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第65話 王都へ走る噂

 冒険者ギルドの地下記録室には、窓がなかった。


 厚い石壁。

 魔道灯の白い光。

 壁一面に並ぶ封印棚。

 机の上には、剣杯商会の裏帳簿、黒鞭の追跡札、学院の灰札区画から採取した赤黒い干渉線、オルベン・ラースの指輪と袖口の黒糸が並べられている。


 その一つ一つに、ギルドの証拠封印布がかけられていた。


 レオナは腕を組み、机の前に立っている。


「一晩でよくここまで出たものだな」


 声には疲れがあった。

 だが、目は冴えている。


 ダグラスは壁際の椅子に腰を下ろし、眠そうに大欠伸をした。


「灰色の坊主を登録したら、初日で剣杯の倉庫が潰れ、二日目の朝には学院講師が捕まった。次は迷宮でもひっくり返すんじゃねえか」


「縁起でもないことを言うな」


 レオナはそう返しながらも、否定はしなかった。


 透は机に置かれた証拠を見ていた。


 帳簿に残った剣杯の印。

 追跡札の黒鞭印。

 学院保守印。

 そして、薄く隠された王冠のような印。


 灰を通せば、線はまだ読める。


 だが、今は喰わない。

 証拠として残す必要がある。


 リィンは机の横に立ち、赤黒い干渉線を封じた灰路板を見ていた。


 青い封印線が、灰路板の縁を細く巡っている。

 それは強く縛っているのではない。

 干渉線が崩れないよう、輪郭だけを支えている。


 ギルドの証拠封印班の一人が、その手元をじっと見ていた。


「……その青線、封印圧が一定じゃないんですね」


 リィンは視線を上げる。


「同じにすると、割れる」


「割れる?」


「中の線が、逃げる形に曲がってる。押さえる場所を変えないと、ほどける」


 証拠封印班の男は、はっとした顔で灰路板を覗き込んだ。


「だから、外周ではなく結び目ごとに圧を変えているのか……。封印布だと一律に押さえるから、細い証拠線は潰れることがある。針で縫っているから形が残る」


 隣の職員が小さく息を吐いた。


「証拠保存用の封印術として、学院で教えられる水準じゃないな」


 リィンは反応に困ったように、少しだけ首を傾げる。


「壊さないだけ」


 その短い言葉に、封印班の二人は黙った。


 壊さない。


 言うのは簡単だ。

 だが、暴れる術式を止めながら、証拠として読める形で残すには、対象の癖を見抜き、力をかける位置を選び、逃げ道を塞ぎすぎず、緩めすぎもしない技術が要る。


 それを、リィンは針一本でやっていた。


 シェラは机の端で、帳簿の写しを取っている。


「剣杯商会ベルディア支店、黒鞭南枝、学院講師オルベン・ラース、商業ギルド役人一名。接続確認。上位印、照合不能」


 レオナが問う。


「王冠印の解析は?」


「既存ベルディア商会印、該当なし。貴族紋章、類似候補三十二。王都系神殿印、部分類似あり。確定不可」


 神殿。


 その言葉に、透の胸の奥が冷える。


 王国の召喚の間。

 神官長。

 職能照合の水晶。

 《灰喰い》と刻まれた瞬間の沈黙。


 あの場所の空気は、まだ灰の奥に残っている。


 セイルは記録室の隅で顔色を悪くしていた。


「神殿印と部分類似……ただの商会事件では済まないかもしれません」


「済ませるつもりはない」


 レオナは封印済みの帳簿を革袋へ入れる。


「王都の中央ギルドへ報告を送る。表向きは、剣杯商会ベルディア支店の違法拘束および黒鞭商会との関与疑い。学院講師の拘束。迷宮外縁での失踪偽装。王冠印については、封印文書で別便だ」


