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第53話 扉の向こうの空

 換気塔下部へ向かう者は、前回と同じ顔ぶれになった。


 透。

 リィン。

 バルザ。

 セイル。

 シェラ。

 そして今回は、ルカも加わった。


 ルカは胸元の小型灰印を両手で押さえ、少しだけ背筋を伸ばしている。

 地上の匂いを聞く役。

 戻る道の変化を感じる役。

 それを任されたのだと、表情だけでわかる。


 灰置き場の炉の前では、ガルドが外縁の配置を確認していた。


「入口は二重。水番は交代を早める。外縁に異変があれば黒炎標で知らせる」


 ネイラが黒炎皿を三つ並べる。


「今回は火を強めに残した。風があるなら、散らして使え」


「わかった」


 透は黒炎皿を腰の袋へ収める。


 灰骸刀は左腰にある。

 鞘は静かだ。昨日よりも馴染んでいる。


 リィンは封印針を確認し、セイルは石板と術式石を抱えた。シェラは足元の歩行補助板を調整している。バルザは骨杭と黒鎖用の固定具を背負った。


 出発前、イーシャが小さな布袋を差し出した。


「これ……灰布です。風が強いところで、口に当てるといいって、ダンさんが」


 透は受け取った。


「ありがとう」


 イーシャは少しだけ照れて、視線を落とす。


「いってらっしゃい」


 その言葉に、ルカがぱっと顔を上げた。


「いってきます」


 灰置き場の者たちが、静かに道を空けた。


 誰も騒がない。

 誰も大げさに見送らない。


 ただ、目が追っていた。


 奈落の底から外へ続く道。

 その扉が今日、開く。


 排泥路を抜け、廃棄昇降路へ入る。


 帰灰標はすべて安定していた。

 崩落地点では、前回と同じく黒鎖を渡して越える。ルカは透の背に軽く乗せられ、声一つ漏らさず穴の上を越えた。石粉蛾が数匹舞い上がったが、ネイラの黒炎皿から伸ばした火で散らす。


