第52話 風の降りる階段
灰骸刀の鞘が完成した翌朝、廃棄昇降路へ向かう準備は静かに整えられた。
炉の前に並べられたのは、水袋が二つ、灰布が三枚、骨杭が六本、封印針の束、灰導石片を削った小さな標、そして携行用の黒炎皿だった。
黒炎皿は、ネイラが夜のうちに作ったものだ。
骨皿の内側に薄く焦げた灰を塗り、黒炎を指先ほど残しておける。長くはもたないが、追跡痕や腐った魔力を焼くには足りる。
ネイラはそれを透へ差し出しながら、目を逸らした。
「水場じゃなければ使える。落とすな」
「助かる」
「礼はいらない」
「言ってない」
「顔が言っていた」
ネイラはそう言って、壁際へ戻った。
リィンは封印針を腰の布帯に差し、灰骸刀の鞘を一度だけ見た。
「今日は、抜く?」
「必要なら」
「そう」
それ以上は言わない。
透は灰骸刀を腰に下げ、左手の指を軽く開いた。
刃は眠っている。鞘の中で灰を吸おうとする気配も薄い。
ガルドは石板の地図を見ながら、短く告げた。
「踊り場の先は未確認だ。階段が崩れていれば引き返せ。空洞が広ければ標を置け。風が強すぎる場所では灰域を広げるな」
「わかった」
「上の匂いに釣られるなよ」
バルザが横から笑う。
「それは俺もか?」
「お前は匂いに釣られる側だ」
「否定しねえ」
今回、昇降路へ入るのは透、リィン、バルザ、セイル、シェラ。
シェラは歩行速度が遅いため、途中まではバルザが担ぐ。ルカは灰置き場に残り、水音と帰灰標の反応を見る。ネイラは黒炎標と外縁の火を保つ。ガルドは入口防衛。
ルカは小型灰印を胸元に抱え、透の前に立った。
「変な音がしたら、灰印をぎゅってする」
「痛かったら離せ」
「うん。痛くなる前に言う」
イーシャも骨札を抱えていた。
「あの、帰ってきたら、地図を見せてください」
「見せる」
イーシャは小さく笑った。
その笑顔は、まだ弱い。
けれど、昨日より少しだけ長く続いた。
排泥路に入ると、空気はすぐ湿った匂いに変わった。
浄水室から流れる水は安定している。
黒泥の詰まりを除いたおかげで、水圧は落ち着き、腐った泡も少ない。
透は足を止めず、壁に灯る帰灰標を確認していく。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
灰域の中で、それらは小さな点として残っている。
頼りすぎると感覚が鈍る。だが、道を失った時には命綱になる。
昇降路手前に着くと、風があった。
昨日よりもはっきりしている。
乾いた風。
冷たい石の匂い。
錆びた鉄の粉。
そして、ごく微かに土の匂い。
奈落の底にはない匂いだった。
バルザが鼻を鳴らす。
「上だな」
セイルは術式石を握る手に力を込めた。
「完全な外ではありません。おそらく上層保守区か、廃棄集積層です。ただ、空気が動いているなら、どこかで外気と繋がっています」
透は階段を見上げる。
暗い石段が続いている。
途中で砕けた手すり。
壁に残る古い灰文字。
足元には昨日止めた警備機構の傷跡。
行く。
それだけを胸の奥に置き、透は一段目を踏んだ。
階段は狭かった。
バルザが普通に歩けば肩が壁へ当たる。
シェラを担いだままでは動きづらいため、途中からシェラは自分の足で歩いた。右腕を失った体は不安定だが、壁に指を添えながら進んでいく。
「シェラ、無理するな」
「移動可能。負荷、許容範囲」
「転ぶ前に言えよ」
バルザが後ろから言うと、シェラは振り返らずに答えた。
「転倒予測時、通知する」
「予測じゃなくて、その前に言え」
「再計算」
リィンがそのやり取りを聞いて、ほんの少し口元を緩めた。
昇降路の三十段目を越えたところで、階段は一度途切れた。
崩落。
上から落ちた石材が階段を塞ぎ、中央が大きく抜けている。
