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第49話 上へ向かう準備

 上へ続く道が見つかった。


 その知らせは、灰置き場の中を静かに広がっていった。


 誰かが大声で叫んだわけではない。

 ガルドが石板に新しい線を刻み、セイルが廃棄昇降路の文字を写し、ルカが水番の札を並べる手を止めただけだ。


 それでも、伝わる。


 奈落の底にいる者たちは、上という言葉に敏感だった。


 地上ではない。

 出口でもない。

 ただの古い保守路かもしれない。


 それでも、今まで黒い天井しかなかった場所に、斜め上へ伸びる線が刻まれた。


 それだけで、人の心は揺れた。


 石板の前に、少しずつ人が集まる。


 焼き印の少年。

 耳長の老人。

 水番になったダン。

 足を引きずるイーシャ。

 傷が癒えきっていないケイル。


 誰も口にしない。


 だが、全員の目が同じ場所を見ていた。


 廃棄昇降路。


 上へ向かうかもしれない道。


 ケイルが乾いた唇を開いた。


「そこを通れば……出られるのか」


 セイルはすぐには答えられなかった。


「わかりません。廃棄昇降路は上層保守区へ続いていた可能性があります。ただ、崩落しているかもしれませんし、魔物が巣にしている可能性も高いです」


「でも、道なんだろ」


 ケイルの声が少し荒くなる。


「ここにいるより、上へ行けるなら……」


 その言葉に、数人が反応した。


 喉の奥で息を呑む音。

 足を一歩前へ出す気配。

 期待と恐怖が混ざったざわめき。


 透は黙ってそれを聞いていた。


 止めるのは簡単だ。


 危ない。

 無理だ。

 待て。


 そう言えばいい。


 だが、その言葉だけでは、ここにいる者たちの渇きは収まらない。


 水が欲しい者に、水を見るなと言っても無理なように。

 上へ行きたい者に、上を見るなと言っても無理だ。


 透は石板の前に立った。


 ざわめきが静まる。


「行きたいなら、気持ちはわかる」


 透は言った。


「俺も、上には行きたい」


 意外だったのか、ケイルが目を見開いた。


 透は続ける。


「でも、今すぐ全員で行けば死ぬ。道の幅も、崩落の有無も、水場も、魔物の種類もわからない。戻る目印もない。上へ向かったつもりで、戻れない穴に入るだけになる」


 誰も言い返さなかった。


 透の声は強くない。


 だが、逃げ道を潰すような圧があった。


「行くなとは言わない」


 透はそう言った。


「この場所は牢じゃない。ここにいる者を所有しないと決めた。だから、出たい者を鎖で止めるつもりはない」


 イーシャが顔を上げる。


 その言葉は、彼女にも向けられていた。


「でも、戻る道を持たずに行かせるつもりもない」


 透は石板の廃棄昇降路を指差した。


「行くなら、道を調べる。水を持つ。灰標を置く。戻る場所を作る。危険なら引く。焦って進むのは、勇気じゃない」


 ケイルの拳が震えた。


「じゃあ……いつだ」


「偵察からだ」


 透は答えた。


「今日、排泥路の入口に灰標を置く。明日以降、昇降路を少しずつ見る。一度に進む距離を決める。戻れる場所を増やしてから、上へ行く」


 ガルドが頷く。


「妥当だ」


 ケイルはまだ何か言いたそうだった。


 だが、イーシャが小さく彼の服を掴む。


「ケイルさん」


 その声に、ケイルは歯を食いしばった。


 しばらくして、力が抜ける。


「……悪い。焦った」


