表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

59/87

第59話 南商業区の影

 ギルドが紹介した宿は、中央広場から少し北へ入った場所にあった。


 名は《角鹿亭》。


 石造りの一階に酒場、二階と三階に客室が並ぶ、迷宮都市では中堅どころの宿らしい。扉の上には、立派な角を持つ鹿の木彫りが掲げられている。


 宿の女将は、透たちを見て一瞬だけ目を丸くした。


 無理もない。


 灰色の外套を着た少年。

 銀髪の少女。

 大柄な獣人。

 片腕の欠けた機兵少女。

 顔色の悪い術師。

 灰布を抱えた子ども。


 まとまりがあるようで、地上のどんな一団にも見えない。


 だが、女将はすぐに営業用の笑みへ戻った。


「ギルド長から話は聞いてるよ。六人だね。大部屋一つと、隣に小部屋一つを空けてある」


 バルザが室内を見回す。


「獣人お断り、ではないのか」


 女将は鼻で笑った。


「金を払って、床を壊さず、他の客を食わないなら泊めるよ」


「俺は人を食わん」


「なら問題ないね」


 バルザは気に入ったように笑った。


 シェラはカウンターの上に置かれた宿帳を見ている。


「宿帳、手書き。改竄容易」


「泊まる前から物騒なことを言うんじゃないよ」


 女将はそう言いながらも、怖がってはいなかった。


 ギルド長から何か言われているのだろう。

 あるいは、迷宮都市の宿屋は多少の異物では驚かないのかもしれない。


 透は登録証を出した。


 女将はそれを確認し、鍵を二つ置く。


「灰色の坊や、部屋は二階の奥だ。湯は裏庭。食事は鐘が鳴ったら下りてきな。武器は抜かない。喧嘩は外。血を床に落としたら掃除代を取る」


「わかった」


「よろしい」


 女将はルカを見た。


「子どもにはあとで温い乳を出すよ」


 ルカが目を瞬かせる。


「ちち?」


 バルザが吹き出した。


 セイルが慌てて説明する。


「牛や山羊の乳です。飲み物ですよ」


「水じゃないの?」


「水ではありません」


 ルカはまた未知のものを見る顔になった。


 この街に来てから、ルカの世界は忙しい。

 噴水。果実水。宿。空。星。乳。


 奈落にはなかったものばかりだ。


 部屋に入ると、まずシェラが窓と扉の構造を確認した。


「侵入経路、窓一、扉一、天井板薄部二。床下空間、なし」


 セイルが荷を置きながら苦笑する。


「宿で最初にそれを調べるんですね」


「必要」


 リィンは窓辺に立ち、外を見下ろしていた。


 二階の窓からは、ベルディアの通りが見える。

 石畳を歩く人々。

 屋台の灯り。

 酒場の笑い声。

 遠くに見える迷宮入口の塔。


 夕暮れが過ぎ、街は夜の顔へ変わり始めていた。


 奈落の夜とは違う。


 暗いのに、人の火が多い。

 闇の中に、生活の光が並んでいる。


 ルカは窓から顔を出そうとして、透に襟を掴まれた。


「落ちる」


「見たかっただけ」


「身を乗り出すな」


「うん」


 ルカは少しだけ頬を膨らませたが、すぐに通りへ目を戻した。


 バルザは床の強度を確かめるように足で軽く叩いた。


「まあ、寝るだけなら足りるか」


「壊すなよ」


「寝てる間に壊れたら宿のせいだ」


「お前の重さのせいだ」


「獣人差別だな」


 その軽口を聞きながら、透は腰の灰骸刀を外し、壁際に置いた。


 鞘の中の刃は静かだ。


 街へ入ってから、灰骸刀は何度か薄く反応していた。

 魔道具屋の粗悪な呪具。

 酒場の隅に残る古い血の魔力。

