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第62話 迷宮学院の朝

 ベルディア迷宮学院は、中央広場の西にあった。


 冒険者ギルドほど荒々しくはない。

 だが、王城や神殿のように整いすぎてもいない。


 灰白色の石壁。

 広い訓練場。

 迷宮の階層図が刻まれた大きな掲示板。

 剣、杖、盾、薬草袋を持つ若者たち。


 門の上には、ギルドと同じ剣と迷宮の紋章が掲げられていた。


 透たちが学院の門へ近づくと、周囲の視線が一斉に集まった。


 昨夜、剣杯商会の倉庫が摘発された。

 黒鞭商会の回収人が捕らえられた。

 檻から五人が救い出された。

 そして、そのきっかけを作ったのは、昨日ギルドに登録したばかりの灰色の少年だ。


 噂は、朝まで待たなかったらしい。


 学院生たちは、あからさまに透たちを見ていた。


「来たぞ、灰色の新人」

「ギルドでB級を止めたってやつ?」

「隣の銀髪の子、すご……」

「獣人でかすぎだろ」

「機兵って、本当に動くんだ……」

「黒鞭の地下檻を開けたって話、本当なのか?」


 声は抑えている。

 だが、数が多ければ十分に騒がしい。


 リィンは何も言わず、透の隣を歩いている。

 銀髪に朝の光が落ちると、学院生の何人かが見とれたように口を閉じた。


 シェラは無表情のまま、校舎の構造を見ている。


「施設規模、中。訓練場三。講義棟二。地下設備あり。魔道障壁、低出力」


 セイルが小声で言った。


「ここで設備批評は控えめにお願いします」


「低出力は事実」


「事実でもです」


 バルザは学院生たちの視線を受け、肩を鳴らした。


「若い目が多いな。敵意、興味、色気、嫉妬。匂いが忙しい」


 ルカが胸元の登録証を押さえる。


「学校って、怖いところ?」


「人が多いところだ」


 透が答えると、ルカは少し考えた。


「じゃあ、街と似てる」


「少しな」


 門の内側で、学院職員らしい女性が待っていた。


 年は三十前後。

 眼鏡をかけ、濃紺の学院服を着ている。

 手には出席簿と薄い杖。


「冒険者ギルド推薦の臨時受講者ですね。篠宮透さん、リィンさん、バルザさん、シェラさん、セイルさん、ルカさん」


「ああ」


「私は基礎講習担当のメリザ・フォルンです。今日一日、学院規則、迷宮外縁の基礎、素材処理、実技確認まで行います」


 メリザは透たちを一通り見た。


 驚きはある。

 だが、表に出しすぎない。


 学院で多くの癖のある冒険者候補を見てきた顔だった。


「ギルド長から事情は聞いています。昨夜の件も含めて、あなた方には注目が集まっています。無駄な衝突は避けてください」


 バルザが笑う。


「向こうから来た場合は?」


 メリザは即答した。


「訓練場でお願いします。廊下と講義室は修繕費が高いので」


「いい教師だ」


「褒め言葉として受け取ります」


 案内された講義室には、すでに三十人ほどの学院生が座っていた。


 冒険者志望の若者。

 貴族子弟らしい整った服の者。

 商会の護衛見習い。

 学院付きの補助職。

 亜人の血を引く者も数人いたが、席は後ろに固まっている。


 透たちが入った瞬間、教室の空気が大きく揺れた。


 特にリィンへの視線は強い。


 貴族令嬢のような華やかさではない。

 聖女のような作られた清らかさでもない。

 銀髪と青い目、静かな表情、腰の封印針。

 触れてはいけないもののような美しさがあった。


 前列に座る男子生徒が、小声で言う。


「誰だよ、あの子……」


 隣の生徒が答える。


「ギルドの噂にあった銀髪の封印使いだろ」


「なんであんな子が、あの灰色のやつの隣にいるんだ」


 その声に、数人が同じような顔をした。


 透は前列の空いた席へ向かった。


 リィンは隣に座る。

 シェラは椅子を観察してから座った。

 バルザは普通の椅子を見て、しばらく悩んだ末、壁際に立つことにした。

 セイルは後ろの方へ座り、ルカは透の近くの席にちょこんと座った。


 教室の後方に、兎耳の少女がいた。


 ミレアだ。


 顔色はまだ悪い。

 手首には布が巻かれている。

 けれど、彼女は学院服を着て席に座っていた。


 透と目が合うと、ミレアは小さく頭を下げた。


 その隣には、淡い金髪の少女が座っている。


 年は透たちと同じか、少し上。

 凛とした顔立ち。

 細身だが、腰には訓練用ではない本物の剣を下げている。

 学院服は丁寧に着ているものの、袖口は少し古びていた。


 彼女はミレアを庇うように半歩前へ座り、透たちをじっと見ていた。


 警戒ではない。

 値踏みでもない。


 剣士が、剣士を見る目に近かった。


 メリザが教卓へ立つ。


「本日の基礎講習を始めます。冒険者登録者、学院生、補助職見習い、全員に共通する内容です。迷宮都市ベルディアでは、力だけでは生き残れません」


 教室が少し静かになる。


「迷宮では、魔物よりも先に規則を知らない者が死にます。地図を読まない者、撤退線を残さない者、素材欲しさに隊列を崩す者、罠を踏んでから騒ぐ者。そういう者は、だいたい一層で消えます」


