第4話 捨てられた者たちの息
リィンは、ほとんど歩けなかった。
棺の中にどれだけ閉じ込められていたのか、透にはわからない。けれど、彼女の足取りは生まれたばかりの子鹿のように頼りなく、数歩進むたびに膝が折れそうになった。
透も人のことを言える状態ではなかった。
脇腹の傷は灰で塞いでいるだけだ。痛みはある。左腕はまだ黒ずんでいて、指を曲げるたびに皮膚の奥が引きつった。落下の衝撃で打った背中も、息を吸うたびに鈍く痛む。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
青い棺の部屋の奥で響いた咆哮。
あれは遠かった。だが、遠いから安全だとは思えない。奈落では、音も闇も距離の感覚を狂わせる。すぐ隣にいるはずのリィンの息遣いが妙に遠く聞こえたかと思えば、地下深くの獣の唸りが耳元で鳴ったように感じる。
「こっち……」
リィンがかすれた声で言った。
彼女の指が、壁際の細い裂け目を指している。
透はそこを見た。
人一人がようやく通れるほどの亀裂だった。黒い岩が斜めに割れ、奥にはかすかな青白い光が滲んでいる。
「そこ、通れるのか?」
「たぶん……古い排気路。封印区画の外に、出られる……」
「封印区画」
透はその言葉を繰り返した。
聞きたいことは山ほどあった。リィンは何者なのか。なぜ封印されていたのか。奈落とは何なのか。王国はここをどこまで知っているのか。
だが、今は質問よりも移動が先だった。
背後の通路から、何かを引きずる音が聞こえている。
骸骨兵ではない。もっと湿った音。肉の塊を岩に擦りつけながら進んでくるような、聞いているだけで胃が冷える音だった。
「入るぞ」
透はリィンを支え、裂け目に体を滑り込ませた。
狭い。
肩が岩に擦れる。リィンを前に進ませ、自分は後ろから押すような形になった。背中の傷が岩肌に触れ、痛みで視界が白くなる。
リィンが気づいて振り返ろうとした。
「トオル、血が……」
「見なくていい。前見て進んで」
「でも」
「大丈夫。俺はしぶといらしい」
冗談のつもりだったが、声は笑っていなかった。
しばらく進むと、背後で何かが裂け目の入口にぶつかった。
どん、と岩が震える。
リィンの肩が跳ねた。
透は振り返る。
裂け目の向こう側、暗闇の中に、濁った黄色い光がいくつも浮かんでいた。
目だ。
さっきの赤い目とは違う。もっと鈍く、腐った脂のような色。
何かが、裂け目に腕を差し込んできた。
腕と言っていいのかわからない。骨も関節もない、黒い肉の縄のようなものだった。表面に人間の歯のような白い粒がびっしりと並び、岩を削りながら伸びてくる。
「急げ!」
透はリィンの背中を押した。
リィンは息を詰まらせながらも進む。細い体が岩の隙間を抜けていく。透も後を追った。
肉の縄が足首に触れた。
ぞわりと、全身の毛が逆立つ。
それは透の靴に絡みつき、強く引いた。
「っ!」
体が後ろへ持っていかれる。
透は咄嗟に岩の突起を掴んだ。指先に激痛が走る。爪が剥がれそうになる。それでも離せない。
肉の縄は靴だけではなく、足首にまで巻きついてきた。
表面の歯が皮膚に食い込む。
痛み。
そして、吸われる感覚。
血ではない。体の奥にある熱のようなものが、足首から奪われていく。
リィンが叫んだ。
「それに触らせないで! 下層の喰屍だよ!」
「触らせるなって言われても!」
透は腰に手を伸ばす。
魔物の牙のナイフは、ない。棺の部屋で使ったままだ。折れた剣も砕けた。手元にあるのは、リィンを縛っていた黒鎖の破片を灰で固めた短い鎖だけ。
透は鎖を握り、足首に絡んだ肉へ叩きつけた。
じゅ、と音が鳴った。
肉の表面から黒い煙が上がる。灰が肉を削った。だが、切れない。喰屍と呼ばれたそれは、痛みを感じないのか、さらに強く締め上げてくる。
胸の奥が脈打った。
――喰え。
透は歯を食いしばる。
生きているものは、喰えない。さっきまではそうだった。少なくとも、犬型の魔物は死ぬまで喰えなかった。
だが、これはどうだ。
生きているのか。死んでいるのか。
