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第1話 灰はまだ、燃え尽きていない

 窓の外では、七月の雨が校庭を白く煙らせていた。


 六時間目の古典は、教室全体をゆっくりと眠らせるためだけに存在しているような授業だった。黒板には助動詞の活用表が並び、教師の声は雨音に混ざって、意味のある言葉というより遠い波のように聞こえている。


 篠宮透は、教科書の端に小さく線を引いていた。


 授業を聞いていないわけではない。むしろ、聞いている方だった。けれど、黒板を写すだけでは眠気に負けそうで、重要そうな語句の横に短い印をつけている。そうしておけば、あとで見返したときに少しは役に立つ。


 隣の席から、くす、と笑う声がした。


「また真面目ぶってる」


 小さな声だったが、聞かせるための声だった。


 透は顔を上げなかった。反応すれば、そこでまた何かが始まる。反応しなければ、つまらなくなって終わる。そういうことを、彼はこの一年で覚えていた。


 教室の中心には、いつも相良迅がいた。


 明るく、声が大きく、運動もできて、教師にも妙に気に入られている。クラスの空気は、だいたい彼の一言で決まる。笑っていい相手、からかっていい相手、距離を置いた方がいい相手。その線引きが、一度できてしまえば誰も逆らわない。


 透は、その線の外側にいた。


 積極的に殴られるわけでもない。物を隠されるわけでもない。ただ、必要なときだけ雑に扱われる。班決めでは余り、面倒な係は押しつけられ、失敗した時だけ名前を呼ばれる。


 ひどい、というほどではない。


 そう自分に言い聞かせる程度には、ひどかった。


「篠宮、次読んで」


 教師に指され、透は立ち上がった。


 その瞬間だった。


 足元に、光が走った。


 最初は、蛍光灯が反射したのだと思った。だが違う。床に幾何学模様が浮かび、白い線が机の脚を、椅子を、生徒たちの靴を通り抜けて広がっていく。


「え?」


「なにこれ」


「地震?」


 ざわめきが起こる。


 教師が「落ち着け」と言いかけた声は、最後まで続かなかった。教室全体を包むほどの光が膨れ上がり、雨音も、机の軋みも、誰かの悲鳴も、すべてが白に塗り潰された。


 胃が裏返るような感覚があった。


 床が消えた。


 息が詰まった。


 そして次の瞬間、透は硬い石の上に膝をついていた。


「……っ」


 咳き込みながら顔を上げる。


 そこは、教室ではなかった。


 高い天井。石造りの柱。壁にかけられた旗。床には巨大な魔法陣が刻まれており、その上に、クラスメイトたちが折り重なるように倒れている。


 周囲を取り囲んでいたのは、白い法衣を着た老人たちと、甲冑姿の兵士たちだった。


 そして正面の階段の上には、金髪の少女が立っていた。年は透たちとそう変わらない。白と青の豪奢なドレスをまとい、胸元には宝石のついた首飾りが輝いている。


 少女は目を潤ませ、祈るように両手を組んだ。


「成功、したのですね……」


 その声を聞いた瞬間、教室のざわめきとは別の、もっと大きな混乱が起こった。


「どこだよここ!」


「撮影? いや、え、なに?」


「先生、これどういうことですか!」


 教師も答えられない。青ざめた顔で周囲を見回しているだけだった。


 法衣の老人が一歩前に出た。


「異界より招かれし勇者候補の皆様。突然の召喚、心よりお詫び申し上げます」


 その言葉に、誰もが凍りついた。


 召喚。


 勇者候補。


 異界。


 冗談のような単語が、冗談では済まされない重さで石の広間に落ちていく。


 老人は、この国が魔王軍の侵攻を受けていること。古い神託に従い、異界から勇者候補を招いたこと。元の世界に帰る方法は、魔王を討ち、召喚の大聖杯に魔力を満たした後でなければ開けないことを、ゆっくりと説明した。


 納得できるはずがなかった。


 泣き出す女子がいた。怒鳴る男子がいた。教師が抗議し、兵士に制止された。


 けれど、広間に集められた者たちは奇妙なほど丁寧で、そして冷たかった。


 謝罪はする。頭も下げる。だが、帰すとは言わない。


 その事実に、透は喉の奥が乾いていくのを感じた。


「皆様には、神より授けられた職能がございます」


 老人が合図をすると、若い神官たちが銀色の板を運んできた。


「この聖板に手を触れてください。皆様の職能と適性が示されます」


 最初に進み出たのは、相良迅だった。


 彼は混乱の中でも、妙に早く立ち直っていた。いや、違う。立ち直ったように見せるのが上手いのだ。


「つまり、俺たちに力があるってことですよね」


 そう言って、相良は聖板に手を置いた。


 銀の板が眩く輝く。


 神官たちが息を呑んだ。


「職能、《勇者》……!」


 広間の空気が変わった。


 王女らしき少女が口元を押さえ、兵士たちがざわめく。相良自身も驚いた顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。


