第56話 迷宮都市ベルディア
翌朝、宿場はいつもより早く動き出した。
リンド商会の馬車は、壊れた車軸に補強板を当てられ、荷の重さも分け直されている。重い木箱は一台に集めず、三台に散らした。負傷した御者は荷台の奥へ寝かされ、商隊の少年ニオが水袋を抱えてその隣に座った。
マルク・リンドは、村人たちへ銅貨と乾燥肉を渡していた。
「助かりました。次に寄る時は、薬草と釘を多めに持ってきます」
村の男が頭を下げる。
「こっちこそ。あの岩背猿が旧道に出るなら、しばらく森には近づけねえ」
「ベルディアでギルドへ報告します。討伐隊か調査隊が出るはずです」
マルクはそう言ってから、透の方を見た。
言外に、昨日の件も報告するつもりだと伝えている。
透は否定しなかった。
噂を完全に止めることはできない。
旧道で商隊を救い、宿場で一夜を過ごした時点で、もう人の口に乗っている。
なら、必要なのは隠れ続けることではない。
広まる話の形を見極めることだ。
ルカは井戸の前で、昨日知り合ったニオと話していた。
「街には井戸がいっぱいあるの?」
「井戸もあるし、水売りもいるし、噴水もあるよ」
「ふんすい?」
「水が上に出るやつ」
「水が上に?」
ルカは理解できないものを聞いた顔をする。
ニオは少し誇らしげに胸を張った。
「ベルディアの中央広場には大きい噴水があるんだ。迷宮から引いた水を使ってるって父さんが言ってた」
「迷宮って、水もあるの?」
「あるよ。魔物も罠も宝もある」
「宝」
ルカの目が丸くなる。
横で聞いていたバルザが笑った。
「宝より魔物の方が多いだろうな」
ニオはバルザを見上げ、少し怯えながらも言った。
「でも、冒険者はみんな宝を探しに行くって」
「そして魔物に食われる」
「怖いこと言うなよ!」
「事実だ」
バルザは悪びれない。
ルカは少し考えてから言った。
「でも、トオルなら食われないよ」
ニオは透を見た。
灰色の外套。
腰に黒い鞘。
静かに商隊の周囲を見ている少年。
ニオは小さく頷いた。
「うん。たぶん」
商隊は宿場を出た。
旧道は南東へ伸びている。
森は少しずつ薄くなり、やがて低い丘陵地へ変わっていった。
道の脇には古い石碑が倒れ、かつては人の往来が多かったことを思わせる。ところどころに小さな祠のようなものがあり、風化した神像が苔に埋もれていた。
セイルはその一つを見て、足を止めかけた。
「古い街道守護の祠ですね。王国が東方へ道を伸ばした頃のものです。神殿の印がまだ今ほど統一されていない……」
「今の神殿とは違うのか」
透が聞くと、セイルは少し声を落とした。
「昔の神殿は、もう少し多くの役目を認めていたようです。浄化だけではなく、封印、埋葬、鎮静、灰の処理……今の神殿は、光と聖浄を前面に出しすぎている」
リィンが祠の欠けた文字を見た。
「灰の文字がある」
「読めるか」
「少し。死んだものを、道へ還す……たぶん」
透は倒れた祠に触れた。
ほんのわずかに、古い灰が残っている。
敵意はない。
呪いでもない。
長く道を見ていたものの灰だ。
透は喰わず、指を離した。
すべてを喰う必要はない。
残っている意味があるものもある。
昼過ぎ、道幅が広がった。
轍が増え、石畳も補修されたものに変わる。
遠くに煙が見えた。
複数の煙。
家の火。
鍛冶の火。
人の生活の火。
バルザが鼻を鳴らす。
「街だな」
丘を越えると、迷宮都市ベルディアが見えた。
高い城壁に囲まれた都市だった。
王都ほど大きくはないのだろうが、奈落と灰置き場を見てきた透には、十分すぎるほど巨大に見える。
城壁は灰白色の石で作られ、東側に大きな門がある。
門の上には剣と迷宮を象った紋章。
その奥には、街の中心に向かって伸びる大通りと、さらに遠くに黒い塔のような建造物が見えた。
いや、塔ではない。
地面に口を開けた巨大な穴を囲む、監視塔群だ。
セイルが説明する。
「あれがベルディア迷宮の入口です。都市そのものが、迷宮を囲むように発展したと聞いています」
ルカは馬車の横から顔を出し、目を輝かせた。
「でかい……」
リィンも街を見ていた。
青い棺と奈落の神殿しか知らなかった少女にとって、人の街は別世界だろう。
シェラの右目が光る。
「人口推定、多数。魔力反応、分散。武装者、多数。警戒推奨」
「人が多いと、匂いも多い」
バルザが眉をひそめる。
「鉄、汗、馬、酒、薬、香油、血、金。懐かしい嫌な匂いだ」
マルクが苦笑する。