足首に絡む肉から伝わってくる気配は、生き物のそれではなかった。腐った死骸が、まだ死にきれずに動いているような感覚。
死にかけ。
死に残り。
灰になる手前。
喰えるかもしれない。
だが、胸の奥の空腹は、さっきよりずっと強かった。
これを喰えば、力になる。
それだけではない。
もっと喰いたくなる。
透は一瞬ためらった。
その間にも、足首の肉が靴を破り、皮膚に食い込む。リィンが戻ろうとするのが見えた。
「来るな!」
透は叫んだ。
リィンの動きが止まる。
透は足首に手を置いた。
灰を流す。
喰屍の肉が震えた。透の内側に、冷たい泥のようなものが流れ込む。腐臭。飢え。骨を噛み砕く感覚。誰かの腕。誰かの顔。形のない記憶が、胃の奥から脳へ這い上がってくる。
吐き気がした。
だが、離さない。
「……俺の足だ」
透は低く呟いた。
「勝手に持っていくな」
灰が肉の内側へ食い込む。
喰屍の一部が、ぼろぼろと崩れ始めた。肉が乾き、歯のような白い粒が粉になって落ちる。締めつけが弱まった。
透は鎖を振り下ろした。
今度は切れた。
肉の縄が裂け、裂け目の向こうへ引っ込む。暗闇の中で、濁った黄色い目がいくつも揺れた。怒っているのか、怯えているのかはわからない。
透は足を引き抜き、リィンの方へ這うように進んだ。
「行くぞ……!」
もう一度、背後で喰屍が岩にぶつかった。
だが、裂け目は狭い。あの巨体は入ってこられない。伸びてくる肉の縄だけを警戒しながら、二人は奥へ進んだ。
どれくらい進んだのか。
時間の感覚はすでになかった。
ようやく裂け目を抜けた先は、小さな空洞だった。
天井は低いが、二人が座るには十分な広さがある。壁の一部から水が染み出し、床のくぼみに少量だけ溜まっていた。青白い光の正体は、岩肌に生えた苔のような鉱石だった。
透はまず周囲を確認した。
赤い目はない。黄色い目もない。骨の山もない。風の流れはあるが、強くはない。奥にさらに細い穴が続いているものの、大型の魔物が入れる広さではなかった。
安全。
少なくとも、今すぐ死ぬ場所ではなさそうだった。
透は壁にもたれ、ずるずると座り込んだ。
その瞬間、全身から力が抜けた。
「……は、あ」
息が漏れる。
リィンも向かい側に座り込み、胸を押さえていた。銀色の髪が汗で頬に張りついている。白い肌はさらに青白く見えた。
「ごめんなさい」
彼女が言った。
透は目を開ける。
「何が」
「私を助けたから、あなたは……封印区画の守りを壊して、下層の魔物を起こした」
「助けなくても、あいつはそのうち起きてたんじゃないのか」
「でも、今ではなかった」
「じゃあ、今でよかったんだろ」
リィンは言葉を失った。
透は足首を見る。靴は半分壊れ、足首の皮膚には歯形のような傷が残っていた。だが、出血は少ない。喰屍の肉を喰った時に得た灰が、傷口を塞いでいる。
その灰は、今までのものより重かった。
犬型の魔物や骸骨兵から得た灰は、乾いた砂のようだった。力にはなるが、まだ外側にまとわせるものという感じがあった。
喰屍の灰は違う。
体の内側に残っている。
胃の底に、腐った石を飲み込んだような重さがある。そこから時々、ひどく不快な空腹が上がってきた。
もっと喰え。
肉を喰え。
生きているものも、死んでいるものも、区別するな。
透は拳を握った。
リィンがこちらを見ている。
「苦しいの?」
「ちょっとな」
「喰屍を喰ったから……。あれは、死骸を集めてできた魔物。生き物じゃないけど、ただの死骸でもない。奈落では、ああいうものを喰いすぎると、体より先に心が壊れる」
透は苦笑した。
「詳しいんだな」
リィンは視線を落とした。
「私は……奈落を封じるための鍵だったから」
その言葉に、空洞の音が少し遠のいた気がした。
「鍵?」
リィンはすぐには答えなかった。
迷っているのがわかった。言えば、透が自分から離れると思っているのかもしれない。あるいは、言葉にすること自体が怖いのかもしれない。
透は急かさなかった。
壁から染み出す水を、灰で軽く濾す。さっき覚えたやり方だ。苔の胞子は少ない。毒性も薄い。完全に安全とは言えないが、飲まなければどのみち動けない。
透は少しだけ飲み、残りをリィンに渡した。
