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第5話 灰喰いの作法

 目が覚めた時、透は自分がどこにいるのか、すぐには思い出せなかった。


 天井が低い。


 見慣れた白い教室の天井ではない。黒ずんだ石の天井だった。ところどころに細い亀裂が走り、その隙間から灰色の埃が垂れている。壁では青い刻印がかすかに瞬き、消えかけの蛍のような光を部屋に落としていた。


 体を動かそうとして、全身が抗議した。


「っ……」


 脇腹。背中。左腕。足首。肩。


 痛くない場所を探す方が難しかった。


 だが、生きている。


 透はゆっくりと息を吸った。


 血と埃と古い金属の匂い。そこに、少しだけ水の匂いが混ざっている。少なくとも、骨の山や魔物の腐臭よりはましだった。


 記憶が戻ってくる。


 クラス召喚。

 外れ職《灰喰い》。

 災厄職と呼ばれ、奈落へ落とされたこと。

 犬のような魔物。

 青い棺。

 リィン。

 喰屍。

 この保守室。


 透は勢いよく起き上がろうとして、失敗した。


「ぐ、っ」


 脇腹が引きつり、視界が白く滲む。


「起きた?」


 声がした。


 横を見ると、リィンが壊れた棚の前に座っていた。銀色の髪はまだ乱れているが、昨日よりは顔色が戻っている。戻っていると言っても、透よりはずっと青白い。


 彼女の膝の上には、古びた金属箱が置かれていた。


「おはよう、で合ってるのか?」


 透が言うと、リィンは少し考えてから首を傾げた。


「ここに朝はないと思う」


「じゃあ、起きた時の挨拶ってことで」


「おはよう、トオル」


「ああ。おはよう、リィン」


 そう返した瞬間、少しだけ胸が軽くなった。


 奈落の底で、朝も夜もわからない場所で、誰かと挨拶を交わす。それだけのことが、まだ自分が人間の側にいる証拠のように思えた。


 透は壁に背を預け、ゆっくりと体を起こした。


「どれくらい寝てた?」


「わからない。でも、刻印の光が三回弱くなって、戻った」


「それ、時間の単位として使えるのか?」


「封印区画の刻印は、魔力脈に合わせて揺れる。昔の管理者は、それを一周期として使っていたと思う」


「なるほど。全然わからない」


 リィンは少しだけ困った顔をした。


「たぶん、地上の半日くらい」


「半日……」


 そんなに眠っていたのか。


 いや、あの状態で半日で目が覚めたなら、むしろましなのかもしれない。普通なら死んでいてもおかしくない傷だった。透は脇腹に触れた。


 傷口には、薄い灰色の膜が張っている。


 皮膚ではない。かさぶたでもない。乾いた灰を固めた仮の蓋のようなものだ。強く動けば裂けるだろうが、出血は止まっている。


「これ、俺が寝てる間に?」


「うん。あなたの灰が勝手に傷を塞ごうとしてた。でも、広がりすぎそうだったから、少しだけ止めた」


「止めた?」


「手を握って、呼んだ」


 リィンは自分の手を見る。


「トオル、って。何度か」


 透はその光景を想像した。


 床で死んだように眠る自分。そこから漏れる灰。リィンがその手を握って名前を呼ぶ。


 少し気まずくなった。


「悪い。手間かけた」


「手間じゃない。約束したから」


「約束?」


「あなたが喰べすぎないように止めるって」


 リィンは真面目な顔で言った。


 透は苦笑する。


「そうだったな」


 約束。


 たったそれだけの言葉が、妙に重く響いた。


 王国は透を災厄と呼んだ。クラスメイトたちは彼を見捨てた。相良は、悪いようにはされないと言った。


 そのどれよりも、リィンの「約束したから」の方が、今は信じられる。


 透は深く息を吐き、部屋を見回した。


「それで、その箱は?」


「保守用の備品が残ってた」


 リィンは膝の上の金属箱を開けた。


 中には、いくつかの道具が入っていた。


 錆びた小型ナイフ。細い金属針。布の束。空の小瓶が三つ。ひび割れた石板。黒ずんだ丸い石。手のひらほどの金属板が数枚。


 透は思わず身を乗り出した。


「使えそうなのある?」


「そのまま使えるものは少ない。でも、直せるかもしれない」


「俺の灰で?」


 リィンは頷く。


「灰喰いは、壊れたものを完全に元通りにする力じゃない。でも、壊れた理由を喰べて、形を繋ぎ直すことはできる」


「壊れた理由?」


「錆びたなら、錆を喰べる。欠けたなら、欠けた部分に残った魔力の跡を繋ぐ。呪われたなら、呪いを削る」


「便利そうに聞こえるけど」


「便利だと思って使うと、危ない」


 リィンの表情が少しだけ硬くなった。


「灰喰いは、何でも喰べられるわけじゃない。けれど、喰べられるものを見つけると、全部喰べようとする。錆だけを喰べるつもりで、金属の記憶まで喰べる。呪いだけを喰べるつもりで、そこに残った人の想いまで喰べる」