 冒険者の剣に絡みついた迷宮帰りの残滓。


 ベルディアは、奈落ほど死んだ魔力に満ちてはいない。


 だが、完全に清浄でもなかった。


 人が集まり、迷宮があり、商会があり、裏市場がある。

 きれいな水の下にも、灰になるものは潜んでいる。


 食堂へ下りると、宿の客たちの視線が集まった。


 ギルドから噂が回るには早すぎる。

 だが、通りや門で見た者が先に話していたのだろう。


 灰色の一行。


 その呼び名は、もう宿の中にも届いていた。


 女将が大皿を並べる。


 硬い黒パン。

 煮込んだ豆と肉。

 焼いた川魚。

 塩漬け野菜。

 そして、ルカの前には温かい乳が置かれた。


 ルカは両手で杯を持ち、恐る恐る飲む。


 目が丸くなる。


「……変な水」


 女将が大笑いした。


「水じゃないって言っただろう」


「でも、嫌じゃない」


「なら飲みな」


 リィンは川魚をじっと見ていた。


「これは?」


「魚だ」


 透が答える。


「水の中にいる生き物」


「水骸じゃなくて?」


「違う」


 リィンは少しだけ箸代わりの木串を止め、それから小さく口に運んだ。


 しばらく無言。


「……塩」


「塩だな」


「魚、塩」


「そうだな」


 なぜか真剣に頷いている。


 バルザは肉の煮込みを気に入ったらしく、大皿をほとんど一人で空にしようとしていた。

 セイルは久しぶりの地上の食事に、ほっとしたように息をついている。

 シェラは食べない。ただ、料理の湯気を解析するように見ていた。


「有機栄養摂取、不要。ただし香気情報、記録可能」


「食べなくていいのか」


 ルカが聞く。


「不要」


「おいしいのに」


 シェラは一拍置いた。


「味覚機能、損傷」


 ルカの表情が少し曇る。


「直る?」


「修復部品、不足」


「じゃあ、部品探そう」


 シェラは青白い目でルカを見た。


「目的追加。味覚機能修復」


「うん」


 ルカは当然のように頷いた。


 シェラはしばらく黙り、それから小さく告げる。


「記録した」


 食事の途中、隣の席の冒険者たちの会話が耳に入った。


「南商業区の裏通りで、また一人消えたらしいぞ」


「またか。今度は誰だ」


「迷宮学院の下働きだとよ。亜人混じりの娘らしい。夜に薬を買いに出て、そのまま戻らねえ」


「黒鞭か?」


「声がでかい。殺されるぞ」


「でもよ、あの辺りは剣杯の倉庫があるだろ。偶然にしては多すぎる」


「証拠がねえんだよ。ギルド長も動きたがってるらしいが、商業ギルドが止める」


 透は杯を置いた。


 リィンも聞いている。

 バルザは肉を噛みながら、目だけを冒険者たちへ向けた。

 セイルは顔色をさらに悪くしている。


 迷宮学院の下働き。

 亜人混じりの娘。

 薬を買いに出て戻らない。

 南商業区。

 剣杯の倉庫。


 レオナが出した依頼と繋がる。


 消える者たちは、いつも身元の薄い者ばかり。


 食事を終えると、透は隣席の冒険者へ声をかけた。


「今の話、詳しく聞きたい」


 冒険者たちは一瞬身構えた。


 昼間ギルドで話題になった灰色の少年だと気づいたのだろう。


 一人が慎重に答える。


「あんた、今日登録した新人だろ」


「ああ」


「新人が首突っ込む話じゃねえぞ」


「消えた娘の名前は」


 冒険者は口を閉じた。


 もう一人、痩せた男が周囲を見てから低く言う。


「ミレア。兎人の血が入った娘だ。学院の薬草庫で下働きしてる。年は十五か十六。昨日の夜、南商業区の薬屋へ使いに出された。戻ってねえ」


「学院は」


