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第41話 壊さない力

 壊さない訓練は、水の器から始まった。


 透の前に置かれたのは、小さな石杯だった。


 灰置き場で使われている器の中でも、特に薄いものだ。もとは貯蔵庫に眠っていた測量用の杯で、水を少量ずつ分けるために使われる。縁は欠け、底には細いひびが入っている。


 普通に持っても、少し力を入れれば割れる。


 ガルドはそれを透の前に置いた。


「持て」


「それだけか」


「それだけだ」


 透は石杯を見た。


 戦闘訓練ではない。

 灰糸でも、灰断でも、灰装でもない。

 ただ、器を持つ。


 簡単なはずだった。


 透は左手を伸ばし、石杯の側面に指をかける。


 持ち上げる。


 ぴしり、と音がした。


 石杯の側面に、ひびが一本走った。


 ルカが「あ」と声を漏らす。


 リィンは無言で透を見る。


 ガルドはため息をついた。


「それが問題だ」


「力は入れてない」


「入れていないつもりで割った」


 透は石杯をそっと床へ戻した。


 戻したつもりだった。


 石杯の底が、床に触れた瞬間、さらに小さなひびが増える。


「……これも?」


「それもだ」


 バルザが入口近くで大笑いした。


「杯に負ける主というのも珍しいな」


「負けてない」


「割ったら負けだろ」


 透は言い返せなかった。


 ガルドは別の石杯を出す。


 今度はさらに小さい。


「もう一度」


「まだやるのか」


「やる。お前が水番の器を握り潰す前にな」


 透は黙って頷いた。


 昨日の回収人との一件で、透自身も理解していた。


 力が出ることは悪くない。

 だが、力を出すつもりがない時に出てしまうのは危ない。


 鞭を砕くのはいい。


 石管を押さえるのもいい。


 だが、器を割り、水瓶を壊し、怪我人の腕を掴んだだけで折るようでは意味がない。


 守る力は、壊さない力と同じだけ必要だった。


 透は二つ目の石杯に手を伸ばす。


 今度は指先ではなく、掌全体で包むように持つ。


 力を抜く。


 持ち上げる。


 ぴしっ。


「……」


「割れた」


 ルカが正直に言った。


「見ればわかる」


 透は石杯を置いた。


 リィンが小さく首を傾げる。


「力を抜く、じゃ足りない」


「じゃあ、どうすれば」


「どこに力が入っているか、見る」


 リィンは透の手首に指を置いた。


 封印針ではない。


 ただ、触れる。


「指だけじゃない。掌の奥、腕、肘、肩。全部が少し硬い」


「硬いのか」


「うん。割らないようにしようとして、逆に固まってる」


 バルザが腕を組む。


「戦う時もそうだな。お前は力を通すのは上手くなってきたが、抜くのは下手だ」


「奈落で力を抜いたら死ぬだろ」


「だから今やってる」


 ガルドが石杯の欠片を拾いながら言う。


「地上に出れば、石杯より脆いものが多い。扉、人の肩、木の椅子、普通の剣。壊すつもりがなくても壊すぞ」


 ネイラが壁際で鼻を鳴らした。


「人間の町など、面倒だな」


「お前も火を出したら燃やすだろ」


「私は燃やすものを選べる」


「こっちも選べるように訓練してるんだよ」


 ネイラは少しだけ黙った。


「なら、続けろ」


 その言い方は突き放すようで、どこか認めているようでもあった。


 透は三つ目の石杯を見る。


 今度はすぐに触らなかった。


 目を閉じる。


 灰を巡らせるのではなく、感じる。


 左手の中にある力。

 皮膚の下を走る灰色の細い筋。

 肉の動き。

 骨の支え。

 指先へ流れようとする圧。


 強くなった体は、常に少し前へ出ようとしている。


 握る。

 踏む。

 押す。

 引く。


 その全部が、以前よりずっと大きな結果を生む。


 なら、止めるのではない。


 流す。


 水骸の灰から得た感覚を思い出す。

 力をぶつけるのではなく、受け、逃がし、通す。


 透は石杯へ指を添えた。


 持ち上げない。


 まず、触れるだけ。


 石杯は割れない。


 指先に、杯のざらつきが伝わる。


 ひびの位置。

 薄い縁。

 底に残る古い傷。


 透はそこへ力を入れないようにするのではなく、力がそこへ集まらないよう、手の中で散らした。


 持ち上げる。


 石杯が床から離れた。


 音はしない。


 ひびも増えない。


 ルカが目を輝かせた。


「割れてない」


「まだだ」


 ガルドが短く言う。


「置け」


 透は石杯を下ろす。


