表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

43/85

第43話 掌の灰壁

 跳躍訓練の翌日、透は左腕に残った赤い線を見ていた。


 刃を当てた跡。

 木槌で打たれた跡。

 跳躍の着地で足首に走った軋み。


 どれも、もうほとんど残っていない。


 消えたわけではない。

 皮膚の奥には、薄い灰色の筋が残っている。傷があった場所を、体が覚えているように。


 リィンはそれを見て、封印針を細く当てた。


「ここ、まだ灰が濃い」


「痛みはない」


「痛みがないから危ない」


「昨日も聞いた」


「今日も言う」


 透は苦笑した。


 灰置き場では、水番がもう動いている。


 石鉢へ水が落ち、灰布を通され、少しずつ小さな器に分けられていく。

 ガルドは配分を確認し、ルカは胸元の小型灰印を握りながら水管の音を聞いている。

 セイルは水路の術式石を調べ、シェラは炉のそばで水質を記録していた。

 ネイラは黒炎標の火を調整し、バルザは外縁で見張りと棒術の訓練をしている。


 灰置き場は、動いている。


 ただ息を潜める場所ではなくなっていた。


 その中心に、自分がいる。


 透はまだ、その事実に完全には慣れていない。


「今日は何をする」


 透が聞くと、リィンは短く答えた。


「防ぐ訓練」


「昨日、刃は見ただろ」


「斬られにくくなった。でも、斬られない方がいい」


「それはそうだ」


「だから、受ける前に止める」


 リィンは透の左手を取った。


「皮膚の下に灰がある。これを、外へ少しだけ出せる?」


「灰糸みたいに?」


「違う。糸じゃなくて、面」


「面」


「小さな壁」


 透は自分の掌を見た。


 灰糸は細く伸ばす。

 灰標は点として置く。

 灰域は周囲へ薄く広げる。

 灰装は体へ着せる。


 壁。


 灰を面として固め、何かを受け止める。


 考えたことはあった。

 ただ、今までは灰を攻撃や探知に使うことが多く、防御は喰い止めや灰幕に寄っていた。


 リィンは続ける。


「トオルの周りの灰は、もう勝手に反応し始めてる。刃や打撃を受けた時、皮膚の下で広がった」


「ああ」


「なら、外でもできるかもしれない。皮膚の少し先。手の届く範囲だけ」


 ガルドが近づいてきた。


 手には、小さな骨片をいくつか持っている。尖ってはいるが、殺傷用ではない。訓練用に先を少し丸めてある。


「反応を見る。投げるぞ」


 リィンがすぐに言う。


「顔はだめ」


「腕と胴だ」


「強く投げすぎない」


「承知している」


 バルザが遠くから笑った。


「昨日より過保護だな」


 リィンは振り向かずに言った。


「封印する」


「聞こえてたか」


「聞こえる」


 透は掌を軽く開いた。


 まずは灰域を薄く広げる。


 入口。

 水瓶。

 炉。

 ガルドの手の中の骨片。

 空気中に舞う灰。

 自分の皮膚の下を巡る灰。


 その二つを繋げる。


 外の灰と、内の灰。


 皮膚の下にある薄い灰層を、ほんの少しだけ掌の先へ押し出す。


 糸ではない。

 刃でもない。

 幕ほど広くもない。


 掌の前に、灰を集める。


 小さく、薄く。


 ガルドが骨片を一つ投げた。


 速度は遅い。


 透なら手で掴める。


 だが、掴まない。


 掌の前の灰を固める。


 骨片が、見えない何かに触れたように止まった。


 かん、と乾いた音。


 掌から指二本ほど先に、薄い灰色の板が一瞬だけ浮かんだ。


 骨片が床へ落ちる。


 ルカが目を輝かせた。


「止まった!」


 透も驚いていた。


 感触がある。


 掌に直接当たったわけではないのに、骨片の衝撃が手の奥に小さく響いた。


 灰の面が衝撃を受け、その重さが皮膚下の灰層へ伝わる。


 リィンが透の手首を見る。


「痛みは?」


「少し響いた」


「灰は?」


「散った。でも、戻せる」


 シェラが右目を光らせる。


「短時間高密度灰面の形成を確認。防御成功。展開時間、極短。範囲、掌前方限定」


「名前はまだいい」


 透が先に言うと、シェラは一瞬止まった。


「名称未登録」


「今、少し不満そうだったな」


「記録上、不便」


 ガルドが二つ目の骨片を構える。


「もう一度。今度は少し速い」


「来い」


 骨片が飛ぶ。


 透は灰域で軌道を読む。


 目だけではない。

 骨片が空気中の灰を裂く感覚がわかる。