「迷宮都市ですからね。冒険者、商人、職人、傭兵、貴族の使いまで集まります。騒がしい街ですが、金と情報は集まります」
「黒鞭や剣杯もか」
透が言うと、マルクの表情が引き締まった。
「剣杯商会の支店はあります。黒鞭は表に看板を出していませんが、裏市場に手が伸びていると噂されています」
「場所は」
「表の支店なら、南商業区です。ただ、いきなり近づくのはおすすめしません。相手は帳簿と役人を味方につける連中です」
「先にギルドか」
「はい。街で動くなら、身分証が必要です。冒険者ギルドの登録証があれば、門や宿での扱いが変わります」
透は城壁を見た。
門前には列ができている。
農民の荷車。
旅人。
冒険者らしい者たち。
大きな荷を積んだ商隊。
その中へ、透たちも入っていく。
すぐに視線が集まった。
獣人のバルザは目立つ。
銀髪のリィンも目立つ。
シェラはそれ以上に異質だ。
灰色の外套をまとった透と、灰布を握るルカ、青い顔のセイルも、人の流れには馴染まない。
前方の冒険者らしい男が、リィンを見て口笛を吹きかけ、バルザと目が合ってすぐに黙った。
別の女冒険者はシェラを見て眉をひそめる。
「機兵? まだ動く個体なんて残ってたの?」
「どこの遺跡帰りだよ、あいつら」
「灰色の外套の坊主がリーダーか?」
「まさか。あの獣人だろ」
「でも、商隊の連中、あの坊主を見てるぞ」
声は低いが、隠しきれていない。
透は列を進む。
門番はリンド商会の馬車を見ると、顔をしかめた。
「マルク会頭、その馬車はどうした」
「旧道で魔物に襲われました。岩背猿です」
「岩背猿だと? この近くまで下りてきたのか」
「ええ。詳細はギルドへ報告します」
門番は負傷者を見て、すぐに後ろの兵へ指示を出した。
「治療所へ連絡。通行列を少し空けろ」
その判断は早かった。
辺境都市の門番らしく、魔物被害に慣れているのだろう。
だが、透たちに視線が移った瞬間、その顔つきは変わった。
「そちらは?」
マルクが一歩前へ出る。
「我々を救ってくださった方々です。こちらのシノミヤ様がいなければ、商隊は全滅していました」
門番は透を見る。
若い。
少なくとも、見た目は少年だ。
だが、護衛たちが誰一人その説明に異議を唱えない。
「身分証は」
「ない」
透は答えた。
門番の眉が動く。
「出身は」
「遠い場所だ」
「具体的には」
透は少し黙った。
奈落と言えば、どうなるか。
その反応を見る価値はある。
「奈落の下だ」
門番の表情が固まった。
周囲の列も、近くにいた者たちだけが静かになる。
奈落。
地上の人間にとっても、それは冗談で出す言葉ではないらしい。
門番は腰の剣へ手を伸ばしかけた。
バルザがわずかに笑う。
リィンは動かない。
シェラの右目だけが光った。
マルクが慌てて口を挟む。
「彼らは危険人物ではありません。実際に我々を救ってくれた恩人です。岩背猿の件も護衛全員が証言します」
門番は透の腰の灰骸刀を見た。
「武器の申告が必要だ。その刀は魔道具か」
「近い」
「登録前の魔道武器は、街の規定で検査を受けてもらう」
門番は手元の小さな石板を取り出した。
魔力を測る道具らしい。
近づけると、灰骸刀ではなく、透自身に反応した。
石板の表面が白く光り、次に灰色へ濁る。
門番が目を見開く。
「なんだ、この反応は……死魔力? いや、呪いでもない……」
セイルが小さく息を吸った。
透は石板を見た。
王国の神殿で見た、職能照合の光を思い出す。
あの時、自分だけが違う色だった。
その違いを、神官長は災厄と呼んだ。
門番はもう一度石板を振る。
今度はリィン、バルザ、シェラにも反応した。
リィンには青い封印光。
バルザには獣人の濃い生命反応。
シェラには古代機構の冷たい魔力。
門番は頭を抱えた。
「全員、普通じゃないな」
バルザが笑う。
「よく言われる」
「笑い事じゃない」
門番はしばらく考え、マルクを見た。
「リンド商会が身元保証するか」
「します」
「魔物被害の証言も?」
「もちろんです」
「なら仮入市証を出す。ただし三日以内に冒険者ギルドか商業ギルドで身分登録をしろ。揉め事を起こせば、保証人にも責任が及ぶ」
「承知しています」
門番は透へ仮の木札を渡した。
「灰色の坊主」
透は木札を受け取る。
「名は篠宮透だ」
「ならシノミヤ。街の中で武器を抜くな。獣人の旦那も暴れるな。そっちの機兵は勝手に魔道設備へ接続するな」
シェラが答える。
