第55話 灰色の一行
商隊の進みは遅かった。
岩背猿に折られかけた車軸は、シェラとセイルの補修でどうにか動いている。
だが、速度を出せばまた歪む。御者は馬をなだめながら、石畳の割れた旧道を慎重に進ませていた。
マルク・リンドは馬車の横を歩いている。
商会の会頭という立場なら、荷台の上にいてもおかしくない。
けれど彼は負傷した御者に荷台を譲り、自分は泥のついた靴で歩いていた。
透はその様子を見ていた。
信用できるかは、まだ別だ。
ただ、今のところ荷より人を優先する男ではある。
護衛たちの視線は、何度も透たちへ向いた。
灰色の外套を着た少年。
銀髪の少女。
大柄な獣人。
壊れた人形のような機兵少女。
灰布を抱えた小柄な子ども。
顔色の悪い術師。
旧道を行くには、あまりにも異質な一行だった。
その中でも、護衛たちの視線を最も集めていたのはリィンとシェラだ。
リィンが歩くだけで、木漏れ日が銀髪に滑る。
青い目は静かで、地上の貴族令嬢とも神殿の聖女とも違う。触れれば消えそうな透明感があるのに、腰の封印針は確かな危険を帯びている。
シェラはさらに異質だった。
白灰色の髪。片目だけの青白い光。欠けた右腕。割れた胸装甲。
壊れているのに、美しい。
整いすぎた顔が無表情であるほど、人間から少し離れたものに見えた。
護衛の若い男が、ぼそりと呟いた。
「なんで、あんな子たちが……」
隣の年嵩の護衛が肘で小突く。
「見るな。命の恩人だぞ」
「いや、でもよ……」
声は小さい。
だが、透には聞こえていた。
バルザにも聞こえていたらしく、彼は牙を見せて笑う。
「地上の男は目が忙しいな」
「お前も目立ってる」
「俺は見られ慣れてる」
バルザは肩を回した。
「獣人は珍しくない場所もあるが、人間の街じゃ大体こうだ。怖がるか、値踏みするか、面白がるか」
ルカが顔を上げた。
「値踏みって?」
「こいつはいくらで雇えるか、どれだけ使えるか、どこまで逆らわないかって見ることだ」
ルカの表情が曇る。
透は前を見たまま言った。
「ここでは値段をつけさせない」
ルカは胸元の灰印を握り、こくりと頷いた。
バルザが短く笑う。
「そういうところが、余計に主っぽいんだよ」
透は答えなかった。
旧道は、夕方に近づくほど森の影を濃くした。
太陽はまだ見える。
だが、木々の間に沈み始めた光は赤く、道の先を長く照らしている。
奈落では時間の流れが曖昧だった。
炉の火。
水音。
灰の揺れ。
それで朝や夜の代わりにしていた。
地上では、空そのものが時を変える。
ルカは空の色が変わるたびに驚いていた。
「空、燃えてる?」
「夕方だ」
セイルが少し笑って答える。
「太陽が沈む前は、空が赤く見えるんです」
「太陽って、あの明るいやつ?」
「はい」
「落ちるの?」
「落ちません。見えなくなるだけです」
「明日また出る?」
「出ます」
ルカはしばらく考え、ぽつりと言った。
「すごいね。戻ってくるんだ」
その言葉に、誰もすぐには返さなかった。
旧道の先に、集落が見えてきた。
宿場跡と言っていた場所だろう。
古い石壁の名残。
木造の小屋が十数軒。
中央に井戸。
外周には粗末な柵。
街というより、道にしがみつくように残った小さな集落だった。
マルクが安堵の息を吐く。
「見えました。カラント宿場です。昔は旧東方道の中継地でしたが、今はほとんど村ですね」
柵の前にいた見張りが、商隊に気づいて声を上げる。
「リンド商会だ! 戻ってきたぞ!」
村人が数人、駆け寄ってくる。
だが、壊れた馬車と負傷者を見て顔色が変わった。
さらに、その後ろに立つ透たちを見て、足が止まる。
獣人。
機兵。
銀髪の少女。
灰色の少年。
村人たちは警戒を隠せない。
中年の男が鍬を握りしめた。
「マルクさん、その連中は……?」
マルクはすぐに前へ出た。
「命の恩人だ。岩背猿に襲われていたところを救われた。この方々がいなければ、我々は全滅していた」
村人たちの視線が揺れる。
疑い。
驚き。
恐れ。
感謝に踏み出す前の、ためらい。
透はそれを眺めていた。
当然だと思った。
奈落から出てきた自分たちは、地上の村人から見れば得体が知れない。
いきなり信じろという方が無理だ。
だから、前へ出すのは言葉ではなく、結果でいい。
「負傷者を寝かせる場所はあるか」
透が聞くと、村人の男は一瞬だけ硬直した。
「……納屋なら空いてる」
「使わせてくれ。水と布も」
