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第60話 剣杯の地下

 夜の冒険者ギルドは、昼よりも荒い匂いがした。


 酒。

 汗。

 血のついた革鎧。

 迷宮帰りの魔物素材。

 そして、酔いに紛れた人の声。


 透たちが三人の商会私兵を引きずって入った瞬間、その喧騒が途切れた。


 バルザは二人を片手ずつで掴み、まるで荷袋のように床へ放る。

 もう一人は、リィンの封印線で手首と口を縛られたまま、シェラに縄を引かれていた。


 受付嬢が目を見開く。


「シノミヤさん……その方たちは?」


 透はカウンターに布切れと徽章を置いた。


「南商業区で拾った」


 徽章には剣と杯の紋章。

 ただし、裏に縫い込まれていた魔力線は、すでに灰になっている。


 受付嬢の顔つきが変わった。


「ギルド長を呼びます」


 その声に、酒場の奥でダグラスが立ち上がった。


「おいおい、初日から何を拾ってきた」


「人攫いの手がかり」


 透が答えると、笑っていた冒険者たちの顔が引き締まった。


 人攫い。


 迷宮都市ベルディアでは、誰もがその噂を聞いている。

 だが、酒場の笑い話にはならない。

 消えるのは、自分かもしれないし、自分の知り合いかもしれないからだ。


 階段を下りてきたレオナは、夜着ではなくギルド長の黒い上着を着ていた。

 眠っていたわけではないらしい。


「説明しろ」


 透は南商業区で聞いた話から、路地で拾った布、剣杯商会の私兵、徽章の魔力線、倉庫の地下に置いたという自白までを短く伝えた。


 シェラが一歩前へ出る。


「発言記録、再生可能」


 彼女の胸核が青白く光り、路地での男の声が低く再生された。


 ――俺たちは運んだだけだ! 倉庫の地下に一晩置いて、朝には別の連中が――


 ギルド内がざわついた。


 レオナの目が細くなる。


「十分だ。少なくとも、今夜中に倉庫へ入る理由にはなる」


 私兵の一人が封印線越しに何か叫ぼうとする。


 リィンが指先を少し動かすと、封印線が喉元で締まり、声は出なかった。


 レオナは受付嬢へ指示を飛ばした。


「夜番を呼べ。ダグラス、動ける者を四人。騒ぎが大きくなる前に行く」


「了解」


 ダグラスは酒杯を置き、背の剣を担いだ。


 酒場の冒険者たちのうち、数人が即座に立ち上がる。

 酔っていたはずの目が、急に冴えたものへ変わっていた。


「ギルド長、商業ギルドへの通達は」


 受付嬢が尋ねる。


「後だ。今通せば倉庫が空になる」


「衛兵は?」


「門番隊へ一人走らせろ。正規の衛兵詰所にはまだ伝えるな。剣杯に近い者がいる」


 レオナの判断は速い。


 それは荒っぽいようで、街の汚れを知っている者の動きだった。


 透は三人の私兵を見る。


「こいつらは」


「地下室に入るまで連れていく。案内役だ。証人にもなる」


 レオナが言うと、ダグラスが笑った。


「歩けよ、商会の番犬ども。今夜はいい夜散歩だ」


 私兵たちの顔色が悪くなった。


 ギルドの裏口から、少人数の一団が出た。


 透、リィン、バルザ、シェラ。

 レオナ、ダグラス、ギルド夜番の冒険者四人。

 そして、拘束された剣杯の私兵三人。


 セイルとルカは宿に残した。

 宿の女将に事情を伝えると、女将は腕を組んで言った。


「南の連中かい。なら遠慮はいらないよ。うちの床を血で汚さない場所でやっとくれ」


 ベルディアの夜道は、さらに深くなっていた。


 中央広場から南商業区へ向かうにつれ、灯りは減り、人通りも少なくなる。

 閉じた店の戸口。

 荷車の影。

 路地の奥で揺れる薄い赤い灯。


 昼には見えなかった街の裏側が、闇の中で口を開けている。


 剣杯商会の表通りの支店は、すでに扉を閉ざしていた。

 磨かれた看板だけが月明かりを受けている。


 だが、裏手へ回れば匂いが変わる。


 古い血。

 薬草。

 湿った布。

 恐怖の汗。

 そして、追跡札に似た死んだ魔力。


 バルザが低く言った。


「地下に五、いや六。生きてる。上に私兵が八。奥に魔道具の匂い」


 シェラが右目を光らせる。


「建物構造、地上倉庫二層、地下空間あり。警報術式、三。連絡線、外部二方向」


 透は壁に指を当てた。


 灰が走る。


 警報術式は派手なものではない。

