表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

52/84

第52話 風の降りる階段

 灰骸刀の鞘が完成した翌朝、廃棄昇降路へ向かう準備は静かに整えられた。


 炉の前に並べられたのは、水袋が二つ、灰布が三枚、骨杭が六本、封印針の束、灰導石片を削った小さな標、そして携行用の黒炎皿だった。


 黒炎皿は、ネイラが夜のうちに作ったものだ。


 骨皿の内側に薄く焦げた灰を塗り、黒炎を指先ほど残しておける。長くはもたないが、追跡痕や腐った魔力を焼くには足りる。


 ネイラはそれを透へ差し出しながら、目を逸らした。


「水場じゃなければ使える。落とすな」


「助かる」


「礼はいらない」


「言ってない」


「顔が言っていた」


 ネイラはそう言って、壁際へ戻った。


 リィンは封印針を腰の布帯に差し、灰骸刀の鞘を一度だけ見た。


「今日は、抜く?」


「必要なら」


「そう」


 それ以上は言わない。


 透は灰骸刀を腰に下げ、左手の指を軽く開いた。

 刃は眠っている。鞘の中で灰を吸おうとする気配も薄い。


 ガルドは石板の地図を見ながら、短く告げた。


「踊り場の先は未確認だ。階段が崩れていれば引き返せ。空洞が広ければ標を置け。風が強すぎる場所では灰域を広げるな」


「わかった」


「上の匂いに釣られるなよ」


 バルザが横から笑う。


「それは俺もか?」


「お前は匂いに釣られる側だ」


「否定しねえ」


 今回、昇降路へ入るのは透、リィン、バルザ、セイル、シェラ。

 シェラは歩行速度が遅いため、途中まではバルザが担ぐ。ルカは灰置き場に残り、水音と帰灰標の反応を見る。ネイラは黒炎標と外縁の火を保つ。ガルドは入口防衛。


 ルカは小型灰印を胸元に抱え、透の前に立った。


「変な音がしたら、灰印をぎゅってする」


「痛かったら離せ」


「うん。痛くなる前に言う」


 イーシャも骨札を抱えていた。


「あの、帰ってきたら、地図を見せてください」


「見せる」


 イーシャは小さく笑った。


 その笑顔は、まだ弱い。

 けれど、昨日より少しだけ長く続いた。


 排泥路に入ると、空気はすぐ湿った匂いに変わった。


 浄水室から流れる水は安定している。

 黒泥の詰まりを除いたおかげで、水圧は落ち着き、腐った泡も少ない。


 透は足を止めず、壁に灯る帰灰標を確認していく。


 一つ目。

 二つ目。

 三つ目。


 灰域の中で、それらは小さな点として残っている。

 頼りすぎると感覚が鈍る。だが、道を失った時には命綱になる。


 昇降路手前に着くと、風があった。


 昨日よりもはっきりしている。


 乾いた風。

 冷たい石の匂い。

 錆びた鉄の粉。

 そして、ごく微かに土の匂い。


 奈落の底にはない匂いだった。


 バルザが鼻を鳴らす。


「上だな」


 セイルは術式石を握る手に力を込めた。


「完全な外ではありません。おそらく上層保守区か、廃棄集積層です。ただ、空気が動いているなら、どこかで外気と繋がっています」


 透は階段を見上げる。


 暗い石段が続いている。

 途中で砕けた手すり。

 壁に残る古い灰文字。

 足元には昨日止めた警備機構の傷跡。


 行く。


 それだけを胸の奥に置き、透は一段目を踏んだ。


 階段は狭かった。


 バルザが普通に歩けば肩が壁へ当たる。

 シェラを担いだままでは動きづらいため、途中からシェラは自分の足で歩いた。右腕を失った体は不安定だが、壁に指を添えながら進んでいく。


「シェラ、無理するな」


「移動可能。負荷、許容範囲」


「転ぶ前に言えよ」


 バルザが後ろから言うと、シェラは振り返らずに答えた。


「転倒予測時、通知する」


「予測じゃなくて、その前に言え」


「再計算」


 リィンがそのやり取りを聞いて、ほんの少し口元を緩めた。


 昇降路の三十段目を越えたところで、階段は一度途切れた。


 崩落。


 上から落ちた石材が階段を塞ぎ、中央が大きく抜けている。

 隙間の下には、暗い縦穴が広がっていた。


 落ちれば、排泥路どころではない。