 透は黙った。


 黒い石に触れた時の声を思い出す。


 すべて喰え。

 すべて灰にしろ。


 あれは幻聴ではない。


 灰喰いの力そのものに、そういう衝動がある。


「つまり、必要な分だけ喰えってことか」


「うん」


「難しいな」


「難しい。だから、昔の灰喰いは作法を学んだ」


「作法?」


 リィンは金属箱の中から、ひび割れた石板を取り出した。


 表面には古い文字が刻まれている。透には模様にしか見えないが、リィンはそこを指でなぞった。


「灰喰いの作法。たぶん、ここに少しだけ書いてある」


「読めるのか?」


「全部は無理。でも、これは封印管理用の文字に近い」


 リィンは石板をじっと見つめ、ゆっくりと読み上げた。


「一つ。灰は飢えであり、器ではない。ゆえに、喰うものを名付けよ」


「名付ける?」


「何を喰べるのか、はっきり決めること。錆を喰べる。毒を喰べる。呪いを喰べる。そうしないと、灰が勝手に広がる」


 透は箱の中の錆びたナイフを手に取った。


 刃は赤茶け、柄も腐りかけている。普通ならすぐ折れそうだ。


「試してみる」


 リィンが少し身を固くした。


「無理はしないで」


「ああ」


 透はナイフを両手で持ち、胸の奥の灰に意識を向けた。


 喰えるものは、すぐにわかった。


 錆。

 腐った革。

 刃に残った古い血。

 使い手の手垢。

 小さな呪いの染み。

 時間そのものの疲労。


 全部が、薄い灰色の線として感じられる。


 喰いたい。


 灰がそう訴えた。


 透は奥歯を噛み締める。


「錆だけだ」


 声に出した。


「刃を殺してる錆だけ、喰う」


 灰が指先から滲み、ナイフの刃に触れる。


 じわり、と赤茶けた部分が薄くなった。錆が粉になって落ちる。だが、同時に刃そのものの輪郭まで削れそうになる。


 透は慌てて灰を引っ込めた。


「っ、危な」


 ナイフは少しだけましになっていた。


 完全ではない。刃こぼれは残っているし、柄も脆い。だが、さっきよりは明らかに使えそうだった。


 リィンが小さく息を吐く。


「できてる」


「ほんの少しだけどな」


「最初はそれでいい。たくさん喰べるより、止められる方が大事」


「止める練習か」


 透はナイフを見つめた。


 強くなるために喰うのではなく、喰わないために練習する。


 変な話だ。


 だが、たぶんそれが必要なのだろう。


 透は次に布の束を見た。古びているが、まだ使えそうなものもある。包帯代わりにはなるかもしれない。


「これは?」


「埃と黴を落とせば使えると思う。でも、布まで喰べないように」


「了解。埃と黴だけ」


 今度は少し上手くいった。


 灰を薄く広げ、布の表面だけを撫でる。黒ずんだ埃が灰に変わり、黴の匂いが薄れる。何度か危うく布の繊維まで崩しかけたが、そのたびにリィンが「そこまで」と声をかけた。


 透はその声に従って灰を止めた。


 そうして、使えそうな布を三枚確保した。


 小瓶は二つが割れていたが、ひびの部分に灰を流し込んで仮に塞ぐことができた。完全に水を入れて持ち歩くには不安だが、短時間なら使える。


 金属板は薄いが、重ねれば簡易の防具になりそうだった。


 問題は、黒ずんだ丸い石だった。


 透が手を伸ばした瞬間、胸の奥の灰が強く反応した。


 喰える。


 だが、それ以上に、欲しい。


 石の中に何かが残っている。


 魔力。

 熱。

 古い命令。

 守れ。

 閉じよ。

 眠らせよ。


 透は手を止めた。


「これ、何だ?」


 リィンが覗き込む。


「刻印核だと思う。部屋の魔物避けを動かすための予備」


「じゃあ、かなり大事なやつか」


「うん。喰べちゃだめ」