リィンは戸惑った顔をした。
「いいの?」
「飲め。俺より顔色悪い」
「あなたも悪いよ」
「俺は元からこんな顔だ」
「嘘」
「嘘だな」
透がそう言うと、リィンはほんの少しだけ笑った。
その笑みはすぐに消えたが、少なくとも彼女は水を飲んだ。
しばらく、二人は黙っていた。
遠くで、また咆哮が響いた。
空洞の壁が細かく震え、天井から砂が落ちる。透は反射的にリィンの前に出かけて、途中でやめた。今の自分が盾になったところで、壁ごと壊されたら意味がない。
「さっきの声の主は?」
透が尋ねる。
「下層にいるもの?」
リィンは水を持ったまま、静かに頷いた。
「奈落の深い場所には、古い戦争で捨てられたものが沈んでる。魔王軍でも、王国でも、神殿でも手に負えなかったもの。封印された魔物、失敗した兵器、呪われた死者、名前を消された神の欠片」
「神の欠片って何だよ」
「知らない方がいいもの」
「じゃあ、なんで知ってる」
リィンは指先を握りしめた。
「聞かされていたから。私は、封印の中で眠り続けるために作られた。もし目覚めた時は、下層の門が壊れた時だって」
透は黙った。
作られた。
その言い方が引っかかった。
「リィンは、人間なのか?」
聞いた瞬間、しまったと思った。
無神経だった。そんなことを問われたくないに決まっている。透自身、ついさっきまで災厄職だの存在するだけで災いだの言われて落とされたばかりだ。
だが、リィンは怒らなかった。
少しだけ寂しそうに、自分の手を見た。
「わからない」
「わからない?」
「昔は、人間だったと思う。でも、封印の鍵にされる時、たくさんのものを混ぜられた。聖女の血、精霊核、竜の骨粉、神殿の祝福、奈落の呪い。だから今の私は、人間と呼べるのか、わからない」
透は何も言えなかった。
リィンは静かに続ける。
「王国は、私を聖女と呼んだ。神殿は、私を鍵と呼んだ。封印された魔物たちは、私を餌と呼んだ」
彼女の青い瞳が、透を見る。
「あなたは、私をリィンと呼んだ」
透は目を逸らしそうになり、踏みとどまった。
その視線は重かった。
感謝だけではない。縋るようなものでもない。長い間、自分が何者なのかを他人の言葉で決められてきた者の目だった。
透は小さく息を吐いた。
「じゃあ、リィンでいいだろ」
「……いいの?」
「俺に聞かれても困る。でも、少なくとも俺はそう呼ぶ」
リィンは唇を引き結んだ。
泣きそうに見えた。
しかし、涙は出なかった。長く眠っていたせいか、それとも泣き方を忘れているのか。
透は話題を変えるように、周囲を見た。
「ここから上に戻る道はあるのか?」
「奈落には、いくつか昇降路がある。けど、封印区画から地上へ直接戻る道は神殿側にしか開かない。普通は、下層を迂回して、古い坑道か廃棄路を探すしかない」
「普通はって、生きて戻ったやついないんじゃなかったのか」
「戻る道はある。戻れる力を持った人がいなかっただけ」
「なるほど。最悪だな」
透は天井を見上げた。
上に戻る道はある。
それだけで、少しだけ息ができた。
だが、道があることと、そこまで辿り着けることは別だ。喰屍のような魔物が入口付近にいるなら、下層にはもっと危険なものがいる。リィンは歩くのもやっとで、自分も満身創痍。
今すぐ地上を目指すのは無謀だった。
「まず、休める場所がいるな」
透は言った。
「水があって、魔物が入ってこられない場所。できれば、食べ物も」
「食べ物……」
リィンが困ったように呟いた。
「奈落には普通の食べ物はほとんどない。苔や根はあるけど、毒が多い。魔物の肉は、食べない方がいい。体が奈落に近づく」
「近づくとどうなる?」
「戻れなくなる」
透は喉を鳴らした。
魔物の肉は駄目。
毒苔も危険。
水も濾さなければ飲めない。
人間が生きる場所ではない。
だが、それでも生きるしかない。
透は自分の胸に手を置いた。
灰喰い。
死骸、呪い、壊れたものを喰う力。
それがあれば、食べ物の代わりになるのか。魔物の死骸を喰い続ければ、自分は生きられるのか。
いや、それは生きていると言えるのか。
答えは出なかった。
その時、リィンが空洞の奥を見た。