「勇者、か」


 その声には、もう自分が中心に立つことを疑っていない響きがあった。


 そこからは、熱に浮かされたようだった。


 剣道部の男子が《剣聖》。

 成績トップの女子が《賢者》。

 保健委員だった少女が《聖女》。

 弓道部の生徒が《神弓》。

 陸上部の男子が《疾風騎士》。

 教師でさえ《導師》という職能を授かった。


 名前が告げられるたび、神官たちは歓声を上げた。王国の者たちは希望を見るようにクラスメイトたちを見つめ、クラスメイトたちも少しずつ顔を変えていった。


 恐怖の中に、興奮が混ざり始める。


 自分たちは選ばれたのだと。


 特別な力を得たのだと。


 透はその列の最後の方にいた。


 心臓が嫌な音を立てている。別に、勇者になりたいわけではなかった。特別になりたいと思ったこともない。ただ、この状況で何の力もなければ、きっと自分は真っ先に置いていかれる。


 元の教室と同じように。


 いや、ここでは置いていかれるだけでは済まないかもしれない。


「次」


 神官に促され、透は聖板の前に立った。


 相良がこちらを見ていた。口元に薄い笑みがある。どうせ大したものは出ないだろうと、声に出さなくてもわかる顔だった。


 透は息を吸い、聖板に手を置いた。


 冷たかった。


 次の瞬間、銀の板が黒ずんだ。


 光ではない。闇でもない。燃え尽きた紙の端に残るような、乾いた灰色が板の表面を走った。


 神官たちの顔色が変わる。


「これは……」


 老人が近づき、聖板を覗き込んだ。


 そこに浮かんだ文字を見た瞬間、彼の唇が震えた。


「職能……《灰喰い》」


 広間が静まり返った。


 さっきまでの歓声が嘘のようだった。


 透は手を離した。聖板の灰色は消えない。むしろ、そこに染みついたように残っている。


「あの、これは」


 問いかけようとした透を、老人は鋭い目で見た。


「触れるな」


 低い声だった。


 透の指先が止まる。


 兵士たちが一斉に槍を構えた。穂先が、透の胸に向けられる。


「え、ちょっと待ってください。何ですか、これ」


 透は思わず後ずさった。


 誰も答えない。


 クラスメイトたちも困惑していた。だが、その困惑はすぐに恐怖へ変わっていく。王国の者たちが透を見る目が、明らかに他の生徒たちを見る目と違っていたからだ。


 まるで、人ではないものを見るような目。


 老人が王女の方を振り返った。


「殿下。災厄職です」


 王女の顔が青ざめる。


「まさか……本当に存在したのですか」


「古記録にございます。《灰喰い》は魔を喰らい、聖を濁し、死の灰を広げるもの。勇者召喚に混じるなど、あってはならぬことです」


「待ってください!」


 声を上げたのは、透ではなかった。


 三枝美琴だった。


 クラスで何度か同じ委員になったことがある女子だ。目立つ方ではないが、誰にでも普通に話す。透にも、必要以上に距離を取らなかった数少ない一人だった。


「篠宮くんは何もしてません。職能って、勝手に出ただけですよね? それで危険って決めつけるのはおかしいです」


 透は思わず彼女を見た。


 美琴の手は震えていた。それでも、彼女は前に出ようとしていた。


 だが相良が、その肩を掴んだ。


「三枝、やめとけ」


「でも」


「俺たち、まだ何もわからないんだぞ。こっちの人たちが危険だって言ってるなら、今は従った方がいい」


 その言葉は冷静に聞こえた。


 けれど透には、その中に別のものが混ざっているのがわかった。


 面倒を避けたい。

 自分たちの安全を優先したい。

 そして何より、王国側に逆らってまで透を庇う理由がない。


「篠宮もさ」


 相良が透を見る。


「本当に危険じゃないなら、ちゃんと調べてもらえばいいだけだろ。暴れたりしなければ、悪いようにはされないって」


 悪いようにはされない。


 その言葉を、透は信じられなかった。


 兵士の槍先は、まだ下がっていない。神官たちは恐怖と嫌悪を隠そうともしていない。王女は迷っている。教師は何か言おうとして、兵士たちに囲まれ黙っている。


 クラスメイトたちの目が痛かった。


 さっきまで同じ教室にいたはずなのに、もう境界線が引かれていた。


 選ばれた者たちと、そうでない者。


 必要な者と、不要な者。


 透は唇を噛んだ。


「俺は、何もしてない」


 声は思ったより小さかった。


 老人が答えた。


「災いは、存在するだけで災いなのだ」


 その一言で、すべてが決まった。


 透の両腕に、冷たい枷がはめられた。抵抗しようとした瞬間、背中に槍の柄を叩き込まれる。膝が石床にぶつかり、息が詰まった。