 透は首を振った。


「焦るのは悪くない。勝手に走らなければいい」


 ケイルは深く息を吐き、頷いた。


 その場の空気が少しだけ落ち着く。


 透は石板へ向き直った。


「準備を始める」


 その一言で、灰置き場が動き出した。


 ガルドは廃材を集め、携行用の骨杭を選別する。

 セイルは排泥路と昇降路の古い術式を写し、崩落しやすい箇所の印を調べる。

 シェラは灰標の小型化について記録を引き直し、炉の灰を細かく分け始める。

 ルカは小型灰印を胸元に抱え、水路から戻る道の感覚を確かめる。

 ネイラは黒炎標の火を細く分け、持ち運び用の黒炎皿を作れないか試していた。


 バルザは透の横に立ち、腕を組む。


「いよいよ上か」


「まだ上じゃない」


「わかってる。だが、匂いは近づいた」


「匂い?」


「地上の匂いだ」


 バルザの牙がわずかに見える。


「血と金と嘘の匂いがする」


「嫌な匂いだな」


「嫌な場所ほど、強い奴がいる」


 透は少しだけ目を細めた。


 地上。


 王国。

 神殿。

 商会。

 ギルド。


 そこには、自分を落とした者たちがいる。


 イーシャを商品と呼ぶ者たちがいる。


 ケイルを追い、黒鞭を振るう者たちがいる。


 そして、クラスメイトたちもいる。


 透はまだ、彼らと再会する自分をはっきり想像できない。


 だが、落とされた日のように震える自分ではないことだけは、もうわかっていた。


「透」


 リィンが近づいてきた。


 その手には、青い封印針と、小さな灰布がある。


「排泥路に置く灰標、作る?」


「ああ。普通の灰標だと水気で流れる。壁に食い込ませる形にしたい」


「封印針で留める」


「頼む」


 リィンは頷いた。


 そこに、止める言葉はなかった。


 透が進むと決めたから、支える。


 ただそれだけだった。


 シェラが炉のそばから声を上げる。


「小型灰標試作、可能。素材、炉灰、腐水腕骨粉、浄水室灰砂、灰導石粉末少量」


「持ち運べるか」


「可能。ただし逆流防止処理が必要。リィンの封印補助を推奨」


 リィンがすぐに頷く。


「やる」


 透は炉の前に座った。


 灰を掌に集める。


 以前、バルザの灰印を作った時とは感覚が違う。


 あの時は、戻る道を持たせるためだった。

 今度は、場所そのものを固定する。


 道標。


 触れた者を縛らず、痛みも命令も送らない。

 ただ、ここへ戻れると知らせる印。


 透は灰を丸める。


 炉の灰を芯に、腐水腕骨粉で硬さを作り、浄水室の灰砂で水気に流されにくくする。そこへ、灰導石の粉をほんの少しだけ混ぜる。


 入れすぎれば、透の灰と繋がりすぎる。


 少なく。


 細く。


 必要な時だけ反応するように。


 リィンが青い封印針を近づけ、灰の表面に細い線を刻んだ。


「逆流しないようにする」


「頼む」


「これは、トオルを引っ張る印じゃない」


「ああ」


「戻る場所を示す印」


「わかってる」


 灰の小片が、ゆっくり固まる。


 親指の爪ほどの大きさ。

 色は淡い灰色で、中心に黒い点がある。


 透はそれを掌に乗せた。


 皮膚の下の灰が反応する。


 繋がりすぎない。

 けれど、完全には切れていない。


 ちょうどいい。


「名前」


 シェラが言った。


「まだ言ってないだろ」


「予測待機中」


 透は少し考えた。


 灰標より小さく、灰印より場所に寄る。


 戻るための印。


帰灰標(きかいひょう)