「この先に、たぶん小さな保守室がある」
「保守室?」
「封印区画を管理していた人たちの部屋。もう誰もいないと思うけど、扉が残っていれば、魔物避けの刻印も残っているかもしれない」
「行けそうか?」
リィンは立ち上がろうとして、すぐにふらついた。
透は慌てて支える。
「無理するな」
「でも、ここは長くいられない。喰屍は狭い場所にも肉を伸ばせる。匂いを覚えられたら、いずれ探される」
「匂いって」
透は自分の服を見た。
血と汗と魔物の体液と灰。最悪の匂いだろう。
「俺か」
「私も。封印が解けたから、下層の魔物にはわかると思う」
「人気者だな、俺たち」
「にんきもの?」
「悪い意味で狙われてるってこと」
リィンは少し考え、真面目な顔で頷いた。
「人気者は危険なんだね」
「そういう学習はしなくていい」
透は苦笑し、リィンの腕を肩に回した。
休みたかった。
今すぐここで倒れて眠りたかった。
だが、眠るなら扉のある場所がいい。魔物避けの刻印が残っているなら、なおさらだ。
二人は空洞の奥へ進んだ。
細い通路は緩やかに下っていた。壁には時折、古い金属板が埋め込まれている。そこに刻まれた文字は、透には読めない。だが、リィンはそれを見ながら進路を選んでいた。
「読めるのか?」
「少しだけ。封印管理用の古代文字」
「すごいな」
「すごくない。読めるようにされたから」
その言い方に、透は返す言葉を見つけられなかった。
しばらく進むと、通路の先に扉が見えた。
半ば錆びた鉄の扉。表面には、青い線で描かれた円形の刻印が残っている。リィンがほっと息を吐いた。
「残ってる」
「魔物避け?」
「弱ってるけど、まだ生きてる。下級の魔物なら近づきにくいはず」
「上級は?」
「近づく」
「聞かなきゃよかった」
透は扉に手をかけた。
錆びついていて重い。全力で押しても、最初はびくともしなかった。胸の奥の灰を少しだけ腕に回す。皮膚の上に薄い灰の筋が浮かび、筋肉を無理やり支える。
体に悪い使い方だと直感した。
だが、今は仕方がない。
「開け……!」
軋む音。
扉が少しずつ動いた。
隙間から、古い空気が漏れる。埃っぽいが、腐臭は薄い。中に魔物がいる気配もない。
透は先に中を覗いた。
小さな部屋だった。
壁際に壊れた棚。床に転がる金属の箱。奥には簡易寝台らしきものが二つ。天井の魔石灯は死んでいるが、壁の刻印がかすかに青く光っている。
安全地帯。
完全ではないが、今の二人には十分すぎる場所だった。
透はリィンを寝台に座らせ、自分は扉を閉めた。内側から錆びた閂を下ろす。これでどれほど持つかはわからないが、ないよりはましだ。
その瞬間、体が限界を迎えた。
透は扉にもたれたまま、ずるずると床に崩れ落ちた。
「トオル!」
リィンが立ち上がろうとする。
「大丈夫……」
そう言おうとして、失敗した。
口の中に血の味が広がる。
視界が揺れる。
リィンが何かを言っている。だが、声が遠い。体が冷たい。眠い。ここで眠ったらまずいとわかっているのに、まぶたが下がっていく。
胸の奥で、灰が蠢いた。
――喰え。
床に積もった古い埃。壊れた棚。錆びた箱。壁に残る弱った刻印。部屋そのものが、喰えるものとして透の感覚に引っかかる。
喰えば楽になる。
傷が塞がる。
体が動く。
もっと強くなる。
透の指先から、灰が床へ伸びかけた。
その手を、リィンが掴んだ。
冷たい手だった。
けれど、その冷たさが透の意識を少しだけ現実へ引き戻した。
「だめ」
リィンが言った。
「今喰ったら、この部屋の刻印まで壊れる。そうしたら、魔物避けが消える」
透はぼんやりと彼女を見る。
「……そうか」
「必要なものまで喰べたら、奈落と同じになる」
その言葉は、深く刺さった。
必要なものまで喰う。
すべてを灰にする。
さっき黒い石に触れた時の声が蘇る。
――すべて喰え。
透は震える息を吐き、床へ伸びかけていた灰を引っ込めた。
胸の奥の空腹が、不満げに疼く。
「悪い」
「謝らなくていい。私が、見てるから」
「見てる?」
「あなたが喰べすぎないように。あなたが、あなたのままでいられるように」