「篠宮くん!」


 美琴の声が聞こえた。


 だが、それだけだった。


 誰も前には出なかった。


 透は兵士たちに引きずられ、広間の奥へ連れて行かれた。背後で相良が何かを言っている。王女が神官に問いかけている。クラスメイトたちがざわめいている。


 そのすべてが、遠ざかっていく。


 石の廊下をいくつも曲がり、階段を下りた。空気が冷たくなっていく。壁の松明の火は青白く、地下へ進むほどに湿った腐臭が濃くなった。


 やがて、巨大な扉の前に出た。


 黒い鉄で作られた扉だった。表面には鎖が何重にも巻かれ、見たことのない文字が赤黒く刻まれている。扉の向こうから、風のような音が聞こえていた。


 いや、風ではない。


 何かが、底のない穴の奥で息をしている。


 老人が透の前に立った。


「本来ならば、即刻処刑すべきだ」


 透は顔を上げた。


「ですが、勇者候補を召喚した直後に血を流すことを、殿下はお望みではない。ゆえに、お前には隔離処分が下された」


「隔離……?」


 老人は扉を見る。


「奈落だ。魔王軍との戦よりも古く、神殿が封じ続けてきた地下大迷宮。そこに落ちて生きて戻った者はいない」


 透の喉が動いた。


 言葉が出ない。


「安心しろ。お前が本当に災厄であるなら、奈落が喰う。そうでないなら、神が救うだろう」


「ふざけるな」


 ようやく出た声は、震えていた。


 恐怖で。怒りで。惨めさで。


「勝手に呼んで、勝手に決めて、勝手に捨てるのか」


 老人は眉一つ動かさなかった。


「世界を救うためだ」


 兵士が鎖を外す。


 扉が開く。


 その向こうには、暗闇があった。


 床はない。階段もない。ただ、巨大な縦穴が口を開けている。底から吹き上がる空気は冷たく、腐った灰の匂いがした。


 透は暴れた。


 必死だった。


 枷が手首に食い込み、肩が軋む。兵士の一人に腹を殴られ、膝から力が抜けた。


 最後に見えたのは、老人の乾いた目だった。


「災いは、灰へ還れ」


 背中を押された。


 世界が傾く。


 透の体は、暗闇の中へ投げ出された。


 落ちる。


 落ちる。


 上に開いた扉の光が、みるみる小さくなっていく。


 声を上げたつもりだった。だが、喉から出たのは掠れた息だけだった。風が全身を殴りつけ、涙が横へ流れる。


 死ぬ。


 そう思った。


 何もできないまま。誰にも信じてもらえないまま。勝手に呼ばれて、勝手に捨てられて、ここで終わる。


 その時、胸の奥が熱くなった。


 熱ではない。


 火ではない。


 もっと冷たく、乾いて、空っぽのもの。


 落下する透の周囲で、灰色の粒子が舞い上がった。底の見えない闇の中に漂っていた何かが、透の体へ吸い込まれていく。


 耳元で、声とも音ともつかないものが囁いた。


 ――喰え。


 透は目を見開いた。


 暗闇の底に、無数の骨が見えた。砕けた武器、腐った鎧、黒く変色した魔物の死骸。そこに溜まっていた灰が、渦を巻いて透の右手に集まる。


 枷が、音もなく崩れた。


 手首を縛っていた鉄が、灰になって消えた。


 透は本能のまま右手を伸ばした。指先に灰が絡みつき、一本の短い刃を形作る。剣と呼ぶには歪で、石片のように粗い。


 それでも、確かに武器だった。


 直後、透の体は骨の山へ叩きつけられた。


 衝撃が全身を突き抜ける。息が止まり、視界が白く弾けた。だが、死んではいなかった。


 灰が、体の下でクッションのように広がっていた。


「……っ、は……」


 透は震える腕で体を起こした。


 痛い。苦しい。骨が折れているかもしれない。口の中に血の味が広がっている。


 けれど、生きている。


 暗闇の奥で、何かが動いた。


 赤い目が二つ、三つ、四つと灯る。獣のような唸り声が、骨の山の向こうから近づいてくる。


 透は灰の刃を握った。


 手は震えていた。怖かった。逃げ出したかった。


 でも、上には戻れない。


 誰も助けに来ない。


 ここで死ねば、あいつらの言った通りになる。


 災いだったから消えた。

 不要だったから捨てられた。

 いなかったことにしていい人間だった。


 透は血を吐き、笑った。


 笑えたことに、自分で驚いた。


「……ふざけるな」


 赤い目の魔物が飛びかかってくる。


 透は立ち上がった。


 灰の刃が、暗闇の中で鈍く光る。


「俺はまだ、燃え尽きてない」


 最初の一匹が、透の喉元へ牙を剥いた。


 彼は叫びながら、灰の刃を振り下ろした。


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