第44話 手を離れた壁
灰瞬壁は、便利だった。
それはすぐにわかった。
便利だからこそ、危なかった。
透は炉のそばに座り、左手を開いていた。
掌の皮膚の下には、薄い灰の筋が走っている。昨日、骨片を止めた時より少しだけ濃い。灰が新しい動きを覚えようとしている証拠だった。
リィンはその掌を見て、眉を寄せた。
「まだ濃い」
「痛みはない」
「痺れは?」
「少し」
「それは痛みの仲間」
「ずいぶん広いな、痛みの仲間」
「トオルは狭く考えすぎ」
透は返す言葉を失った。
確かに、最近の自分は痛みへの感覚がずれている。
刃が通らなければ大丈夫。
骨が折れなければ大丈夫。
血が止まれば大丈夫。
灰巡で戻るなら大丈夫。
そう考え始めている。
だが、リィンはそれを許さない。
彼女にとっては、透が壊れずに戻ってくることが最優先なのだ。
シェラが炉の横で右目を光らせる。
「灰瞬壁、前回使用後の残留灰圧、低下中。追加訓練は可能。ただし連続展開数、三以下を推奨」
「二以下」
リィンが即座に訂正した。
「三以下」
「二」
「折衷案、二・五」
「半分は何」
「未定義」
「じゃあ二」
シェラは少し沈黙した後、淡々と告げた。
「本日使用回数、二に制限」
透は思わず苦笑した。
「俺の技なのに、俺より二人が決めてる」
「トオルに任せると増える」
リィンが言う。
シェラも頷く。
「同意」
「信用がない」
「ある。だから制限する」
昨日も聞いたような言い方だった。
透は左手を閉じる。
皮膚の下の灰が、ゆっくり沈んだ。
灰瞬壁は掌の前に出る。
骨片を止めた。
水管から飛んだ破片も防いだ。
だが、あれでは遅い場面がある。
手を向けられない時。
背後から来る時。
両手が塞がっている時。
近くにいる誰かを守りたい時。
いずれは、手を使わずに出したい。
ただ意識するだけで。
灰域で危険を拾った瞬間、その場所に壁が立つように。
透はそう考えたが、口にはしなかった。
言えば、リィンに今日の訓練を止められる気がした。
しかし、リィンは透の顔を見ただけで言った。
「手を使わずに出そうとしてる?」
「……まだ何もしてない」
「考えてる」
「考えるだけなら」
「考えたら、やる」
「そこまで読まれてるのか」
「読める」
リィンは少しだけ胸を張った。
透は降参するように息を吐く。
「手を使えない時もあるだろ」
「ある」
「その時に防げないと困る」
「だから、いつかは必要」
「なら」
「今日はだめ」
早かった。
透が言い返す前に、リィンは続ける。
「まず掌で安定させる。次に腕を動かさずに掌の前。次に体の近く。順番」
ガルドが近づきながら頷いた。
「その通りだ。防御は焦ると穴になる。自分が信じた壁が出ない時が一番危ない」
バルザが肩を回しながら笑う。
「とはいえ、意識だけで壁が出るようになれば便利だな。俺が殴りかかっても勝手に止まるかもしれん」
「お前の拳を勝手に止めたら、灰壁が壊れる」
「そのうち止めろ」
「簡単に言うな」
ネイラは黒炎標のそばで腕を組んでいた。
「手を使わずに出せるなら、火の飛び散りも防げるな」
「試さない」
リィンが言う。
「今は、だろ」
「今も後も、慎重に」
「面倒だな」
「守る力だから」
ネイラは少しだけ黙った。
守る力。
その言葉を、彼女は嫌そうにしながらも否定しなかった。
灰置き場では、水番の作業が続いている。
ダンは昨日より手際がよくなっていた。
水管から落ちる水を灰布で受け、骨片が混じっていないか確認し、小さな器に分ける。
ルカはその隣で水音を聞き、少しでも変な響きがあれば顔を上げる。
イーシャはまだ歩けないが、壁際で座って水番の様子を見ていた。
怯えは残っている。
それでも、昨日より目が動くようになっている。
自分の居場所を探している目だった。
透はそれを見て、少しだけ胸の奥が重くなった。
この場所に逃げてきた者を渡さない。
そう言った。
なら、守れるだけの力がいる。
言葉だけでは足りない。
ガルドが骨片を三つ持ってきた。
「今日の訓練は、腕を動かさずに止める」
「手は使うのか」
「掌は起点にする。ただし、腕は固定だ」
ガルドは透の左腕を軽く持ち、胸の前に構えさせた。
「この位置から動かすな。骨片の軌道を灰域で読み、掌の前ではなく、当たる場所へ灰壁を出せ」
「当たる場所が掌から離れていても?」
「腕一本分までだ」
リィンが補足する。
「それ以上はだめ」
「わかった」
透は左腕を胸の前に固定した。
