第42話 刃の通らない皮膚
石杯を割らずに持つ訓練が終わっても、透の訓練は終わらなかった。
むしろ、そこからが本番だった。
ガルドは古い木箱から、錆びた短剣を一本取り出した。
刃は欠け、柄も傷んでいる。
地上なら廃棄されるような武器だ。
だが、奈落では使えるものなら何でも使う。
ガルドは短剣の刃を確かめると、透へ向けた。
「腕を出せ」
リィンがすぐに反応する。
「何をするの」
「強度を見る」
「斬るの?」
「浅くな」
「だめ」
即答だった。
ガルドは眉を上げる。
「必要な確認だ」
「だめ」
「リィン」
透が呼ぶと、リィンは彼を見た。
「トオルもだめ」
「まだ何も言ってない」
「言う前にだめ」
バルザが入口近くで笑った。
「過保護だな」
「必要」
リィンは真顔だった。
透は左腕を見る。
昨日から、体の変化は明らかになってきている。
傷が塞がる速さ。
石杯を壊さない力加減。
鉄塊を片手で持ち上げる膂力。
骨杭を半分だけ潰す制御。
だが、強くなっているのは力だけなのか。
皮膚や骨はどうなのか。
打撃や刃をどこまで受けられるのか。
知らないまま戦う方が危ない。
「浅くなら」
透が言うと、リィンの目が細くなった。
「トオル」
「知っておきたい」
「傷つかなくても、傷つける訓練は嫌」
その言葉に、透は少し黙った。
リィンは、ただ危険だから止めているわけではない。
透が自分の体を道具のように扱い始めることを警戒している。
それは、透にもわかった。
ガルドは短剣を下ろした。
「なら、段階を変える」
彼は床に置いてあった灰切り虫の外殻を拾い上げた。
硬い。
薄い刃物のような縁がある。
灰切り虫はこの縁で灰布や骨網を裂いてきた。
ガルドはそれを透に渡す。
「自分で押し当てろ。力は自分で決めろ」
リィンはまだ不満そうだったが、完全には止めなかった。
「私が見る」
「ああ」
透は灰切り虫の外殻を持った。
左腕の前腕へ、ゆっくり押し当てる。
最初は軽く。
何も起きない。
もう少し力を入れる。
外殻の縁が皮膚に沈もうとする。
だが、入らない。
透は眉を寄せた。
痛みはある。
刃先の圧も感じる。
けれど、皮膚が切れない。
まるで、薄い革を一枚重ねたような抵抗がある。
さらに力を入れる。
外殻の縁が、かすかに軋んだ。
皮膚ではなく、外殻の方が。
ルカが目を丸くする。
「刃が負けてる」
透は力を止めた。
腕を見る。
赤い線はついている。
だが、血は出ていない。
ほんの浅い擦り跡だけ。
リィンがすぐに触れる。
「切れてない」
「これ、前なら切れてたよな」
ガルドが頷く。
「普通なら切れる。少なくとも血は出る」
バルザが近づき、外殻を指で弾いた。
「灰切り虫の殻だぞ。布どころか皮も裂く。浅いとはいえ、それを押して血が出ないなら、もう普通の皮膚じゃねえ」
ネイラが壁際で透の腕を見る。
「硬化しているのか」
リィンは首を振る。
「硬くなっただけじゃない。皮膚の下で灰が薄く受けてる」
シェラの右目が光る。
「表皮下灰層を確認。常時微弱展開。外部切創への抵抗上昇」
「つまり?」
ルカが聞く。
「浅い刃が通りにくい」
ルカは透の腕を見て、少しだけ嬉しそうにした。
「すごい」
透はあまり素直に喜べなかった。
傷が治る。
刃が通りにくい。
便利だ。
戦うなら、間違いなく強い。
でも、それは自分の体がまた人間から少し離れた証でもある。
ガルドは短剣を持ち直した。
「次は私がやる。嫌なら止めろ」
リィンは透を見る。
透は頷いた。
「浅く」
「承知」
ガルドは短剣の刃を透の左腕へ当てた。
斬るというより、軽く引く。
金属が皮膚を撫でる。
赤い線がついた。
しかし、やはり血は出ない。
ガルドは目を細める。
「もう少し」
今度は少しだけ力を入れた。
刃が皮膚を押す。
痛みがある。
だが、斬れない。
刃の方が小さく欠けた。
短剣の先端から、錆びた欠片が落ちる。
ガルドは短剣を見た。
「粗い刃では通らんな」
バルザが笑う。
「地上の雑兵が持つ安物なら、斬られても傷にならんかもしれんぞ」
透は腕をさすった。
「痛くはある」
「痛いだけで済むなら十分だ」
