第6話 灰の待機室
部屋の奥に並んでいた棚は、半分以上が崩れていた。
木材は乾ききり、触れただけで粉になりそうなものもある。金属の留め具は錆び、収納箱のいくつかは蓋が歪んで開かない。壁際には、かつて机だったらしい残骸があり、その上に割れた石板や黒ずんだ金属片が散らばっていた。
ここが、灰喰い用の待機室。
リィンが床の文字を読んで告げた言葉は、透の頭の中に重く残っていた。
待機室というからには、誰かがここを使っていた。自分と同じ、あるいは似た力を持つ誰かが。奈落へ降りるために装備を整え、戻るための準備をし、ここから暗闇へ向かった。
つまり、灰喰いは本来、奈落に落として処分されるような存在ではなかった。
少なくとも、この部屋を作った者たちはそう考えていなかった。
透は壊れた棚の前にしゃがみ込んだ。
「こっち、箱が三つある。二つは駄目そうだけど、一つは開くかもしれない」
「無理に開けないで。中に刻印具が入っているかもしれない」
リィンが近づいてくる。
彼女はまだふらついていたが、昨日よりは歩けるようになっていた。壁に手をつきながらも、自分の足で動いている。棺の中で眠っていた時の人形めいた印象は薄れ、今は少しずつ生き物の輪郭を取り戻しているように見えた。
透は箱から手を離す。
「刻印具って?」
「魔力で動く道具。壊れていても、急に起動することがある。封印用だと、触った人を縛るかもしれない」
「昨日から縛るものばっかりだな、この場所」
「奈落は、閉じ込めるための場所だから」
リィンの声は静かだった。
透は少しだけ黙り、箱を見た。
表面に細い文字が刻まれている。読めない。だが、胸の奥の灰が淡く反応していた。喰えるものがある。錆。埃。古い魔力の滓。箱の蓋を固めている黒い染み。
全部喰えば、すぐ開くだろう。
けれど、それでは駄目だ。
透はゆっくり息を吸った。
「蓋を固めてる錆と汚れだけ喰う。箱と、中身と、刻印は喰わない」
声に出してから、指先に灰を集める。
灰は薄い糸のように伸び、箱の縁をなぞった。赤茶けた錆が粉になって落ちる。黒い汚れが剥がれ、蓋の隙間がわずかに開いた。
そこで止める。
胸の奥の灰は、まだ先へ行きたがっていた。蓋の内側。箱の底。中にある何か。全部を味わおうと、指先からさらに滲み出ようとする。
透は拳を握った。
「止まれ」
灰が引っ込む。
リィンが小さく頷いた。
「上手くなってる」
「褒められると逆に怖いな。調子に乗った瞬間、やらかしそうで」
「怖がっていれば大丈夫」
「それ、安心できる言葉なのか?」
「たぶん」
透は苦笑しながら、箱の蓋を開けた。
中には、黒い布に包まれたものが入っていた。
慎重に布を広げる。
現れたのは、片方だけの手甲だった。
手首から肘の手前までを覆う、黒灰色の防具。金属とも骨ともつかない材質で作られており、表面には細い溝が何本も走っている。指を通す部分は壊れ、手の甲にあたる場所には大きな亀裂が入っていた。
透が触れた瞬間、胸の奥が強く鳴った。
欲しい。
さっきの刻印核に似た感覚だった。だが、それよりもずっと近い。まるで、この手甲の方が透を待っていたような反応。
リィンが息を呑む。
「灰殻の手甲……」
「知ってるのか?」
「灰喰いが奈落で使った装具。灰を通しやすくして、喰べる範囲を絞るためのもの」
「範囲を絞る?」
「今のトオルは、手で触れたものや近くにある灰を感覚で喰べてる。でもそれだと、余計なものまで喰べやすい。灰殻の装具は、灰を刃や糸の形にして、狙ったものだけに届かせる」
透は手甲を見つめた。
まさに今、自分に必要なものだった。
灰喰いの力は強い。だが、広がりすぎる。必要なものまで喰おうとする。それを抑える道具があるなら、使わない理由がない。
「直せるか?」
「壊れ方によると思う」
リィンが手甲を覗き込む。
「外側の亀裂は直せるかもしれない。でも、中の灰路が切れてる」
「灰路?」
