第50話 灰刃の眠る庫
旧式保守警備機構の胸核は、すぐには開かなかった。
シェラは炉のそばに膝をつき、片腕を失った自動人形の胸部装甲へ指を差し込んでいる。
青白い右目が、時折強く光った。
セイルは隣で術式石を構え、震える手で記録を写していた。
「記録核、破損しています。外側の警備命令はトオルさんが喰ってくれたので静かですが、内側の保守記録が癒着していて……」
「癒着?」
透が聞くと、シェラが答えた。
「地図、警備経路、武装庫認証、破損報告が混線。読み取りには分離が必要」
ガルドが腕を組む。
「武装庫認証と言ったか」
「言った」
シェラは自動人形の胸核から薄い金属片を引き抜いた。
表面には、古い灰文字が刻まれている。
半分以上削れていたが、いくつかの語は読めた。
セイルが息を呑む。
「番人補助武装庫……灰路保守刃……第七格納……」
バルザが牙を見せる。
「武器庫か」
その言葉に、灰置き場の空気が変わった。
水。
食料。
道。
防壁。
それらに続いて、武器。
今の灰置き場に足りないものの一つだった。
透は金属片を見た。
「場所は」
シェラは胸核に残った細い線を読み取りながら、石板へ投影するように指を動かした。
廃棄昇降路。
踊り場。
その横に、細い脇道が一つ浮かび上がる。
「昇降路第一踊り場の側面。封鎖済み小武装庫。警備機構一体、停止済み。内部状態、不明」
「昨日の踊り場か」
透は呟いた。
昨日、自分たちが帰灰標を置いて戻った場所。
あそこに、脇道があった。
灰域では感じていた。
ただ、崩れた壁か空洞だと思っていた。
そこが武装庫なら、確認する価値はある。
ガルドはすぐに言った。
「行くなら少人数だ」
「ああ」
透は頷く。
「俺、リィン、シェラ、セイル。バルザは入口まで。武器庫内は狭い可能性がある」
バルザが不満そうに鼻を鳴らす。
「俺は外で番犬か」
「番犬というより壁だ」
「ならいい」
リィンは透を見た。
「今日は、何を決めてる?」
止める言葉ではなかった。
確認する言葉。
透は自分の体の状態を測る。
昨日、帰灰標を三つ設置した。
警備機構の命令を喰った。
灰瞬壁を数回使った。
左手の傷はほぼ閉じている。
胸の灰は落ち着いている。
「戦闘は避ける。目的は場所確認と、持ち帰れる記録の回収。武器があっても、危険なら触らない」
バルザがにやりと笑う。
「本当に触らないでいられるか?」
「危険ならな」
「危険じゃなかったら?」
透は少しだけ間を置いた。
「必要なら、持ち帰る」
リィンはその答えに頷いた。
「うん」
シェラが立ち上がる。
「同行を要求。番人補助武装庫への認証補助が可能」
「歩けるのか」
「歩行可能。右腕損傷は継続。ただし移動速度、低」
「バルザ」
「担ぐか?」
シェラはバルザを見た。
「担搬、許可」
「許可制かよ」
バルザは笑いながら、シェラを片腕で軽く担ぎ上げた。
壊れた機兵少女は抵抗しない。
ただ、胸元の核を庇うように左手を置いている。
ネイラは壁際からその様子を見ていた。
「武器か。地上へ出る準備らしくなってきたな」
「まだ地上じゃない」
透が言うと、ネイラは赤黒い目を細めた。
「だが、上へ向かうんだろ」
「ああ」
「なら、武器は要る。地上の連中は、言葉より先に刃を見る」
その声には実感があった。
魔王軍に捨てられ、王国側に狩られ、奈落へ落とされた少女の実感。
透は頷く。
「見てくる」
「使えそうなら、持って帰れ」
「そうする」
イーシャは骨札を抱えたまま、不安そうに聞いた。
「あの……危なくないんですか」
「危ない」
透は正直に答えた。