 どこまで続いているかもわからない。


 セイルが顔を青くする。


「ここは……渡れません」


 バルザが縁を覗き込む。


「俺なら跳べる」


「着地で向こう側が崩れる」


 透が言うと、バルザは肩をすくめた。


「だろうな」


 リィンは壁を見た。


「封印針で一時的に縫える。でも、長くは無理」


 透は崩れた階段を観察した。


 向こう側までの距離は、三歩半ほど。

 普通の人間には厳しい。

 今の透なら、跳ぶだけなら簡単だ。


 だが、全員を渡す必要がある。


 灰瞬壁を足場にする案が一瞬浮かぶ。

 すぐに消す。


 足場として使うには密度が要る。

 人数分となれば消耗が大きい。

 失敗すれば落ちる。


 別の手を探す。


 壁に古い保守用の金具が残っていた。

 腐っているが、完全には折れていない。

 そこへ骨杭を打ち、黒鎖を通せば、簡易の渡し綱になる。


 透は骨杭を二本取り出した。


「バルザ、向こう側へ跳べるか。着地は壁際、左の柱の根元。そこならまだ残ってる」


「了解」


「着いたら骨杭を打ってくれ。黒鎖を渡す」


 バルザは牙を見せる。


「こういうのは得意だ」


 彼は助走もなく跳んだ。


 重い体が、獣のように宙を渡る。

 向こう側の階段に爪先が触れた瞬間、石が砕けかける。


 透の灰域が、その崩れを拾った。


 灰瞬壁を一枚、下ではなく横に置く。


 崩れた石が外へ逃げる前に壁へ当たり、内側へ落ちる。

 足場の端が保たれた。


 バルザはその隙に壁際へ体を寄せ、骨杭を打ち込んだ。


「渡せ!」


 透は黒鎖を伸ばした。


 手甲から走った黒鎖が、穴を越えてバルザの骨杭へ絡む。

 こちら側にも骨杭を打ち、壁の金具と合わせて固定する。


 リィンが封印針を鎖へ一本打った。


 青い線が黒鎖に沿って走る。


「揺れを抑える」


 セイルが喉を鳴らした。


「こ、これを渡るんですか」


「俺が先に行く」


 透は黒鎖に手をかけた。


 足場は一本の鎖。

 下は深い縦穴。

 風が下から上へ吹き抜け、灰を散らそうとする。


 透は灰域を狭くした。


 足裏。

 鎖。

 向こう側の骨杭。

 自分の呼吸。


 それだけでいい。


 鎖へ足を乗せる。


 揺れる。


 リィンの青い線が揺れを殺す。

 透は体を低くし、二歩、三歩と進む。


 途中で、下から何かが飛んだ。


 灰色の羽虫。


 追火蛾ではない。

 もっと乾いた、石粉をまとった虫だ。


 石粉蛾の群れが、縦穴から舞い上がってくる。


 羽音が耳障りに響いた。


 セイルが叫ぶ。


「石粉蛾です! 目や喉に入ると、内側で固まります!」


 バルザがこちらへ手を伸ばしかける。


 透は鎖の上で止まった。


 跳ぶこともできる。

 灰瞬壁で全部押し返すこともできる。


 だが、ここで大きく灰を広げれば、風に散って感覚が乱れる。


 腰の黒炎皿を取る。


 ネイラの火が、骨皿の内側で小さく揺れた。


 透はそれを下へ落とさないよう、指先で灰を添える。


 石粉蛾の群れが顔へ迫る。


 透は黒炎皿を横へ傾けた。


 火を投げるのではない。

 灰瞬壁で風向きを一瞬だけ変える。


 小さな灰壁を鎖の下へ斜めに置く。

 縦穴から吹き上がる風が壁に当たり、横へ流れる。


 黒炎皿の火が、その流れに乗った。


 黒い火が薄く広がり、石粉蛾の群れの中心を撫でる。


 羽が焼ける。

 石粉が黒く崩れる。

 群れは透の顔へ届く前に、横へ流れて縦穴の壁へ散った。


 鎖はまだ揺れている。


 透はそのまま進み、向こう側へ渡った。


 バルザが笑う。


「火の使い方まで器用になったな」


「ネイラに怒られそうだ」


「雑に使えばな。今のは文句言わねえだろ」


 透は黒炎皿を確認した。


 火はまだ残っている。

 小さくなったが、消えてはいない。


 その後、リィンが渡った。


 彼女は黒鎖に触れながら、青い封印線を足元へ流し、軽く越えてくる。

 セイルは顔を真っ白にしていたが、バルザと透が両側から支え、何とか渡り切った。

 シェラは歩幅を計算し、途中で一度だけ揺れたが、リィンの線に助けられて越えた。


