第61話 灰が暴く帳簿
剣杯商会南三番倉庫の地下は、夜明け前まで開け放たれていた。
檻から救い出された五人は、ギルドの夜番に支えられ、地上へ運ばれていく。
誰も大声を出さなかった。
泣き声さえ、地下の石壁に吸われるように小さい。
ミレアはリィンの灰布を肩にかけ、兎の耳を震わせながら階段を上がった。
片方の耳の付け根には、細い針で刺されたような跡がある。
声を封じる札を貼る前に、暴れないよう薬を打たれたのだろう。
透はその痕を見て、黒鞭の男へ視線を向けた。
黒鞭の男は、バルザに片腕を掴まれている。
手首はおかしな角度に曲がり、腰の追跡札はすべて取り上げられていた。
それでも目だけは忙しく動いている。
逃げ道を探している目だった。
レオナは地下室の奥で、押収した帳簿と契約書を確認していた。
「剣杯の表帳簿、裏帳簿、黒鞭の移送札、封環の購入記録。これだけ揃えば商業ギルドも黙らせられる」
ダグラスが戻ってくる。
外套に夜露がつき、額には汗が浮いていた。
「門番隊は動いた。正規衛兵の詰所にも連絡済みだ。ただ、商業ギルドへ走った奴がいる。剣杯側に話が飛ぶぞ」
「もう飛んでいるだろうな」
レオナは帳簿を閉じた。
「構わない。先に証拠を押さえた」
その時、倉庫の外が騒がしくなった。
馬車の車輪。
複数の足音。
怒鳴り声。
夜番の冒険者が階段上から顔を出す。
「ギルド長、商業ギルドの者と剣杯の支配人が来ています」
レオナは唇の端を上げた。
「早いな。いい匂いに群がる虫みたいだ」
バルザが黒鞭の男を引きずる。
「潰していい虫か」
「まだだ。潰す前に喋らせる」
レオナは地下室を出た。
透も続く。
倉庫の地上階には、押さえられた私兵たちが床に座らされていた。
その前に、白い手袋の男が立っている。
細身。
整えた金髪。
夜中だというのに乱れのない商会服。
胸には剣杯商会の徽章。
その横には、商業ギルドの役人らしき太った男が、汗を拭きながら立っていた。
白手袋の男は、レオナを見るなり丁寧に頭を下げた。
「これはレオナ・グランツ様。夜分に当商会の倉庫へ無断で踏み込まれるとは、穏やかではありませんね」
声は柔らかい。
だが、目は笑っていない。
レオナは帳簿の束を片手に持ち上げた。
「穏やかな倉庫には、人を閉じ込める地下檻も封環もない」
白手袋の男は、わずかに眉を上げた。
「地下檻? 封環? 何かの誤解では。当倉庫は迷宮装備の保管庫です。違法な品は一切――」
言葉を遮るように、バルザが黒鞭の男を床へ放った。
黒鞭の男はうめき、白手袋の男を見た。
一瞬。
本当に一瞬だけ、白手袋の男の目が細くなった。
透はそれを見逃さなかった。
知っている目だ。
レオナも気づいている。
白手袋の男はすぐに表情を戻した。
「その男は?」
「黒鞭商会の回収人だ。お前の倉庫の地下にいた」
「存じません。勝手に入り込んだのでは?」
商業ギルドの役人が慌てて頷く。
「そ、そうですな。剣杯商会はベルディアでも信用ある商会です。外部のならず者が倉庫を悪用した可能性も――」
レオナは役人へ冷たい視線を向けた。
「ならば、剣杯商会はずいぶん管理が甘いな。地下に檻を作られ、封環を置かれ、裏帳簿まで保管されても気づかないとは」
役人は口を閉じた。
白手袋の男は微笑を保っている。
「裏帳簿と仰いますが、それが当商会のものとは限りません。偽造も可能でしょう。そちらの……灰色の少年が持つ怪しい力なら、証拠を作ることもできるのでは?」
視線が透へ向く。
倉庫内の冒険者たちも、わずかに身構えた。
ここで透が怒れば、相手はそこを突く。
危険人物。
暴力的な新人。
証拠を灰で汚した者。
白手袋の男は、それを待っている。
透は黙って帳簿へ近づいた。