透は目を閉じかけ、もう一度開いた。
「それ、重い役目だな」
「私は鍵だったから。見張るのは、慣れてる」
「自分で言ってて悲しくならないか、それ」
「少し」
「じゃあ、やめよう」
リィンは首を傾げた。
透は息を整えながら、ゆっくりと言った。
「見張るんじゃなくて、止めてくれ。俺がやばそうだったら」
「……うん」
「俺も、リィンが無理しそうだったら止める」
リィンは驚いた顔をした。
そして、小さく頷いた。
「うん」
部屋の外で、何かが通り過ぎる気配がした。
閂の向こう側を、湿ったものが這う音。扉の前で一度止まり、匂いを嗅ぐような沈黙があった。
透とリィンは息を殺した。
壁の青い刻印が、かすかに震える。
長い時間に感じた。
やがて、外の気配はゆっくりと遠ざかっていった。
透はようやく息を吐いた。
「……人気者、来てたな」
「うん。危険な人気者」
「使い方覚えるの早いな」
リィンは少しだけ得意そうにした。
その顔を見て、透はなぜか安心した。
こんな場所でも、表情が変わる。言葉が返ってくる。誰かがそこにいる。
それだけで、奈落の闇はほんの少しだけ薄くなった。
透は床に横になった。
本当は寝台を使うべきだったが、リィンをどかす気にはなれない。床は冷たい。痛む体にはひどい寝床だ。それでも、石の広間で槍を向けられた時より、落下して骨の山に叩きつけられた時より、ずっとましだった。
リィンが壊れた棚から布のようなものを見つけ、透にかけた。
古く、埃っぽい布だった。
それでも温かかった。
「リィン」
「なに?」
「明日、上に戻る道を探す」
「うん」
「でもその前に、武器と水と、ちゃんと休める場所がいる」
「うん」
「あと、俺の力の使い方も知らないといけない」
「それは、私も手伝えると思う」
透は薄く目を開けた。
「灰喰いを知ってるのか?」
リィンは少しだけ黙った。
それから、言った。
「灰喰いは、災厄職じゃない」
透の眠気が、わずかに遠のいた。
「じゃあ、何なんだ」
「古い名前では、灰の番人。燃え尽きたものを眠らせる役目。奈落が生まれる前からあった、終わったものを終わらせる力」
透はその意味を考えようとした。
だが、頭がうまく回らない。
灰の番人。
終わったものを終わらせる力。
王国の神官は、災いだと言った。存在するだけで災いだと。
リィンは違うと言った。
どちらが本当なのかは、まだわからない。
だが少なくとも、今の透には、リィンの言葉の方が少しだけ信じられた。
「……明日、詳しく聞く」
「うん」
「寝る。起きなかったら、叩いて起こしてくれ」
「どれくらい?」
「死なないくらい」
「難しい」
「じゃあ、優しめで」
「わかった。優しめに叩く」
透は小さく笑った。
笑ったまま、意識が沈んでいく。
奈落に落とされてから初めての眠りだった。
安全とは言えない。希望があるとも言い切れない。地上では、王国もクラスメイトも、きっと透を死んだものとして扱っているだろう。
だが、彼は生きていた。
灰を喰い、傷を塞ぎ、捨てられた少女と共に、奈落の片隅で息をしていた。
その事実だけは、誰にも消せない。
扉の外では、奈落の魔物たちが蠢いている。
扉の内側では、壁の青い刻印が弱々しく光っている。
その光の下で、リィンは眠る透を見つめていた。
彼の指先から、時折、灰色の粒子がこぼれる。
それは床を喰おうとして、彼自身の意思に引き戻されるように消えていく。
「灰の番人……」
リィンは小さく呟いた。
遠い昔、神殿の奥で聞かされた言葉。
燃え尽きたものを眠らせる者。
終わりを終わらせる者。
奈落の底に沈むすべての怨嗟が、最も恐れる者。
その力を持つ少年は、今はまだ弱い。
傷だらけで、眠ることさえ戦いのように息をしている。
けれど、リィンにはわかった。
奈落は、彼を喰おうとしている。
同時に、彼もまた、奈落を喰える。
どちらが先に相手を飲み込むのか。
それはまだ、誰にもわからない。
リィンは透にかけた布をそっと直した。
「おやすみ、トオル」
返事はなかった。
けれど、少年の呼吸は続いていた。
捨てられた二人は、奈落の底で、最初の夜を越えようとしていた。