 床に触れる直前で、力を逃がす。

 置く、のではなく、床へ渡す。


 石杯は静かに床へ戻った。


 割れなかった。


 灰置き場の数人が、小さく息を吐いた。


 バルザがにやりと笑う。


「やればできるじゃねえか」


「石杯を置けただけで褒められるとは思わなかった」


「今のお前には大事なことだ」


 リィンが頷く。


「大事」


 透は左手を見た。


 力を出すより難しい。


 だが、できないわけではない。


 体が変わっているなら、その体の扱い方を覚えればいい。


 ガルドは石杯を片づけると、次に太い骨杭を持ってきた。


「今度は握る」


「割らないようにか」


「違う。半分だけ潰せ」


 透は顔を上げた。


「半分?」


「壊す必要がある時、どれだけ壊すかを選べなければならん。全部砕くのは簡単だ。必要な分だけ砕け」


 バルザが楽しそうに笑う。


「いい訓練だ」


 透は骨杭を受け取った。


 太い。

 腐水腕の骨片を混ぜた強化骨杭だ。普通の骨より硬く、灰置き場の防壁にも使われている。


 透は左手で握る。


 まず軽く力を込める。


 骨杭はびくともしない。


 もう少し。


 みし、と音がした。


 透はそこで止めるつもりだった。


 だが、次の瞬間、骨杭は掌の中で縦に裂けた。


 半分どころではない。

 芯まで割れて、灰色の粉が落ちる。


 ガルドは目を細める。


「力の立ち上がりが急すぎる」


「少し足しただけなんだが」


「お前の少しが、今は少しではない」


 バルザが骨杭の割れ目を見る。


「正面から殴られたら、王国騎士の盾でも割れるな」


「盾ってそんなに脆いのか」


「普通は脆くない。お前が変なんだ」


 セイルが小さく頷く。


「王国正規兵の標準盾は、強化革と鉄縁、内側に簡易防護術式があります。普通の剣では簡単に割れません」


「でも割れるのか」


「今の力なら、たぶん……」


 セイルは言いにくそうに続けた。


「正面からいけば、割れます」


 透は割れた骨杭を見る。


 地上の装備がどの程度か、まだ実感はない。


 だが、奈落の骨杭より弱い盾なら、確かに頼りなく思えるかもしれない。


 奈落の基準がおかしい。


 それはわかってきた。


 問題は、そのおかしい基準で鍛えられた自分が、どこまで行ってしまっているかだった。


 ガルドはもう一本、骨杭を渡す。


「もう一度」


「半分だけ」


「そうだ」


 透は深く息を吐いた。


 力を入れないのではなく、段階を作る。


 一。

 二。

 三。


 骨杭の中へ、力を流す。


 みし、と音。


 そこで止める。


 止める、のではなく、力を逃がす。


 骨杭の表面だけが潰れ、芯は残った。


 ガルドが頷く。


「今のだ」


 バルザが骨杭を見て笑う。


「器用な化け物になってきたな」


「化け物は余計だ」


「褒めてる」


「褒め方を考えろ」


 リィンは少しだけ安心したように息を吐いた。


 だが、その表情はすぐに険しくなる。


 透の左手の甲に、赤い線が浮いていた。


 骨杭を握った反動で、皮膚の下が少し裂けたのだ。


 普通なら血が滲み、腫れる。


 しかし、その線はゆっくり薄くなっていく。


 灰が下から巡り、肉の損傷を繋いでいる。


 目に見えるほど早い。


 ルカがじっと見つめた。


「また治ってる」


 透も見た。


 確かに、赤い線が消えかけている。


 灰を意識していないのに。


 集中していない。

 灰巡を使おうともしていない。

 それでも、体が勝手に修復へ動いている。


 自然治癒が、上がっている。


 リィンが眉を寄せる。


「今の、勝手に?」


「ああ。何もしてない」


「灰が肉の傷を覚えた」


 シェラが右目を光らせる。


「自動灰巡反応を確認。軽微損傷に対して無意識修復が発生」


「つまり、勝手に治る?」


 ルカが聞く。


「小さい傷なら」


 シェラが答える。


「ただし、灰消費あり。疲労蓄積の可能性」


「便利だけど危ないやつだ」


 ルカは透の真似をするように言った。


 透は苦笑した。


「本当に俺の言い方が移ってるな」


 ネイラが言う。


「自然に治るなら、さらに無茶をするな」


「しない」


「嘘だな」


「即答か」


「お前は、守るものがあると前に出る」


 ネイラの言葉は鋭かった。


 だが、責めているだけではない。


 自分も、黒炎が役に立つと知った時から、火を出す理由ができてしまった。

 そういう者の目だった。


 透は否定できなかった。


「だから、壊さない訓練をする」


