第40話 灰は肉を覚える
回収人たちが逃げ去った後も、灰置き場の入口にはしばらく誰も近づかなかった。
外縁に残ったのは、砕けた黒鞭の欠片と、商会印が灰になった跡。
魔獣が爪を立てた傷。
そして、透の足元から黒い杭痕へ続く、薄い灰の流れ。
戦いというほどの戦いではなかった。
だが、見ていた者たちは理解していた。
外から来た回収人たちは、透に傷一つまともにつけられなかった。
魔力鞭を掴まれ、魔獣は殺気だけで伏せ、商会印は灰になって砕けた。
ここへ逃げ込んだ者を渡さない。
その一言が、ただの宣言ではないと、全員が見た。
透は入口の内側に戻ると、壁際に腰を下ろした。
その瞬間、リィンが左手を取る。
「見せて」
「もう塞がってる」
「だから見る」
リィンは透の返事を待たず、灰布をほどいた。
黒鞭の鉄線で裂けた左手の傷。
さっきまでは掌の中央から指の付け根へかけて、細い裂傷が何本も走っていた。血も流れていたはずだ。
だが、今は違った。
血は止まっている。
それだけではない。
傷口の縁が、ゆっくりと寄っていた。
灰で上から塞いだのではない。
皮膚の内側から、薄い肉が盛り上がり、裂けた部分を繋ごうとしている。
その下を、細い灰色の筋が走っていた。
リィンは息を止める。
「……今までと違う」
透は自分の手を見る。
「灰補修じゃないのか」
「似てる。でも違う」
リィンは封印針を傷口の近くへ当てる。
青い光が掌を照らした。
灰で埋めただけなら、青い光の中で灰の塊が黒く浮かぶ。
だが、今は違う。灰は傷を塞ぐための栓ではなく、肉の下を細い糸のように通っている。
肉が、灰を足場にして戻っている。
「トオルの体が、灰を使って治ろうとしてる」
リィンの声は静かだったが、驚きが混じっていた。
ガルドが近づく。
「治癒術ではないのか」
「違う。聖女の治癒みたいに外から戻しているわけじゃない。灰で穴を埋めているだけでもない」
リィンは透の掌を見たまま言う。
「体が、自分で灰を使ってる」
シェラの右目が青白く光った。
「観測。灰補修から自然修復補助へ移行傾向。肉体自己修復率、以前比で上昇」
「わかりやすく」
透が言うと、シェラは少し考えた。
「傷の治りが早くなっている」
「それは見ればわかる」
「さらに、灰だけで埋めていない。肉が戻っている」
その言葉に、周囲が小さくざわめいた。
灰置き場にいる者たちは、透の灰補修を見ている。
傷を灰で塞ぎ、立ち上がり、戦う姿を見てきた。
だが、それはどこか危うかった。
治るのではなく、壊れた場所を灰で無理やり補っているように見えたからだ。
今、透の掌に起きているのは、それとは少し違う。
裂けた肉が、目に見える速さで戻っている。
ゆっくりではある。
だが、普通の人間なら半日、あるいは数日かかるはずの傷が、数分の間に血を止め、皮膚を寄せ始めている。
バルザが牙を見せた。
「獣人でも、そこまで早くは塞がらん」
「バルザより?」
「傷の種類による。だが、掌の裂け傷がその速さで閉じるのはおかしい」
「おかしいのか」
「おかしい」
リィンも頷く。
「おかしい」
「二人に言われると、ちょっと困るな」
透は左手を開いたり閉じたりした。
痛みはある。
だが、痛みの奥に温かさがあった。
昨日、灰置き場に水が戻った時、灰化しかけた指をリィンが水で拭った。その感覚に少し似ている。
灰だけでは硬くなる。
水だけでは腐る。
けれど、灰が支え、水が肉を戻す。
透の体の奥で、その二つが噛み合い始めている。
セイルが術式石を握りしめたまま、おそるおそる口を開いた。
「浄水室の水が関係しているかもしれません」
透が顔を上げる。
「水?」
「はい。浄水室は本来、灰喰いの保守施設とも繋がっていたはずです。灰だけを扱えば、体は硬くなる。水だけでは、奈落の腐りに侵される。灰と水を正しく巡らせることで、番人の体を保つ仕組みがあったのではないかと」
ガルドが眉を寄せる。
「番人の体を保つ?」
セイルは震えながらも続けた。
「灰の番人が灰に呑まれないよう、体の水分、血、肉を維持するための仕組みです。浄水室が死んでいた間、トオルさんの灰補修は灰に偏っていた。でも清水が戻ったことで、灰が肉を支える方向へ変わり始めているのかもしれません」