マルクが慌てて頷く。
「代金は私が出す。すぐに頼む」
その言葉で村人たちは動き出した。
負傷者が納屋へ運ばれる。
リィンは封印針で出血の激しい箇所を一時的に縛り、セイルが術式で傷口を洗う。
シェラは馬車の損傷を確認し、バルザは壊れた荷箱を運び直した。
ルカは水を汲みに行こうとして、井戸の前で足を止めた。
井戸。
地上の水。
灰置き場の者たちが何度も奪い合いそうになった水が、ここでは深い穴から汲み上げられる。
村の子どもがルカを見た。
「どうしたの?」
ルカは井戸を指差す。
「ここ、水があるの?」
「あるよ。井戸だもん」
「なくならない?」
「たまには減るけど……普通は」
村の子どもは不思議そうに答える。
ルカは井戸の縁を見つめ、唇を結んだ。
透はその横に立った。
「汲めるか」
「うん」
ルカは桶を下ろした。
縄が伸び、水面に桶が落ちる音がする。
しばらくして、重くなった桶を引き上げる。
水が光っていた。
夕日を映した、赤い水。
ルカはそれを両手で見つめ、村の子どもへ差し出した。
「先に飲む?」
「え? いいよ、俺んちの井戸だし」
「そっか」
ルカは少し困ったように笑った。
透はその水桶を受け取り、負傷者のいる納屋へ運んだ。
地上では当たり前のものが、奈落の底では掟になる。
その差を、何度も思い知らされる。
納屋の中では、御者の足に布が巻かれていた。
セイルが汗を拭う。
「止血はできました。ただ、ちゃんとした薬と治癒術師が必要です」
マルクが顔を曇らせる。
「ベルディアまで持つか?」
「揺らさなければ。明日は馬車をさらに補強した方がいいです」
リィンは青い封印線を細く残し、血の流れを抑えている。
「半日くらいなら保つ」
御者は苦しげに頭を下げた。
「すまねえ……」
マルクがその肩を叩く。
「謝るな。お前が馬を止めてくれなければ、荷台の子どもごと転げ落ちていた」
商隊の少年が納屋の隅で膝を抱えている。
ルカがその隣に座り、水袋を差し出した。
「また飲む?」
少年は頷いた。
「ありがとう」
「名前は?」
「ニオ」
「ルカ」
二人はそれだけ言って、少し黙った。
それでも、距離はさっきより近かった。
納屋の外では、村人たちが集まっていた。
透が出ると、会話が止まる。
その沈黙の中で、護衛の一人が村人に説明している声が聞こえた。
「本当だって。岩背猿だぞ。あれを、あの灰色の少年が刀一本で黙らせたんだ」
「刀一本?」
「いや、拳でもやってた。なんか見えない壁みたいなのも出した」
「魔法使いなのか?」
「知らねえよ。銀髪の子は封印使いだ。獣人の旦那は岩背猿を膝で沈めた。機兵の子は馬車の歪みを見ただけで当てた」
「そんな一行、聞いたことないぞ」
「俺もない」
マルクが透へ近づいてきた。
手には小さな革袋。
「まずは少額ですが、護衛の礼です。ベルディアに着き次第、正式にお支払いします」
透は革袋を受け取らなかった。
「今は薬と馬車の補修に回せ」
マルクは目を瞬かせる。
「しかし、それでは……」
「街に着いてからでいい」
商人の目が、わずかに細くなる。
損得を測る目ではない。
相手の重さを測る目。
「承知しました。では、借りとして記録します」
「記録は正確に頼む」
「商人にとって、それが命です」
マルクは深く頭を下げた。
夜になると、宿場の中央に小さな火が焚かれた。
焚き火。
奈落の炉とは違う火。
黒炎とも違う、橙色の柔らかい火。
村人たちは最初、透たちと距離を取っていた。
だが、マルクたちから何度も話を聞き、負傷者の手当てや馬車の補修を見るうちに、少しずつ警戒を薄めていった。
それでも、ネイラがいなくてよかったのかもしれない、と透は思った。
魔族の黒角を見れば、この小さな集落の反応はもっと硬くなっただろう。
地上に出る時、誰を先に連れてくるかも考えなければならない。
灰置き場には、外を見たい者がいる。
だが、地上は誰にでも優しい場所ではない。
火のそばで、村の子どもたちはリィンとシェラを遠巻きに見ていた。
「お姫様?」
一人が小さく言った。
リィンが首を傾げる。
「違う」
「じゃあ、妖精?」
「違う」
「じゃあ何?」
リィンは少し考えた。
「リィン」
子どもたちは顔を見合わせた。
答えになっていないようで、なっている。
少し離れたところでは、別の子がシェラの周りを回っていた。
「お人形?」
「否定。機兵」
「きへい?」
「古代保守補助機兵。現状、損傷中」
