男は震えながら、透を見上げた。
「……四人。先に四人運んだ。まだ、生きてるかは知らねえ」
レオナが奥の黒札区域を睨む。
ダグラスが剣を担ぎ直した。
「行くしかねえな」
レオナは一瞬、救出した三人を見た。
調査員と門番隊だけで帰せるか。
ここに残すか。
黒鞭の残党がいるか。
透が言った。
「レオナ、救出者を戻せ。証拠も持って帰る。俺たちは奥へ行く」
「黒札区域だぞ」
「奈落よりは浅い」
その一言に、ダグラスが苦笑した。
「比べる基準がおかしい」
レオナは数秒だけ考えた。
それから決める。
「私とダグラスは同行する。調査員二人と門番隊は救出者と証拠を持って戻れ。アルマ、戻るなら今だ」
アルマは剣を納めた。
「行きます」
「黒札区域は学院実習とは違う」
「わかっています。でも、今戻れば、たぶん一生後悔します」
レオナは短く頷いた。
「なら指示に従え」
「はい」
ルカは透の袖を軽く引いた。
「あっち、嫌な道」
「戻るか」
「行く」
ルカは小さく首を振った。
「戻る道、覚える。迷わないように」
透はルカの胸元の小型灰印を見た。
子どもの足音のような小さな点。
それが、今は細く震えながらも、確かにこちらと帰る場所を繋いでいる。
「頼む」
ルカは頷いた。
黒札の古い穴は、さらに奥にあった。
管理札は割れ、壁の魔道灯は消えている。
そこから先は、ベルディアの管理が届かない場所。
冷たい風が吹いた。
獣の匂い。
血の匂い。
そして、まだ死んでいない人の匂い。
バルザが牙を剥く。
「急ぐぞ。でかいのがいる」
透は灰骸刀の柄に手を置いた。
地上の迷宮。
人を消すために使われた穴。
その奥で、誰かがまだ息をしている。
灰は、落ちたものを見捨てない。
一行は黒札区域へ踏み込んだ。