 バルザが壁際で低く笑った。


「いい脅しだ」


 メリザは表情を変えずに続ける。


「では、まず迷宮外縁の基本です。外縁では、都市が管理する通路と未管理区域が混在します。管理札の色を見分けられない者は、講習後に補習です」


 黒板に、色付きの札が描かれていく。


 白札、安全通路。

 黄札、魔物出現あり。

 赤札、罠または崩落あり。

 黒札、侵入禁止。

 灰札、調査中。


 灰札。


 透はその印を見る。


 死んだものを示す灰ではない。

 未確定、未整理、危険と可能性の中間。


 ベルディアの迷宮では、そういう意味らしい。


 講義は思ったより実用的だった。


 素材の持ち帰り方。

 迷宮内での水の扱い。

 同行者が行方不明になった時の手順。

 罠を見つけた時に触らず印を残す規則。

 商会へ素材を売る際の最低価格。


 セイルは真剣に書き取っている。

 ルカも見よう見まねで、札の色を小さな板に描いていた。

 シェラは講義内容を記録しながら、時々補足のように呟く。


「黄札と赤札の境界判断、曖昧」


 メリザがそれを聞き、少しだけ笑った。


「そこが迷宮の厄介なところです。昨日の黄札が、今日には赤札になることもあります」


「更新頻度は」


「浅層は一日一回。深層は帰還者報告次第です」


「遅い」


「ええ。だから冒険者は死にます」


 教室の空気が少し冷える。


 メリザは淡々としていた。


 この教師は、現場を知っている。


 透はそう感じた。


 講義の途中、教室の扉が開いた。


 白い学院服の男が入ってくる。


 四十代前半。

 整えた髭。

 細い目。

 手には銀の指揮棒。


 教室の一部が背筋を伸ばした。


 貴族子弟の席に、緊張が走る。


 メリザの表情がわずかに硬くなった。


「オルベン先生。基礎講習中です」


「承知していますよ、メリザ先生。ただ、昨夜学院の名を騒がせた者たちが、今日の講習に参加すると聞きましてね」


 オルベン・ラース。


 ミレアを呼び出す口実に使われた名前。


 本人が関与しているかは、まだわからない。

 だが、少なくとも剣杯商会と繋がっている。


 オルベンの視線がミレアへ向かった。


 ミレアの肩が小さく跳ねる。


 隣の金髪の少女が、机の下でミレアの手を握った。


 オルベンはすぐに透へ視線を移す。


「あなたが噂の灰色の冒険者ですか。ギルドで随分と派手な試験をしたとか」


 透は答えない。


 オルベンは微笑む。


「学院では、力だけで評価はしません。冒険者ギルドとは違い、規律と知識を重んじます。どうか、その点を誤解なさらないように」


 メリザが声を少し低くする。


「講習は私の担当です」


「ええ、もちろん。ただ、本日の実技確認には上位生も参加させましょう。臨時受講者の力量を、学院として正確に測る必要がありますから」


 教室の前列に座っていた貴族子弟たちの顔に、薄い笑みが浮かんだ。


 その中の一人、栗色の髪を撫でつけた少年が、透を見て言う。


「ギルドの荒っぽい連中相手に勝ったからといって、学院の実技まで通用するとは限らないからね」


 周囲の数人が笑う。


 ミレアの隣の金髪少女が、冷たい目を向けた。


「カイン。講習中よ」


「アルマ、君はまた庶民側か」


 カインと呼ばれた少年は肩をすくめた。


「没落した家の者は、立場が近くて羨ましいね」