 ダグラスが片目を開けた。


「王都へ出したら、握り潰されるんじゃねえか」


「その可能性はある。だから、複数の便で送る。中央ギルド、東方辺境監察、リンド商会経由の商業記録、門番隊の公文書。一本潰しても、別の線が残るようにする」


 レオナの視線が透へ向く。


「お前たちが灰札区画で証拠を消さずに残したおかげだ。これなら、上が動いても消しにくい」


 透は答えた。


「外縁は」


「今日の午後に入る。ギルド班をつける。アルマ・ヴェルクの同行は学院側が許可した」


 その時、記録室の扉が叩かれた。


 入ってきたのはアルマだった。


 学院服の上に簡素な革鎧をつけ、腰には自分の剣。

 昨日見たものより古いが、手入れは行き届いている。


 彼女は部屋に入ると、まずレオナへ頭を下げた。


「アルマ・ヴェルク、迷宮外縁調査への同行許可を受けました」


 レオナは書類を受け取る。


「没落ヴェルク家の剣士か。噂は聞いている。実技は学院上位、ただし支援商会なし。貴族子弟とは折り合いが悪い」


「否定しません」


「剣杯の支援を受けなかった理由は?」


 アルマは一瞬だけ沈黙した。


「剣が、軽くなりすぎるからです」


 バルザが面白そうに目を細める。


「軽いのは悪いことか?」


「剣そのものの重さではありません。手に返ってくるものが軽すぎた。刃がどこを通り、どこで止まり、どこで迷ったか。それを剣が勝手に整える。便利ですが、気持ちが悪かった」


