第54話 旧道の商隊
地上の森は、静かなようで騒がしかった。
枝葉が擦れる音。
虫の羽音。
鳥の声。
遠くで獣が走る気配。
風が草を撫でる音。
奈落にも音はあった。
水の唸り、骨の擦れる音、灰の落ちる気配、魔物が壁を這う音。
けれど、地上の音は違う。
生きているものが、ただ生きている音だった。
ルカは何度も立ち止まり、草や枝を見ている。
「これ、全部生きてる?」
「大半はな」
透が答えると、ルカは足元の小さな花をじっと見つめた。
白い花だった。
指先ほどの小さな花びらが、風に揺れている。
「これも?」
「ああ」
「喋らないのに?」
「喋らない生き物もいる」
「へえ……」
ルカは妙に真剣な顔で頷いた。
リィンは森の光にまだ慣れないのか、時々目を細めている。
銀髪に木漏れ日が落ちるたび、青白かった印象が少しだけ柔らかく見えた。
シェラは周囲の植物や地形を淡々と記録している。
「樹木、未知種三。類似種、王国東方針葉樹。地表魔力濃度、低。腐敗魔力濃度、極低」
セイルはその言葉を聞いて、感心したように森を見回した。
「奈落よりずっと安定しています。魔力が淀んでいない。普通の地上なら、これが当たり前なんですね……」
バルザは鼻を鳴らした。
「当たり前の場所に、当たり前じゃない連中が出てきたわけだ」
「目立つな」
透が言うと、バルザは笑った。
「もう手遅れだろ。銀髪の封印使いに、機兵に、獣人に、灰色の少年だ」
「魔族がいないだけ、まだましだ」
「ネイラが聞いたら怒るぞ」
「聞こえてない」
「灰印で伝わってるかもな」
ルカが胸元の小型灰印を押さえた。
「ネイラ、怒ってるかな」
「たぶん、あとで文句を言う」
「じゃあ元気だね」
その答えに、バルザが声を漏らして笑った。
換気塔跡から南へ進むと、森は少しずつ薄くなった。
獣道のような細い筋が現れ、その先で古い石畳が顔を出す。
割れ、苔に覆われ、ところどころ木の根に持ち上げられているが、人が通った道だとわかる。
旧道。
長く使われていないように見えるが、完全に死んではいない。
車輪の跡があった。
新しい。
雨に流されきっていない土の溝。
馬の蹄跡。
重い荷を引いた痕。
バルザが膝をつき、土を嗅いだ。
「半日前くらいだな。馬車が三、護衛が六か七。人間の匂い。あと、血が少し」
セイルの顔が強張る。
「襲われたのでしょうか」
「まだわからん。だが、急いだ跡がある」
透は旧道の先を見る。
森の向こうから、微かな音が聞こえた。
金属がぶつかる音。
馬の嘶き。
人の悲鳴。
バルザの耳が立つ。
「近い」
透は短く指示を出した。
「バルザ、先行。リィンは馬車側の保護。シェラ、数を見てくれ。セイルはルカと後ろ」
「了解」
返事は重ならなかった。
それぞれが、すぐに動いた。
バルザが獣のように旧道を駆ける。
リィンは封印針を手に、透の斜め後ろへつく。
シェラの右目が青白く光り、歩きながら周囲の魔力を読んでいく。
透は走った。
地上の土は柔らかい。
奈落の石床より沈む。
だが、足を取られるほどではない。
力を乗せすぎず、地面を蹴る。
木々の間を抜ける。
枝が頬をかすめる前に、体が自然に避ける。
旧道の曲がり角を抜けた先に、馬車が三台見えた。
一台は横倒しになっている。
一台は車輪が壊れ、荷箱が割れていた。
残る一台の周囲に、護衛らしい男たちが集まり、槍と盾で何かを防いでいる。
襲っているのは魔物だった。
猿に似た体。
人間の子どもほどの大きさ。
背中には硬い棘。
手には石や錆びた刃を握っている。
十数体。
それだけなら護衛でも対応できたかもしれない。
