第3話 青い棺の少女
青い光は、呼吸をしているように揺れていた。
近づくほどに、奈落の空気が変わっていく。骨と腐肉の臭いに混ざって、冷たい金属の匂いがした。血の匂いではない。もっと乾いた、長い時間放置された鉄の匂い。
透は折れた剣を握りしめた。
剣と呼ぶには短すぎる。刃は灰で無理やり繋ぎ止められているだけで、強く叩けばまた砕けそうだった。それでも、何も持っていないよりはましだ。
足元の岩は濡れていた。
一歩ごとに、ぴちゃ、と水音が鳴る。その音がやけに大きく聞こえた。奈落の闇は音を吸うのではなく、逆に小さな音だけを拾って遠くへ運ぶらしい。自分の呼吸さえ、誰か別の人間が背後で息をしているように聞こえる。
透は何度も振り返った。
何もいない。
だが、何かが見ている気配はあった。
さっきの赤い目の魔物たちかもしれない。あるいは、それよりもっと悪い何かかもしれない。
「……誰か、いるのか」
声を出すと、喉が痛んだ。
返事はなかった。
ただ、青い光が少し強くなる。
透は舌打ちを飲み込んだ。
罠だとしたら、あまりにもわかりやすい。助けを求める女の声。暗闇の奥に揺れる青い光。そこに向かって弱った獲物が近づくのを待っている魔物。
普通なら近づかない。
普通なら。
だが、普通の判断ができるほど、透はまだこの世界に慣れていなかった。何より、さっき聞こえた声が頭から離れない。
――誰か。
それは、奈落に落とされた時、自分が本当は叫びたかった言葉だった。
誰か助けてくれ。
誰か信じてくれ。
誰か、俺を見捨てないでくれ。
誰も来なかった。
だからこそ、無視できなかった。
通路の先が開けた。
透は岩陰に身を寄せ、慎重に中を覗いた。
そこは、人工物の部屋だった。
自然にできた洞窟ではない。黒い石を切り出して組み上げた壁。床には崩れた模様が刻まれ、天井からは折れた鎖が何本も垂れている。部屋の四隅には石柱があり、その表面には細かな文字がびっしりと彫られていた。
文字は読めない。
だが、嫌な感じがした。
王国の召喚広間にあった魔法陣とも、奈落の扉に刻まれていた赤黒い文字とも違う。もっと古く、もっと冷たく、何かを閉じ込めるためだけに作られたもの。
部屋の中央に、それはあった。
棺。
透明な青い結晶でできた、大きな棺だった。
棺の中には、少女が眠っていた。
年は透と同じくらいに見える。長い銀色の髪が水の中に漂うように広がり、白い肌は人形のように色が薄い。胸元には黒い鎖が何本も巻きつき、その鎖が棺の内側から外へ伸びて、四隅の石柱に繋がっている。
青い光は、棺から漏れていた。
透は息を呑んだ。
綺麗だと思った。
こんな場所で、こんな状況で、そんなことを思った自分に腹が立つくらい、その光景は現実離れしていた。
少女の唇が、わずかに動いた。
「……だれ……」
声は、棺の中から聞こえた。
透は体を強張らせる。
「聞こえるのか?」
「……ひと……?」
少女のまぶたが震えた。
閉じられていた目が、ゆっくりと開く。
青い瞳だった。
棺の光よりも淡く、けれどその奥に、長い時間凍りついていた火のようなものが残っている。
少女は透を見た。
そして、目を見開いた。
「逃げて」
最初に出た言葉は、それだった。
透は眉を寄せる。
「え?」
「ここから、逃げて……早く……」
その瞬間、部屋の床に刻まれた模様が赤黒く光った。
透の胸の奥が、警鐘のように脈打つ。
喰える。
いや、違う。
喰えるが、危険だ。
床の模様から立ち上がったのは、灰ではなかった。灰になる前の、腐った魔力。生き物の憎悪と呪いを、無理やり煮詰めたようなものだった。
それが部屋の四隅から、棺へ流れ込んでいる。
少女の体が小さく震えた。
「ぐ……っ」
苦痛を噛み殺すような声。
黒い鎖が脈動し、少女の胸元に食い込んでいく。
「おい!」
透は反射的に部屋へ踏み込んだ。
その瞬間、背後で岩が崩れる音がした。
振り返る。
通路の天井から、黒いものが落ちてきた。
人型だった。
だが、人間ではない。
腐った鎧をまとった骸骨。片腕には欠けた斧を持ち、兜の奥には赤い光が宿っている。白骨化した体の隙間を、黒い粘液のようなものが繋いでいた。
一体ではない。