「でも、戻る印は置いてある。深くは行かない」
イーシャは少しだけ驚いた顔をした。
危なくない、と誤魔化されなかったことに。
ルカが隣で胸元の小型灰印を押さえた。
「帰灰標、光ってる?」
「ああ。昨日置いた三つ、全部見える」
「じゃあ、戻れるね」
「戻る」
透が言うと、ルカは安心したように笑った。
排泥路を抜け、廃棄昇降路へ向かう道は、昨日よりはっきり見えた。
帰灰標が壁に薄く灯っている。
排泥路入口。
昇降路手前。
踊り場手前。
灰域の中で、それらは小さな火のように感じられた。
戻る方向を示し、距離を教え、灰の流れを細く繋ぐ。
透は歩きながら、自分の体が以前より静かに動いていることに気づいた。
足場の悪い泥道でも、足を取られない。
少し崩れた石段も、重心が勝手に整う。
高く跳ぶ必要はない。強く踏む必要もない。
必要な分だけ力を置く。
それを、体が覚え始めている。
バルザが前を歩きながら言った。
「足音が変わったな」
「そうか」
「前は強くなった分、床を踏み殺してた。今は沈まない」
「褒めてるのか」
「かなりな」
ガルドなら別の言い方をしただろう。
だが、バルザの言葉はわかりやすかった。
自分は、少しずつ力を持つだけではなく、力を置くことを覚えている。
踊り場に着くと、昨日停止させた警備機構の跡が残っていた。
そこから右側の壁を見れば、確かに亀裂がある。
ただの崩落跡ではない。
壁の奥に、灰を拒む薄い封印が張られている。
リィンが封印針を構えた。
「古い封鎖」
セイルが術式石を近づける。
「武装庫の安全封印です。認証なしに開けると、中の武装を破棄する仕組みかもしれません」
「壊すのはまずいな」
透は壁へ手を伸ばす。
灰はまだ通さない。
まず、灰域で封印の輪郭を見る。
青い封印線。
灰色の認証路。
その奥に、黒く死んだ警備命令。
リィンが横に立つ。
「トオルの灰と、私の封印を重ねる」
「どっちが先だ」
「私が封鎖を開く。トオルは認証路に灰を通す。喰わない。起こすだけ」
「わかった」
セイルが震えながら補足する。
「シェラさんの機兵認証も使えます。番人補助武装庫なら、番人本人と補助機兵の二重認証で開くはずです」
シェラはバルザの腕から下ろされ、壁の前に立った。
胸元の欠けた核が青白く光る。
「番人補助機兵、シェラ。認証要求」
壁の奥から、かすれた音が返ってきた。
古い歯車が回るような音。
透は壁に左手を置いた。
灰を流す。
喰わない。
ただ、死んだ認証路に灰を通し、眠っていた文字を起こす。
壁に刻まれた灰文字が、一つずつ浮かび上がった。
――灰の番人、認証。
――補助機兵、認証。
――第七格納、開放。
リィンが封印針を軽く回す。
青い線が壁の封鎖をほどいた。
次の瞬間、壁が内側へ沈んだ。
灰と錆の匂いが流れ出す。
武装庫の中は、狭かった。
大きな部屋ではない。
石壁に金属棚が並び、半分以上が崩れている。
槍、短剣、手甲、弩、鎖、盾。どれも古く、欠け、朽ち、使える状態ではなかった。
だが、透にはわかった。
死んではいるが、ただの廃材ではない。
それぞれが、かつて灰の番人や保守員のために作られた武装だった。
灰を通すための溝。
呪いを切るための刻印。
暴走した機構を止めるための灰路。
セイルは息を呑んだ。
「これだけの武装が……」
バルザは棚を見回し、少し残念そうに言った。
「俺が使えそうな大物はなさそうだな」
「これは番人用。重さより、灰路の精密さを重視した武装」
シェラが答える。
透は奥へ進んだ。
灰域の中で、一つだけ濃い反応がある。
部屋の最奥。
倒れた棚の下。
黒い布に包まれた長いもの。