だが、森の奥に大きな個体がいた。
小屋ほどの大きさの、岩猿。
苔の生えた肩。
太い腕。
片目に古い傷。
護衛の一人が叫んだ。
「くそっ、岩背猿までいやがる! C級どころじゃねえ!」
別の護衛が商人らしい男を馬車の後ろへ押し込む。
「会頭、下がってください!」
「荷は捨てろ! 人を守れ!」
その声には迷いがなかった。
透はそれを聞きながら、状況を見た。
護衛七人。うち二人負傷。
商人と御者、合わせて五人。
荷馬が二頭、暴れかけている。
猿型の小型魔物が十四。
大型が一。
馬車の下に、子どもが一人いる。
荷台の隙間に隠れている。
小型の魔物が、その匂いに気づきかけていた。
「リィン、馬車の下」
透が言うより早く、リィンの封印針が飛んだ。
青い線が地面を走り、馬車の下へ向かっていた小型魔物の足を縫い止める。
バルザが突っ込んだ。
「邪魔だ!」
大きな拳が、三体まとめて小型魔物を弾き飛ばす。
骨が砕ける音。
護衛たちの視線が、一斉にバルザへ向く。
「獣人……!?」
「味方か!?」
答える暇はない。
大型の岩背猿が、倒れた馬車の車軸を掴み上げた。
丸太のように振りかぶり、護衛たちへ叩きつけようとする。
護衛の盾では受けられない。
馬車ごと潰れる。
透は前へ出た。
車軸が落ちる。
灰瞬壁を広げる。
止めるのではなく、叩きつける軌道を少しだけ逸らす。
灰色の壁に車軸が触れた瞬間、落下角度がずれた。
車軸は護衛の横を砕き、石畳を割る。
護衛たちは何が起きたかわからず、目を見開いた。
透は灰骸刀に手をかけない。
大型の腕は遅い。
力はあるが、奈落の腐水腕ほどではない。
岩背猿が吠え、透へ向かって拳を振る。
透はその下へ踏み込んだ。
拳が頭上を通り過ぎる。
風圧が外套を揺らす。
透は岩背猿の肘の内側へ左手を当てた。
灰糸が筋の継ぎ目を読む。
生きた肉は喰わない。
だが、傷に溜まった古い魔力と、硬化した苔の死んだ層は喰える。
肘の動きを支えていた苔の硬化層だけが灰になる。
岩背猿の腕が、一瞬沈んだ。
その隙にバルザが横から跳び込む。
拳ではない。
膝。
岩背猿の脇腹へ、獣人の膝が深く入る。
巨体が傾いた。
リィンの封印針が、その足首を縫う。
岩背猿が地面へ片膝をつく。
小型魔物が一斉に逃げようとした。
シェラが告げる。
「左後方、三。馬へ接近」
透は左手を向けた。
灰瞬壁を二枚、馬の前と横へ置く。
小型魔物の進路が潰れ、逃げ道が旧道の外へ逸れる。
そこへ護衛の一人が槍を突き出した。
「そこだ!」
小型魔物の一体が倒れる。
透は一瞬だけその護衛を見た。
悪くない反応だった。
恐怖で固まらず、空いた隙を拾った。
地上の人間も、弱いだけではない。
ただ、奈落の基準とは違う。
岩背猿が再び立ち上がろうとする。
口から泡を飛ばし、目を血走らせ、背中の棘を逆立てた。
周囲の小型魔物が逃げる。
大型が暴走する前兆だった。
馬車の商人が叫ぶ。
「下がれ! 背棘が飛ぶぞ!」
透は腰の灰骸刀へ手をかけた。
抜いた。
黒灰色の刃が、短く空気を裂く。
折れた先から灰が伸び、片刃の形を補う。
その瞬間、護衛たちの顔色が変わった。
剣とは違う。
魔剣とも違う。
刃そのものが、火ではなく灰を纏っている。
岩背猿が背中を震わせた。
棘が一斉に射出される。
馬車。
護衛。
商人。
リィン。
ルカのいる後方。
すべてへ散る。
透は灰域を広げすぎない。
灰骸刀を横に振る。
斬ったのは棘ではない。
棘を飛ばすために、岩背猿の背中で弾けた死んだ魔力の筋。
灰の刃が、その線をまとめて断つ。
飛び出した棘の勢いが、空中で鈍った。