リィンの表情が少しだけ和らぐ。
「それなら、戻せる部分が増える」
「希望的観測ですが……」
「希望でも、見る価値はある」
リィンは透の掌へ少量の水を含ませた灰布を当てた。
傷口がぴくりと震える。
灰が水を吸い、血と混じり、皮膚の下へ薄く沈む。
透は眉を寄せた。
「変な感じがする」
「痛い?」
「痛いというより、むず痒い」
「肉が戻ってる」
「むず痒いのか、肉って」
「たぶん」
リィンは真面目に答えた。
バルザが笑いを堪えきれず、肩を揺らす。
「肉がむず痒い。いいな」
「笑うな」
「無理だ」
ネイラは壁際で腕を組んでいた。
彼女は透の掌を見て、低く言う。
「魔族の再生にも似ている」
「魔族はみんな治りが早いのか」
「血統による。黒角族は火で傷口を焼いて塞ぐ。肉が戻るのは遅い。だから、傷跡が残る」
ネイラは自分の手首を見る。
封環の下には、何度も焼かれたような痕がある。
「お前のは、焼いて塞ぐのとも違う」
「じゃあ何に見える」
「灰の中から肉が生えてるように見える。気味が悪い」
「正直だな」
「褒めてはいない」
「わかってる」
透は掌を見つめた。
傷はもう半分ほど閉じている。
薄い赤い線が残り、その下に灰色の筋が走っている。
このまま進めば、戦いの中で受けた小さな傷はすぐ塞がるようになるだろう。
打撲も、裂傷も、筋の損傷も。
灰を集中させれば、もっと早く治せるかもしれない。
透は試しに、胸の奥の灰を左手へ集めようとした。
リィンがすぐに黒鎖を掴む。
「待って」
「少しだけ」
「少しだけ、は危ない」
「でも、試さないとわからない」
「試すなら、私が見てる時」
「今見てるだろ」
「私が許可してから」
透は少し黙った。
リィンは譲らない目をしている。
透は息を吐いた。
「許可は?」
「細く。掌だけ。脈に入れない。骨に巻かない。傷を閉じるためじゃなく、肉の戻りを助けるだけ」
「注文が多い」
「命令じゃない。生きてほしいから言ってる」
その言葉に、透は返せなくなった。
左手を膝の上に置く。
目を閉じる。
灰を集める。
今までの灰補修は、穴を塞ぐ感覚だった。壊れた壁に泥を塗るように、灰で隙間を埋める。
だが、今回は違う。
灰を傷へ押し込まない。
肉の下にある細い灰の筋へ、ほんの少しだけ力を流す。
それは魔力を巡らせる感覚に近かった。
いや、魔力というより、灰脈。
自分の体の中に、新しくでき始めている灰の通り道。
そこへ意識を乗せる。
掌が熱くなる。
傷口のむず痒さが強くなった。
裂けた皮膚の縁が、さらに寄る。
赤い線が細くなり、血の滲みが消える。
灰置き場の者たちが息を呑んだ。
明らかに見えた。
傷が、閉じた。
完全ではない。
薄い痕は残っている。
強く握ればまた開くかもしれない。
だが、数分前に裂けていた掌が、今はもう刃物を握れる程度に戻っている。
透は目を開けた。
「できた」
リィンはすぐに掌を押さえる。
「やりすぎてない?」
「たぶん」
「たぶんは禁止」
「少し熱いくらいだ」
「それも記録」
シェラが淡々と告げる。
「新規修復法、観測。仮称、灰巡修復」
「また名前をつけるのか」
「必要」
透は掌を見た。
「灰巡……」
口にしてみる。
悪くない。
灰補修は、傷を塞ぐための応急処置。
灰巡は、灰を体の中に薄く巡らせ、肉の戻りを助けるもの。
使い分けられるなら、大きい。
戦闘後の回復が早くなる。
傷を抱えたまま動く時間が減る。
灰に置き換わりすぎる危険も、少しは抑えられるかもしれない。
だが、同時に危険でもある。
自然に治る速度が上がれば、無理が利く。
無理が利けば、もっと無茶をする。
リィンはそれを誰より先に理解していた。
「トオル」
「わかってる」
「便利だからって、傷ついていい理由にはならない」
「ああ」
「本当に?」
「……たぶん」
「トオル」
「本当に」
リィンはまだ不満そうだったが、ひとまず頷いた。
その時、イーシャが小さく声を出した。
「あの……」
全員の視線が彼女へ向く。
イーシャはびくりと肩を震わせたが、逃げなかった。
足には灰布が巻かれている。