透は瓦礫をどけようとして、手を止めた。
無造作に掴めば壊れるかもしれない。
力を絞る。
瓦礫の端に指をかけ、必要な分だけ持ち上げる。
石片と金属片を崩さず、横へずらす。
バルザが感心したように見る。
「昨日ならまとめて砕いてたな」
「たぶんな」
透は黒い布を引き出した。
布は触れただけで灰になりかけるほど古い。
だが、中のものはまだ形を保っていた。
刀だった。
異世界の剣とは違う。
片刃。
わずかに反った細身の刃。
柄は長めで、鍔は小さい。
ただし、刃は半ばで折れていた。
残っている金属は黒灰色にくすみ、刃文のような線は灰で埋まっている。
柄巻きは朽ち、鞘も割れていた。
壊れている。
普通なら、武器としては終わっている。
だが、透の灰が反応した。
胸の奥が、低く鳴る。
右腕の灰殻手甲ではない。
黒鎖でもない。
灰杭の荒い熱でもない。
もっと静かで、鋭い感覚。
刃の欠けた断面が、透の灰を待っている。
シェラが右目を強く光らせた。
「識別。灰路保守刃、第七番。破損率、七十一。番人使用武装。登録名、欠損」
セイルが石板をめくる。
「灰路保守刃……死んだ魔力の癒着、呪詛線、暴走術式を切断するための番人用片刃武装……」
リィンが静かに刀を見る。
「トオルに反応してる」
透は刀を持ち上げた。
軽い。
いや、軽すぎる。
刃が半分ないからではない。
重さの中心が、透の手に合わせて変わっているようだった。
柄は朽ちているのに、握った瞬間、手に馴染む。
透は灰を流しかけた。
その瞬間、刃の折れた断面から、黒灰色の粒子が立ち上った。
灰が、刃の形を作ろうとする。
欠けた部分が、一瞬だけ伸びた。
刀身の先に、灰の刃が生まれる。
だが、すぐに崩れた。
透は灰を引いた。
無理に伸ばさない。
まず、状態を見る。
刃の芯は残っている。
灰路も死んでいない。
ただ、長く放置され、認証名が欠けている。
名前がない。
透はそう感じた。
リィンが問う。
「使う?」
「まだ使わない」
透は答えた。
「持ち帰る。炉の前で見る。ここで無理に起こすと壊れる」
バルザが笑った。
「自分で止まるのが上手くなったな」
「壊したくないだけだ」
「それが大事なんだろ」
透は刀を見る。
壊れた刃。
でも、終わっていない。
それは、灰置き場にいる者たちと似ていた。
落とされ、捨てられ、壊れかけたもの。
それでも、まだ使える。
まだ立てる。
名前を取り戻せば、また形になる。
透は刀を黒布ごと包み直した。
その時、棚の奥から小さな音がした。
かたり。
リィンが封印針を構える。
バルザが前へ出る。
透は刀を抱えたまま、灰域を伸ばす。
棚の奥に、小型の防衛機構が一つ残っていた。
蜘蛛のような形。
刃を守るための番兵だろう。
片方の脚が折れているが、まだ動く。
その胸に赤い点が灯る。
透は動かなかった。
蜘蛛型番兵が針を射出する。
狙いは、刀を持つ透の手。
透は手を使えない。
刀を落とせば、刃が壊れるかもしれない。
だから、手は動かさなかった。
灰域で針の軌道を読む。
刀の柄を狙う一本。
手首を狙う一本。
リィンの肩へ向かう一本。
透は立ったまま、三つの小さな灰壁を出した。
音もなく。
針はそれぞれ、触れる直前で逸れた。
一本は壁へ。
一本は床へ。
一本は蜘蛛型番兵自身の脚へ刺さる。
番兵が崩れた。
バルザが目を細める。
「手を塞がれてても、それか」
透は蜘蛛型番兵を見下ろす。
「反射で少し出た」
「いや、今のは判断してた」
リィンが言う。
「リィンの肩への針だけ、強めに逸らした」
「見えてたからな」
それだけの会話だった。