「灰を通す道。人間でいう血管みたいなもの。ここが切れていると、灰が途中で暴れる」
「暴れると?」
「手が灰になるかもしれない」
透は手甲から少し距離を取った。
「危なすぎるだろ」
「でも、直せれば強い」
「それはわかる」
強くなれる。
その言葉が、透の中で重く響いた。
今のままでは弱い。昨日より強くなったと言われても、奈落ではまだ獲物側だ。犬型の魔物にも死にかけ、骸骨兵にも苦戦し、喰屍には足を持っていかれかけた。
地上へ戻るなど、夢のまた夢。
相良たちは今ごろ、王国で勇者候補として扱われているのだろう。安全な寝床、温かい食事、訓練用の武器、教師役の騎士や魔導師。きっと、力の使い方を教えられている。
こちらは奈落の底で、壊れた道具と毒水と魔物の死骸だ。
それなのに、透は不思議と笑いそうになった。
たしかに不公平だ。
だが、この部屋には、地上の王国が隠したものがある。
灰喰いの本当の使い方。
奈落を歩くための装具。
捨てられた力の記録。
これを手に入れられるのは、たぶん自分だけだ。
「直すには何がいる?」
透が尋ねると、リィンは手甲の内側を指した。
「灰路の芯になるもの。壊れていない灰導核が必要」
「この部屋には?」
「探さないとわからない。でも、待機室なら予備があったはず」
「よし。探そう」
透は立ち上がりかけ、脇腹の痛みに顔をしかめた。
リィンがすぐに手を伸ばす。
「まだ無理しないで」
「無理しないと進まない」
「無理しすぎると止まる」
「正論が痛い」
透は壁に手をつき、ゆっくり立った。
部屋の探索を続ける。
二つ目の箱は完全に腐っていた。蓋に触れただけで崩れ、中に入っていた布や革も灰になった。透は喰わなかった。自然に崩れたものから立った灰が体へ流れ込もうとしたが、リィンに視線で止められ、すぐに引っ込めた。
三つ目の箱には、小さな石の欠片がいくつも入っていた。
その中の一つだけが、他と違って黒灰色に光っている。
透が近づくと、手甲がかすかに震えた。
「これか?」
リィンが慎重に石を持ち上げる。
「たぶん、灰導核。でも、欠けてる」
「使えない?」
「そのままでは。でも、欠けた部分を別の素材で補えば、仮の芯にはなると思う」
「別の素材って」
透は周囲を見回した。
錆びた金属、壊れた棚、骸骨兵の残骸、古い石板。まともな素材などない。
リィンは扉の方を見た。
「外に、昨日の骸骨兵の核が残ってるかもしれない」
「外か」
透も扉を見る。
魔物避けの刻印は強くなった。だが、扉の外が安全になったわけではない。喰屍もいる。下層から響いた咆哮の主もいるかもしれない。
けれど、いつまでも部屋に籠もってはいられない。
「行く」
透は修復したナイフを腰に差し、鎖の破片を手に巻いた。
リィンも立ち上がろうとする。
「私も」
「休んでろ」
「外の文字や刻印は、私の方が読める」
「でも歩くのもきついだろ」
「ここで待ってる方が、もっと怖い」
その言葉で、透は何も言えなくなった。
たしかに、リィンはずっと閉じ込められていた。やっと外に出たのに、また部屋の中で待てと言われるのはきついのかもしれない。
透は短く息を吐いた。
「危なくなったらすぐ戻る」
「うん」
「俺が喰いすぎそうになったら止める」
「うん」
「リィンが倒れそうになったら俺が止める」
「うん」
「じゃあ行くぞ」
閂を外し、扉を少しだけ開ける。
外の通路は静かだった。
青い刻印の光が扉の周囲だけを照らし、その先は闇に沈んでいる。床には、昨日崩れた骸骨兵の残骸があった。骨は灰色に乾き、鎧の破片が散らばっている。
赤い光はない。
透は通路に出た。
すぐに胸の奥が反応する。
喰える。
骨。錆びた鎧。黒い粘液の跡。骸骨兵を動かしていた核の残り。全部が、灰として透を呼んでいる。
透は膝をつき、残骸を見た。
「核だけ探す。骨と鎧は喰わない」
そう言って、灰を薄く広げる。