「騒ぎにしたがってるが、下働き一人で大事にしたくない連中もいる。貴族子弟が通ってる場所だからな。面倒は嫌う」


「剣杯の倉庫はどこだ」


 男は目を細めた。


「行く気か」


「場所を聞いている」


「南三番倉庫街。赤い杯の看板がある建物の裏手だ。ただし、倉庫の前には私兵がいる。近づけば揉めるぞ」


「薬屋は」


「白柳薬舗。剣杯の倉庫から二筋離れてる」


 透は頷いた。


「助かった」


 冒険者は透の背後のリィンやバルザを見て、声を落とした。


「本当に行くなら、夜は避けろ。南商業区は、夜になると別の街になる」


 透は答えず、立ち上がった。


 女将がカウンターから鋭い目を向ける。


「灰色の坊や。部屋は取ったばかりだよ」


「少し歩く」


「南へ行くなら、道を選びな。大通りを外れるんじゃないよ」


 宿の女将も聞いていたらしい。


 透は軽く頷いた。


 外へ出るのは、透、リィン、バルザ、シェラ。

 セイルとルカは宿に残す。ルカは少し不満そうだったが、ニオから聞いた噴水の話を宿の子どもたちに聞きに行くと決めたようだった。


 セイルは帳簿紙を広げ、ギルド長から預かった学院講習の案内を確認している。


「明日の朝鐘二つ目、迷宮学院です。遅れないようにしてください」


「戻る」


 ベルディアの夜道は、昼とは違う匂いがした。


 酒。

 香油。

 煙草。

 火薬に似た魔道粉。

 安い香水。

 金属と汗。


 中央広場の噴水は夜でも水を上げている。

 魔道灯の光を受け、水が白く輝いていた。


 そこから南へ進むと、街の空気は少しずつ変わる。


 商業区。


 昼の顔は、明るい店と荷運びの声。

 夜の顔は、閉じた扉と細い路地、私兵の影。


 剣杯商会の支店はすぐに見つかった。


 大通りに面した立派な建物。

 看板には、剣と杯の紋章。

 窓には高級な迷宮装備や薬瓶が並んでいる。


 表向きは清潔だった。


 よく磨かれた扉。

 整った店構え。

 白い手袋の店員。


 だが、透の灰域には別のものが引っかかった。


 店の裏手。

 地面に染みた薄い死魔力。

 荷車の轍に絡んだ焦げた魔力線。

 そして、かすかな痛みの残滓。


 追跡札に似ている。


 黒鞭商会の札ほど露骨ではない。

 もっと薄く、帳簿に紛れるような術式。


 バルザが鼻を鳴らす。


「子どもの匂いがある。亜人だな。薬草と血の匂いも少し」


 リィンは路地の奥を見た。


「封じた跡。声を止める小さい術式」


 シェラの右目が光る。


「痕跡、新しい。経過時間、二十から三十時間。対象、南三番倉庫方面へ移動」


 透は路地へ入った。


 大通りの光が届かなくなる。


 石壁が迫り、足元には汚れた水が溜まっている。

 ネズミが走り、遠くで笑い声がする。


 路地の角に、布切れが落ちていた。


 薄茶色の布。

 端に、薬草庫の印らしい緑の刺繍。


 リィンが拾い上げる。


「引き裂かれてる」


 透は布の端に残る灰を読んだ。


 手で掴まれた痕。

 口を塞がれた痕。

 短い抵抗。

 声を殺す術式。


 その奥に、兎のような小さな気配があった。


 恐怖。


 そして、まだ死んでいない温度。


「生きてる」


 透が言うと、バルザの目が鋭くなった。


「どっちだ」


 透は南三番倉庫街の方を見る。


「倉庫」


 その時、路地の奥から三人の男が現れた。


 商会の私兵だろう。

 黒ではなく、濃い茶色の革鎧。

 胸には小さな剣杯の徽章。


 先頭の男が笑う。


「こんな時間に、裏道で何をしている」


 透は布切れをリィンから受け取った。