「わかってる」


 そう言いながら、透は自分の指が石へ伸びかけていることに気づいた。


 反射的に手を引っ込める。


 心臓が嫌な音を立てた。


 今、自分は喰おうとしていた。


 必要だからではない。力が欲しかったからでもない。灰が反応したから、ただ吸い寄せられた。


 透は拳を握った。


「リィン」


「うん」


「これ、俺から離しておいてくれ」


「わかった」


 リィンは黒い石を布で包み、自分のそばに置いた。


 それを見て、透は悔しさを覚えた。


 自分の力なのに、自分で信用できない。武器にもなる。生き延びる手段にもなる。でも、気を抜けば自分自身を食い破る。


 便利なチート能力などではない。


 これは、獣だ。


 胸の中に、腹を空かせた獣がいる。


「トオル」


 リィンが静かに言った。


「怖がるのは、悪いことじゃない」


「……そうか?」


「怖がらない灰喰いは、すぐ灰になる」


 透は息を吐いた。


「怖がってたら、生き残れる?」


「怖がって、決めて、止められたら」


「作法ってやつか」


「うん」


 透は頷き、修復した布で自分の傷を巻き直した。


 リィンにも布を渡し、足元や手首に残っていた鎖の痕を覆わせる。彼女の傷は古いものが多かった。切り傷というより、封印の鎖が長い時間食い込んでいた痕だ。


 透はそれを見て、胸の奥が重くなった。


「痛むか?」


「少し。でも、慣れてる」


「慣れなくていいだろ、そんなの」


 リィンは答えなかった。


 透はそれ以上言わず、立ち上がった。


 まだふらつくが、昨日よりは動ける。灰で無理やり補強している部分もあるが、完全に頼りきらなければ大丈夫そうだった。


「この部屋、しばらく使えると思うか?」


「刻印核を交換できれば、少しは持つと思う」


「交換できるのか?」


「たぶん。壁のここ」


 リィンが部屋の奥の壁を指した。


 そこには円形のくぼみがあり、中心にひび割れた黒い石がはまっていた。これが今の刻印核らしい。光は弱く、今にも消えそうだ。


 予備の核に替えれば、魔物避けが強くなる。


 だが、その作業にはリスクがあった。


 古い核を外している間、刻印が消える。つまり、その間に魔物が近くにいれば気づかれるかもしれない。


「どれくらいで交換できる?」


「私一人なら、少し時間がかかる。トオルが刻印の錆を喰べてくれれば、早くできると思う」


「錆だけ、だな」


「うん。刻印そのものは喰べちゃだめ」


「そればっかりだな、俺の能力」


「灰喰いだから」


「名前のわりに繊細すぎる」


 透は苦笑しつつ、壁の刻印に近づいた。


 その瞬間、扉の外で音がした。


 何かが、扉の前を歩いている。


 喰屍のような湿った音ではない。骨が石を打つ軽い音。複数いる。三体、いや四体。


 透はリィンを見る。


 リィンは小さく頷いた。


「下級の骸骨兵。刻印が弱くなってるから、近づけるようになってる」


「交換しないと、そのうち入ってくる?」


「うん」


「じゃあ、今やるしかないな」


 透は修復したナイフを握った。


 リィンが壁の予備核を手に取る。


「交換中、刻印が一瞬消える。その間に扉を叩かれたら、たぶん持たない」


「俺が押さえる」


「怪我してる」


「怪我してても押さえるしかない」


 透は扉の前へ移動した。


 外の足音が近づく。


 かつ、かつ、かつ。


 乾いた骨の音。


 透は扉の閂に手を添えた。


 錆びた鉄。弱った木材。古い蝶番。全部、喰えるものとして感覚に引っかかる。


 だが、喰わない。


 壊れかけた扉でも、今は必要なものだ。


「やってくれ」


 透が言うと、リィンは壁の古い核に手をかけた。


 青い光が揺れる。