さらにリィンの青い線が馬車側の棘を縫い、バルザが腕で二本叩き落とす。
シェラは一歩だけ動き、セイルの前に立った。
残った棘は、灰瞬壁に触れて軌道を失い、地面へ落ちた。
誰にも届かない。
岩背猿は背中から血を流し、動きを止めた。
透は前へ歩く。
岩背猿は唸った。
まだ戦う気配はある。
だが、足が震えている。
灰骸刀を首へ当てる。
斬れば終わる。
透は刃を止めた。
岩背猿の片目に、恐怖があった。
魔物でも、生きている。
喰屍とは違う。
腐った水骸とも違う。
命令で動く機構でもない。
群れを率い、餌を求め、襲った獣。
透は低く言った。
「森へ戻れ」
岩背猿は唸る。
灰が、刃から薄く流れた。
殺気ではない。
境界線だった。
ここから先へ来るな。
灰骸刀の刃に触れた空気が沈み、岩背猿の本能を押さえつける。
巨体が一歩下がった。
小型魔物の残りが森へ逃げる。
岩背猿も、最後に低く吠えると、背を向けて木々の奥へ消えた。
旧道には、壊れた馬車と、倒れた魔物の死骸と、言葉を失った人間たちだけが残った。
透は灰骸刀を振って、刃に絡んだ死んだ魔力を落とす。
灰が風に散った。
納刀。
かちり、と鞘が鳴った。
それを合図にしたように、護衛の一人が膝をついた。
「助かった……」
商人らしい男が馬車の後ろから出てくる。
年は四十前後。
丸い体に上等な旅服。
だが、泥と血で汚れている。
それでも、最初に荷ではなく倒れた御者の方へ駆け寄った。
「ロアン! 生きているか!」
「足をやられただけです、会頭……」
「馬鹿者、足は一本でも大事だ!」
商人は怒鳴りながら、安堵で顔を歪めた。
その様子を見て、透は少しだけ警戒を下げる。
少なくとも、荷より人を見ている。
リィンは馬車の下から子どもを連れ出した。
十歳ほどの少年。
顔を煤で汚し、震えている。
ルカが近づき、水袋を差し出した。
「飲む?」
少年は警戒しながらも、水袋を受け取った。
一口飲み、泣きそうな顔になる。
セイルは負傷者の傷を見ている。
「骨は折れていません。ただ、出血が多い。布を」
イーシャの灰布が役に立った。
透は倒れた小型魔物の死骸へ歩いた。
灰が立つ。
地上の魔物の灰。
奈落の灰より軽い。
死んだ魔力が薄く、呪いもほとんどない。
透は少量だけ喰った。
森の匂い。
枝を渡る感覚。
群れで動く獣の反射。
体の奥に、細い情報が入る。
大きな強化ではない。
だが、地上の魔物を知るには十分だった。
商人が透の前に来た。
深く頭を下げる。
「お助けいただき、誠にありがとうございました。私は東方辺境を巡る商隊、リンド商会の会頭、マルク・リンドと申します」
透は軽く頷いた。
「篠宮透だ」
名乗ってから、ほんの一瞬だけ間が空いた。
地上で、この名前を口にする。
王国が聞けば、何が起きるかはわからない。
だが、ここで偽名を使う理由もない。
マルクは透の名に聞き覚えがないようだった。
視線はむしろ、透の背後へ向いている。
銀髪のリィン。
獣人のバルザ。
機兵のシェラ。
灰布を握るルカ。
青い顔のセイル。
そして、透の腰の灰骸刀。
商人の喉が上下した。
「シノミヤ様……あなた方は、冒険者で?」
「違う」
「では、傭兵団で?」
「それも違う」
「では……」
透は周囲を見た。
壊れた馬車。
負傷者。
怯えた子ども。
逃げた魔物。
「森を抜けたい。近くの街を知っているか」
マルクは目を瞬かせた。
「街なら、南東に迷宮都市ベルディアがあります。冒険者ギルドと商業ギルドがある辺境都市です。我々もそこへ向かう途中でした」
迷宮都市。
透はその言葉を胸に留めた。
ギルド。
身分証。