レオナが少しだけ横へずれる。
透は帳簿の表紙に指を置いた。
革の匂い。
インク。
商会印。
そして、奥に隠された薄い魔力。
この帳簿には、二重の仕掛けがある。
開けば普通の取引記録。
特定の魔力を通せば裏取引。
さらに追及されれば、裏の記述だけを自壊させる。
証拠消しの仕組みは、地下扉よりも細かい。
白手袋の男の口元が、ほんの少しだけ上がった。
透は灰骸刀を抜いた。
倉庫内の空気が沈む。
白手袋の男の笑みが固まる。
「何を――」
灰の刃が帳簿の上を通った。
紙は切れない。
革表紙も裂けない。
インクも滲まない。
だが、帳簿の奥で何かが小さく鳴った。
ぱきん。
隠し術式の自壊命令だけが、灰になった。
透は帳簿を開く。
最初の頁には、迷宮食、油、革鎧、薬草の取引。
その下に、薄い灰文字が浮かび上がる。
封環、三。
声止め札、十。
移送対象、五。
引渡先、黒鞭南枝。
受領印、剣杯ベルディア支店。
倉庫内が静まり返った。
白手袋の男の顔から血の気が引く。
レオナが帳簿を覗き込み、低く言った。
「見事な偽造だな。お前たちの商会印まで浮かんできた」
ダグラスが笑う。
「ずいぶん丁寧な偽造だ。本人にしか出せねえ印まで入ってる」
商業ギルドの役人は、汗を滝のように流している。
「こ、これは……私は何も……」
「それは後で聞く」
レオナは夜番へ指示を飛ばした。
「白手袋を拘束。帳簿を証拠封印袋へ。役人も同行させろ」
白手袋の男が後退した。
「触るな! 私は剣杯商会ベルディア支店の副支配人だぞ! 貴族家との契約もある! ギルドごと潰されるぞ!」
その叫びに、冒険者たちの何人かが顔をしかめた。
地上の力。
剣だけではない。
金、契約、貴族、役所。
そういうものが、人を檻へ入れる。
レオナは一歩近づいた。
「その貴族家の名も、帳簿に残っているなら助かる」
白手袋の男は黙った。
その沈黙が答えだった。
夜番が男を拘束する。
その瞬間、黒鞭の男が床で身を捻った。
口の中で何かを噛み砕く音。
シェラが即座に叫ぶ。
「自壊毒札、起動」
黒鞭の男の喉元に黒い線が走った。
証言を消すための術式。
毒ではない。
声帯と記憶の一部を焼く札だ。
リィンの封印針が飛ぶ。
青い線が男の喉を縫い、黒い術式を一瞬止める。
透が灰を伸ばした。
指先から灰糸が走り、喉元の黒い線に絡む。
喰う。
死んだ命令だけを。
焼け。
黙れ。
忘れろ。
主を守れ。
灰がその命令をほどく。
男は激しく咳き込み、胃の中のものを吐いた。
黒い小さな札の欠片が床に落ちる。
ダグラスがそれを踏み潰そうとして、シェラに止められた。
「証拠。破壊不可」
「おっと」
シェラは札の欠片を拾い、布に包んだ。
「黒鞭証言封殺札。証拠価値、高」
黒鞭の男は喉を押さえ、涙目で透を見上げた。
死に損なった恐怖。
喋れるまま残された恐怖。
透はしゃがみ込む。
「今、誰を守ろうとした」
男は震えたまま黙る。
透は白手袋の男を見る。
「こいつか」
男は首を横に振る。
透は帳簿に浮かんだ印を見る。
黒鞭南枝。
剣杯ベルディア支店。
そして、奥にもう一つ、薄く隠された印がある。
杯の底に、王冠のような模様。
レオナがそれを見て、表情を消した。
「これは……まずいな」
「何の印だ」
レオナは答える前に、周囲の冒険者たちへ目を向けた。
「この頁は今ここで口に出すな。記録封印袋へ入れる」
それだけで、ただの商会問題ではないことがわかった。
王国か。
貴族か。
神殿か。
まだ断定する必要はない。
ただ、上に何かがいる。
黒鞭の男は震えていた。
白手袋の副支配人は、完全に口を閉ざしている。
レオナは低く命じた。
「全員、ギルド地下の留置室へ。剣杯南三番倉庫は今この時点でギルド管理下に置く。夜明けと同時に正式告発する」