 外の骸骨兵たちが、扉の前で止まった。


 リィンが古い核を外す。


 部屋の青い刻印が消えた。


 同時に、扉の向こうで赤い光が灯った。


 気づかれた。


 どん、と扉が叩かれる。


 透は全体重をかけて押さえた。


「ぐっ……!」


 脇腹の傷が裂ける感覚。


 布の下で血が滲む。だが、灰がすぐに塞ごうとする。透はそれを最低限だけ許した。傷を塞げ。布は喰うな。扉は喰うな。自分を喰うな。


 どん。


 二度目の衝撃。


 閂が嫌な音を立てた。


「リィン!」


「もう少し!」


 どん、どん、どん。


 扉の隙間から、骨の指が入ってきた。


 透はナイフを突き立てる。骨の指が数本折れた。そこから黒い灰がわずかに立つ。


 喰える。


 透は反射的に喰おうとして、止めた。


 今喰えば、扉の隙間から灰が外へ伸びる。骸骨兵だけでなく、外にあるものまで呼び込むかもしれない。


 我慢しろ。


 透はナイフを握り直す。


 骸骨兵が扉の隙間に顔を押し込んできた。兜の奥で赤い光が揺れている。顎の骨が開き、音のない叫びを上げた。


「入ってくるな!」


 透はナイフを兜の奥へ突き込んだ。


 刃が赤い光に触れた瞬間、骸骨兵の動きが止まる。


 赤い光の中心に、小さな黒い染みがあった。


 核だ。


 透は灰をほんの少しだけ流した。


「核だけ喰う」


 声に出す。


「骨も、扉も、外の闇も喰わない。核だけだ」


 灰がナイフを伝い、赤い光の中心へ届く。


 じゅ、と小さな音。


 骸骨兵の赤い光が消えた。


 扉の外で骨が崩れ落ちる。


 透の体に、少しだけ灰が戻ってきた。


 重くない。


 さっきの喰屍の灰とは違う。乾いていて、扱いやすい。骸骨兵の核だけを喰ったからだ。


 できた。


 透は一瞬だけ、手応えを感じた。


 その瞬間、三体目が扉にぶつかる。


 閂が折れかけた。


「まだか!」


「入った!」


 リィンの声。


 壁の新しい刻印核が、青い光を放った。


 部屋中の刻印が一斉に蘇る。


 扉の外で、骸骨兵たちが嫌がるように後ずさった。赤い光が遠ざかる。骨の足音が、通路の奥へ逃げていく。


 透は扉にもたれたまま、荒く息を吐いた。


「……勝った、ってことでいいのか」


「うん。たぶん」


「たぶんか」


「奈落で絶対はあまり言わない方がいい」


「覚えとく」


 透は床に座り込んだ。


 脇腹の布が赤く染まっている。だが、傷は浅く開いただけで済んだらしい。灰を使えば塞げる。今度は、必要な分だけ。


 リィンが近づいてくる。


「さっき、上手だった」


「何が」


「核だけ喰べた。骸骨兵全部じゃなくて、動かしている核だけ」


 透は自分の手を見た。


 確かに、さっきは喰いすぎなかった。


 対象を決める。名付ける。必要な分だけ喰う。


 灰喰いの作法。


「少しは成長したってことか」


「うん」


 リィンは真剣な顔で頷いた。


「トオルは、昨日より強い」


 その言葉は、妙に胸に残った。


 昨日より強い。


 最強ではない。化け物でもない。勇者でもない。


 でも、昨日の自分よりは強い。


 それだけで、今は十分だった。


 透は扉の外を見た。


 壊れかけた隙間の向こうに、骸骨兵の残骸が転がっている。その奥には、まだ暗い通路が続いていた。


 上へ戻る道は遠い。


 王国も、クラスメイトも、奈落の本当の恐ろしさも、まだ何一つわかっていない。


 けれど、少なくともこの部屋は守った。


 水を濾す小瓶がある。布がある。ナイフがある。魔物避けの刻印が戻った。リィンがいる。


 処刑場だった場所に、ほんの小さな拠点ができた。


 透は口元を拭い、立ち上がった。