「落とし物を探している」


「それはうちの荷場の布だ。返してもらおうか」


「持ち主に返す」


 男の笑みが消えた。


「お前、今日ギルドで騒ぎを起こした灰色の新人だな。調子に乗るなよ。ここは迷宮じゃない。商会の区画だ」


 背後の二人が道を塞ぐ。


 バルザが低く笑った。


「狭い路地で俺を囲むのか。勇敢だな」


「獣人は黙っていろ」


 その一言で、バルザの笑みが冷えた。


 透は一歩前に出た。


 私兵の手が剣へ伸びる。


 抜く前に、透の灰が足元へ走った。


 灰瞬壁ではない。

 小さな灰の圧を、三人の膝裏の寸前に置く。


 踏み込もうとした足が止まり、体勢が崩れる。


 先頭の男が膝をついた。


「なっ……」


 透は近づき、男の胸の徽章を見た。


 剣と杯。

 その裏に、細い魔力線が縫い込まれている。


 追跡。

 連絡。

 証拠消し。


 透は指先で徽章に触れた。


 灰が線だけを喰う。


 徽章の魔力が消えた。


 男の顔色が変わる。


「お前、何を――」


「ミレアはどこだ」


「知らない」


 透は男の目を見た。


 嘘だ。


 リィンが横で布切れを揺らす。


「この布、あなたの後ろの男に反応してる」


 後ろの男が肩を震わせた。


 バルザが一歩で距離を詰め、その襟首を掴む。


「話すか?」


「し、知らねえ! 俺たちは運んだだけだ! 倉庫の地下に一晩置いて、朝には別の連中が――」


 男はそこで口を押さえた。


 遅い。


 透は南三番倉庫の方へ視線を向ける。


 朝には別の連中。


 今夜が境目だ。


 シェラが告げる。


「発言記録完了。対象、誘拐搬送への関与を自白」


 先頭の男が顔を歪め、腰の笛へ手を伸ばした。


 リィンの封印針がその手首を壁に縫った。


 笛は鳴らない。


 透は三人の徽章から連絡線だけを灰にした。


 殺さない。

 騒ぎを大きくしない。

 だが、逃がさない。


「ギルドへ運ぶ」


 バルザが二人をまとめて掴む。


「三人目は?」


 シェラが路地の隅に落ちていた縄を拾う。


「拘束可能」


 リィンが封印線で口を塞ぐ。


 商会私兵たちは、あっという間にただの荷物になった。


 透は倉庫街の方角を見る。


 今すぐ踏み込めば、ミレアを見つけられるかもしれない。

 同時に、剣杯商会の私兵と役人が動く。


 証拠は必要だ。


 この三人と、徽章と、布切れ。

 それだけでは足りない。


 倉庫地下の痕跡。

 搬送記録。

 生きている被害者。


 そこまで揃えれば、レオナが動ける。


 透は路地の壁へ薄く灰標を残した。


 南三番倉庫街の入口。

 ミレアの布。

 剣杯の徽章。

 声を殺す術式の跡。


 灰域の中に、線が引かれる。


 バルザが低く言う。


「このままギルドへ戻るのか」


「一度戻る。レオナに渡す。倉庫へは準備して入る」


「逃げられるぞ」


 透は倉庫街を見た。


 奥で、わずかに灰が震えている。


 徽章の連絡線を切ったことで、向こうはまだ気づいていない。

 だが、朝までは動く。


「その前に行く」


 短く言って、透は踵を返した。


 路地の上には、ベルディアの夜空が細く見えていた。


 奈落にはなかった星が、そこにも光っている。


 その下で、人を攫う連中が商会の看板を掲げている。


 灰骸刀は鞘の中で、静かに眠っていた。


 次に抜く時は、死んだ命令だけでは済まないかもしれなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