 リィンが言う。


「治るから前に出るんじゃなくて、戻れるように前へ出る」


 透はその言葉を胸に置いた。


 戻れるように。


 それは、灰置き場の全てに繋がっている。


 戻る道。

 戻る場所。

 戻る体。


 灰喰いの力は、終わったものを喰うだけではないのかもしれない。


 終わらせて、戻すための道を作る。


 少なくとも、透はそう使いたかった。


 訓練は続いた。


 石杯を割らずに持つ。

 骨杭を半分だけ潰す。

 床石を踏み割らずに全力で止まる。

 壁に手をついて、壁を壊さず体勢を変える。

 水の入った器を持ったまま、灰域を広げる。


 どれも地味だった。


 だが、難しかった。


 踏み込みを少し誤ると、床にひびが入る。

 壁へ手をつけば、指が石へ沈む。

 水の器を持ったまま灰域を広げると、器の縁が震えて水がこぼれる。


 そのたびに、リィンが止める。


 ガルドが指摘する。


 シェラが記録する。


 ルカが素直に「あ、また割れそう」と言う。


 バルザが笑う。


 ネイラが呆れる。


 セイルが壊れた床石を見て青ざめる。


 それでも、少しずつ変わった。


 最初は十回に一度しか割らずに持てなかった石杯を、五回、三回、一回と安定して持てるようになる。


 骨杭も、粉砕ではなく、表面だけ、半分だけ、先端だけ、と壊す場所を選べるようになる。


 透の体は、学習していた。


 強くなるだけではない。


 強さを絞ることも、覚え始めていた。


 訓練の終わりに、ガルドは古い鉄塊を持ってきた。


 人の頭ほどある黒い鉄。


 かつて門の重りに使われていたものらしい。


「持て」


「割らないようにか」


「いや。片手で持ち上げろ。どのくらい変わっているか見る」


 透は鉄塊を見る。


 重いのは見ただけでわかる。


 王国の兵士でも、両手で持ち上げるのがやっとだろう。

 普通の高校生だった頃の透なら、動かすことすらできなかったはずだ。


 透は左手を伸ばした。


 指をかける。


 持ち上げる。


 鉄塊は、床から離れた。


 思ったより軽い。


 それが最初の感想だった。


 腕に重さはある。

 だが、持ち上がらないほどではない。


 肩も悲鳴を上げない。

 腰も沈まない。

 灰装を使わず、灰巡を意識せず、ただの肉体の力で持ち上がっている。


 ガルドの目が鋭くなる。


「そのまま胸の高さまで」


 透は持ち上げた。


 鉄塊が胸の高さへ来る。


 周囲が静まった。


 セイルが小さく言う。


「王国の荷役兵でも、補助具なしでは厳しい重量です」


 バルザが笑う。


「いい腕になってきたな」


「左手だけだぞ」


「だからいいんだろ」


 透は鉄塊を見た。


 右腕ではない。

 灰殻の手甲でもない。

 灰装でもない。


 左手だけ。


 自分の体だけ。


 奈落で喰った灰が、筋肉と骨に沈み、少しずつ人間の限界を押し上げている。


 透は鉄塊を床へ戻す。


 今度は、床を割らなかった。


 静かに置けた。


 ガルドは満足げに頷く。


「今日の最後に、それができれば十分だ」


「持ち上げる方じゃなくて?」


「置く方だ」


 透は少しだけ笑った。


 確かに、今の自分にはそちらの方が大事だった。


 その時、イーシャが遠くから透を見ていることに気づいた。


 彼女はまだ歩けない。

 リィンに処置され、ルカに水を渡され、灰布の上に座っている。


 その目は、怯えだけではなくなっていた。


 驚き。

 不安。

 そして、ほんの少しの期待。


 透は近づかない。


 まだ怖がらせるかもしれないからだ。


 ただ、視線だけを向ける。


 イーシャは小さく頭を下げた。


 その足元には、壊れた追跡札の灰が少しだけ残っている。


 透はそれを見て、改めて思う。


 この力は、壊すためだけでは足りない。


 奪いに来るものを折る力。

 逃げてきた者を壊さず抱える力。

 傷ついた手で器を割らずに水を渡す力。

 自分の体を戻し、また立つ力。


 全部が必要だ。


 炉の灰が静かに揺れる。


 訓練で裂けた細かな傷は、もうほとんど塞がっていた。


 赤い線が薄くなり、皮膚の下で灰が静かに巡っている。


 透は左手を握る。


 今度は、強くも弱くもなかった。


 必要な分だけ。


 その感覚を、体が少しだけ覚えた。


 奈落の底で、透は強くなる。


 ただ敵を砕くためではなく。


 自分の力で、大事なものまで壊さないために。


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