「リィン」


「なに?」


「この部屋を、しばらく俺たちの拠点にする」


「拠点……」


「生きる場所だ。戻るための準備をする場所。あと、逃げ帰ってくる場所」


 リィンはその言葉をゆっくりと噛みしめるように聞いていた。


「逃げ帰ってくる場所」


「ああ。そういう場所がないと、人間はたぶんきつい」


「私も、帰ってきていい?」


 透は一瞬、言葉に詰まった。


 リィンは不安そうにこちらを見ている。


 その問いの意味を理解して、胸の奥が痛くなった。


 彼女には、帰る場所がなかったのだ。


 聖女と呼ばれ、鍵と呼ばれ、餌と呼ばれ、棺の中に封じられていた。彼女にとって、どこかへ帰るという発想自体が遠いものだったのかもしれない。


 透はできるだけ普通の声で言った。


「当たり前だろ。二人の拠点なんだから」


 リィンの青い瞳が揺れた。


 泣きはしなかった。


 けれど、彼女は小さく頷いた。


「うん」


 その時、壁に取り付けた新しい刻印核が、淡く光った。


 青い線が壁を走り、床の古い模様を照らす。今まで見えなかった文字が、埃の下から浮かび上がった。


 リィンが息を呑む。


「これ……」


「何か書いてあるのか?」


 リィンは床に膝をつき、指で文字をなぞった。


 表情が変わる。


「保守室の記録。ここは、ただの倉庫じゃない」


「じゃあ何だ?」


 リィンは透を見上げた。


「灰喰い用の待機室」


 透は言葉を失った。


 リィンはさらに文字を読む。


「灰の番人が奈落へ降りる前に、装備を整える場所。刻印、浄化具、記録石、帰還標……ここにあったはず」


「待て」


 透は床の文字を見た。


 読めない。


 だが、胸の奥の灰が静かに反応している。


 さっきまでの飢えではない。


 もっと深い場所で、何かが目を覚ますような感覚。


「ここは、俺みたいなやつのための部屋だったのか?」


 リィンは頷いた。


「たぶん、昔は」


「じゃあ、王国は」


 透の声が低くなる。


「王国は、灰喰いが何なのか知ってたんじゃないのか」


 リィンは答えなかった。


 答えられなかった。


 だが、沈黙だけで十分だった。


 災厄職。

 存在するだけで災い。

 奈落に落として処分する。


 あの神官の言葉が蘇る。


 もし王国が、灰喰いの本当の役割を知っていたとしたら。


 もし知った上で、透を処分しようとしたのだとしたら。


 胸の奥で、灰が静かに熱を帯びた。


 怒りに似ていた。


 だが、さっきまでの飢えとは違う。


 今度は透自身のものだった。


「リィン」


「うん」


「この部屋に残ってるもの、全部調べよう」


「全部?」


「ああ。俺の力のことも、奈落のことも、上に戻る道も」


 透は床の文字を見下ろした。


「知らないまま捨てられるのは、もう終わりだ」


 青い刻印の光が、二人の影を壁に映す。


 奈落の片隅に残された、古い灰喰いの待機室。


 そこにはきっと、王国が隠した何かがある。


 透はまだ弱い。


 昨日より少し強くなっただけの、傷だらけの少年にすぎない。


 けれど、彼は初めて手に入れた。


 生き延びるための場所を。

 自分の力を学ぶための手がかりを。

 そして、自分を災いと呼んだ者たちを疑う理由を。


 灰は、ただ喰うだけのものではない。


 灰は、埋もれた真実を覆っている。


 ならば、それを払えばいい。


 透は修復したナイフを腰に差し、壁の奥に並ぶ壊れた棚を見た。


「始めよう」


 リィンが頷く。


 二人の小さな拠点で、最初の探索が始まった。


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