情報。
黒鞭商会や剣杯商会へ繋がる道。
必要なものが、そこにある。
「案内を頼めるか」
マルクは即座に頭を下げた。
「もちろんです。むしろ、こちらからお願いしたい。我々だけでは、馬車を直しても再び襲われれば終わりです。護衛料もお支払いします」
「金は後でいい。負傷者を先に動かす」
マルクの顔が変わった。
「……承知しました」
この男は商人だ。
損得を考える目をしている。
同時に、人を捨てる目ではなかった。
少なくとも今は。
バルザが倒れた馬車を片手で持ち上げた。
護衛たちが一斉に固まる。
「なっ……」
「車輪、見ろ。直せるか」
バルザが言うと、護衛の一人が慌てて駆け寄った。
「は、はい! 軸が少し曲がってますが、予備部品があれば……」
シェラが馬車の下を覗き込む。
「車軸歪曲、軽度。補助固定で移動可能」
セイルが壊れた荷箱を見て、補修用の術式石を取り出す。
「簡易補修ならできます」
リィンは負傷者の止血を手伝っている。
ルカは商隊の少年と一緒に、水袋を配っていた。
透は旧道の森側に灰標を薄く置いた。
換気塔跡からここまでの道。
旧道。
商隊の匂い。
魔物の群れが逃げた方角。
地上の情報が少しずつ繋がっていく。
馬車の修理が終わる頃、商隊の護衛たちは透たちへ何度も視線を向けていた。
特に灰骸刀と、リィン、シェラから目が離せないようだった。
小声が聞こえる。
「何者なんだ、あの灰色の少年」
「岩背猿を殺さず追い払ったぞ」
「獣人が従ってるのか?」
「違うだろ。仲間って感じだった」
「あの銀髪の子、貴族か何かじゃないのか」
「機兵なんて初めて見た……」
透は聞こえていないふりをした。
噂は、こうして生まれるのだろう。
誰かが見て、誰かに話す。
話は少しずつ形を変え、街へ運ばれる。
マルクが馬車の前に立ち、透へ言った。
「ベルディアまでは、通常なら二日。馬車が傷んでいるため、三日はかかるかもしれません」
「途中に村は」
「古い宿場跡があります。今は小さな集落になっているはずです。安全とは言い切れませんが、水場があります」
「そこまで同行する」
マルクは安堵の息を吐いた。
「ありがとうございます」
透は森の奥を一度見る。
その向こうに、換気塔跡がある。
さらに下には、灰置き場がある。
戻る道は残してある。
地上の道は、ここから始まる。
馬車が動き出した。
壊れた車輪が軋む。
馬がゆっくり進む。
護衛たちは警戒しながらも、先ほどより明らかに肩の力が抜けていた。
ルカは馬車の横を歩きながら、何度も空を見上げている。
リィンは透の隣を歩く。
「街へ行くんだね」
「ああ」
「人が多い?」
「多いだろうな」
「じゃあ、面倒も多い」
「たぶんな」
バルザが後ろから笑う。
「その方が退屈しねえ」
シェラが淡々と告げる。
「迷宮都市ベルディア。情報収集対象。冒険者ギルド、商業ギルド、奴隷商会関連情報、優先」
セイルは小さく頷いた。
「身分証も必要です。街に入るなら、ギルド登録が一番早いかもしれません」
透は旧道の先を見た。
森の向こうに、まだ街は見えない。
だが、道は続いている。
王国も、神殿も、勇者たちも、まだ知らない。
奈落に落とした少年が、灰色の仲間を連れて地上の旧道を歩き始めたことを。
最初にそれを街へ運ぶのは、助けられた商隊の口だった。
灰色の少年。
銀髪の封印使い。
獣人の前衛。
人形のような機兵。
灰の刀。
旧道を揺れる馬車の上で、護衛の一人が小さく呟いた。
「灰の……主、って感じだったな」
誰も笑わなかった。
その言葉は、風に乗って、南東の街へ向かっていった。




