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第2話 灰は死骸を喰らう

 灰の刃は、魔物の頭蓋を斜めに砕いた。


 手応えは、木の枝を叩き折る感覚に近かった。だが、刃が通った直後に飛び散ったのは木片ではなく、黒い血と腐った肉片だった。


「ぐっ……!」


 透は勢いを殺しきれず、骨の山に膝をついた。


 目の前で、赤い目の魔物が崩れ落ちる。


 犬に似ていた。いや、犬だったものを無理やり引き伸ばし、皮を剥ぎ、骨と筋だけで動かしているような生き物だった。口は耳元まで裂け、牙は不揃いに伸びている。体毛はほとんどなく、背中からは黒ずんだ骨が何本も突き出していた。


 それが一匹、二匹、三匹。


 暗闇の奥には、まだ赤い目が残っている。


「は……はは……」


 透の喉から、乾いた笑いが漏れた。


 笑いたいわけではなかった。恐怖で肺が痙攣しているだけだった。


 つい数時間前まで、彼は教室にいた。


 雨の音を聞きながら、古典の教科書に線を引いていた。次の定期考査の範囲を気にしていた。昼休みに買いそびれたパンのことを、少しだけ後悔していた。


 なのに今は、底の見えない地下の怪物の巣で、血まみれの刃を握っている。


 足が震える。腕が重い。呼吸をするたび、肋骨のあたりが鋭く痛んだ。落下の衝撃で、どこかを痛めているのは間違いない。


 それでも、立たなければ死ぬ。


 赤い目が動いた。


 次の一匹が飛びかかってくる。


 透は灰の刃を構えようとした。だが、手の中の刃はさっきよりも小さくなっていた。灰を固めただけのそれは、魔物の頭を砕いた衝撃で半分ほど欠けている。


「嘘だろ」


 魔物の牙が迫る。


 透は横に転がった。骨の破片が背中に刺さる。痛みに息が詰まるが、止まっている暇はない。魔物は透がいた場所に着地すると、すぐさま首だけをこちらへ向けた。


 速い。


 もう一度避けられる保証はなかった。


 透は咄嗟に、足元の骨を掴んで投げつけた。魔物は避けもしなかった。骨は額に当たって砕けたが、怯んだ様子はない。


 赤い目が、笑ったように細くなる。


 次の瞬間、灰色の粒子が透の周囲を流れた。


 さっき倒した魔物の死骸から、薄い灰が立ち上っている。


「……なんだ?」


 灰は風もないのに舞い、透の右手へ吸い込まれていく。欠けていた刃が、わずかに形を取り戻した。


 同時に、胸の奥で何かが脈打つ。


 温かいわけではない。むしろ冷たい。けれど、空っぽだった胃の底に、ほんの少しだけ力が落ちてくるような感覚があった。


 ――喰った。


 言葉ではない。だが、意味だけが脳の奥に染み込んでくる。


 透は倒れた魔物を見た。


 死骸は、さっきよりも乾いていた。黒い血は色を失い、肉は灰色に変わり始めている。


 もう一匹が、低く唸った。


 透は灰の刃を握り直す。


「死んだやつなら、喰えるのか」


 返事はない。


 だが、胸の奥の冷たい脈動が、肯定のように一度だけ強く鳴った。


 魔物が跳ぶ。


 今度は、正面から受けなかった。


 透は体を沈め、魔物の腹の下へ潜り込むように転がる。制服の袖が牙に裂かれた。皮膚が切れ、熱い痛みが走る。それでも腕は動いた。


 灰の刃を、下から突き上げる。


 刃は魔物の腹を裂いた。黒い血が降りかかる。臭い。胃がひっくり返りそうな腐臭だった。


 魔物は悲鳴を上げて着地し、体を捻る。


 浅い。


 殺せていない。


 透は立ち上がろうとして、足を滑らせた。骨の山が崩れ、体勢が傾く。


 魔物が口を開く。


 その喉の奥に、黒い光が集まった。


「まず――」


 反射的に、透は左手を前に出した。


 意味があったわけではない。ただ、顔を庇っただけだった。


 黒い吐息が放たれる。


 それは炎ではなかった。冷たい煙のようなものだった。触れた骨が音もなく崩れ、灰に変わる。


 透の左腕にも、その煙がかかった。