二体、三体、五体。
通路だけではなく、部屋の壁の亀裂からも、同じような骸骨兵が這い出してくる。
棺の少女が悲鳴に近い声を上げた。
「だめ……封印守りが起きる……!」
「封印守りって、こいつらかよ」
透は折れた剣を構えた。
骸骨兵たちが、一斉にこちらを見る。
生き物ではない。
なら、喰えるのか。
透は胸の奥の感覚を探った。
返ってきたのは、鈍い空腹だった。
完全には喰えない。
まだ動いている。
死んでいるのに、何かに動かされている。
なら、その何かを断てばいい。
最初の骸骨兵が斧を振り上げた。
動きは遅い。だが、重い。まともに受ければ、折れた剣ごと腕を持っていかれる。
透は横へ跳んだ。
斧が床に叩きつけられ、石が砕ける。
「冗談だろ……!」
さっきの犬型の魔物より遅い。だが、力が違いすぎる。透の体力は限界に近い。何度も避け続けられるとは思えなかった。
もう一体が剣を突き出す。
透は折れた剣で弾こうとして、失敗した。
刃が削れ、肩口を浅く裂かれる。
「っ!」
熱い血が流れた。
痛みで足が止まる。
そこへ斧が迫る。
避けきれない。
透は咄嗟に、腰に差していた魔物の牙のナイフを引き抜き、骸骨兵の足元へ投げた。
狙ったわけではない。
だが、牙のナイフは骸骨兵の膝関節に突き刺さった。
そこに絡んでいた黒い粘液が、灰を嫌がるように縮む。
骸骨兵の姿勢が崩れた。
斧が透の頭の横を通り過ぎ、風圧で髪が揺れる。
透は息を止めたまま踏み込み、折れた剣を骸骨兵の首に叩きつけた。
一撃では斬れない。
骨が硬い。
だが、刃にまとわせた灰が黒い粘液を吸った。
骸骨兵の首元から、じゅう、と音が鳴る。
「そこか!」
透はもう一度剣を振った。
今度は骨ではなく、骨を繋いでいる黒いものを狙う。
刃が通った。
骸骨兵の頭が落ちる。
赤い光が消え、鎧と骨が崩れた。
崩れた瞬間、灰が立ち上る。
透の体に流れ込む。
疲労が消えるわけではない。傷が完全に塞がるわけでもない。だが、足にほんの少し力が戻った。
折れかけていた剣の刃も、灰を吸ってわずかに伸びる。
「よし……」
勝てる。
そう思った瞬間、二体目の剣が腹を掠めた。
「ぐっ」
制服が裂け、血が滲む。
油断した。
勝てるかもしれないだけで、勝てると決まったわけではない。
透は奥歯を噛み締めた。
骸骨兵は残り四体。通路側に二体、壁際に二体。棺の少女は苦しそうに呼吸している。床の赤黒い模様は、さらに強く光り始めていた。
このまま時間をかければ、何かまずいことが起きる。
「なあ!」
透は棺の少女へ叫んだ。
「こいつら、どうすれば止まる!」
少女は苦痛に顔を歪めながら、かすかに答える。
「柱……四つの柱に、核が……」
「柱?」
「黒い、石……それを壊せば……封印守りは、止まる……でも」
少女の声が途切れる。
「でも?」
「私の封印も、壊れる……」
透は一瞬だけ、棺を見た。
青い結晶の中で、少女は震えている。黒い鎖が彼女を縛り、その鎖が四本の石柱に繋がっている。
封印守りを止めるには、柱の核を壊す。
そうすれば少女の封印も壊れる。
罠かもしれない。
少女が実は怪物で、封印を解かせるために助けを求めているだけかもしれない。王国の老人が言っていた災厄とやらより、もっと危険なものかもしれない。
だが、透は笑った。
笑える状況ではなかった。
それでも笑ってしまった。
「だったら、ちょうどいい」
少女が目を見開く。
「え……?」
「俺もさっき、勝手に危険だって決めつけられて落とされたんだ」
透は折れた剣を構え直した。
骸骨兵が迫る。
「だから、封印されてるってだけで、お前を怪物扱いするのはやめとく」
一体目の攻撃を低く避ける。二体目の剣を骨の山から拾った盾の破片で受ける。衝撃で腕が痺れたが、歯を食いしばって前へ出た。
狙いは骸骨兵ではない。
部屋の左奥の石柱。
骸骨兵たちが透の進路を塞ごうとする。
透は床を蹴った。
足がもつれる。体が重い。傷口が痛む。それでも走る。
斧が背中を掠めた。
痛みと熱が走る。
無視した。
石柱の中央に、黒い石が埋め込まれているのが見えた。少女が言っていた核だ。
透は剣を振り上げる。
普通に叩けば、たぶん砕けない。