目を閉じる。
灰域を薄く広げる。
ガルドの手。
骨片。
空気に混じる灰。
床の灰。
自分の皮膚下の灰。
昨日より、繋がりははっきりしていた。
掌を起点に、灰を外へ押し出す。
だが、掌の正面に置くのではない。
掌から少し離れた場所。
自分の左肩の前。
そこに小さな壁を置く。
ガルドが骨片を投げた。
左肩へ向かう軌道。
透は腕を動かさない。
灰だけを動かす。
左肩の前に、灰色の小壁が一瞬開いた。
骨片が当たり、落ちる。
成功。
だが、掌に痺れが走った。
「手から離すほど、負荷が強い」
透が言うと、シェラが記録する。
「起点距離増加に伴い、灰圧消費上昇。現段階では近距離限定が妥当」
「二回目」
ガルドが言う。
次は右脇腹へ向けて投げられた。
透は一瞬迷った。
左手を起点に、右側へ壁を出す。
体の前を横切るように灰を走らせる必要がある。
間に合うか。
迷った分だけ、遅れた。
灰壁は出た。
だが、骨片は端をすり抜け、透の服をかすめて床へ落ちた。
リィンが即座に言う。
「迷った」
「ああ」
「右側はまだ苦手」
「左手起点だからな」
透は左手を見る。
今は左手しか使えない。
右腕は灰杭の反動でまだ制限中だ。
だが、いずれ手を使わないなら、左右の差は消さなければならない。
ガルドは三つ目を持った。
「次は止めなくていい。見るだけだ」
「見るだけ?」
「防御は、全部に反応すると疲弊する。防ぐべきものと、受け流していいものを分けろ」
それは難しかった。
飛んでくるものを見ると、反射的に止めたくなる。
ガルドが骨片を投げる。
軌道は透の左肩の横。
当たらない。
透は反応しかけた。
灰が動く。
しかし、途中で止める。
骨片は透の横を通り、後ろの壁に当たって落ちた。
掌の灰が少しだけ熱を持つ。
出さなかったのに、疲労がある。
反応を止めるのも負荷になる。
透は眉を寄せた。
「これ、自動にしたら危ないな」
リィンが頷く。
「全部に壁を出したら、すぐ壊れる」
「俺が?」
「トオルが」
「壁じゃなくて?」
「両方」
透は息を吐いた。
手を使わずに出す。
自動で守る。
かっこいいし、便利だ。
だが、何でも防ごうとすれば、自分の灰が先に尽きる。
守る対象を絞る必要がある。
誰を守るか。
何を止めるか。
どこまで受けるか。
それを一瞬で選ぶ力がいる。
単純な防御技ではない。
判断の技だ。
訓練が一段落した時、外縁の見張りが声を上げた。
「上から、何か落ちた!」
灰置き場の空気が即座に変わる。
透は目を閉じ、外縁灰標へ意識を伸ばす。
黒い杭痕の向こう。
処刑路に近い縦穴。
そこから、小さな石片がいくつも落ちている。
魔物ではない。
崩落だ。
昨日の回収人たちが逃げる時に、処刑路の壁を壊したのかもしれない。あるいは地上側で何かが動いた影響か。
落ちてくる石の中に、一つ大きいものがあった。
人の頭ほどの岩。
落下地点には、外縁で骨棒の訓練をしていた焼き印の少年がいる。
バルザが走る。
だが、距離がある。
少年は上を見上げ、固まっていた。
透は動こうとした。
足に力が入る。
だが、リィンの声が飛ぶ。
「走ると間に合わない!」
その言葉で、透は止まった。
走るのではない。
手を伸ばすのでもない。
灰域で落下軌道を読む。
岩が空気を裂く。
表面に死んだ粉塵がまとわりついている。
落下の速度。
少年の位置。
バルザの足。
間に合わない距離。
透は左手を上げかけた。
だが、遠い。
腕一本半どころではない。
今の灰瞬壁では届かない。
それでも、透の中で灰が動いた。
掌ではない。
皮膚の下の薄い灰層。
胸。
背中。
足。
灰域に触れている外の灰。
それらが、一瞬だけ同じ方向を向いた。
守れ。
意識がそう命じた。
岩と少年の間に、灰が集まる。
壁と呼ぶには薄い。
霧よりは濃い。
一瞬だけ生まれた、灰色の膜。
岩がそこへ当たった。
膜は耐えられなかった。
砕ける。
だが、岩の軌道がわずかに逸れた。
直撃しない。
少年の肩をかすめるはずだった岩は、横の床へ落ちた。
石が砕け、破片が飛ぶ。
その破片へ、今度はバルザが間に合った。
腕を振るい、骨棒を持った少年を抱えて転がる。
外縁に土煙が広がった。
透はその場で立っていた。
左手は上がっていない。
足も動いていない。
ただ、胸の奥が焼けるように熱い。
リィンが透を見た。
「今、手を使わなかった」
透も自分の手を見る。
確かに、使っていない。
意識だけで出した。