 階段を上がるほど、風は強くなった。


 土の匂い。

 草の匂い。

 乾いた葉の匂い。

 遠くで生き物が動く匂い。


 ルカが何度も鼻を動かす。


「変な匂いがいっぱいする」


 バルザが笑った。


「それが外だ」


「外、うるさい」


「まだ扉の前だぞ」


 ルカは目を丸くした。


 換気塔下部の扉は、前と同じ場所にあった。


 錆びた保守扉。

 石に埋もれた下部。

 隙間から漏れる光。


 リィンが前回置いた封印針は、扉の縁で青く眠っている。


 セイルが術式石を扉へ当てた。


「封鎖自体は古いです。外側から閉じたものではなく、内部保守区を封じるためのものですね。開けても警報が上へ飛ぶ構造ではありません」


 シェラが補足する。


「外部排気口への縦路、上方二十七メル。途中、梯子破損三箇所。排気格子、固着」


「格子は壊せるか」


「物理破壊可能。ただし音が出る」


 透は扉へ左手を置いた。


 灰が錆の中へ入り、死んだ固定具を探す。

 壊す場所は一箇所でいい。

 力任せに押せば、扉ごと崩れ、縦路を塞ぐ。


 錆びた蝶番の上部。

 内側の留め具。

 封鎖術式の死んだ結び目。


 灰骸刀を抜く。


 黒灰色の刃が短く伸びた。

 派手な音はない。


 刃先を扉の縁へ滑らせ、死んだ結び目だけを裂く。


 青い封印針をリィンが回収する。

 バルザが扉の取っ手へ手をかけた。


「押すぞ」


 錆が悲鳴を上げた。


 重い扉が、少しずつ内側へ開く。


 隙間から風が流れ込んだ。


 奈落の湿った空気を押し返すような、乾いた風。


 ルカが目を細める。


 扉の向こうには、縦に伸びる狭い塔があった。


 壁には古い梯子。

 ところどころ折れ、錆び、壁から外れかけている。

 上には丸い光がある。


 空ではない。


 排気口の格子越しの光だ。


 それでも、まぶしかった。


 セイルが息を呑む。


「本当に……外光だ」


 透は中へ入った。


 梯子には頼りすぎない。

 壁の出っ張り、残った金具、石の継ぎ目を使って上がる。


 体は軽い。


 奈落で鍛えられた脚力は、垂直に近い壁でも苦にしない。指先が石の隙間を掴み、足裏がわずかな段差を捉える。


 バルザが下から見上げる。


「猿かよ」


「獣人に言われたくない」


「俺は狼寄りだ」


「今は壁登りしてるから似たようなものだ」


 リィンは封印線を梯子へ走らせ、弱い箇所を補強しながら上がる。

 ルカはバルザが片腕で抱えた。

 シェラは壁の金具を一つずつ確認し、破損箇所を避ける。

 セイルは二度ほど足を滑らせたが、黒鎖に吊られて何とか上がった。


 上に近づくほど、光が強くなる。


 透は排気格子の真下に立った。


 格子の向こうに、緑が見えた。


 葉だ。


 風に揺れる葉。


 その隙間に、青い色がある。


 空。


 透は一瞬、息を忘れた。


 日本で見た空とは違う。

 召喚された王城の窓から見た空とも違う。

 奈落から見上げることすら許されなかった、遠い色。


 格子越しの小さな空なのに、胸の奥を強く掴まれた。


 ルカがバルザの腕の中で固まっている。


「あれ……なに」


「空だ」


 透が答える。


「そら」


 ルカは、その言葉を初めて口にするように繰り返した。


 リィンは黙って見上げていた。


 銀髪に、格子越しの光が落ちる。

 青い目が、ほんの少しだけ揺れている。


 シェラの右目が光った。


「外光、直接確認。上層外気、流入。記録更新」


 セイルは何か言おうとして、声にならなかった。


 透は格子に手をかける。


 錆びている。

 外側には蔦が絡んでいる。

 音を立てずに外すには、金具の死んだ部分を喰えばいい。


 灰糸を伸ばす。

 錆の芯を拾う。

 格子を支える四つの留め具のうち、二つだけを弱める。


 バルザが下から格子を支えた。


「落とすなよ」


「そっちこそ」


「俺が落とすわけねえだろ」


 灰骸刀で最後の結び目を裂く。


 格子が外れた。


 透とバルザで内側へ引き込み、壁に立てかける。


 穴が開いた。


 風が一気に入る。


 草の匂いが濃くなる。

 土の湿り気。

 遠くの水。

 獣の毛。

 花の甘い匂い。


 ルカが目をぎゅっと閉じた。


「におい、多い」


 透は排気口から外へ出た。


 最初に手が触れたのは、冷たい石ではなく、湿った土だった。


 指先が土を掴む。


 柔らかい。


 次に草が手の甲へ触れた。


 外へ身を乗り出し、地面に足を置く。


 そこは、古い石造りの換気塔跡だった。


 周囲は森。

 木々は高く、枝葉の隙間から光が落ちている。

 空は青く、雲が流れていた。

 遠くで鳥の声がした。


 鳥。


 魔物ではない。

 ただの鳥の声。


 透は立ち尽くした。


 奈落の底の灰色ではない。

 浄水室の青白い光でもない。

 炉の赤黒い火でもない。


 世界が、色を持っている。


 リィンが後から外へ出た。


 彼女は草の上に足を置き、少しだけ体を揺らした。

 靴底が柔らかい地面に沈む感覚に驚いたらしい。


「床じゃない」


「地面だ」


「地面……」


 ルカはバルザに下ろされると、恐る恐る膝をついた。


 草に触れる。


 指でつまむ。


 引っ張る。


 ちぎれた葉を見て、慌てて透を見る。


「壊した」


「草はまた生える」


「生える?」


「ああ」


 ルカは信じられないものを見るように、手の中の草を見つめた。


 バルザは大きく伸びをした。


「ああ、空がある。やっぱり地上は広いな」


 セイルは排気口の縁に座り込み、目を潤ませていた。


「帰って……きた……」


 シェラは周囲を観察する。


「位置不明。王国標準地図との照合、不可。周辺、廃棄施設跡。人工構造物、複数埋没」


 透は森の奥を見る。