だが、武装庫の空気が少し変わった。
シェラは透を見上げる。
「灰瞬壁、無手展開安定率上昇。番人武装保持状態でも防御可能」
「記録してくれ」
「記録済み」
セイルは蜘蛛型番兵を調べ、残った警備命令を石板に写した。
「これ以上動くものは、見当たりません」
「回収できるものは」
透が聞くと、シェラが棚を指した。
「灰導石片、三。小型灰路板、二。破損手甲部品、一。刀以外の武装は修復困難」
「持ち帰る」
バルザが袋を出し、使えそうな部品を集めた。
透は最後に、武装庫の奥を見た。
棚に並ぶ壊れた武器たち。
どれも、役目を終えたまま眠っていた。
全部は持ち帰れない。
全部は直せない。
だが、使えるものは拾う。
透は壁に小さな灰標を残した。
いつかまた来るために。
灰置き場へ戻ると、炉の周りに自然と人が集まった。
透が抱えているものを見て、誰もすぐには声を出さなかった。
黒布をほどく。
折れた片刃の刀が、炉の光を受けて鈍く光る。
ネイラが目を細めた。
「妙な刃だな。死んでいるのに、まだ噛みつきそうだ」
ガルドは静かに頷いた。
「剣ではないな」
「刀に近い」
透は答えた。
その言葉は自然に出た。
日本にいた頃に知っていた刀とは違う。
だが、反りと片刃の形が、記憶の奥にあるものと重なる。
ルカが興味津々で覗き込む。
「トオルの武器?」
「まだわからない」
シェラが即座に言う。
「番人用武装。適合率、高」
「わかるんだな」
「反応が明確」
リィンは刀身の折れた先を見ていた。
「名前が欠けてる」
「俺もそう感じた」
透は刀を両手で持ち、炉の前に座った。
右腕はまだ完全ではない。
だが、刀を支えるだけなら問題ない。
灰を流す。
ほんの少し。
刀身の折れた断面から灰が立つ。
今度は崩れない。
細く、薄く、折れた先へ伸びる。
灰の刃が、欠けた部分を補った。
完全な刃ではない。
まだ揺れている。
斬ればすぐ崩れるかもしれない。
それでも、刃の形になった。
炉の周りが静まり返る。
透はその刀を見つめ、言った。
「灰骸刀」
刃が、かすかに鳴った。
名前を受け取ったように。
シェラの右目が強く光る。
「登録名更新。灰路保守刃第七番、仮称改め、灰骸刀。使用者、灰の番人トオル」
バルザが牙を見せた。
「いい名だ」
ネイラも小さく言う。
「似合っている。壊れた刃を拾うお前には」
リィンは透の横に座り、灰の刃を見つめていた。
「無理に伸ばさないで」
「わかってる」
「でも、使える」
「ああ」
透は灰骸刀を鞘代わりの黒布に戻した。
まだ本格的に振る時ではない。
だが、確かに手に入れた。
右腕には灰殻手甲と黒鎖。
体には皮膚下の灰層。
掌には灰瞬壁。
そして、腰には壊れた片刃の灰刀。
透の戦い方が、少しずつ形を持ち始めている。
ガルドが石板に新しい項目を刻んだ。
番人武装庫。
灰骸刀、回収。
灰導石片、三。
小型灰路板、二。
破損手甲部品、一。
地図だけではない。
装備も増えた。
上へ向かう準備が、また一つ進んだ。
透は灰骸刀を腰に仮留めした。
まだ鞘はない。
柄も直さなければならない。
刃も安定していない。
それでも、腰にあるだけで空気が変わった。
灰置き場の者たちはそれを見ていた。
壊れた刀を拾い、名を与え、灰で刃を戻した少年。
彼がいつかその刃を抜く時、何かが終わるのだと、誰もが自然に感じた。
透自身も、その重さを感じていた。
これは、ただの武器ではない。
壊れたものを拾い、もう一度役目を与えるための刃。
灰骸刀は、まだ静かに眠っている。
だが、その眠りはもう、捨てられたものの眠りではなかった。