 右肩へ向かっている。


 透は左手を動かす。


 掌の前に灰を固める。


 間に合う。


 灰の小壁が生まれ、骨片を弾いた。


 だが、今度は少しずれた。

 骨片の先が壁の端を削り、透の袖をかすめる。


 リィンが眉を寄せる。


「ずれた」


「わかってる」


「灰域と手の位置が遅れた」


「手で防ぐより、灰を先に出す方が早いかもしれない」


 透は自分で言って、少し理解した。


 手を動かしてから灰を出すと遅れる。

 灰域で軌道を読んだ瞬間に、その場所へ灰を置けばいい。


 ただし、今の範囲は狭い。


 手の届く場所。

 自分の皮膚下の灰層と繋がる距離。


 その外へ出そうとすると、灰糸や灰幕になる。密度が落ちる。


 だから、これは近距離専用だ。


 ガルドが三つ目を投げる。


 透は今度、手を大きく動かさなかった。


 骨片の軌道を灰域で拾う。


 左胸へ来る。


 掌を少しだけ添える。


 だが、灰は先に出す。


 胸の前、掌一つ分の距離に、小さな灰壁が開いた。


 骨片が当たる。


 止まる。


 今度は完全に止めた。


 灰壁は一瞬で崩れ、粉になって散った。


 透の掌に、鈍い痺れが残る。


「今のだ」


 ガルドが頷く。


「盾を構えるのではなく、当たる場所へ置いたな」


「ああ。灰域で見て、そこへ出す方が早い」


 リィンが少しだけ目を細める。


「自動で出そうとしないで」


「まだ無理だ」


「できそうになっても、勝手にしないで」


「わかった」


 リィンは信用していない顔をしていた。


 その横で、バルザが興味深そうに近づいてきた。


「俺の拳も止めるか?」


「壊れる」


「お前がか、壁がか」


「たぶん両方」


 バルザは笑った。


「なら後だな」


 ネイラが黒炎標の方から言う。


「火は?」


「試さない」


 リィンが即答した。


 ネイラは肩をすくめる。


「聞いただけだ」


「黒炎はまだ危険」


「知っている」


 透は掌の前に、もう一度灰を集めた。


 薄い灰壁。


 小さい。


 掌ほどの大きさしかない。

 時間も短い。

 出してすぐ崩れる。


 だが、これがあれば、刃を受ける前に止められる。

 矢を逸らせる。

 近くにいる者へ飛ぶ破片を防げる。


 味方を守れる。


 その考えが浮かんだ時、透の中で何かが噛み合った。


 これは自分を守るためだけの技ではない。


 手が届く範囲にいる誰かを守る技だ。


 リィンはそれに気づいたように、静かに言った。


「トオル」


「わかってる」


「全部守ろうとすると、壊れる」


「まだ掌一つだ」


「だから、今から言う」


「……ああ」


 透は頷いた。


 その時、灰置き場の水管が小さく鳴った。


 ぽたり、ではない。


 きん、と細い音。


 ルカがすぐに水瓶の方を見た。


「水の音、変」


 場の空気が切り替わる。


 セイルが術式石を見た。


「水圧が一瞬上がっています。浄水室側ではなく、途中の管……」


 言い終える前に、水管の接合部が膨らんだ。


 黒水ではない。

 清水でもない。


 管の内側に残っていた小さな骨片が、水圧で弾き出される。


 まるで矢のように。


 それは水番の一人、ダンの顔へ向かって飛んだ。


 ダンは反応できなかった。


 ガルドも遠い。


 リィンも、封印針を構えるより遅い。


 透は灰域でそれを見た。


 骨片が空気中の灰を裂く。


 速い。


 距離は近い。


 手は届かない。


 だが、灰は届く。


 透は踏み込まなかった。


 左手を伸ばすだけ。


 ダンの顔の前。


 ほんの掌一つ分の空間へ、灰を集める。


 密度を上げる。


 薄い灰色の小壁が、一瞬だけ開いた。


 骨片がそこへ突き刺さる。


 ぱん、と乾いた音。


 灰壁が砕け、骨片は勢いを失って床へ落ちた。


 ダンの頬に、灰の粉が少しかかっただけだった。


 水番たちが固まる。


 ダンは自分の顔の前を見つめ、次に落ちた骨片を見た。


 もし当たっていれば、目か喉に刺さっていた。


 透はゆっくり息を吐いた。


 掌が痺れている。


 だが、痛みは小さい。


 成功した。


 訓練ではなく、実戦で。


 ルカが息を呑んだ。


「今の、壁……」


 シェラがすぐに告げる。


「緊急防御成功。対象、味方前方。展開距離、腕一本半。現時点の最大有効範囲に近い」


 リィンが透を見る。


「無理した?」