 教室の空気が凍った。


 金髪の少女、アルマは表情を変えない。


 だが、指が机の縁を強く掴んでいた。


 透はその手を見た。


 剣を握る者の指だ。


 細く見えて、節が硬い。

 飾りではない。


 オルベンはそのやり取りを止めなかった。


 むしろ、薄く笑っている。


 メリザが教卓を軽く叩いた。


「講義に戻ります」


 その一言で、教室は静まった。


 だが、視線の温度は変わった。


 透たちを見る好奇。

 リィンへの見惚れ。

 シェラへの興味。

 バルザへの警戒。

 そして、灰色の少年への対抗心。


 講義後、訓練場へ移動した。


 学院の訓練場はギルドのものより広い。

 魔法障壁が張られ、木人、標的、模擬罠、石柱が整然と並んでいる。


 メリザが説明する。


「実技確認では、三つの項目を見ます。隊列、罠対応、対人模擬戦。今日は臨時受講者と学院生を混成で行います」


 オルベンが横から口を挟む。


「せっかくですから、優秀な学院生と組み合わせましょう。カイン、前へ」


 栗色の髪の少年が歩み出る。


 装備は上質。

 腰の細剣には、小さな魔石が三つ埋め込まれている。


「カイン・ローデル。学院二年、実技上位。剣杯商会の支援を受けている優良生です」


 剣杯商会。


 その名が出た瞬間、レオナから聞いた夜の帳簿が頭をよぎる。


 カインは透へ笑いかけた。


「よろしく、灰色の冒険者。噂ほどのものか、見せてもらうよ」


 透は静かに見返した。


 カインの剣からは、死んだ魔力の匂いがした。

 剣杯の倉庫にあった装備と似た癖。

 表面は綺麗だが、内側に薄い命令線が隠れている。


 強化。

 補助。

 そして、使用者の動きを外からわずかに矯正する線。


 本人は気づいていないのかもしれない。


 オルベンが続ける。


「相手は……そうですね。シノミヤ君、あなたが出ますか?」


 透は一歩前へ出た。


 バルザが壁際へ下がり、リィンは封印針をしまったまま訓練場の端に立つ。

 シェラは観測位置を取る。


 アルマがミレアの隣から透を見ていた。


 その視線は、さっきより鋭い。


 灰骸刀へ向いている。


 剣士として、そこに何かを感じているのだろう。


 メリザが眉をひそめる。


「実技確認です。過度な攻撃は禁止。双方、寸止めを原則とします」


 カインが優雅に細剣を抜く。


「もちろんです」


 透は灰骸刀を抜かなかった。


 カインの眉が動く。


「武器は?」


「まだいい」


 周囲がざわつく。


 ギルドでの試験を聞いていた者は息を呑み、知らない者は嘲笑した。


 カインの笑みが少し硬くなる。


「学院の実技を軽く見ない方がいい」


 透は構えない。


 ただ、立つ。


 カインが踏み込んだ。


 速い。


 訓練された剣筋だ。

 魔石が光り、足運びを補助している。

 細剣の軌道は綺麗で、無駄も少ない。


 だが、綺麗すぎる。


 誰かに整えられた動き。

 型の中から外へ出られない剣。


 透は半歩動く。


 細剣が外套の横を抜けた。


 カインはすぐに二撃目へ繋ぐ。

 魔石の補助が入り、刃先が不自然なほど滑らかに曲がる。


 透は左手を上げた。


 灰瞬壁を出すほどではない。


 指先で細剣の腹に触れる。


 ほんの少し。


 軌道がずれた。


 カインの体が、補助術式の想定から外れる。