 透はアルマを見た。


 カインの魔剣を見た時、彼女が嫌悪を示した理由が少しわかった。


「人の手を奪う剣」


 透が呟くと、アルマは頷く。


「はい。あれに慣れたら、自分の失敗がわからなくなる」


 レオナは満足そうに息を吐いた。


「いいだろう。外縁では勝手に突っ込むな。指揮はギルドが取る。灰色の一行と組むなら、余計な意地は捨てろ」


「承知しています」


 アルマは透へ視線を移す。


「昨日の刃について、まだ聞きたいことがあります」


「外縁が先だ」


「ええ。戻ったら、改めて」


 その言い方に、バルザが低く笑った。


「いい根性だ。剣の話で近づいてくる女は珍しいな」


 アルマは眉を上げる。


「他には何で近づくのですか」


「主に顔と噂だな」


 アルマの視線がリィンへ動いた。


 リィンは無表情のまま、灰路板の封印線を整えている。


「それなら、リィンさんの方へ集まるでしょう。昨日から学院の封印科が騒いでいます。青い針で証拠線を保存した手順を、誰も説明しきれないと」


 リィンは手を止めずに言った。


「騒がれると、邪魔」


「伝えておきます」


 アルマは真面目に頷いた。


 冗談ではなく、本当に伝えるつもりらしい。


 その場にいたギルド職員の一人が苦笑した。


「学院封印科の連中は、たぶん今日中に見学願いを出してきますよ。証言封殺術式を皮膚に刺さず止めるなんて、教本に載せたいでしょうから」


 リィンは少しだけ眉を寄せた。


「載せるものじゃない」


「なぜです?」


「間違えると、相手の中で破裂する」


 空気が沈んだ。


 封印班の職員が真顔になる。


「……つまり、あれは再現手順ではなく、対象ごとの調整が前提」


「線を見ないとできない」


 リィンの答えは短い。


 だが、その場の専門職には十分だった。


 技術はある。

 しかし、真似だけでは危ない。


 リィンへの視線が、また変わる。


 美しさでも、希少職への興味でもない。


 危険な術式を扱う者が、同じ仕事をする者へ向ける敬意と警戒。


 レオナは机を軽く叩いた。


「話を戻す。外縁調査の目的は三つ。失踪偽装に使われた地点の確認。残る追跡札の位置照合。剣杯と黒鞭の搬送路の特定。戦闘になれば対処するが、証拠を優先する」


 透は頷いた。


「了解」


「それと、王都へ出す報告にお前の名は載る。篠宮透。灰喰い。灰骸刀。封印師リィン、獣人バルザ、保守機兵シェラ。隠しても無駄だ」


「構わない」


 レオナは少しだけ目を細めた。


「王都に知り合いがいるのか」


 透は一拍置いた。


「いる」


「敵か」


「まだわからない」


 その答えに、レオナは深く踏み込まなかった。


「なら、噂が先に行く。気をつけろ。人は本人を見る前に、聞いた話で形を作る」


 透は窓のない記録室で、遠い王都の方角を思った。


 誰がその話を聞くのか。


 灰色の少年。

 奈落帰り。

 灰の主。


 篠宮透という名前がそこに混じるまで、どれだけかかるか。


 あるいは、すぐか。


 レオナの報告は、その日のうちに複数の便でベルディアを出た。


 中央ギルドへ向かう早馬。

 リンド商会の荷に紛れた写し。

 門番隊の公文書を運ぶ伝令。

 冒険者たちの口から酒場へ流れる噂。


 そして、噂は文書より速く走ることがある。


 王都。


 白い神殿の鐘が鳴る中、勇者召喚で選ばれた者たちは、訓練場に集められていた。


 相良迅の聖剣が、光を放つ。


 その光は以前より強い。

 だが、時折、刃の根元で白い火花が乱れる。


「相良君、もう一度です」


 神官が笑みを浮かべて言う。


 相良は息を整え、聖剣を構え直した。


「わかってます」


 彼は明るく答える。

 だが、額には汗が滲んでいた。


 隣では久世蓮司が木剣を振っている。


「勇者様も大変だな。剣が光りすぎて扱いにくいか?」


「茶化すなよ、久世」


「事実だろ」


 久世は笑ったが、その笑みは少し尖っている。


 勇者の聖剣。

 剣聖の剣。

 どちらが上か。


 彼の中には、ずっとそれがある。


 少し離れた場所で、姫野朱里が回復術の訓練をしていた。

 白い光が負傷した兵士の腕を包む。

 傷は塞がる。


 だが、光の縁にわずかな濁りが混じった。


 小鳥遊芽衣がそれを見て、眉をひそめる。


「朱里ちゃん、今の……」


「何?」


「ううん。なんでもない」


 芽衣は言い淀む。


 異常は小さい。

 指摘すれば、神官に聞かれる。

 そうなれば面倒なことになる。


 訓練場の端では、三枝美琴が腕輪に触れていた。


 監視封環。

 透のことを深く考えようとすると、じわりと痛む。


 それでも、美琴は考えるのをやめられなかった。


 篠宮透。


 奈落へ落とされたクラスメイト。


 あの時、止められなかった少年。