なら、喰う。
透は剣にまとわせていた灰を、すべて刃先へ集めた。さっき倒した魔物。骸骨兵。腐った鎧。毒の胞子。その全部が、灰色の薄い膜になって刃を覆う。
胸の奥が空腹を訴える。
もっと喰え。
もっと寄こせ。
透はその衝動を無理やり押さえつけた。
「今は、これだけでいい」
刃が黒い石に触れる。
抵抗があった。
硬いのではない。
拒まれている。
黒い石の中から、無数の声が響いた。
憎い。
出たい。
殺せ。
喰わせろ。
灰に、灰に、灰に。
透の意識が揺れる。
頭の奥に、知らない記憶が流れ込もうとした。戦場。炎。積み上がる死体。泣き叫ぶ人々。黒い鎖で縛られる少女。青い棺。封じられる声。
「っ、入ってくるな!」
透は叫び、刃を押し込んだ。
灰が黒い石の表面を削る。
黒い石は悲鳴のような音を立てた。
ひびが入る。
その瞬間、骸骨兵の剣が透の背中に向けて振り下ろされた。
避けられない。
そう思った時、青い光が走った。
棺の中の少女が、鎖に縛られたまま手を伸ばしていた。
彼女の指先から放たれた小さな光が、骸骨兵の剣を弾く。
ほんの一瞬。
だが十分だった。
「うおおおおっ!」
透は全体重をかけて剣を押し込んだ。
黒い石が砕けた。
石柱の一本に繋がっていた鎖が、音を立てて弾ける。
同時に、骸骨兵の一体が崩れ落ちた。
透の体へ、大量の灰が流れ込む。
膝が折れそうになった。
力が入るのではない。逆に、何かに飲み込まれそうになる。喰うということは、取り込むということだ。取り込んだものが多すぎれば、自分の内側まで灰に染まる。
危険だ。
それでも、止まれない。
残り三本。
透は荒い息を吐き、次の柱へ向かう。
一度やり方がわかれば、迷いは減った。
二本目の核は、骸骨兵の斧を避けながら砕いた。砕いた瞬間、床の赤黒い模様が半分ほど薄れる。
三本目では、剣が限界を迎えた。
黒い石を叩いた瞬間、折れた剣の刃が粉々に砕ける。
「くそっ」
透は素手で黒い石を掴んだ。
触れた瞬間、手の皮が裂ける。黒い呪いが指先から腕へ這い上がってきた。
痛い。
だが、左腕を焼いた黒い吐息よりは耐えられる。
透は自分の血と灰を混ぜ、拳を固めた。
「砕けろ!」
拳を叩きつける。
一度。
二度。
三度。
指の骨が軋む。血が飛ぶ。だが、黒い石にもひびが入る。
四度目で、砕けた。
三本目の鎖が弾ける。
棺の青い光が強くなる。
少女の体を縛っていた鎖は、残り一本。
だが、最後の石柱の前に、残った骸骨兵たちが集まっていた。
二体。
どちらも透より大きい。
片方は斧。片方は槍。
透の手に、もう剣はない。
魔物の牙のナイフもさっき投げたままだ。
息は荒く、視界の端が黒く滲む。
それでも、透は前へ出た。
骸骨兵たちが武器を構える。
その時、棺の少女がかすれた声で言った。
「もう、いい……」
透は振り返らなかった。
「よくない」
「あなたまで、死ぬ……」
「死にたくはないな」
透は床に落ちていた鎖の破片を拾った。
黒い鎖。
少女を縛っていたもの。
触れた瞬間、指先が痺れる。呪いが強い。だが、石柱の核ほどではない。
透は灰を流し込んだ。
鎖は嫌がるように震えたが、すぐに形を変え始める。一本の長い鞭のように伸び、先端に魔物の牙の欠片が生える。
まともな武器ではない。
でも、今の透にはそれしかなかった。
「俺は、あいつらの都合で死ぬのが嫌なだけだ」
透は鎖を振る。
「ついでに、お前がそいつらの都合で閉じ込められてるなら、それも気に入らない」
骸骨兵が動いた。
槍が突き出される。
透は鎖を絡めた。力では勝てない。だが、灰を混ぜた鎖は槍にまとわりつき、骨の腕ごと引っ張る。
体勢が崩れた瞬間、斧の骸骨兵が横から斬り込んでくる。
透は避けなかった。
いや、避けきれなかった。
斧が脇腹を裂く。
痛みで意識が飛びかける。
それでも透は、鎖を手放さなかった。
槍を持つ骸骨兵を無理やり引き寄せ、斧の軌道へぶつける。
二体が絡まる。
透は残った力を振り絞り、最後の石柱へ走った。
手には鎖。
刃はない。
拳も限界。
だから、全身でぶつかった。
鎖を黒い石に巻きつける。灰を流す。喰らう。削る。呪いが腕から肩へ、胸へ這い上がる。