隙間の下には、暗い縦穴が広がっていた。
落ちれば、排泥路どころではない。
どこまで続いているかもわからない。
セイルが顔を青くする。
「ここは……渡れません」
バルザが縁を覗き込む。
「俺なら跳べる」
「着地で向こう側が崩れる」
透が言うと、バルザは肩をすくめた。
「だろうな」
リィンは壁を見た。
「封印針で一時的に縫える。でも、長くは無理」
透は崩れた階段を観察した。
向こう側までの距離は、三歩半ほど。
普通の人間には厳しい。
今の透なら、跳ぶだけなら簡単だ。
だが、全員を渡す必要がある。
灰瞬壁を足場にする案が一瞬浮かぶ。
すぐに消す。
足場として使うには密度が要る。
人数分となれば消耗が大きい。
失敗すれば落ちる。
別の手を探す。
壁に古い保守用の金具が残っていた。
腐っているが、完全には折れていない。
そこへ骨杭を打ち、黒鎖を通せば、簡易の渡し綱になる。
透は骨杭を二本取り出した。
「バルザ、向こう側へ跳べるか。着地は壁際、左の柱の根元。そこならまだ残ってる」
「了解」
「着いたら骨杭を打ってくれ。黒鎖を渡す」
バルザは牙を見せる。
「こういうのは得意だ」
彼は助走もなく跳んだ。
重い体が、獣のように宙を渡る。
向こう側の階段に爪先が触れた瞬間、石が砕けかける。
透の灰域が、その崩れを拾った。
灰瞬壁を一枚、下ではなく横に置く。
崩れた石が外へ逃げる前に壁へ当たり、内側へ落ちる。
足場の端が保たれた。
バルザはその隙に壁際へ体を寄せ、骨杭を打ち込んだ。
「渡せ!」
透は黒鎖を伸ばした。
手甲から走った黒鎖が、穴を越えてバルザの骨杭へ絡む。
こちら側にも骨杭を打ち、壁の金具と合わせて固定する。
リィンが封印針を鎖へ一本打った。
青い線が黒鎖に沿って走る。
「揺れを抑える」
セイルが喉を鳴らした。
「こ、これを渡るんですか」
「俺が先に行く」
透は黒鎖に手をかけた。
足場は一本の鎖。
下は深い縦穴。
風が下から上へ吹き抜け、灰を散らそうとする。
透は灰域を狭くした。
足裏。
鎖。
向こう側の骨杭。
自分の呼吸。
それだけでいい。
鎖へ足を乗せる。
揺れる。
リィンの青い線が揺れを殺す。
透は体を低くし、二歩、三歩と進む。
途中で、下から何かが飛んだ。
灰色の羽虫。
追火蛾ではない。
もっと乾いた、石粉をまとった虫だ。
石粉蛾の群れが、縦穴から舞い上がってくる。
羽音が耳障りに響いた。
セイルが叫ぶ。
「石粉蛾です! 目や喉に入ると、内側で固まります!」
バルザがこちらへ手を伸ばしかける。
透は鎖の上で止まった。
跳ぶこともできる。
灰瞬壁で全部押し返すこともできる。
だが、ここで大きく灰を広げれば、風に散って感覚が乱れる。
腰の黒炎皿を取る。
ネイラの火が、骨皿の内側で小さく揺れた。
透はそれを下へ落とさないよう、指先で灰を添える。
石粉蛾の群れが顔へ迫る。
透は黒炎皿を横へ傾けた。
火を投げるのではない。
灰瞬壁で風向きを一瞬だけ変える。
小さな灰壁を鎖の下へ斜めに置く。
縦穴から吹き上がる風が壁に当たり、横へ流れる。
黒炎皿の火が、その流れに乗った。
黒い火が薄く広がり、石粉蛾の群れの中心を撫でる。
羽が焼ける。
石粉が黒く崩れる。
群れは透の顔へ届く前に、横へ流れて縦穴の壁へ散った。
鎖はまだ揺れている。
透はそのまま進み、向こう側へ渡った。
バルザが笑う。
「火の使い方まで器用になったな」
「ネイラに怒られそうだ」
「雑に使えばな。今のは文句言わねえだろ」
透は黒炎皿を確認した。
火はまだ残っている。
小さくなったが、消えてはいない。
その後、リィンが渡った。
彼女は黒鎖に触れながら、青い封印線を足元へ流し、軽く越えてくる。
セイルは顔を真っ白にしていたが、バルザと透が両側から支え、何とか渡り切った。