 シェラの右目が光る。


「帰灰標、登録。携行・設置兼用小型灰標。機能、帰還方向感知、局所灰域補助、逆流制限付き」


 バルザが覗き込む。


「俺の灰印とは違うのか」


「バルザの灰印は、お前が持って動く。これは場所に置く」


「道を増やすわけだ」


「ああ」


 ガルドが低く言う。


「これが増えれば、行動範囲が広がる」


「増やしすぎると負荷が増える」


 透は自分で言った。


「だから、最初は三つ。排泥路入口、昇降路手前、外縁への戻り角」


 リィンが静かに頷く。


「自分で数を決めた」


「今の俺なら、それ以上は多い」


「うん」


 その返事には、安心があった。


 透は帰灰標を三つ作った。


 一つ作るたび、胸の奥の灰が少しだけ動く。

 だが、乱れはない。灰巡が静かに補っている。


 まだ、無限に作れるわけではない。


 けれど、以前より消耗が穏やかだった。


 灰が体の中で巡り、使った場所へ少しずつ戻ってくる。


 完全な自己補完には遠い。


 だが、兆しはある。


 透はその感覚を記憶に留めた。


 焦らなくていい。


 いずれ、灰はもっと自然に巡るようになる。


 今は、使いすぎないことを覚える段階だ。


 準備が整うと、透たちは排泥路へ向かった。


 同行するのは、透、リィン、バルザ、セイル。

 今回は戦闘が目的ではない。帰灰標の設置と、昇降路手前の安全確認。


 水路は昨日より安定していた。


 黒泥の流れは細くなり、排泥路の蓋もリィンの封印で落ち着いている。

 透は一つ目の帰灰標を排泥路入口の壁に押し当てた。


 灰が壁へ染み込む。


 小さな点が灯る。


 透の灰域の中に、そこだけはっきりとした戻りの感覚が生まれた。


「一つ目」


 セイルが石板に記録する。


 排泥路の中は狭い。


 昨日倒した排泥人形の残骸は片づけてあるが、まだ泥の匂いは濃い。バルザは前を歩き、足場を確かめながら進む。


 昇降路手前の広がりに着くと、空気が変わった。


 冷たい。


 上から風が降りてきている。


 ほんのわずかだが、流れがある。


 バルザが鼻を鳴らした。


「風だ」


 セイルの顔が変わる。


「完全に塞がってはいない……どこかへ繋がっています」


 透は階段を見上げた。


 崩れかけた石段。

 泥に埋もれた手すり。

 壁に刻まれた古い保守文字。


 上へ。


 暗闇の先に、道が続いている。


 透は二つ目の帰灰標を昇降路手前の壁へ設置した。


 壁がかすかに震える。


 帰灰標が定着する。


 その瞬間、階段の奥で何かが鳴った。


 かん。


 金属音。


 バルザが即座に前へ出る。


「何かいる」


 透も灰域を上へ伸ばした。


 階段の三十段ほど上。

 崩れた踊り場。

 そこに、細い影が立っている。


 人ではない。


 古い保守用の自動人形。


 片腕がなく、胴体は割れ、顔の半分が欠けている。

 だが、手には細い投射器のようなものを持っていた。


 セイルが青ざめる。


「保守警備機構……! まだ動くのか……」


 自動人形の胸に、赤い点が灯った。


 投射器がこちらへ向く。


 次の瞬間、金属針が放たれた。


 速い。


 昨日の骨針よりずっと速い。


 バルザが避けるには狭い。

 セイルは反応できない。

 リィンの封印針も間に合わない。


 透は立ったまま、灰域で針の軌道を読んだ。


 自分へ向かう針は、肩をかすめる。

 バルザへ向かう針は、彼なら耐えられる。

 セイルの喉へ向かう一本だけが危険。


 透は手を上げなかった。


 昇降路手前に置いたばかりの帰灰標を起こす。


 そこから薄い灰を立て、セイルの喉の前に小さな壁を置く。


 金属針が灰壁に当たった。


 完全には止まらない。


 だが、角度がずれる。


 針はセイルの襟を裂き、後ろの壁に刺さった。


 セイルは腰を抜かしかける。


 透はそのまま階段の上を見る。


 自動人形が二射目を準備している。


 ここで退くこともできる。


 目的は設置だ。

 もう二つ目は置いた。

 無理に戦う必要はない。


 だが、このまま放置すれば、次に来る時も危険だ。


 透は自分の状態を測る。


 帰灰標を二つ設置した。

 灰瞬壁を一度使った。

 胸の熱は軽い。

 左手は自由。

 右腕は使わない。


 行ける。


 短く。


 確実に。


「バルザ、階段を壊すな」


「おう」


「リィン、動きを止めてくれ。セイルは下がる」


 透は階段へ踏み出した。


 その一歩は静かだった。


 だが、速い。