いや、正確には出しきれていない。
距離が遠すぎた。
壁は薄く、岩を止められず、逸らすだけだった。
それでも、出た。
手から離れた灰壁が。
シェラの声が響く。
「警告。想定外遠隔灰壁反応。展開距離、現行限界を大幅超過。防御不完全。術者負荷、中」
透の膝が少し揺れた。
リィンがすぐに支える。
「座って」
「少年は」
「バルザがいる」
外縁からバルザの声が聞こえる。
「無事だ! かすり傷だ!」
焼き印の少年は震えていたが、生きている。
透は息を吐いた。
リィンに支えられ、炉の近くへ座る。
胸の奥が熱い。
灰がざわついている。
手の痺れとは違う。
体全体の灰を無理に動かした感覚。
リィンが封印針を透の胸元に当てる。
「やりすぎ」
「勝手に動いた」
「守ろうとしたから」
「ああ」
「今のは、まだだめ」
「でも、出た」
「出た。だから危ない」
リィンの声は厳しい。
だが、その奥に安堵があった。
少年が助かったことを、彼女もわかっている。
ガルドが外から戻ってきた。
手には落ちた岩の欠片を持っている。
「直撃していれば、死んでいた」
透は黙った。
「お前の灰が逸らした。完全ではないが、十分意味はあった」
「止められなかった」
「今はな」
ガルドは岩の欠片を床へ置く。
「だが、手を使わずに出た。これは大きい」
バルザが少年を連れて戻ってきた。
少年は顔を青くしていたが、足で立っている。肩に小さな切り傷があるだけだった。
彼は透を見ると、深く頭を下げた。
「あ、ありがとう……ございます……」
透は少しだけ首を振った。
「バルザにも言え」
「はい!」
少年は慌ててバルザにも頭を下げた。
バルザは笑って少年の背を叩こうとし、リィンに睨まれて手を止めた。
「軽くだ」
「軽くでも今はだめ」
「はいはい」
ネイラは岩の落ちた方向を見ていた。
「遠い場所にも出せるなら、いずれ面白いな」
「面白がるな」
透が言うと、ネイラは赤黒い目を細めた。
「守る力だろう。なら、遠くへ届くほどいい」
その言葉は、珍しくまっすぐだった。
透は返事をしなかった。
胸の奥で、まだ灰が熱い。
手を使わずに出せた。
けれど、代償もわかった。
全身の灰層を一気に動かすと、負荷が大きい。
灰域と連動させれば遠くへ届くが、密度が足りない。
止めるには弱い。
逸らすだけなら可能。
今はまだ、掌の灰壁が基本。
遠隔は偶然に近い。
だが、道は見えた。
灰瞬壁は、手を離れ始めている。
シェラが淡々と告げる。
「派生候補を記録。仮称、遠隔灰瞬壁」
「まだ仮だ」
透が言う。
「仮称」
「登録する気はあるんだな」
「必要」
リィンは透の胸元に灰布を当てた。
浄水室の水を少し含ませた灰布。
それが熱を持った灰を鎮める。
「今日はもう使わない」
「わかってる」
「本当に」
「本当に」
「考えない」
「それは難しい」
「考えても、動かさない」
「わかった」
リィンはようやく少しだけ頷いた。
灰置き場では、崩落の確認が始まった。
ガルドが外縁の位置を変え、落石が届きにくい場所へ訓練場をずらす。
バルザは少年たちに、上を見る癖をつけろと教える。
ルカは落石の前に水音が変わらなかったか思い出し、セイルと一緒に術式石を調べる。
ネイラは黒炎標を少し奥へ移し、落ちた岩に追跡痕がないか焼いて確かめる。
透は座ったまま、それを見ていた。
自分が立たなくても、みんなが動く。
それが少し不思議だった。
以前なら、自分が行かなければと思っていた。
自分が前に出て、自分が喰い止めて、自分が傷を塞いで。
だが今は違う。
自分が座っていても、灰置き場は動く。
それぞれが、自分の役目を持っている。
透は掌を開いた。
皮膚の下で、灰が静かに巡っている。
その灰は、少しずつ外へ出る方法を覚え始めていた。
掌の前に。
肩の前に。
味方の前に。
そして、いつかは手を使わず、立ったままでも。
危険を拾い、必要な場所へ、一瞬だけ壁を置く。
透は外縁の少年を見た。
彼はまだ震えながら、それでも骨棒を拾い直している。
守れた。
完全ではない。
偶然に近い。
まだ危なかった。
それでも、守れた。
その事実が、透の中で静かに残った。
灰は、手から離れ始めている。
だが、どこへ伸ばすかは、自分が決める。
奪うためではなく。
守るために。
透は目を閉じた。
手を使わずに出した壁の感覚を、忘れないように。
けれど、今はもう動かさないように。
胸の奥の灰を、静かに眠らせた。