 足がもつれる。


 転ぶ寸前で、彼は何とか踏みとどまった。


 周囲がざわついた。


「今、何をした?」


「触っただけだろ」


「カインの剣がずれた?」


 カインの顔が赤くなる。


 魔石がさらに強く光った。


 今度は、補助ではなく強制に近い動き。


 オルベンの目がわずかに細くなる。


 透はその魔力線を見た。


 剣が、カインを動かしている。


 灰骸刀に手をかける。


 抜く。


 黒灰色の刃が、朝の訓練場に現れた。


 学院生たちが息を呑む。


 カインの細剣が突き出される。


 透の灰骸刀が、その刃に触れた。


 金属音は小さい。


 細剣は折れない。


 だが、魔石の光が一つ、消えた。


 次に二つ目。


 三つ目。


 補助術式が灰になり、カインの体から不自然な動きが抜ける。


 彼は急に重くなった自分の剣に耐えきれず、膝をついた。


 灰骸刀の切っ先が、その喉元の手前で止まっている。


 訓練場が静まり返った。


 透は刃を下ろす。


「剣に動かされてる」


 その一言に、カインの顔が歪んだ。


「な、何を……」


 アルマが訓練場の端で、はっきりと息を呑んだ。


 彼女だけは、今の意味を理解したようだった。


 オルベンの微笑は消えていた。


 メリザは透の灰骸刀と、光を失った細剣を見比べる。


「今のは、術式干渉ですか」


「死んだ継ぎ目を斬った」


「……なるほど。なるほど、では済まないですね」


 シェラが記録する。


「灰骸刀、対補助魔剣干渉成功。使用者強制補助線、切断。物理破壊なし」


 カインは膝をついたまま、細剣を震える手で見ていた。


 高価な剣。

 剣杯商会の支援で与えられた魔剣。

 それが折れていないのに、ただの剣になっている。


 オルベンは静かに言った。


「……興味深い力ですね、シノミヤ君」


 透は灰骸刀を納める。


 鞘が、かちりと鳴った。


 訓練場の空気は、もう最初とは違っていた。


 学院生たちは、灰色の少年を新人として見ていない。

 リィンを見る目には憧れと畏れが混ざり、シェラを見る目には好奇心だけではない警戒が生まれていた。


 アルマは透へ近づいた。


 金髪が朝日に揺れる。


「今の刃、剣を殺さずに術式だけを殺したの?」


「ああ」


「……そんな剣、見たことがない」


 彼女は一度、カインの沈黙した細剣を見た。


「でも、あの剣は嫌いだった。人の手を上手くするんじゃなく、人の手を奪う剣だったから」


 透はアルマを見た。


「剣士か」


「アルマ・ヴェルク。家はもう名ばかりだけど、剣は捨ててない」


 彼女は短く名乗った。


 その目に、媚びはない。


 助けを求める弱さもない。


 ただ、灰骸刀を見た剣士としての震えがあった。


「いつか、あなたの剣をもう一度見たい」


 透は答えた。


「機会があればな」


 アルマは頷き、ミレアの元へ戻った。


 オルベンはその背を冷たい目で見ている。


 その目も、透は見た。


 学院の朝は、まだ始まったばかりだった。


 だが、灰色の噂はもう、講義室にも訓練場にも染み込み始めている。


 そして、その灰は、隠されたものの輪郭を少しずつ浮かび上がらせていた。


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