今度は手から直接ではなく、鎖の破片に灰を通してみた。鎖はリィンを縛っていた封印具の一部であり、呪いが残っている。扱いは難しいが、灰を細く伸ばすには向いていた。
灰が糸のように残骸の間へ入り込む。
骨の隙間。兜の内側。鎧の胸部。
そこに、小さな硬いものがあった。
黒く乾いた豆粒ほどの核。
透は灰の糸でそれを絡め取り、引き寄せた。
「取れた」
リィンが近づいて確認する。
「骸骨兵の残核。弱いけど、灰導核の欠けた部分を埋めるには使えるかも」
「一個で足りる?」
「できれば三つ」
「三つか」
透は通路の奥を見た。
昨日、骸骨兵は何体か崩れた。扉の近くにある残骸はこれだけだが、もう少し進めば他にもあるかもしれない。
その時、遠くで骨の鳴る音がした。
かつ、かつ。
透はリィンを庇うように前へ出た。
闇の奥に、赤い光が一つ灯る。
骸骨兵。
一体だけ。
片手に錆びた剣を持ち、こちらへ向かってくる。
リィンが小声で言った。
「下級。たぶん、刻印の光に引き寄せられた」
「ちょうどいい」
透はナイフを抜いた。
リィンが驚いた顔をする。
「戦うの?」
「核がいるんだろ」
「でも」
「大丈夫。今度は、正面から力任せにはやらない」
骸骨兵が剣を構えた。
昨日の透なら、恐怖で体が強張っていただろう。実際、今も怖い。赤い光を見ると、背中に冷たいものが走る。
だが、相手の仕組みは少しわかっている。
骨を斬る必要はない。鎧を砕く必要もない。動かしている核を喰えば止まる。
骸骨兵が踏み込む。
剣が振り下ろされる。
透は後ろへ下がらず、半歩だけ横へずれた。
剣が肩先を掠める。
同時に、左手の鎖を振る。
鎖に通した灰が細い糸になり、骸骨兵の肘に絡みついた。骨ではなく、骨を繋ぐ黒い粘液だけを狙う。
「関節の粘液だけ喰う」
声に出す。
灰が黒い粘液を削った。
骸骨兵の腕が落ちる。
剣も一緒に床へ転がった。
透は前へ出る。
骸骨兵が残った腕で掴みかかってくるが、動きは遅い。胸部の鎧の隙間に、赤い光が見えた。
核だ。
透はナイフを突き込む。
「核だけ喰う」
灰が流れる。
赤い光が震え、黒く乾いていく。
骸骨兵はその場で崩れ落ちた。
透はしばらく動かなかった。
自分の手を見る。
勝った。
昨日は死に物狂いだった。無我夢中で殴り、斬り、喰い散らかしていた。
だが今は違う。
狙って喰った。必要な部分だけを削り、相手を止めた。
リィンが小さく息を吐いた。
「すごい」
「今のは、ちょっと自分でもそう思った」
透は膝をつき、崩れた骸骨兵から残核を回収した。
二つ目。
それから通路を少し進み、昨日の残骸からもう一つ見つけた。
三つ。
目的の数は揃った。
だが、透はその場で足を止めた。
通路の奥に、広い空間が見えた。
完全な暗闇ではない。壁の一部が青く光り、その下に巨大な扉がある。扉は半ば崩れており、隙間から冷たい風が吹き出している。
そして扉の上には、読めない文字が刻まれていた。
「リィン、あれは?」
リィンは目を凝らし、顔色を変えた。
「武装庫……」
「武器があるのか?」
「灰喰い用の装備が保管されていた場所だと思う。でも、扉が壊れてる。中に何かいるかもしれない」
「何かって?」
「装備を守るもの。あるいは、装備を喰べたもの」
透は扉を見つめた。
行くべきではない。
今は残核を持ち帰り、手甲を直す。それが先だ。わかっている。
だが、武装庫という言葉が頭から離れなかった。
灰喰い用の装備。
この待機室だけでも、手甲や刻印核が残っていた。武装庫なら、もっと重要なものがあるかもしれない。武器。防具。記録。地上へ戻る手がかり。
強くなるための何か。
透は無意識に一歩踏み出しかけた。
その瞬間、リィンが袖を掴んだ。
「今は、だめ」
透は止まった。
胸の奥の灰が、静かに疼いている。
武装庫の奥から、何かが呼んでいる気がした。
喰え。
奪え。
身につけろ。
強くなれ。
透は奥歯を噛み締めた。
「……そうだな。今行ったら死ぬ」
「うん」
「戻ろう」
