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第58話 灰の登録証

 ギルド長レオナ・グランツの執務室は、冒険者ギルドの三階にあった。


 階段を上がる途中でも、下の訓練場のざわめきは聞こえていた。


 B級冒険者ダグラスから一本取った新人。

 魔剣を折らずに沈黙させた灰の刀。

 岩背猿を殺さず追い払った灰色の少年。


 噂は、もう酒場の卓を渡り始めている。


 透は階段の踊り場から一度だけ下を見た。


 冒険者たちの視線が集まる。

 好奇。警戒。嫉妬。値踏み。

 奈落の魔物とは違う、人間の視線。


 腰の灰骸刀は静かに眠っている。


 レオナの執務室は、余計な装飾のない部屋だった。


 壁にはベルディア迷宮の階層図。

 棚には魔物素材の標本。

 大机には依頼書、討伐報告、収支帳簿が積まれている。


 机の端には、折れた剣が一本置かれていた。


 ただの飾りではない。

 刃の断面に、焦げたような魔力の痕が残っている。


 レオナは椅子に座らず、机に軽く腰を預けた。


「まず、登録希望者を確認する。篠宮透、リィン、バルザ、シェラ、セイル、ルカ。この六名で間違いないな」


「ああ」


「リンド商会が保証人。旧道で岩背猿を含む魔物群から商隊を救出。門での仮入市証あり。訓練場ではB級冒険者ダグラスと手合わせし、無傷で勝利。魔剣の術式を破壊せず停止させた」


 レオナは紙を一枚めくる。


「ここまでなら、ただの有望な新人では済まない」


 彼女の視線が透へ向く。


「出身は奈落の下、と門で言ったそうだな」


 受付嬢の肩がわずかに揺れた。


 セイルは顔色を悪くする。

 バルザは腕を組んで壁際に立ち、リィンは窓辺に近い位置で静かにしていた。

 シェラは部屋の地図を見ている。

 ルカは透の近くで、壁の魔物標本を少し警戒していた。


 透は答えた。


「そうだ」


「冗談ではなく?」


「冗談で使う場所じゃないだろ」


「確かにな」


 レオナは目を細めた。


「奈落に落とされた者が戻ってくる例は、記録上ほとんどない。戻ったとしても、正気を失っているか、呪いを抱えているか、魔物に近いものになっている」


「全部外れているとは言わない」


 レオナの口元がわずかに動いた。


「正直だな」


「嘘をつく理由がない」


「あるぞ。街に入りやすくなる。疑われにくくなる。ギルドに縛られにくくなる」


「それで後からばれる方が面倒だ」


「なるほど」


 レオナは机の上の折れた剣へ指を置いた。


「私はベルディアで十年以上ギルド長をしている。迷宮帰りの馬鹿、貴族の犬、商会の手先、呪具を隠した魔術師、魔族狩り、奴隷商、勇者気取りの若造。大抵の面倒は見てきた」


 彼女は透の腰を見る。


「だが、奈落帰りで、灰を操り、古代刀を持ち、封印師と獣人と機兵を連れている少年は初めてだ」


 バルザが低く笑った。


「長生きしてみるもんだな、ギルド長」


「お前ほど長くはないだろうがな、獣人」


「俺はまだ若い」


「その顔で?」


「失礼な女だ」


 部屋の空気が少しだけ緩む。


 レオナは受付嬢へ目を向けた。


「登録規定を出せ」


「はい」


 受付嬢は書類を差し出した。


 レオナはそれを机に置き、透たちへ説明する。


「通常、新規登録者はF級から始まる。だが、実力が確認された場合、E級またはD級からの開始もある。C級以上は例外だ。都市防衛や迷宮依頼に関わるため、ギルド長権限だけで即時発行はできるが、後で審査が入る」


 彼女は透を見た。


「お前は最低でもC級相当。ダグラスが本気の手前まで出して、なお止められた。魔剣の件を含めればB級案件にも出せる」


 周囲がわずかに静まる。


「だが、地上の規則、迷宮の常識、街での依頼処理、素材売却、貴族や商会との距離の取り方を知らない。力だけでランクを上げれば、別の場所で揉める」


「講習があるのか」


「ああ。ベルディア迷宮学院の基礎講習だ。冒険者ギルドの付属機関で、新人や外部登録者に迷宮都市の規則を叩き込む。普通は三日。お前たちは一日でいい。座学と迷宮外縁実習を受けろ」


 学院。


 透はその言葉を聞いた。


 日本の学校とは違う。

 王国の勇者訓練とも違うだろう。

 迷宮都市で生きるための講習。


 必要なら受ける。


「登録証は」


「仮C級を出す。正式ランクは講習後に決める。リィンは封印師としてD級相当。実地確認後、C級もありえる。バルザは前衛としてC級相当。シェラは特殊登録、補助職扱いだが、解析能力次第で個別契約を付ける。セイルは補修術師としてE級。ルカは補助登録」