リィンは透の腕を確認し、赤い線の上に水を含ませた灰布を当てる。
線はすぐに薄くなった。
灰巡が勝手に動いている。
自然修復も早い。
ガルドは短剣をしまうと、今度は木槌を持ってきた。
「打撃も見る」
「本当に訓練かこれ」
「訓練だ。知らずに戦場で試すよりいい」
透は左腕を構えた。
ガルドが軽く木槌を振る。
こつん。
痛い。
普通に痛い。
だが、骨に響くほどではない。
「強めるぞ」
「ああ」
二度目。
ごん、と鈍い音がした。
普通なら青あざになる強さだ。
透も衝撃を感じた。
しかし、体が勝手に受けた。
皮膚と筋肉の下で灰が薄く広がり、衝撃を散らす。
水骸から得た「流す」感覚が、無意識に動いたのかもしれない。
痛みはある。
だが、骨に届かない。
「……今の、いける」
透が言うと、ガルドはさらに表情を険しくした。
「いける、ではない。今の強さなら、普通は腕を引く」
「引くほどじゃなかった」
「それが問題だ。痛みの基準もずれてきている」
リィンが静かに頷く。
「痛いなら、痛いって言う」
「痛かった」
「どれくらい」
「石にぶつけたくらい」
バルザが木槌を見て笑う。
「今の打撃を石にぶつけたくらいで済ませるのは、だいぶおかしいな」
ガルドは透の腕を確認する。
赤みはある。
しかし、すでに引き始めていた。
青あざになる前に、灰巡が内側で散らしている。
シェラが記録するように告げる。
「打撃耐性、上昇。軽中度衝撃に対し、表層灰層および灰巡による衝撃分散を確認」
「今度はわかる」
透が言うと、シェラは満足そうに瞬いた。
リィンは満足していなかった。
「今日はここまで」
ガルドも頷く。
「基礎確認は十分だ」
だが、バルザが首を鳴らした。
「いや、もう一つ見るべきだ」
リィンが睨む。
「何」
「跳躍だ」
透も顔を上げた。
「跳躍?」
「昨日から見ていて思った。踏み込みが変だ。床石を割る力があるなら、跳べばどうなる」
ガルドは少し考える。
「確かに、把握は必要だ。だが、灰置き場の中では危ない」
「外縁だな」
バルザが牙を見せる。
「黒い杭痕の手前なら天井も少し高い。落ちても死なん」
「落ちても死なない前提はやめろ」
透が言うと、バルザは笑った。
「今のお前なら、多少は平気だろ」
リィンは明らかに反対の顔をした。
だが、透が言う前にシェラが告げる。
「跳躍制御未確認は危険。日常移動および戦闘時の事故要因。低高度からの測定を推奨」
リィンはシェラを見る。
「低高度」
「初回、高さ一トオル未満」
「その単位はやめろ」
透が言うと、ルカが笑った。
「一トオル」
「広めるな」
結局、外縁で試すことになった。
参加するのは透、リィン、バルザ、ガルド。
ルカは入口から見る。
ネイラは黒炎標のそばで腕を組み、興味なさそうな顔をしながらもしっかり見ている。
シェラは炉のそばから灰標越しに観測する。
外縁の通路は、灰置き場より天井が高い。
黒い杭痕がまっすぐ床を走り、その左右に砕けた石片が残っている。
透はその中央に立った。
バルザが壁の出っ張りを指す。
「あそこまで跳べ」
高さは、人の背丈より少し上。
普通なら助走をつけても届くか怪しい。
透は足元を見る。
跳ぶ。
ただそれだけだ。
しかし、今の体でどのくらい力を入れればいいのかわからない。
「軽くいく」
透は膝を曲げた。
床を蹴る。
次の瞬間、視界が跳ね上がった。
「っ」
思っていた倍以上、体が浮いた。
壁の出っ張りどころではない。
天井が近づく。
透は咄嗟に左手を伸ばし、壁の亀裂を掴んだ。
指が石に食い込む。
体が止まる。
そのまま片手で壁にぶら下がる形になった。
下でバルザが腹を抱えて笑っている。
「軽くでそれか!」
ガルドは顔を押さえた。
「予想以上だな」
リィンは青ざめていた。
「降りて」
「わかってる」
透は下を見た。
思ったより高い。
だが、不思議と恐怖は薄い。
手は滑らない。
指が石に食い込んでいる。
腕も体重を支えられる。
透は壁を蹴って降りようとした。
「待って」
リィンの声。
だが、もう動き始めていた。
透は地面へ落ちる。
着地。
重い音がした。