言葉にすると、体が少し軽くなった。
逃げるのではない。
準備するために戻る。
透とリィンは保守室へ戻った。
扉を閉め、閂を下ろす。青い刻印の光に包まれて、ようやく緊張が緩んだ。
透は三つの残核を机の残骸の上に置いた。
「これで手甲を直せるか?」
「やってみる」
リィンは灰導核と残核を並べ、壊れた手甲の内側に置いた。
「トオルは、欠けた灰導核と残核の境目だけを喰べて。石そのものじゃなくて、合わない部分。拒んでいる魔力の棘だけ」
「難易度上がってないか?」
「上がってる。でも、これができないと手甲は使えない」
「わかった」
透は手甲に触れた。
反応は強い。
壊れた灰導核。骸骨兵の残核。手甲の亀裂。切れた灰路。それぞれが別々の壊れ方をしている。全部を一度に喰えば楽だ。だが、それでは装具ごと壊れる。
透は目を閉じた。
境目。
合わない部分。
拒んでいる棘。
感覚を細くする。
灰を糸にする。
鎖を通した時の感覚を思い出す。骸骨兵の関節だけを喰った時の手応え。核だけを喰った時の乾いた音。
喰うものを名付ける。
「棘だけ喰う」
灰が伸びた。
灰導核と残核の間で反発していた魔力が、ぱちぱちと小さく弾ける。その弾ける部分だけを、灰が削っていく。
痛みが走った。
手ではない。
胸の奥。
灰が、自分の内側から何かを持っていこうとする。集中を乱せば、手甲ではなく自分の魔力まで喰われる。
リィンの声が聞こえた。
「ゆっくり。急がないで」
透は息を吐く。
棘だけ。
境目だけ。
必要な分だけ。
どれほど時間が経ったのか。
やがて、灰導核と三つの残核が、ひとつの歪な芯として繋がった。
リィンが手甲の内側にそれをはめ込む。
黒灰色の溝に、薄い光が走った。
手甲の亀裂が完全に消えることはなかった。だが、灰が通る道は繋がったらしい。壊れた指当ての部分も、骨と金属片を使って仮に補強できた。
透は恐る恐る、右腕に手甲を装着した。
冷たい。
だが、嫌な冷たさではない。
手甲の内側が腕に沿って締まり、手首のあたりで灰色の線が浮かび上がる。
胸の奥の灰が、手甲へ流れた。
いつもより静かだった。
暴れない。
広がりすぎない。
手の甲に集まり、そこから細い糸として伸ばせる感覚がある。
「これ……すごいな」
透は右手を前に出した。
指先から、灰色の糸が一本伸びる。
机の上にあった錆びた金属片に触れた。
「表面の錆だけ喰う」
灰糸が錆を撫でる。
錆だけが、綺麗に剥がれた。
金属片は残った。
透は思わず息を呑む。
「できた」
リィンの表情が明るくなる。
「うん。灰殻が灰を絞ってくれてる」
「これがあれば、かなり戦える」
「でも、使いすぎないで。仮修復だから、灰路が焼き切れるかもしれない」
「手も灰になる?」
「なるかもしれない」
「やっぱり怖いな」
「怖がって」
「ああ。怖がって使う」
透は手甲を握りしめた。
右腕に力が宿る。
単純な腕力が上がったわけではない。けれど、灰を扱う精度がまるで違う。これなら、骸骨兵程度ならさっきよりずっと楽に倒せる。犬型の魔物にも対応できるかもしれない。
もちろん、まだ最強には遠い。
喰屍には勝てる気がしない。下層の咆哮の主など、姿を見る前に逃げるべきだろう。
それでも、透は確かに前へ進んだ。
その時、床の文字がまた青く光った。
手甲に灰を通したことで、部屋の古い記録が反応したらしい。
壁の一部に光が走り、石板のようなものが浮かび上がる。
リィンが近づき、文字を読んだ。
その顔が、少しずつ変わっていく。
「何て書いてある?」
透が尋ねると、リィンは震える声で答えた。
「灰の番人の任務記録」
「任務?」
「迷宮汚染の鎮圧。死霊軍の解体。呪われた戦場の浄化。暴走した神代兵器の停止。魔王軍第七屍団の単独迎撃……」
「単独?」
透は聞き返した。
リィンは頷く。
「一人で、軍を止めてる」
部屋の空気が変わった気がした。
一人で軍を止める。
そんなことができるのか。