シェラは歩幅を計算し、途中で一度だけ揺れたが、リィンの線に助けられて越えた。
全員が渡った後、透は黒鎖を回収しようとして、下を見た。
縦穴の底から、かすかな音がする。
風ではない。
金属が擦れる音。
シェラの右目が光る。
「下層機構、活動音。接近なし。縦穴底部に大型機構残骸の可能性」
「今は触らない」
透は黒鎖を引き戻し、向こう側の壁へ帰灰標を一つ押し込んだ。
灰が灯る。
崩落地点を越えた最初の標。
戻る線が、また少し伸びた。
階段はさらに続いた。
石粉蛾の群れが時折現れるが、黒炎皿と小さな灰壁で風を変えれば散らせる。
大きな魔物は出ない。
その代わり、古い罠が多かった。
足元の踏み板。
壁から突き出す錆びた針。
天井に吊られた石の重り。
どれも半壊しているが、死んだ命令だけは残っている。
灰骸刀の出番は、すぐに来た。
セイルが壁の文字を読もうと近づいた時、床の踏み板が沈んだ。
壁の奥で錆びた歯車が噛み合う。
針が出るより先に、透は腰の柄へ手をかけていた。
抜く。
灰の刃が伸びる。
一閃。
壁の奥に走った死命令線だけが切れる。
針は出なかった。
機構は沈黙し、踏み板はただの石に戻る。
透はすぐに納刀した。
鞘の中で灰骸刀が静まる。
リィンが壁を見た。
「速い」
「針が出てからだと遅い」
セイルは冷や汗を浮かべながら頭を下げた。
「ありがとうございます……」
「文字は読めるか」
「はい。ええと……昇降路第二保守区、補助倉庫、換気塔、外部排気口……」
外部排気口。
その言葉に、バルザが反応した。
「外か」
「完全な出口ではないかもしれません。排気口は細いこともあります。ただ、外気と繋がる設備です」
透は壁の文字をなぞる。
外部排気口。
換気塔。
地上の風が、そこから降りてきている。
階段をさらに上がると、空気は乾いていった。
湿った腐水の匂いが遠ざかり、代わりに土と草の匂いが濃くなる。
草。
透はその匂いに、一瞬だけ足を止めた。
日本の校庭の芝とは違う。
異世界の草の匂い。
それでも、奈落にはなかった生きた匂いだった。
リィンも立ち止まっていた。
「これが、上の匂い?」
「たぶん」
「軽い」
彼女の声は、いつもより少しだけ幼く聞こえた。
封印の棺。
奈落。
青い光。
灰。
それしか知らない少女にとって、草の匂いはどれほど遠いものだったのか。
透は何も言わず、歩幅を少し緩めた。
階段の先に、扉があった。
大きな鉄扉ではない。
人一人が通れるほどの保守扉。
上半分は錆び、下は石に埋もれている。
扉の隙間から、風が入っていた。
そして、その風に混じって、薄い光があった。
ルカが見たら、きっと声を上げただろう。
セイルは扉の文字を読んだ。
「換気塔下部……外部排気口へ続く……ただし、封鎖されています」
バルザが扉を押そうとする。
透が手を上げて止めた。
「待て」
灰域を扉の向こうへ伸ばす。
風が強い。
灰が散る。
だが、隙間の向こうに空間があるのはわかる。
狭い縦穴。
上へ続く梯子のような金具。
その先に、明るい点。
外だ。
完全な出口ではないかもしれない。
だが、外光がある。
透の胸が、静かに熱くなった。
セイルが声を震わせる。
「開けますか」
透は扉を見る。
ここまで来た。
崩落を越え、罠を切り、風を辿った。
だが、向こうが安全とは限らない。
外部排気口が狭ければ、全員は通れない。
開けた瞬間、外の魔物や人間に気づかれるかもしれない。
帰灰標はまだここにない。
透は腰の標を取り出し、扉の手前の壁へ押し込んだ。
灰が灯る。
「ここを今日の先端にする」
バルザが扉を見て、少しだけ惜しそうに笑った。
「目の前だぞ」
「だからだ」
透は扉の隙間から入る光を見た。
「戻って、準備して、もう一度来る」