床石にひびが入る。
だが、膝は壊れなかった。
足首も折れない。
衝撃が足から腰へ抜け、体の中の灰がそれを散らす。
痛みはある。
しかし、耐えられる。
透はその場で立っていた。
リィンがすぐに駆け寄る。
「足」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないか見る」
リィンは膝と足首を確認する。
腫れはない。
骨もずれていない。
灰巡が足首周りにうっすら通っている。
シェラの声が灰標から届く。
「着地衝撃耐性、予測値以上。落下耐性の上昇を確認」
ガルドが床のひびを見た。
「人間の脚なら、今ので膝を痛める」
「少し痛い」
「少しで済んでいるのがおかしい」
透は天井近くの亀裂を見る。
自分が掴んだ跡が残っている。
指の形に石が砕けていた。
跳躍力。
握力。
落下耐性。
衝撃分散。
全てが上がっている。
しかも、自分の感覚よりずっと先に体が行っている。
バルザは笑みを消し、少し真面目な顔になった。
「透」
「何だ」
「今の跳躍、地上の軽装兵なら目で追えんかもしれん」
「そこまで?」
「ああ。冒険者でも下位なら、何が起きたかわからんだろうな」
透は黙った。
まだ奈落の魔物には足りないと思っていた。
水骸にも苦戦した。
腐水腕には灰杭を使った。
喰屍は今でも危険だ。
だが、地上の下位冒険者や兵士から見れば、もう異常なのかもしれない。
透は黒い杭痕を見る。
奈落の基準で死にかけてきたから、わからなかった。
自分がどこまで来ているのか。
リィンが言う。
「だから、制御」
「ああ」
「跳ぶ時も、降りる時も」
「わかった」
バルザが手を叩いた。
「では次は、横移動だな」
リィンが即座に言う。
「今日は終わり」
「まだ少し」
「終わり」
バルザは両手を上げた。
「怖いな、封印姫は」
「封印する」
「冗談だ」
透は少し笑った。
だが、その笑いの奥で、自分の体の変化を考えていた。
浅い刃が通りにくい。
打撃を受け流す。
跳べる。
落ちても壊れにくい。
傷は勝手に塞がる。
それは頼もしい。
同時に、これからもっと変わるということでもある。
この先、奈落のもっと深い場所へ行けば、さらに強い灰を喰うだろう。
武装庫の奥へ進めば、灰喰い用の装具も増える。
浄水室の安定で、灰と肉の巡りも良くなる。
透は、ただ強くなるのではない。
奈落で生きるための体へ、少しずつ変わっていく。
そしてその体は、いずれ地上に出る。
地上の石畳を踏み、ギルドの扉を開き、騎士や冒険者と向き合う。
その時、自分は扉を壊さず開けられるだろうか。
そんなことを考えて、透は少しだけ息を吐いた。
ガルドが言う。
「戻るぞ。今日の記録をまとめる」
「記録?」
シェラの声が答えた。
「肉体性能更新。切創耐性、打撃耐性、跳躍力、落下耐性、握力、出力制御。訓練項目増加」
「また増えるのか」
「必要」
リィンも頷いた。
「必要」
透は黒い杭痕の上を歩いて戻る。
足元の灰が、以前より軽く感じた。
体が速くなっている。
強くなっている。
硬くなっている。
それでも、壊さないように歩く。
それが今の訓練だった。
灰置き場へ戻ると、ルカが駆け寄ってきた。
「トオル、すごかった。びゅんって」
「びゅんって跳びすぎた」
「またやる?」
「リィンが許可したら」
ルカはリィンを見た。
リィンは首を振った。
「今日はだめ」
「じゃあ明日?」
「考える」
ルカは少し残念そうだった。
透は苦笑し、左手を見た。
刃の跡はもうほとんど消えている。
打撃の赤みも薄い。
跳躍の着地で軋んだ足首も、灰が巡って落ち着いている。
自然に戻っていく。
速く、強く、静かに。
炉の灰が揺れた。
水が落ちた。
その音を聞きながら、透は思った。
この体なら、もっと遠くへ行ける。
もっと高く跳べる。
もっと強いものを受けられる。
だが、その力をどこへ向けるかだけは、間違えない。
壊すためではなく。
守るために。
そして、いつか地上へ出た時。
奈落で鍛えられたこの体が、どれほど地上の基準から外れているのか。
それを知る日は、少しずつ近づいていた。