 扉を開けた者の魔力を拾い、商会支店とどこか別の場所へ知らせる仕組み。


 徽章と同じ癖。

 剣杯の表の術式に、黒鞭系の痛みの線が薄く混じっている。


 灰骸刀を抜く。


 灰の刃が、夜の路地で音もなく伸びた。


 斬るのは錠ではない。

 警報でもない。


 警報が外へ走るための、死んだ継ぎ目。


 刃先を壁に滑らせると、見えない線が三本、灰になって散った。


 シェラが告げる。


「警報術式、沈黙」


 レオナが短く笑う。


「便利だな、その刀」


「物による」


「この街には斬ってほしいものが多そうだ」


 ダグラスが私兵の一人を前に出す。


「鍵」


 男は首を横に振る。


 ダグラスは笑顔のまま、男の肩に手を置いた。


「鍵」


 男は震える手で腰袋から鍵束を出した。


 扉が開く。


 倉庫内は暗かった。


 積み上げられた木箱。

 麻袋。

 薬草の匂い。

 迷宮用の油、縄、保存食、安価な革鎧。


 表向きは普通の倉庫だ。


 だが、床の奥に不自然な隙間がある。


 地下扉。


 その前に、四人の私兵がいた。


「誰だ!」


 声が上がるより早く、ダグラスが踏み込んだ。


 拳で一人を壁へ叩きつけ、もう一人の剣を肘で押さえる。

 レオナの短剣が三人目の喉元へ滑り、夜番の冒険者が四人目の膝を払った。


 透が動く前に、地上の冒険者たちは私兵を制圧していた。


 弱くはない。


 こういう裏の仕事に慣れている。


 透は地下扉へ向かう。


 扉には、より濃い術式があった。


 開けた瞬間、内側の証拠を燃やす仕組み。

 紙や布、荷札、首輪の魔力線をまとめて焼く小型の消去術式。


 透は眉を寄せた。


「証拠消しがある」


 レオナの目が鋭くなる。


「止められるか」


 返事の代わりに、透は灰骸刀を構えた。


 刃を扉へ突き立てない。


 表面を撫でるように走らせる。


 消去術式の外殻は残す。

 芯にある発火命令だけを斬る。


 灰の刃が一度だけ震えた。


 扉の裏で、ぱき、と小さな音がする。


 焦げ臭さは出ない。


 シェラが確認する。


「消去命令、断絶。証拠保全可能」


 ダグラスが低く口笛を吹いた。


「魔道鍵師が泣くぞ」


 地下扉が開いた。


 冷たい空気が上がってくる。


 その匂いを嗅いだ瞬間、リィンの目が冷たくなった。


「封環」


 バルザの牙が剥き出しになる。


「首輪の匂いだ」


 地下は、倉庫ではなかった。


 石壁の細い通路。

 両側に鉄格子。

 床には藁。

 壁には魔力を吸う黒い札。

 奥には荷箱ではなく、人を入れる檻が並んでいた。


 中に、五人いた。


 亜人の少年。

 片目を腫らした若い女。

 老人。

 そして、兎の耳を持つ少女が、壁際で膝を抱えている。


 ミレアだろう。


 耳は片方が垂れ、手首には細い封環。

 口元には声を封じる札が貼られている。


 彼女は足音に怯え、肩を震わせた。


 私兵の一人が後ろで叫ぶ。


「商品に触るな! それは正式な――」


 言葉は最後まで続かなかった。


 バルザの拳が、男の顔の横の壁を砕いていた。


 石片が落ちる。


 私兵は腰を抜かし、声を失う。


 透は振り返らずに檻の前へ立った。


「ここにも、その言葉を使うのか」


 声は低かった。


 地下の空気が沈む。


 檻の中の者たちでさえ、息を潜めた。


 透は灰骸刀を鞘へ戻し、左手を鉄格子へ置く。


 鉄そのものは壊さない。


 錠に絡む命令線だけを喰う。


 鍵穴の奥で、かちりと音がした。


 檻が開く。


 リィンがすぐに中へ入り、ミレアの口元の札を剥がさず、封印針で術式だけを止める。

 札を無理に剥がせば皮膚ごと裂けるように作られている。


 青い線が札の縁をなぞり、痛みの棘を抜く。


 ミレアが小さく咳き込んだ。


「声、出せる」


 リィンが言う。


 ミレアの唇が震えた。


「たす……け……」


 言葉になりきる前に、涙が落ちた。


 リィンは彼女の肩へ灰布をかける。


「もう声を取られない」


 その一言で、ミレアは泣き出した。


 レオナは地下室全体を見回していた。


 怒りを表に出さない顔。

 だが、指先が白くなるほど拳を握っている。


「帳簿を探せ。荷札、封環、移送契約、全部押さえろ」


 夜番の冒険者たちが動く。