 綾瀬真由が隣へ来る。


「美琴、少しいい?」


「どうしたの」


「黒瀬が呼んでる。面白い噂を拾ったって」


 美琴の胸が嫌な音を立てる。


 黒瀬真琴は、訓練場の外れの木陰にいた。


 相変わらず、どこまで本気かわからない顔をしている。


「王都に来た商隊護衛から聞いたんだけどさ」


 黒瀬は声を落とした。


「ベルディアで、灰色の少年が剣杯商会の地下檻を開けたらしい」


 美琴の腕輪が、微かに熱を持つ。


 真由の目が細くなった。


「灰色の少年?」


「そ。奈落帰りって噂もある。岩背猿を殺さず追い払って、ギルドでB級冒険者から一本取って、魔剣の術式だけを斬ったんだって」


 美琴は呼吸を忘れかけた。


 灰。


 奈落。


 少年。


 真由が静かに尋ねる。


「名前は?」


「そこが面白い。噂では『灰の主』。でも、ギルド登録名を聞いた護衛がいた」


 黒瀬は笑みを消した。


「シノミヤ、だって」


 美琴の腕輪が鋭く痛んだ。


 彼女は思わず手首を押さえる。


 真由がすぐに美琴の前へ立ち、周囲から隠す。


「大丈夫?」


「……平気」


 平気ではなかった。


 腕輪の痛みは、はっきり警告している。


 その名に触れるな。

 その灰を追うな。

 その少年を思い出すな。


 だが、痛みがあるからこそ、逆にわかる。


 これはただの噂ではない。


 黒瀬はさらに続けた。


「銀髪の封印使いも一緒らしい。青い針で証言封殺の術式を止めて、証拠を壊さず保存したって。あと、大柄な獣人、古代機兵の少女、灰布の子ども」


 真由の表情が変わった。


「封印使い……古代機兵……剣杯……黒鞭……情報が多すぎる」


「でしょ。しかも、ベルディア迷宮学院でも騒ぎを起こした。いや、正確には騒ぎを暴いた。学院講師が黒鞭と繋がってたとか」


 黒瀬は楽しそうに言う。


 だが、その目は笑っていない。


「これ、篠宮が生きてる方に賭けていいと思う?」


 美琴は唇を噛んだ。


 腕輪が痛む。

 痛むたびに、召喚の間で透が見せた顔を思い出す。


 諦めた顔ではなかった。

 怒鳴る顔でもなかった。

 ただ、こちらを見ることをやめた顔。


「……生きてるなら」


 声が震えた。


「会わなきゃ」


 真由が頷く。


「でも、今すぐ動けば監視に引っかかる。噂の出所を複数確認しよう。ベルディア行きの任務か、迷宮関連の視察があれば乗れる」


 黒瀬が肩をすくめる。


「相良たちにも、そのうち入るよ。この噂」


 その言葉通り、訓練場の反対側でも別の話が始まっていた。


 速水陸が、商隊護衛から聞いた噂を久世へ話している。


「なんかベルディアに、灰の主とか呼ばれてる新人が出たらしいぜ。銀髪の封印美少女と、獣人と、機兵を連れてるんだと」


 久世は鼻で笑った。


「また冒険者の盛り話だろ」


「でも、魔剣の術式だけ斬ったって」


「はっ。魔剣を斬る? 剣を知らない奴の作り話だ。だいたい灰の主って何だよ。掃除係か?」


 速水が笑う。


「名前がシノミヤって話もあるらしいぜ」


 久世の笑いが、一瞬止まった。


 それから、より大きく笑った。


「篠宮? あいつが? 銀髪の封印使い連れて、獣人従えて、魔剣を斬った? 馬鹿言うなよ」


 藤堂絵里香も近くでその話を聞き、呆れたように髪を払った。


「ありえないでしょ。篠宮くんって、あの外れ職の? そんな目立つことできる人じゃなかったじゃん」


 速水が軽く頷く。


「だよなあ」


 久世は木剣を肩に担ぐ。


「もし本当に篠宮なら、見てみたいもんだな。その銀髪の子とやらが、どんな顔であいつの隣にいるのか」


 その言葉には、笑いだけではないものが混じっていた。


 美しい仲間。

 強い従者。

 灰の主という呼び名。


 軽く見ていた相手が、そんなものを得ているはずがない。


 そう思うからこそ、否定の声が強くなる。


 相良迅は少し離れた場所で、その会話の一部を聞いていた。


「シノミヤ……?」


 彼は聖剣を握り直す。


 刃の光が、またわずかに乱れた。


 神官がすぐに声をかける。


「勇者様、集中を」


「あ、はい」


 相良は笑顔を作った。


 だが、胸の奥には小さな棘が残った。


 奈落へ落ちたはずのクラスメイト。

 自分が、止めきれなかった少年。


 いや、止めようと本気で動いたのか。


 その問いを、相良はすぐに押し込めた。


 王都の空は高い。


 その下で、灰色の噂は静かに広がり始めていた。


 誰かは笑い、誰かは否定し、誰かは痛みに耐えながら確信へ近づいていく。


 そして、ベルディアではまだ、透たちが迷宮外縁へ向かう準備を進めていた。


 噂は先に走る。


 だが、灰はまだ、地面に残る線を辿っている。


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