「少し」


「少し?」


「本当に少し。手が痺れたくらい」


 リィンは透の手を取り、確認する。


 掌の皮膚の下に、灰が濃く集まっていた。


 だが、焼けてはいない。

 裂けてもいない。


 灰巡がゆっくり動き、痺れを散らしている。


 リィンは小さく息を吐いた。


「今のは、よかった」


「珍しいな」


「よかった。でも、増やしすぎない」


「ああ」


 ダンがその場に膝をついた。


「あ、ありがとうございます……」


 昨日、水を盗もうとした男。

 今日、水を守る役になった男。


 その男を、透の灰壁が守った。


 透は首を振る。


「水番が減ると困る」


 ダンは一瞬ぽかんとした後、泣きそうな顔で笑った。


「はい……水番、続けます」


 ガルドが落ちた骨片を拾う。


「管の中にまだ残骸があるな。セイル、確認しろ」


「は、はい」


 セイルが慌てて術式石を覗き込む。


 ルカも胸元の小型灰印を握った。


「変な音、またしたら言う」


「頼む」


 透が言うと、ルカは力強く頷いた。


 バルザは透の灰壁が出た場所を見ていた。


「今の技、便利だな」


「まだ小さい」


「小さいからいい。いきなり大きい盾を出すより、速い」


 ガルドも頷く。


「一瞬だけなら、矢や破片を止められる。接近戦でも、刃の角度をずらせるだろう」


 ネイラが腕を組む。


「味方の前にも出せるなら、黒炎の飛び散りも止められるかもしれない」


「試さない」


 リィンが言う。


「今は、な」


 ネイラはそう返した。


 透は自分の掌を見る。


 皮膚下の灰層。

 そこから外へ一瞬だけ押し出す高密度の灰壁。


 探知で軌道を読み、最小限の場所に置く。


 今は掌一つ。

 距離は腕一本半。

 時間は瞬きほど。


 それでも、誰かの顔を守れた。


「名前」


 シェラが言った。


「必要」


 透は少し考えた。


 灰壁。

 灰盾。

 灰幕とは違う。

 喰い止めほど大きくもない。


 一瞬だけ受ける壁。


 掌の先に咲く、小さな防御。


灰瞬壁(かいしゅんへき)


 透が言うと、シェラの右目が光った。


「灰瞬壁、登録。短時間高密度灰面防御。現行範囲、掌前方から腕一本半。連続使用、要検証」


 リィンがすぐに言う。


「連続使用はしない」


「要検証」


「しない」


「後日検証に変更」


「うん」


 シェラは素直に修正した。


 バルザが笑う。


「いい名だ。咄嗟に出せる盾か」


「盾というには小さい」


「いずれ大きくなるだろ」


 バルザは当然のように言った。


 透は掌を開いた。


 いずれ。


 今は手の届く範囲だけ。

 だが、灰域が広がれば。

 灰標が増えれば。

 体の中の灰層がもっと安定すれば。


 自分の周囲だけではなく、仲間の周囲にも一瞬の壁を出せるかもしれない。


 矢を止める。

 刃を逸らす。

 崩れる瓦礫を防ぐ。

 黒炎の飛び散りを受ける。

 誰かの首へ向かう鞭を止める。


 そう考えると、透の中で灰が静かに熱を持った。


 攻撃だけではない。


 守るための灰。


 それは、今の灰置き場に必要な力だった。


 リィンが透の掌に灰布を巻く。


「今日は、あと二回まで」


「使う回数制限か」


「うん」


「厳しいな」


「守る技で壊れたら意味がない」


「それはそうだ」


 透は頷いた。


 灰瞬壁。


 掌の前に出る小さな灰の壁。


 まだ頼りない。

 範囲も狭い。

 何度も使えば手が痺れる。


 それでも、確かに始まった。


 灰置き場の水音が、また静かに戻る。


 ダンは水管の前に戻り、さっきより慎重に骨皿を動かしている。

 ルカは水の音を聞き、セイルは術式を確認する。

 ネイラは黒炎標の火を見て、バルザは外縁を警戒する。

 ガルドは石板に新しい注意を書き足す。


 透はその中心で、掌を開いた。


 皮膚の下で薄い灰が巡っている。


 その灰が、ほんの少し外へ出れば、壁になる。


 自分の体を守るだけではなく、誰かの前に立つ壁になる。


 透はその感覚を、静かに覚えた。


 灰は、喰うだけではない。


 止める。

 受ける。

 守る。


 そしていつか、手の届く範囲を越えて。


 この場所にいる者たちへ迫るものを、触れる前に止める。


 その最初の小さな壁が、透の掌の先で生まれた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