「があああっ!」


 皮膚が焼けるのではなく、削られる感覚だった。肉が、熱ではなく乾きによって奪われていく。制服の袖が灰になり、腕の表面が黒ずむ。


 痛みで視界が歪んだ。


 だが、その痛みの奥で、別の感覚があった。


 左腕に触れた黒い煙の一部が、皮膚の下へ吸い込まれている。


 喰える。


 完全には無理だ。痛みは消えない。傷も塞がらない。けれど、煙の全部を食らうことはできなくても、一部を奪うことはできる。


 透は歯を食いしばった。


「だったら……!」


 逃げずに、一歩前へ出た。


 魔物が再び息を吸う。黒い吐息を吐く直前、透は骨の山を蹴った。まともな剣術など知らない。体育の授業で竹刀を握ったことがある程度だ。


 だから、ただ突っ込んだ。


 死ぬほど怖かった。


 足は震え、目は涙で滲んでいた。だが、止まれば殺される。ここでは、誰も代わりに前へ出てくれない。


 灰の刃を、魔物の開いた口へ叩き込む。


 牙が刃を噛み砕いた。


 だが、砕けた灰はそのまま魔物の喉奥へ入り込んだ。


 胸の奥が脈打つ。


 ――喰え。


「喰え!」


 透が叫んだ瞬間、魔物の喉から灰色の亀裂が走った。


 黒い煙が逆流し、魔物の体内で爆ぜる。魔物は喉を掻きむしるように暴れ、骨の山へ体を打ちつけた。


 透は落ちていた骨を拾い、両手で握った。


 棒切れほどの骨。


 武器とも呼べない。


 だが、魔物はもうこちらを見ていなかった。


 透は骨を振り上げ、魔物の頭へ叩きつけた。


 一度。


 二度。


 三度。


 骨が折れる。


 手の皮が破れる。


 それでも叩いた。


 四度目で、魔物の頭蓋が沈んだ。


 五度目で、赤い光が消えた。


 透はその場に座り込んだ。


「はっ……はっ……はっ……」


 呼吸がうまくできない。


 周囲を見回す。


 残っていた赤い目は、いつの間にか闇の奥へ下がっていた。獲物だと思っていたものが、思ったよりしぶといと判断したのかもしれない。あるいは、灰を喰う何かに怯えたのかもしれない。


 透はしばらく動けなかった。


 倒した二匹の魔物の死骸から、灰が立ち上る。細い流れになって、透の体へ染み込んでくる。


 左腕の痛みが少しだけ引いた。


 裂けた袖の下、黒ずんでいた皮膚が薄い灰色の膜に覆われている。治っているわけではない。応急処置のように、灰が傷を塞いでいるだけだ。


 それでも、血は止まった。


「……便利、なのか?」


 呟いた声は、自分でも情けないほど掠れていた。


 便利なはずがない。


 こんな場所に落とされなければ、使うこともなかった力だ。魔物の死骸を喰らって、傷口を灰で塞いで、それを便利だと思わなければならない状況の方が狂っている。


 透は歯を食いしばった。


 相良の顔が浮かんだ。


 悪いようにはされない。


 あの言葉が、耳の奥にこびりついている。


「悪いようにしか、なってないだろ」


 怒りが湧いた。


 だが、怒りだけでは体は動かない。喉が渇いている。腹も減っている。左腕は痛むし、全身が落下の衝撃で悲鳴を上げている。


 まず、生き延びる必要がある。


 怒るのも、恨むのも、見返すのも、生きていなければできない。


 透は立ち上がった。


 灰の刃はもうほとんど形を失っている。代わりに、倒した魔物の牙が一本、骨の山に落ちていた。透がそれを拾うと、指先から灰が滲み、牙の根元に絡みついた。


 折れた骨。魔物の牙。灰。


 三つが混ざり、短いナイフのような形になる。


 不格好だった。


 だが、さっきの灰の刃よりは硬そうだ。


「……死骸から武器を作れる」


 自分の声を聞いて、少しだけ思考が戻ってくる。


 能力の条件を考える。


 生きている魔物そのものは喰えない。少なくとも今は無理だ。黒い吐息の一部は喰えたが、全部ではない。死んだ魔物からは灰を吸収できる。吸収した灰で、刃を直したり、傷を塞いだり、素材を繋げたりできる。