商業ギルドの役人が声を震わせた。
「そ、それは手続き上――」
「人が檻に入れられていた。手続きなら後で好きなだけやれ」
レオナの声に、役人は黙った。
地下から救い出された者たちは、ギルドの治療所へ運ばれていた。
透たちが戻ると、治療所の一室にミレアが座っていた。
兎の耳はまだ震えているが、声は戻っている。
彼女は透を見ると、慌てて立とうとした。
「座ってろ」
透が言うと、ミレアはびくりと止まり、また椅子へ腰を下ろした。
「……すみません」
「謝ることじゃない」
リィンが彼女の手首を確認する。
封環の痕は赤く残っていたが、痛みの線は消えている。
ミレアは小さな声で言った。
「私、学院の薬草庫で働いていて……昨日、薬屋へ行く途中に、白い手袋の人に声をかけられました。先生の使いだって」
「先生?」
「迷宮学院の講師です。貴族の生徒たちを担当している人で……私みたいな下働きは、直接話すこともない人です。でも、名前を出されて」
レオナが部屋に入ってくる。
「講師の名は」
ミレアは怯えたように目を伏せる。
「オルベン・ラース先生です」
レオナの眉が動いた。
「学院講師で、剣杯から教材納入の世話を受けている男だ」
シェラが記録する。
「オルベン・ラース。調査対象に追加」
ミレアは続けた。
「薬屋の裏で、急に口を塞がれて……目が覚めたら地下でした。私の他にも何人かいて、朝になったら迷宮外縁へ運ぶって……」
「迷宮外縁?」
「はい。そこで魔物に襲われたことにするって、聞こえました」
レオナの顔が険しくなる。
「行方不明者が迷宮で消えたことになるわけだ」
「証拠が残らない」
透は言った。
迷宮なら、死体がなくてもおかしくない。
魔物に喰われた。罠に落ちた。迷った。
いくらでも理由がつく。
ミレアは手を握りしめた。
「私は……明日、学院に戻れますか」
その声は細い。
戻りたいのか、怖いのか、彼女自身にもわかっていないのだろう。
レオナが答える。
「今日は治療所で休め。学院にはギルドから連絡する。オルベンにはまだ触れない」
ミレアは不安そうに顔を上げる。
「でも、先生が……」
透が言った。
「明日、学院へ行く」
ミレアの目が透へ向く。
「講習を受けに行く。そいつを見る」
レオナが少しだけ笑う。
「ちょうどいいな。灰色の新人一行の学院講習だ。向こうも見に来るだろう」
ダグラスが廊下から顔を出した。
「俺も見物に行っていいか?」
「お前は倉庫の見張りだ」
「つまらん」
「仕事だ」
ダグラスは肩を落として戻っていった。
夜明けが近づいていた。
ギルドの外では、ベルディアの街が少しずつ目を覚まし始めている。
パン焼き窯の匂い。
荷馬車の音。
朝市の支度。
そして、夜のうちに摘発された剣杯商会倉庫の噂。
ギルドの受付前には、すでに数人の冒険者が集まっていた。
「南三番倉庫が潰されたらしい」
「剣杯の副支配人が捕まったって?」
「黒鞭の回収人もいたとか」
「昨日の灰色の新人が見つけたんだろ」
「灰の主が、人攫いの檻を開けたってよ」
言葉が増える。
色がつく。
形を変える。
透は治療所の窓から、朝の光を見た。
地上の朝は明るい。
だが、その下にも地下の檻はあった。
奈落だけが、捨てられた者たちの場所ではない。
ベルディアにもいる。
学院にもいる。
迷宮にも、商会の荷台にも。
灰骸刀は腰で静かに眠っている。
次に向かう場所は決まっていた。
迷宮学院。
地上の若者たちが学ぶ場所。
貴族子弟も、冒険者候補も、下働きの亜人少女もいる場所。
その中に、人を檻へ送る者が紛れている。
夜明けの鐘が、ベルディアの街に鳴り響いた。
灰色の一行が学院へ向かう日は、思っていたより騒がしい朝になりそうだった。