 シェラは奥の机へ向かい、引き出しを開けた。


「帳簿、発見。二重底あり」


 彼女は躊躇なく底板を外す。


 中には薄い金属板と、数枚の契約書があった。


 セイルがいれば顔を青くしていただろう。

 そこに刻まれていたのは、黒鞭商会の鞭印と、剣杯商会の剣杯印。


 両方だ。


 レオナがそれを見て、低く言う。


「ようやく尻尾を出したな」


 透は封環を外していく。


 ミレアの手首。

 亜人の少年の首。

 若い女の足首。


 どれも細く、雑だ。

 奈落で見たバルザの封環やイーシャの追跡札ほど強力ではない。


 だが、痛みと命令の仕組みは同じだった。


 逃げるな。

 声を出すな。

 逆らえば焼く。


 灰が、それを喰う。


 封環が落ちるたび、檻の中の者たちが信じられない顔をした。


 バルザは地下の奥にあった荷車を蹴り倒した。


 中から、布袋がいくつも落ちる。


 髪紐。

 小さな靴。

 木札。

 名前を書いた布。


 消えた者たちの持ち物だ。


 ダグラスの顔から笑みが消えた。


「胸糞悪いな」


 レオナはその布袋を一つずつ確認し、夜番に渡す。


「証拠袋へ。誰のものか照合する」


 その時、地下の奥の壁が震えた。


 隠し扉。


 そこから、黒い外套の男が一人出てきた。


 商会私兵ではない。


 黒鞭商会の回収人に似た革装備。

 手には細い黒鞭。

 腰には、複数の追跡札。


 男は地下室の惨状を見て、顔を歪めた。


「剣杯の犬ども、何をしくじって――」


 男の目が透に止まった。


 黒鞭。

 追跡札。

 奈落で砕いた商会印。


 記憶が繋がる。


 男の顔色が変わった。


「灰……お前、奈落の……!」


 逃げようとした。


 透は灰骸刀を抜かなかった。


 床の灰を起こし、男の足元に小さな壁を立てる。

 踏み出した足が弾かれ、体勢が崩れる。


 バルザが一歩で詰める。


 黒鞭が振られる前に、男の手首を掴んだ。


 骨の軋む音。


「久しぶりだな、黒鞭」


 バルザが牙を剥く。


 男は悲鳴を上げかけた。


 リィンの封印針が喉元の声出し札を縫い、悲鳴は潰れた。


 透は男の腰から追跡札を抜き取る。


 灰を通す。


 札の中に、いくつもの位置情報が残っていた。


 ベルディア南商業区。

 旧道。

 迷宮外縁。

 そして、まだ名前のない複数の点。


 人だ。


 追われている者たち。


 透の灰が冷たくなる。


「レオナ」


 彼は札を差し出した。


「まだいる」


 レオナは札を見て、すぐにダグラスへ命じた。


「ギルドへ戻って夜番を増やせ。門番隊へ正式連絡。商業ギルドは後回しだ。黒鞭の札を押さえた以上、衛兵も動ける」


「了解」


 ダグラスが走り出す。


 地下室の空気は重い。


 だが、檻の中の者たちは外へ出始めていた。


 ミレアはまだ立てない。

 リィンが肩を貸し、灰布を巻く。

 兎の耳が震え、涙で濡れた顔が透を見る。


「あなたは……」


 透は答える。


「ギルドの者だ」


 少し違う。

 だが、今はその方が彼女にはわかりやすい。


 ミレアは首を横に振った。


「違う……灰の……」


 声はそこで途切れた。


 地上へ出て、まだ数日も経っていない。


 それでも、その呼び名はもう、こういう地下にまで落ちてきている。


 透は周囲を見た。


 檻。

 封環。

 声を封じる札。

 剣杯と黒鞭の印。

 泣いている子ども。

 怒りを堪える冒険者。


 奈落だけではなかった。


 地上にも、捨てられる者たちはいる。


 なら、ここでも同じだ。


 透は黒鞭の男の前にしゃがみ、彼の目を見た。


「お前たちは、また間違えた」


 男の額から汗が落ちる。


「奈落まで来た時に、覚えておけばよかったんだ」


 透の指先が、黒鞭の商会印へ触れる。


 灰が走った。


 印に刻まれた支配の線、追跡の線、痛みの線。

 すべてがほどけて灰になる。


 男の顔が恐怖に歪んだ。


 透は立ち上がる。


 地下の檻は開いた。


 証拠は押さえた。


 逃げ道も、これから潰す。


 ベルディアの夜は、もう静かではいられなかった。


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