 泥の階段を蹴り、崩れた段差を越え、二射目の針が放たれる前に距離を詰める。


 自動人形が投射器を動かす。


 透は左肩の前に灰瞬壁を出した。


 針が逸れる。


 同時に、リィンの封印針が青い線を伸ばし、自動人形の足元を縫った。


 動きが一瞬止まる。


 透はその隙に、左手を自動人形の胸へ当てた。


 壊さない。


 必要な部分だけ。


 胸の奥にある警備命令の灰を探る。


 侵入者排除。

 保守区保護。

 未登録者、射殺。


 死んだ命令だ。


 透はそれだけを喰った。


 自動人形の赤い点が消える。


 投射器が床へ落ちる。


 人形はその場に崩れず、膝をついた。


 透は手を離す。


「眠れ」


 自動人形は、音もなく動きを止めた。


 バルザが階段下から見上げていた。


「相変わらず、力任せじゃねえな」


 透は自動人形の胸を見た。


「壊すと、上の警備機構が反応するかもしれない」


「そこまで考えてたのか」


「半分は勘だ」


「いい勘だ」


 セイルが震えながら階段を上がってくる。


「警備命令を……消したんですか」


「ああ。動力は残した。記録が読めるかもしれない」


 セイルの目が変わった。


「読める可能性があります。保守区の地図が残っていれば……」


「持ち帰れるか」


 バルザが自動人形を持ち上げる。


「軽いな。片腕分、欠けてるからか」


「壊すなよ」


「わかってる」


 透は踊り場から先を見た。


 階段はさらに上へ続いている。


 途中で崩れてはいるが、風は確かに降りてきている。


 その風は、灰置き場の炉とも、水路の腐った空気とも違った。


 乾いている。


 古い石と鉄と、遠い土の匂いがした。


 透はしばらくその先を見ていた。


 行ける。


 そう思った。


 今なら、もう少しだけ進める。


 しかし、透は進まなかった。


「今日はここまで」


 自分で言った。


 リィンは何も言わない。


 バルザも笑わない。


 セイルだけが少し名残惜しそうに上を見たが、すぐに頷いた。


 透は三つ目の帰灰標を踊り場の手前に設置した。


 これ以上は進まない。


 だが、次に来る時の戻る場所を作る。


 帰灰標が壁に定着し、灰域の中に三つ目の灯りが生まれた。


 排泥路入口。

 昇降路手前。

 踊り場手前。


 戻る道が増えた。


 それだけで、今日の成果として十分だった。


 灰置き場へ戻ると、自動人形を見たシェラの右目が強く光った。


「旧式保守警備機構。解析可能」


「使えるか」


 透が聞くと、シェラは膝をついて人形の胸を覗き込んだ。


「損傷大。ただし記録核、残存可能性あり。修復すれば、昇降路の一部地図を取得できる可能性」


 灰置き場に小さなどよめきが起きる。


 地図。


 上へ続く道の地図。


 透は石板の前に立った。


 ガルドが新しい線を刻む。


 廃棄昇降路の先に、小さな踊り場が追加された。


 そこに、帰灰標の印が三つ並ぶ。


 地図が伸びた。


 ほんの少し。


 だが、確かに。


 ケイルがそれを見て、深く息を吐いた。


「本当に、少しずつ行くんだな」


「ああ」


 透は答えた。


「戻れる場所を作りながら進む」


 イーシャが石板を見つめる。


「じゃあ……上に行っても、帰ってこられるんですね」


「そのために印を置く」


 透は言った。


「上へ行くためじゃない。戻ってこられるようにするためだ」


 その言葉に、灰置き場の者たちは黙った。


 上へ行く。


 それは希望だ。


 けれど、戻る場所がある。


 それは希望よりも、もっと確かなものだった。


 透は自動人形の胸核を見た。


 セイルとシェラが解析を始めている。

 リィンはその横で封印針を用意し、万が一の暴走に備えている。

 バルザは外縁に戻り、ネイラは黒炎標の火を調整している。


 全員が動いている。


 透は左手を見る。


 今日は、誰かに止められなかった。


 自分で進み、自分で止まった。

 必要なだけ戦い、必要な場所で戻った。


 それでいい。


 今はまだ、上への道は細い。


 だが、焦らず太くすればいい。


 灰置き場は、もうただの穴ではない。


 水を持ち、掟を持ち、地図を持ち、戻る印を持ち始めた。


 透は石板の新しい線を見つめる。


 奈落の底から、上へ向かう最初の線。


 その線はまだ短い。


 けれど、その先へ進む者の目は、もう俯いていなかった。


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