視界が灰色に染まった。
頭の中で、誰かの声が笑う。
――お前も灰になる。
透は歯を食いしばる。
「まだだ」
――すべて喰え。すべて灰にしろ。
「違う」
――喰え。喰え。喰え。
「俺が喰うものは、俺が決める!」
鎖を引き千切るように、透は腕を振り抜いた。
最後の黒い石が砕けた。
部屋全体に、青い光が爆ぜる。
骸骨兵たちは音もなく崩れ落ちた。床の赤黒い模様が消え、四本の黒い鎖がすべて灰になって散る。
中央の青い棺に、ひびが入った。
一筋。
二筋。
そして、砕ける。
青い結晶の破片が、雪のように舞った。
中から少女の体が倒れ込む。
透は反射的に受け止めようとした。
だが、足に力が入らない。
二人はそのまま床に倒れた。
「っ……」
少女は透の腕の中で、小さく息をした。
冷たい。
生きているのか不安になるほど体温が低い。だが、胸はかすかに上下している。
青い瞳が、透を見上げた。
「どうして……」
少女は掠れた声で言った。
「どうして、助けたの……?」
透は答えようとした。
だが、言葉がすぐには出てこなかった。
理由なんて、はっきりしていない。助けられる自信があったわけでもない。正しいことをしたと思えるほど、状況を理解しているわけでもない。
ただ、見捨てたくなかった。
あの広間で、誰も前に出てくれなかった時の自分と、棺の中の少女が重なって見えた。
それだけだった。
「……俺が」
透は息を吐く。
「そうされたかったから、かな」
少女の目が揺れた。
透は笑おうとして、失敗した。脇腹の痛みが強すぎて、顔が引きつっただけだった。
「名前は?」
「……リィン」
「リィン、か。俺は篠宮透。透でいい」
「トオル……」
少女はその名前を、確かめるように呟いた。
次の瞬間、部屋の奥で低い音が響いた。
ごごご、と石が動く音。
透は顔を上げる。
青い棺が砕けたことで、部屋の奥の壁に亀裂が入っていた。その亀裂の向こうから、冷たい風が吹いてくる。
そして、風に混じって聞こえた。
遠く、深い場所から響く咆哮。
骸骨兵とは違う。犬型の魔物とも違う。もっと大きく、もっと古い何かの声。
リィンの顔色が変わった。
「まずい……封印が解けたから、下層の門も開いた……」
「下層?」
「ここはまだ、奈落の入口に近い場所……本当の奈落は、この下にある」
透は乾いた笑いを漏らした。
「ここで入口かよ」
体は限界だった。傷口から血が流れ、灰の膜でも塞ぎきれていない。今すぐ眠りたい。できれば目を覚ましたら全部夢だったことにしたい。
だが、亀裂の向こうから近づいてくる気配があった。
ひとつではない。
無数。
リィンが透の袖を掴んだ。
「逃げないと……」
「歩けるか?」
リィンは首を横に振ろうとして、途中で小さく頷いた。
「少しなら」
「じゃあ、少しでいい」
透は立ち上がろうとした。
膝が笑う。視界が揺れる。それでも、倒れるわけにはいかなかった。
リィンの腕を肩に回し、支える。
軽い。
怖いくらい軽かった。
部屋の外へ向かおうとした時、透の胸の奥が脈打った。
砕けた青い棺の破片。黒い鎖の灰。骸骨兵たちの残骸。四本の石柱の核。
すべてが、喰えるものとしてそこにあった。
今すぐ全部喰えば、もっと強くなれる。
そう感じた。
だが同時に、さっき聞こえた声を思い出す。
――すべて喰え。すべて灰にしろ。
透は奥歯を噛み締めた。
必要な分だけだ。
生きるための分だけ。
透は砕けた鎖の灰を少しだけ吸収し、残りには手を出さなかった。体に最低限の力が戻る。脇腹の傷が灰で塞がる。だが、内側に入り込んだ冷たい空腹は消えない。
リィンが不安そうに見上げた。
「大丈夫……?」
「大丈夫じゃない」
透は正直に答えた。
「でも、死ぬよりはましだ」
遠くの咆哮が、もう一度響く。
今度はさっきより近い。
透はリィンを支え、青い光の消えかけた部屋を出た。
奈落の闇は、まだ果てしなく続いている。
けれど、もう一人ではなかった。
それが救いなのか、さらなる地獄の始まりなのかは、まだわからない。
ただ一つだけ、透にはわかっていた。
捨てられた場所で、捨てられた誰かを拾った。
その瞬間から、彼の奈落は、ただの処刑場ではなくなったのだ。