 強い。


 たぶん、かなり強い。


 だが、万能ではない。


 生きた魔物に囲まれれば普通に死ぬ。腹が減れば動けなくなる。水がなければ終わる。上に戻る方法もない。


 透は暗闇を見上げた。


 落ちてきた穴は、もう見えなかった。上に光はない。どれだけ深く落ちたのかもわからない。


 奈落。


 老人はそう呼んでいた。


 生きて戻った者はいない場所。


「なら、最初の一人になってやる」


 強がりだった。


 声に出さなければ、膝が折れそうだった。


 透は魔物の牙で作ったナイフを握り、骨の山を下り始めた。


 足元には、無数の死骸があった。


 人間の骨も混ざっている。鎧を着たまま白骨化した兵士。折れた杖を抱えた法衣の骸。巨大な獣の肋骨。羽のある何かの頭蓋。どれも古く、乾き、灰を被っている。


 透が近づくと、その一部がわずかに反応した。


 喰える。


 胸の奥の感覚が告げる。


 だが、透はすぐには手を出さなかった。


 人間の骨を喰う。


 その発想に、胃が冷たくなる。


 魔物の死骸ならまだ言い訳ができた。生きるためだと。でも、人間だったものにまで手を伸ばしたら、自分がどこか決定的に変わってしまう気がした。


 透は白骨化した兵士の前で足を止めた。


 鎧の胸元に、錆びた紋章が残っている。王国の兵士か、それとももっと昔の誰かかはわからない。骨の指は、折れた剣を握ったままだった。


「……借ります」


 透は小さく頭を下げ、剣だけを取った。


 刀身は半ばから折れていた。錆びつき、刃も潰れている。普通なら武器にはならない。


 だが、透が灰を流し込むと、折れた断面が鈍く光った。


 完全には直らない。


 けれど、刃の形だけは戻った。


 ひどく重い短剣になったが、牙のナイフよりは頼りになる。


 その時、暗闇の奥から音がした。


 水音だった。


 ぽたり、ぽたりと、どこかで雫が落ちている。


 透の喉が鳴った。


 水。


 それが安全かどうかはわからない。毒かもしれない。魔物の体液かもしれない。けれど、このままではどのみち動けなくなる。


 透は音のする方へ進んだ。


 骨の山を抜けると、地面は黒い岩肌に変わった。壁には灰色の苔のようなものが張りつき、かすかに光っている。そのおかげで、完全な暗闇ではなかった。


 しばらく進むと、小さなくぼみに水が溜まっていた。


 透は飛びつきかけて、寸前で止まった。


 水面に、小さな虫の死骸が浮いていた。


 いや、虫ではない。針のように細い脚を持つ、見たことのない生き物だった。水に触れた部分から白く濁り、崩れている。


 毒だ。


 透は唇を噛んだ。


 飲めない。


「くそ……」


 その時、胸の奥がまた脈打った。


 毒で死んだ虫の死骸から、ほんのわずかに灰が立ち上る。透はそれを吸収した。すると、舌の奥に苦味のような感覚が広がる。


 毒。


 その性質が、少しだけわかる。


 水そのものが毒なのではない。水に溶けている灰色の苔の胞子が、生き物の体内に入ると肉を腐らせる。


 なら。


 透は折れた剣の先に灰をまとわせ、水面へ浸した。


 灰が水の中へ広がる。灰色の胞子が、引き寄せられるように剣先へ集まっていく。完全に取り除けたかはわからない。だが、水の濁りが少し薄くなった。


 透は指先に一滴だけつけ、舐めた。


 苦い。


 だが、さっき感じた腐るような気配は薄い。


 しばらく待っても、舌は痺れなかった。


 透は両手で水をすくい、少しずつ飲んだ。


「……生きてる」


 たったそれだけのことが、泣きたくなるほどありがたかった。


 水を飲み、岩壁にもたれかかる。


 この場所で眠るのは危険だとわかっていた。だが、体は限界だった。まぶたが重い。意識が沈んでいく。


 その寸前、遠くから音が聞こえた。


 魔物の唸り声ではない。


 金属が石を叩く音。


 そして、かすかな声。


「……誰、か……」


 透は目を開けた。


 人の声だった。


 若い女の声。


 助けを求めるような、今にも消えそうな声だった。


 罠かもしれない。


 そう思った。


 だが、透は立ち上がっていた。


 自分でも馬鹿だと思う。今の自分に、誰かを助ける余裕なんてない。声の主が人間とは限らない。近づけば魔物に食われるかもしれない。


 それでも、足は止まらなかった。


 誰にも助けられずに落とされたばかりだからこそ、その声を無視できなかった。


 折れた剣を握る。


 魔物の牙のナイフを腰に差す。


 左腕の灰の膜が、薄く剥がれ落ちた。


 透は暗い通路の奥を睨む。


「……今行く」


 その声が相手に届いたかはわからない。


 だが、奈落の闇の奥で、かすかな青い光が揺れた。


 透はその光へ向かって、一歩を踏み出した。


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