 全員が渡った後、透は黒鎖を回収しようとして、下を見た。


 縦穴の底から、かすかな音がする。


 風ではない。


 金属が擦れる音。


 シェラの右目が光る。


「下層機構、活動音。接近なし。縦穴底部に大型機構残骸の可能性」


「今は触らない」


 透は黒鎖を引き戻し、向こう側の壁へ帰灰標を一つ押し込んだ。


 灰が灯る。


 崩落地点を越えた最初の標。


 戻る線が、また少し伸びた。


 階段はさらに続いた。


 石粉蛾の群れが時折現れるが、黒炎皿と小さな灰壁で風を変えれば散らせる。

 大きな魔物は出ない。

 その代わり、古い罠が多かった。


 足元の踏み板。

 壁から突き出す錆びた針。

 天井に吊られた石の重り。

 どれも半壊しているが、死んだ命令だけは残っている。


 灰骸刀の出番は、すぐに来た。


 セイルが壁の文字を読もうと近づいた時、床の踏み板が沈んだ。


 壁の奥で錆びた歯車が噛み合う。

 針が出るより先に、透は腰の柄へ手をかけていた。


 抜く。


 灰の刃が伸びる。


 一閃。


 壁の奥に走った死命令線だけが切れる。


 針は出なかった。


 機構は沈黙し、踏み板はただの石に戻る。


 透はすぐに納刀した。


 鞘の中で灰骸刀が静まる。


 リィンが壁を見た。


「速い」


「針が出てからだと遅い」


 セイルは冷や汗を浮かべながら頭を下げた。


「ありがとうございます……」


「文字は読めるか」


「はい。ええと……昇降路第二保守区、補助倉庫、換気塔、外部排気口……」


 外部排気口。


 その言葉に、バルザが反応した。


「外か」


「完全な出口ではないかもしれません。排気口は細いこともあります。ただ、外気と繋がる設備です」


 透は壁の文字をなぞる。


 外部排気口。

 換気塔。


 地上の風が、そこから降りてきている。


 階段をさらに上がると、空気は乾いていった。


 湿った腐水の匂いが遠ざかり、代わりに土と草の匂いが濃くなる。

 草。


 透はその匂いに、一瞬だけ足を止めた。


 日本の校庭の芝とは違う。

 異世界の草の匂い。

 それでも、奈落にはなかった生きた匂いだった。


 リィンも立ち止まっていた。


「これが、上の匂い?」


「たぶん」


「軽い」


 彼女の声は、いつもより少しだけ幼く聞こえた。


 封印の棺。

 奈落。

 青い光。

 灰。


 それしか知らない少女にとって、草の匂いはどれほど遠いものだったのか。


 透は何も言わず、歩幅を少し緩めた。


 階段の先に、扉があった。


 大きな鉄扉ではない。

 人一人が通れるほどの保守扉。

 上半分は錆び、下は石に埋もれている。


 扉の隙間から、風が入っていた。


 そして、その風に混じって、薄い光があった。


 ルカが見たら、きっと声を上げただろう。


 セイルは扉の文字を読んだ。


「換気塔下部……外部排気口へ続く……ただし、封鎖されています」


 バルザが扉を押そうとする。


 透が手を上げて止めた。


「待て」


 灰域を扉の向こうへ伸ばす。


 風が強い。

 灰が散る。

 だが、隙間の向こうに空間があるのはわかる。


 狭い縦穴。

 上へ続く梯子のような金具。

 その先に、明るい点。


 外だ。


 完全な出口ではないかもしれない。

 だが、外光がある。


 透の胸が、静かに熱くなった。


 セイルが声を震わせる。


「開けますか」


 透は扉を見る。


 ここまで来た。

 崩落を越え、罠を切り、風を辿った。


 だが、向こうが安全とは限らない。

 外部排気口が狭ければ、全員は通れない。

 開けた瞬間、外の魔物や人間に気づかれるかもしれない。

 帰灰標はまだここにない。


 透は腰の標を取り出し、扉の手前の壁へ押し込んだ。


 灰が灯る。


「ここを今日の先端にする」


 バルザが扉を見て、少しだけ惜しそうに笑った。


「目の前だぞ」


「だからだ」


 透は扉の隙間から入る光を見た。


「戻って、準備して、もう一度来る」


 リィンは何も言わず、扉の前に封印針を一本置いた。