「無許可接続、控える」
「控えるじゃなくて、するな」
「了解。原則禁止」
「……原則もいらん」
門番は疲れた顔をした。
列の後ろで、誰かが笑いをこらえている。
空気が少し緩んだ。
だが、視線は残っている。
奈落の下から来た灰色の少年。
岩背猿から商隊を救った一行。
魔力石板を濁らせる何か。
門をくぐる頃には、その場にいた者たちの何人かが、すでに小声で話し始めていた。
ベルディアの中は、音と匂いで満ちていた。
石畳の大通り。
両側に並ぶ店。
鍛冶場の金属音。
屋台の焼き肉の匂い。
酒場から漏れる笑い声。
荷馬車の車輪。
冒険者たちの怒鳴り声。
遠くに見える迷宮入口の塔。
ルカは圧倒されて、透の外套の端を掴んだ。
「人、多い」
「ああ」
「みんな、どこに行くの?」
「それぞれだろうな」
「それぞれ……」
ルカは聞き慣れない言葉のように呟く。
奈落では、みんな同じものに追われ、同じ水を求め、同じ炉の周りにいた。
地上では、人は別々に歩いている。
それだけでも、ルカには不思議なのだろう。
リィンは街並みを見ながら、淡々と歩いている。
だが、人々の視線が自分へ集まるたび、指先が封印針へ近づく。
透は少し歩く位置を変えた。
リィンを隠すのではなく、視線の線を切る位置に立つ。
それだけで、リィンの指先は針から離れた。
シェラは店先の魔道具を見て、右目を光らせている。
「低効率照明具。旧式水冷炉の劣化模倣品。価格、過大」
「店先で言うな」
セイルが慌てて小声で注意した。
「営業妨害になります」
「事実」
「事実でもです」
マルクは苦笑しながら案内する。
「まずは治療所へ負傷者を運びます。その後、私は商業ギルドへ報告へ行きます。シノミヤ様方は、冒険者ギルドへ向かわれるのがよいでしょう」
「場所は」
「中央広場の北側です。剣と迷宮の看板が出ています。迷えば誰に聞いてもわかります」
大通りを進むと、中央広場に出た。
ルカが足を止めた。
広場の中央で、水が上へ噴き上がっていた。
噴水。
石造りの大きな鉢から、水が空へ伸び、弧を描いて落ちている。
夕方の光を受けて、水滴がきらきら光った。
ルカは言葉を失った。
水が、上へ。
誰も奪い合わず、誰も隠さず、広場の真ん中で流れている。
透も噴水を見た。
奈落の灰置き場で、水の一滴を分けた日のことが、喉の奥に戻ってくる。
水は奪わせない。
水は隠さない。
水は汚さない。
地上では、その水が飾りになっている。
怒りではない。
ただ、重さの違いが胸に残った。
ルカが小さく言う。
「みんなにも、見せたい」
「見せる」
透は答えた。
マルクはそのやり取りを聞き、何かを言いかけてやめた。
彼には、奈落の水の重さはわからない。
だが、口を挟むべきではないと判断したらしい。
広場の北側に、冒険者ギルドがあった。
大きな石造りの建物。
扉の上には剣と迷宮、そして魔物の角を組み合わせた紋章。
扉は開かれており、中から喧騒が漏れている。
酒の匂い。
汗の匂い。
革鎧と鉄の匂い。
獣の血の匂い。
バルザが口角を上げる。
「やっとそれらしい場所に来たな」
セイルは緊張で喉を鳴らした。
「ここで登録できれば、街での活動はかなり楽になります」
シェラが告げる。
「目標、身分証取得。情報収集。黒鞭商会および剣杯商会関連情報探索」
リィンは扉の奥を見た。
「人が多い」
「入る」
透は冒険者ギルドの扉をくぐった。
中の声が、一拍遅れて小さくなった。
酒杯を持つ冒険者。
依頼板の前の若者。
受付に並ぶ傭兵。
階段上から見下ろす重装の男。
いくつもの視線が、灰色の一行へ突き刺さる。
そして、誰かが小さく言った。
「おい、あれ……門で噂になってた連中じゃないか」
「岩背猿を退けたっていう?」
「灰色の少年……」
「隣の銀髪、何者だよ」
「機兵までいるぞ」
透は受付へ歩いた。
視線は背中に刺さったまま。
腰の灰骸刀は静かに眠っている。
受付の女性が、一瞬だけ固まった後、営業用の笑みを作った。
「ようこそ、ベルディア冒険者ギルドへ。本日はご依頼ですか?」
透は木札を受付台に置いた。
「登録に来た」
受付嬢の視線が、仮入市証から透へ、透から背後の仲間たちへ移る。
彼女の笑みが、わずかに引きつった。
「皆様、まとめてでしょうか」
「ああ」
その返事に、周囲の冒険者たちがざわつく。
ベルディア冒険者ギルド。
灰色の一行の噂が、ここから本格的に広がり始める。