 王都ではない。

 街道も見えない。

 古い施設跡が森に飲まれている。


 都合がいい。


 人の目が少ない場所だ。


 換気塔跡の外壁には、古い文字が残っていた。


 セイルが涙を拭って立ち上がり、それを読む。


「王国旧東方保守区……封鎖指定……奈落廃棄線……」


「王国領か」


「おそらく辺境です。今の王都からは離れているはずです。ここがまだ地図に残っていれば、ですが」


 バルザが森の匂いを嗅ぐ。


「人の匂いは薄い。獣はいる。魔物も少し。北西に水。南に古い道の匂い」


「道へは後で行く」


 透は周囲の地形を見た。


 換気塔跡。

 排気口。

 森。

 水場。

 古い道。


 まずは出口の確保。


 透は排気口の近くの石壁に帰灰標を埋め込んだ。

 灰が石に染みる。


 奈落側とは違う反応が返ってきた。


 生きた土。

 風で散る灰。

 草の根。

 虫の気配。


 情報が多い。


 灰域を広げすぎると、すぐに雑音で満ちる。


 透は範囲を換気塔跡の周囲だけに絞った。


 ここを外側の戻り口にする。


 ルカが排気口の中を覗く。


「ここから戻れる?」


「ああ。しばらくはここが出入口だ」


「外にも戻る場所、作るんだね」


「そうだ」


 リィンが周囲へ封印針を数本打った。


 魔物除けではない。

 排気口の場所を見失わないための、青い目印。


 シェラは石片に周辺の簡易地図を刻み始めた。


 その時、森の奥で獣の唸り声がした。


 バルザが即座に振り向く。


「来る」


 木々の間から、三体の魔物が現れた。


 狼に似ている。

 だが、体が大きく、背中に苔のような硬い毛が生えている。目は黄色く、口からは緑がかった涎が垂れていた。


 地上の魔物。


 バルザが鼻を鳴らす。


「森裂き狼だな。群れの斥候だ」


 セイルが慌てて言う。


「C級相当です。普通の護衛隊なら五人以上で――」


 狼が地を蹴った。


 遅い。


 透の内側で、最初に浮かんだ感想はそれだった。


 奈落の喰屍のような嫌な粘りがない。

 水骸のように動きが読みにくいわけでもない。

 骨蛇のように地形に潜らない。

 追い笛のような厄介な知らせもない。


 速い魔物なのだろう。


 地上では。


 一体目がリィンへ跳ぶ。


 透は歩くように前へ出た。


 灰瞬壁を出すまでもない。


 狼の前脚を左手で払い、首元の毛皮を掴む。

 勢いを殺さず、横へ流す。


 狼の巨体が地面へ叩きつけられた。


 土が跳ねる。


 二体目はバルザが拳で迎え撃った。

 森裂き狼の顎が歪み、木の幹へ吹き飛ぶ。


 三体目が背後へ回ろうとした瞬間、リィンの封印針が足元を縫った。狼の動きが止まり、シェラが淡々と告げる。


「脅威度、低」


 透は一体目の首に手を置いた。


 殺す必要はない。


 灰で脅威を示す。


 皮膚下の灰が薄く滲み、狼の鼻先に冷たい灰の匂いを流す。


 森裂き狼の目が震えた。


 獣の本能が、透を魔物としてではなく、もっと深い何かとして認識した。


 狼は尻尾を下げた。


 リィンに縫われた三体目も、青い線が解けると後ずさる。

 バルザに殴られた二体目はふらつきながら起き上がり、低く鳴いた。


 透は森の奥を指差した。


「行け」


 三体の狼は、争うことなく森へ逃げた。


 セイルが呆然としている。


「C級魔物を……追い払った……」


 バルザが肩を鳴らす。


「奈落の犬どもの方がしつこいな」


「地上では危険な魔物です」


「だろうな」


 透は手についた毛を払った。


 確かに力はある。

 普通の人間なら危険なのだろう。

 だが、奈落で死にかけながら相手にしてきたものとは圧が違う。


 ルカは森裂き狼が逃げた方向を見ていた。


「殺さないの?」


「ここはあいつらの森だ。近づかなければいい」


「そっか」


 リィンが森の奥を見る。


「群れに知らせるかも」


「その時は場所を変える。出口を隠す方が先だ」


 透は排気口へ戻った。


 格子を完全には戻さない。

 外から見ればただの壊れた換気塔に見えるよう、蔦と石で隠す。

 内側からはすぐ外せるよう、留め具を灰で弱く繋ぐ。


 シェラが記録する。


「外部出入口、偽装完了。帰灰標、外側一号設置」


 セイルは周辺の地図に水場と古道の方角を書き込んだ。


 バルザは森の匂いを嗅ぎ、南を指す。


「古道はあっちだ。人の匂いが少しある。古いが、完全には死んでない」


「今日は近づくだけ。人と会うのは避ける」


「了解」


 透は空をもう一度見上げた。


 青い。


 広い。


 高い。


 落とされた時、自分はこの空から切り離されたと思っていた。


 けれど、戻ってきた。


 まだ誰にも知られていない。

 王国も、神殿も、勇者たちも、黒鞭商会も。


 奈落に捨てた灰が、地上の風の中に立っていることを、まだ知らない。


 透は腰の灰骸刀に触れた。


 抜く相手は、まだここにはいない。


 だが、この先にはいる。


 森の向こう。

 古道の先。

 街とギルドと商会のある場所。


 ルカが隣に立ち、空を見上げた。


「トオル」


「ん」


「空、広いね」


「ああ」


「灰置き場のみんなにも、見せたい」


 透は排気口の方を見た。


 暗い縦路の先に、奈落がある。


 水音の砦。

 炉。

 掟。

 戻る者たち。


「見せる」


 短く答えると、ルカは満面の笑みを浮かべた。


 森の葉が風に揺れる。


 光が灰色の外套に落ちる。


 奈落の底で鍛えられた少年は、仲間たちとともに、初めて地上の土を踏んだ。


 その足跡はまだ小さい。


 だが、地上の世界はもう、彼を知らないままではいられない。


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