 青い線が扉の縁へ細く走り、内側からの暴発を抑える。


「次に開ける時、わかりやすい」


「助かる」


 シェラは扉の文字を記録しながら告げた。


「到達地点、換気塔下部。外光確認。外気流入確認。地上接続可能性、高」


 セイルは石板を抱え、目に涙を浮かべていた。


「本当に……繋がっている……」


 バルザは扉の隙間から流れる風を吸い込んだ。


「草だな。あと、獣の匂い。遠くに水もある」


「人は?」


「今のところ、薄い。近くに街はなさそうだ」


 透はその情報を胸に置いた。


 地上へ出るなら、いきなり王都ではない。

 森か、廃坑か、旧道か。

 人里から少し離れた場所。


 それでいい。


 王国の目が届きにくい場所の方が、こちらには都合がいい。


 透は扉に手を触れた。


 冷たい鉄。

 隙間から入る風。

 細い光。


 落とされた日から、ずっと上は遠かった。


 今、その上が扉一枚の向こうにある。


 それでも、透は扉を開けなかった。


 背後には、戻るべき場所がある。

 水を待つ者。

 地図を待つ者。

 空を知らない子ども。

 外へ出ることを怖がりながら、それでも見たいと願う者。


 最初に開ける時は、彼らへ伝えてからでいい。


 透は手を離した。


「戻る」


 声は静かだった。


 けれど、誰も反対しなかった。


 帰り道、風は背中を押していた。


 崩落地点では、透が置いた帰灰標がしっかり灯っていた。

 黒鎖を張り直し、全員を渡す。

 石粉蛾は出たが、黒炎皿の残り火で散った。


 排泥路へ降りると、湿った空気が戻ってくる。


 奈落の匂い。


 だが、それだけではなくなっていた。


 透たちは、上の風を知った。


 灰置き場に戻ると、ルカが真っ先に走ってきた。


「どうだった?」


 透は少し膝を曲げ、ルカの目線に合わせた。


「風があった」


「風?」


「草の匂いがした」


 ルカの目が大きく開く。


「草って、上にあるやつ?」


「ああ」


 イーシャが骨札を落としそうになった。


「外……近いんですか」


「扉があった。今日は開けてない」


 ケイルが息を呑む。


「開けなかったのか」


 透は頷いた。


「次に行く時、準備して開ける」


 ガルドは石板を受け取り、報告を黙って聞いた。


 セイルが換気塔下部、外部排気口、封鎖扉、崩落地点の位置を書き込んでいく。

 シェラが外光確認の記録を追加する。

 リィンは扉に置いた封印針の位置を刻む。

 バルザは外気の匂いについて短く補足した。


 地図が伸びた。


 灰置き場から浄水室へ。

 排泥路へ。

 廃棄昇降路へ。

 崩落地点を越え。

 換気塔下部へ。


 その先に、小さく文字が刻まれる。


 外部排気口。


 誰も騒がなかった。


 けれど、炉の前に集まった者たちの顔には、明らかに別の光があった。


 ルカは草の匂いという言葉を何度も小さく繰り返している。

 イーシャは自分の足を見下ろし、指先で骨札を撫でた。

 ケイルは壁を見つめたまま、唇を固く結んでいる。

 ダンは水瓶の横で、しばらく目を閉じていた。


 ネイラは黒炎皿を受け取り、残った火を見て言った。


「雑には使わなかったようだな」


「使いやすかった」


「当然だ」


 そう言いながら、彼女の口元は少しだけ緩んでいた。


 ガルドが石板に最後の線を刻む。


「次は、扉を開ける準備だ」


 透は腰の灰骸刀に触れた。


 鞘の中の刃は静かだ。

 昇降路で死んだ罠を斬った後も、暴れていない。


 上へ出れば、奈落の魔物とは違う危険が待っている。


 人間。

 商会。

 冒険者。

 騎士。

 神殿。


 灰骸刀を抜く相手が、魔物だけとは限らない。


 透は炉の光を見た。


 この場所を置いていくわけではない。


 ここから出る。


 そして、戻ってこられる道を残す。


 そのための扉が見つかった。


 灰置き場の空気は、いつもより少し軽かった。


 奈落の底に、上の風が混じり始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