透は右腕の手甲を見た。
今の自分には無理だ。骸骨兵一体を倒して喜んでいる程度の自分には、想像もできない。
けれど、記録には残っている。
灰喰いは、そこまで行ける。
地上の騎士団。冒険者。迷宮。軍勢。そういったものと並ぶどころか、単独で相手にするための力。
王国が恐れた理由が、少しだけ見えた気がした。
災厄だから恐れたのではない。
もしかしたら、制御できないから恐れたのだ。
勇者は王国の旗印になる。聖女は神殿の象徴になる。剣聖や賢者は、軍の駒として扱える。
だが灰喰いは、奈落を喰う。
呪いも、死霊も、封印も、古い嘘も。
王国にとって都合の悪いものまで、灰にして暴いてしまう。
透は右手を握った。
「リィン」
「うん」
「俺は、強くなれるんだな」
リィンは透を見た。
そして、はっきりと頷いた。
「なれる」
「勇者よりも?」
自分で言ってから、少しだけ情けないと思った。
相良を意識している。
あの広間で、勇者として光に包まれていた相良。周囲から期待され、王女や神官に希望のように見られていた男。
対して自分は、災厄職として槍を向けられ、奈落に落とされた。
悔しくないわけがない。
リィンは少しだけ考えてから言った。
「勇者は、生きているものを導く力。灰喰いは、終わったものを終わらせる力。比べるものじゃない」
「そうか」
「でも」
リィンは透の右腕の手甲を見た。
「奈落では、勇者より灰喰いの方が強い」
透は小さく笑った。
「今はそれでいい」
今は、奈落で強ければいい。
ここで生き延びる。
ここで学ぶ。
ここで力を手に入れる。
そして、いつか地上へ戻る。
その時、王国が自分をどう扱うのか、相良たちがどんな顔をするのかはわからない。
だが少なくとも、もう槍を向けられて黙って引きずられるだけの自分ではない。
透は壁の任務記録を見上げた。
灰の番人。
一人で軍を止め、迷宮を鎮め、呪われた戦場を眠らせた者たち。
その名は、王国の広間では災厄と呼ばれた。
ならば、確かめるしかない。
どちらが本当なのか。
自分の足で。
自分の灰で。
その時、武装庫の方角から、低い音が響いた。
ごん。
重いものが、扉を内側から叩いたような音。
透とリィンは同時に振り返った。
ごん。
二度目。
青い刻印が揺れる。
透の右腕の手甲が、かすかに震えた。
武装庫の奥にある何かが、手甲に反応している。
リィンが青ざめる。
「起きた……」
「何が?」
「武装庫の守り手。灰喰い以外が装備を持ち出さないように作られた番兵」
「俺、灰喰いなんだけど」
「だから起きたのかもしれない。持ち主かどうかを試すために」
透は右腕を見た。
仮修復の灰殻手甲。
修復したナイフ。
布の包帯。
水を入れた小瓶。
これだけで、武装庫の守り手とやらに勝てるのか。
普通に考えれば無理だ。
けれど、逃げ続けてもいずれ限界が来る。
武装庫には装備がある。記録がある。上へ戻る手がかりもあるかもしれない。
そして何より、灰喰いとして強くなるためには、避けて通れない場所なのだろう。
透は深く息を吸った。
「リィン」
「うん」
「すぐには行かない。準備する」
リィンはほっとしたように頷いた。
「うん」
「でも、行く」
「……うん」
ごん。
三度目の音が響く。
武装庫の守り手は、こちらを待っている。
透は恐怖を感じた。
同時に、右腕の奥で灰が静かに整っていくのを感じた。
喰い散らかすためではない。
狙い、削り、終わらせるために。
透は手甲の指を握り、壁の任務記録をもう一度見た。
一人で軍を止めた灰の番人。
今の自分には遠すぎる姿だ。
だが、そこへ続く最初の装備は、もうこの腕にある。
「まずは、番兵を倒す」
透はそう言って、壊れた棚から使えそうな金属片を拾い始めた。
奈落の待機室に、武装庫の重い音が響き続ける。
その音は、死の足音ではなくなっていた。
少なくとも透には、そう聞こえた。
それは、強くなるための扉を叩く音だった。