「むずかしい」
「簡易説明。動く道具」
「道具なの?」
シェラは一瞬止まった。
青白い目が、透の方を向く。
透は焚き火の向こうから言った。
「仲間だ」
シェラは目を戻す。
「訂正。仲間」
子どもはよくわからないまま頷いた。
「そっか。仲間なんだ」
「そう」
シェラの声はいつも通り平坦だった。
だが、その一語は少しだけ長く残った。
護衛たちの視線が、また透へ向く。
あの機兵を道具ではなく仲間と呼ぶ少年。
獣人を部下ではなく前衛として扱い、銀髪の少女と肩を並べ、灰布の子どもを隣に置く。
それは、地上の者たちには奇妙に映るのだろう。
だが、透にとっては当然だった。
灰置き場に商品はいない。
所有物もいない。
使い捨ての道具もいない。
いるのは、名前を持つ者だけだ。
夜が深まった頃、マルクが焚き火のそばに座った。
「シノミヤ様。ベルディアへ向かうなら、一つお伝えしておくべきことがあります」
「何だ」
「この辺境で、最近、人攫いが増えています」
透の視線が動いた。
マルクは声を落とす。
「表向きは盗賊や野盗の仕業とされていますが、ただの盗賊ではありません。狙われるのは孤児、亜人、借金を抱えた農民、身元の薄い旅人。連れ去られた者は、ベルディアの裏市場へ流れているという噂です」
「黒鞭商会か」
マルクの表情が変わった。
「ご存じで?」
「奈落まで追ってきた」
その一言で、マルクの顔から血の気が引いた。
「奈落まで……」
「剣杯商会は?」
マルクは唇を結んだ。
焚き火が小さく爆ぜる。
「あそこは表向き、冒険者向けの装備、薬、携行食を扱う大商会です。ベルディアにも支店があります。黒鞭と直接繋がっている証拠はありません。ただ……」
「ただ?」
「剣杯の荷が通った後に、行方不明者が出る村がある。そう言う者はいます」
透は黙った。
イーシャの記憶。
黒鞭の印。
剣と杯の印。
地上に出て最初に聞いた、人攫いの噂。
道は繋がり始めている。
バルザが低く言う。
「街に着いたら、匂いを嗅げばわかるかもしれねえ」
リィンは焚き火を見つめたまま、封印針を指先で回している。
シェラが淡々と告げる。
「黒鞭商会、剣杯商会、調査対象に追加」
ルカはニオと並んで座り、難しい顔をしていた。
「また、人を持っていく人たち?」
透は答えた。
「そういう連中がいるらしい」
「じゃあ、止める?」
「見つけたらな」
ルカは頷いた。
その目には、奈落の子どもらしい怯えだけではなく、灰置き場で水番札を抱えていた時と同じ芯があった。
マルクはその会話を聞き、しばらく透を見ていた。
「あなた方は、何者なのですか」
焚き火の周りが静かになる。
村人。
護衛。
商人。
子どもたち。
いくつもの視線が透へ向いた。
透は火を見た。
炎の奥に、奈落の炉を思い出す。
あそこには、水を待つ者たちがいる。
外の話を待つ者たちがいる。
捨てられた者たちがいる。
ここで名乗る肩書きは、まだない。
王でもない。
冒険者でもない。
傭兵団でもない。
透は短く答えた。
「戻る場所を作っている」
マルクはその意味を測りかねたようだった。
だが、笑わなかった。
「……そうですか」
護衛の一人が、焚き火の向こうで小さく呟く。
「灰の主……」
今度は、隣の護衛も否定しなかった。
その言葉はまだ小さい。
宿場の焚き火のそばで生まれた、ただの噂にすぎない。
けれど、明日になれば商隊とともに旧道を進む。
ベルディアへ入り、冒険者ギルドへ届く。
酒場で語られ、受付の耳に入り、商会の帳簿の端に残る。
灰色の少年がいた。
岩背猿を殺さず退けた。
銀髪の封印使いを連れていた。
人形のような機兵を仲間と呼んだ。
獣人が隣で笑っていた。
黒鞭の名を知っていた。
噂は、火の粉のように小さく舞い上がる。
透は夜空を見上げた。
奈落では見えなかった星が、そこにあった。
無数の光。
ルカが隣で息を呑む。
「空、夜もあるんだ」
「ああ」
「明るい点がいっぱい」
「星だ」
「星……」
ルカはその言葉を大事そうに繰り返した。
地上の夜は、奈落より暗く、奈落より明るかった。
透は焚き火のそばで、腰の灰骸刀に触れる。
鞘の中の刃は、静かに眠っている。
明日、迷宮都市へ向かう。
ギルド。
商会。
人攫い。
身分証。
噂。
地上は、思っていたより早く透たちを巻き込み始めていた。
だが、それでいい。
こちらもまた、地上の世界へ足跡を残し始めているのだから。