リィンは何も言わず、扉の前に封印針を一本置いた。
青い線が扉の縁へ細く走り、内側からの暴発を抑える。
「次に開ける時、わかりやすい」
「助かる」
シェラは扉の文字を記録しながら告げた。
「到達地点、換気塔下部。外光確認。外気流入確認。地上接続可能性、高」
セイルは石板を抱え、目に涙を浮かべていた。
「本当に……繋がっている……」
バルザは扉の隙間から流れる風を吸い込んだ。
「草だな。あと、獣の匂い。遠くに水もある」
「人は?」
「今のところ、薄い。近くに街はなさそうだ」
透はその情報を胸に置いた。
地上へ出るなら、いきなり王都ではない。
森か、廃坑か、旧道か。
人里から少し離れた場所。
それでいい。
王国の目が届きにくい場所の方が、こちらには都合がいい。
透は扉に手を触れた。
冷たい鉄。
隙間から入る風。
細い光。
落とされた日から、ずっと上は遠かった。
今、その上が扉一枚の向こうにある。
それでも、透は扉を開けなかった。
背後には、戻るべき場所がある。
水を待つ者。
地図を待つ者。
空を知らない子ども。
外へ出ることを怖がりながら、それでも見たいと願う者。
最初に開ける時は、彼らへ伝えてからでいい。
透は手を離した。
「戻る」
声は静かだった。
けれど、誰も反対しなかった。
帰り道、風は背中を押していた。
崩落地点では、透が置いた帰灰標がしっかり灯っていた。
黒鎖を張り直し、全員を渡す。
石粉蛾は出たが、黒炎皿の残り火で散った。
排泥路へ降りると、湿った空気が戻ってくる。
奈落の匂い。
だが、それだけではなくなっていた。
透たちは、上の風を知った。
灰置き場に戻ると、ルカが真っ先に走ってきた。
「どうだった?」
透は少し膝を曲げ、ルカの目線に合わせた。
「風があった」
「風?」
「草の匂いがした」
ルカの目が大きく開く。
「草って、上にあるやつ?」
「ああ」
イーシャが骨札を落としそうになった。
「外……近いんですか」
「扉があった。今日は開けてない」
ケイルが息を呑む。
「開けなかったのか」
透は頷いた。
「次に行く時、準備して開ける」
ガルドは石板を受け取り、報告を黙って聞いた。
セイルが換気塔下部、外部排気口、封鎖扉、崩落地点の位置を書き込んでいく。
シェラが外光確認の記録を追加する。
リィンは扉に置いた封印針の位置を刻む。
バルザは外気の匂いについて短く補足した。
地図が伸びた。
灰置き場から浄水室へ。
排泥路へ。
廃棄昇降路へ。
崩落地点を越え。
換気塔下部へ。
その先に、小さく文字が刻まれる。
外部排気口。
誰も騒がなかった。
けれど、炉の前に集まった者たちの顔には、明らかに別の光があった。
ルカは草の匂いという言葉を何度も小さく繰り返している。
イーシャは自分の足を見下ろし、指先で骨札を撫でた。
ケイルは壁を見つめたまま、唇を固く結んでいる。
ダンは水瓶の横で、しばらく目を閉じていた。
ネイラは黒炎皿を受け取り、残った火を見て言った。
「雑には使わなかったようだな」
「使いやすかった」
「当然だ」
そう言いながら、彼女の口元は少しだけ緩んでいた。
ガルドが石板に最後の線を刻む。
「次は、扉を開ける準備だ」
透は腰の灰骸刀に触れた。
鞘の中の刃は静かだ。
昇降路で死んだ罠を斬った後も、暴れていない。
上へ出れば、奈落の魔物とは違う危険が待っている。
人間。
商会。
冒険者。
騎士。
神殿。
灰骸刀を抜く相手が、魔物だけとは限らない。
透は炉の光を見た。
この場所を置いていくわけではない。
ここから出る。
そして、戻ってこられる道を残す。
そのための扉が見つかった。
灰置き場の空気は、いつもより少し軽かった。
奈落の底に、上の風が混じり始めていた。