 ルカが小さく胸を張った。


「補助」


 シェラが淡々と続ける。


「個別契約、条件確認希望」


「後で話す。機兵に契約書を読ませるのは初めてだが、面白そうだ」


「契約条項の不備、指摘可能」


「ますます面白いな」


 レオナは笑った。


 それから、表情を引き締める。


「ただし、一つ確認する。街の中で、人を殺すな。商会を潰すな。門番を脅すな。貴族の馬車を燃やすな。ギルドの訓練場を勝手に壊すな」


 バルザが透を見る。


「最後のはダグラスのことだろ」


「半分はな」


 レオナの視線が透へ戻る。


「お前たちが黒鞭商会と剣杯商会の名を出していることは、すでに聞いている」


 空気が変わった。


 セイルが息を止める。

 リィンの指先が静かに封印針へ触れた。

 ルカの表情が硬くなる。


 レオナは続けた。


「黒鞭は裏で奴隷を扱う連中だ。ベルディアにも枝がある。剣杯商会は表向きは合法商会。冒険者向け装備、薬、迷宮食、護衛斡旋。ギルドとも取引がある」


「繋がっているのか」


「証拠はない。噂はある。証言は消える。帳簿は綺麗すぎる。行方不明者は、いつも身元の薄い者ばかりだ」


 レオナの声は苦い。


「ギルドが何もしなかったわけじゃない。だが、正面から踏み込めば商業ギルドと役所が止める。証拠不十分。営業妨害。貴族の紹介状。いくらでも盾がある」


「なら、証拠が要る」


「そうだ」


 レオナは机の上の依頼書を一枚取り出した。


「ちょうどいい依頼がある」


 紙には、迷宮外縁の失踪調査と書かれていた。


「ベルディア迷宮の一層外縁で、採取人が二人消えた。魔物に食われたなら骨や荷が残る。罠なら痕跡がある。だが、今回は何もない。現場近くで剣杯商会の荷運びが目撃されている」


 透は依頼書を見る。


「黒鞭は」


「目撃なし。ただ、消えた二人のうち一人は亜人の子どもだ。孤児院から出された補助採取人。売れば金になる」


 ルカの手が灰布を握った。


 透は依頼書を受け取った。


「受ける」


 レオナは少しだけ眉を上げた。


「登録前だぞ」


「登録するんだろ」


「講習前だ。規定では、外縁調査は講習後が望ましい」


「明日、学院講習。今日は情報を集める。現場へは講習後に入る」


 レオナは数秒、透を見た。


 それから笑った。


「話が早い。だが、勝手に裏市場へ殴り込むなよ」


「現場を見るのが先だ」


「そうしてくれ。ギルドとしても、証拠なしに商会戦争は困る」


 バルザが不満そうに鼻を鳴らした。


「商会戦争って響きは悪くねえがな」


「街が燃える。やめろ」


 レオナは受付嬢へ指示を出した。


「登録証を発行しろ。仮C一枚、D一枚、C一枚、特殊補助一枚、E一枚、補助登録一枚。備考に、講習必須、外縁実習待ちと入れる」


「はい」


 受付嬢は小さな金属札を取り出した。


 ベルディア冒険者ギルドの紋章が刻まれた登録証。

 透のものには、仮Cの印と、灰色の小さな線が入っている。


「こちらが登録証です。紛失した場合は再発行料がかかります。犯罪行為が確認された場合は停止されます。依頼未達成や違約も記録されます」


 透は登録証を受け取った。


 冷たい金属。


 地上で動くための名札。


 奈落で刻んだ掟とは違う。

 地上の社会が認める、一時的な身分。


 これがあれば、宿に泊まれる。

 依頼を受けられる。

 街を歩ける。

 情報を買える。


 ルカは自分の小さな補助登録証を両手で持った。


「これ、僕の?」


「そうです。失くさないでくださいね」


 受付嬢が優しく言う。


 ルカは真剣に頷き、胸元の灰印の隣へしまった。


 シェラは登録証を光にかざして見ている。


「金属品質、標準。偽造防止魔力、低度。改善余地あり」


 受付嬢は苦笑した。


「改善案は、ギルド長へお願いします」


「後で提出する」


「本当に出しそうだな」


 レオナが呟いた。


 登録が終わると、レオナは部屋の窓を開けた。


 下の訓練場から、まだ冒険者たちの声が聞こえる。


 ダグラスが誰かに手合わせの説明をしているらしい。


「あの灰色の坊主、剣を折ってねえんだよ。術式だけが消えた。わかるか? 俺の剣はまだ剣だ。だが、魔剣じゃなくなった」


「それ、やばくないか?」


「やばいに決まってるだろ。だから酒がうまいんだ」


 笑い声が上がる。


 レオナは窓の外を見下ろしながら言った。


「もう止まらんな。今日中に、灰色の新人の話は酒場全部に回る。明日には商業区。三日で学院。早ければ一週間で王都行きの商隊にも乗る」


「困るか」


「半分困る。半分助かる。強い名は魔物除けになるが、敵も寄せる」


 彼女は振り向いた。


「篠宮透。ベルディアで動くなら、味方と敵を見分けろ。ギルドはお前たちを利用する。お前たちもギルドを利用しろ。それでいい」


「わかった」


「リンド商会からの正式報酬は、商業ギルド経由で明日渡る。宿は紹介する。今日はそこで休め。外へ出るなら大通りから離れるな。南商業区には近づきすぎるな」


 透は依頼書を畳んだ。


「明日の学院講習はどこだ」


「中央広場の西。ベルディア迷宮学院。朝鐘二つ目。ギルドから案内を出す」


「了解した」


 執務室を出ると、廊下に数人の冒険者がいた。


 何か用があるふりをしているが、明らかに透たちを見に来た者たちだ。


 リィンを見て息を呑む若い冒険者。

 シェラの壊れた腕を見て興味を隠せない魔道具師風の男。

 バルザを見て後ずさる新人。

 ルカを見て首を傾げる受付補助の少女。


 そして、透の腰の灰骸刀へ向けられる視線。


 通路の奥で、誰かが小声で言った。


「灰の主だ」


 別の誰かが返す。


「まだ新人だろ」


「新人がB級のダグラスを黙らせるかよ」


「隣の銀髪、見たか? 貴族どころじゃねえぞ」


「機兵まで仲間扱いしてるって話、本当だったんだな」


 透はその声の中を歩いた。


 階段を下り、ギルドの一階へ戻る。


 酒場の視線が一斉に向く。


 さっきまでの見物人の目とは少し違う。


 得体の知れない新人を見る目。

 実力を見た後の目。

 関わるべきか、避けるべきか、測っている目。


 ダグラスが酒杯を掲げた。


「登録は済んだか、トオル」


「ああ」


「なら、ようこそベルディアへ。ここじゃ強いやつと、しぶといやつと、運のいいやつが長生きする」


「全部必要そうだな」


「その通りだ」


 ダグラスは笑った。


「で、お前はどれだ?」


 透は少しだけ考えた。


「しぶとい方だ」


 バルザが吹き出す。


「そこは強いって言っとけよ」


 ダグラスも笑った。


「気に入った。しぶとい灰色の新人に一杯おごる」


「酒は飲まない」


「じゃあ水か?」


 ルカが反応する。


「水、あるの?」


 ダグラスは目を瞬かせ、豪快に笑った。


「ああ、あるぞ。ベルディアの水は迷宮水だ。少し硬いが悪くねえ」


 彼は酒場の女将に声をかけた。


「水を人数分。あと、子どもには甘い果実水だ」


 ルカの目が輝く。


「甘い水?」


「果実水だ。飲んだことねえのか」


「ない」


 ダグラスは一瞬だけ黙った。


 それから、少しだけ声を低くした。


「そうか。なら飲め。最初の一杯は俺のおごりだ」


 果実水が運ばれてきた。


 透明な水ではない。

 淡い橙色。

 甘い匂いがする。


 ルカは慎重に一口飲んだ。


 目が大きく開く。


「甘い」


 それだけで、周囲の冒険者数人が妙に気まずそうな顔をした。


 透は普通の水を受け取った。


 グラスに入った水。


 灰置き場で分けた水とは違う。

 広場の噴水とも違う。

 金を払えば出てくる水。


 その重さを忘れないように、透は一口だけ飲んだ。


 冷たかった。


 ギルドの扉が開き、新しい客が入ってくる。


 商人。冒険者。荷運び。

 その誰かが、すぐに酒場のざわめきへ耳を傾ける。


 話は広がる。


 灰色の少年がギルドに登録した。

 B級冒険者から一本取った。

 魔剣の術式だけを消した。

 隣には銀髪の封印師がいる。

 獣人が笑っている。

 機兵が契約書を読もうとしている。

 灰布の子どもが果実水を飲んで驚いていた。


 その夜、ベルディアの酒場では、まだ顔も知らない誰かがその話を肴にするだろう。


 そして王都へ向かう商隊の荷台にも、いずれその噂は積まれる。


 灰の主。


 その呼び名は、まだ小さい。


 だが、ベルディアの喧騒の中で、確かに形を持ち始めていた。


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