追跡札の跡は痛々しいが、リィンの封印で熱は下がっていた。
「その……傷、すぐ治るんですか」
透は少し考えて答える。
「小さい傷なら、たぶん」
「じゃあ……痛くないんですか」
「痛い」
イーシャの目が揺れる。
「痛いのに、平気なんですか」
「平気じゃない。慣れただけだ」
その答えに、イーシャは黙った。
彼女はたぶん、痛みに慣れている。
奴隷として、追跡札として、鞭として、焼けるような痛みに慣れさせられてきた。
だが、透の言った「慣れた」は、それとは少し違う。
痛みを当たり前にするためではなく、痛みがあっても守るための慣れ。
イーシャは小さく言った。
「私の足も、治りますか」
リィンが答える。
「治す。時間はかかる」
「歩けますか」
「歩けるようにする」
イーシャの唇が震える。
それだけで十分だったのだろう。
歩けるようにする。
売られるためではなく、逃げるためでもなく、自分の足で立つために。
透は彼女の足を見る。
追跡札の跡。
焼けた皮膚。
痛みの線が残った筋。
今の灰巡は、自分の体にしか使えない。
他人へ使うのは危険すぎる。
だが、いつか。
灰補修や灰巡の応用で、仲間の傷を助けられるようになるかもしれない。
支配ではなく。
首輪ではなく。
傷を戻すための灰。
透の中で、新しい可能性が小さく灯った。
ガルドが言った。
「自己修復が進むなら、訓練の仕方も変わる」
「訓練?」
透が顔を上げる。
「体が強くなっているなら、使い方を覚えねばならん。昨日、石床を割っただろう」
「踏んだだけだ」
「踏んだだけで割るのが問題だ」
バルザが楽しそうに頷く。
「力が出るなら、抑え方を覚えろ。でないと地上に出た時、扉を開けるたびに壊すぞ」
「そこまでは」
「今のままだと、あり得る」
ガルドは真顔だった。
「握る力。踏む力。跳ぶ力。反応速度。傷の戻り。全部、今のお前の感覚とずれている。戦いでは強みになるが、生活では危険だ」
「生活で危険……」
透は自分の左手を見る。
石管を握り潰した手。
鞭を砕いた手。
虫を踏み潰した足。
確かに、このまま地上へ出れば、普通のものを普通に扱えないかもしれない。
バルザが笑う。
「王都の酒場で杯を砕くなよ」
「まだ行く予定はない」
「いずれ行くだろ。冒険者ギルドとかいう地上の喧嘩場に」
セイルが小さく訂正する。
「冒険者ギルドは喧嘩場ではないです。依頼仲介組織です」
「似たようなもんだろ」
「違います」
「でも喧嘩はあるだろ」
「……否定はできません」
透はその会話を聞きながら、少しだけ想像した。
地上。
冒険者ギルド。
王国兵ではなく、依頼を受けて魔物を倒す者たち。
もしそこへ自分が行ったら、どう見られるのだろう。
外れ職としてではなく。
奈落の灰置き場を背負った者として。
その時、自分の力はどのくらい通じるのか。
透は左手を握る。
今の回収人たちは弱かった。
だが、地上にも強い者はいるだろう。
上位冒険者。
騎士団長。
勇者。
魔王軍幹部。
油断はしない。
ただ、地上での強さを、もう必要以上に大きく見上げることはないかもしれない。
奈落で生きるには、地上の基準では足りなかった。
だから自分は、そこから外れ始めている。
シェラが再び右目を光らせた。
「提案。灰巡修復訓練と身体出力制御訓練を日課へ追加」
「日課が増えるのか」
「必要」
リィンも頷く。
「必要」
ガルドも続く。
「必要だ」
バルザが牙を見せる。
「必要だな」
ネイラがそっぽを向いたまま言う。
「壊したものを直す手間が増えるよりはましだ」
透は逃げ場を失った。
「わかった。やる」
ルカが手を上げた。
「ぼくも見る?」
「ルカは水の道を見る訓練」
「うん。じゃあ、トオルは壊さない訓練」
「言い方」
少しだけ笑いが起きた。
その笑いの中で、透は左手を見る。
傷はほぼ閉じている。
完全ではない。
でも、確かに戻っている。
灰が肉を覚え始めた。
それは恐ろしい変化でもあり、必要な変化でもある。
この先、もっと大きな傷を負うだろう。
もっと強い敵と戦うだろう。
誰かを守るために、体を投げ出す場面もあるかもしれない。
その時、自分の体が戻れるなら。
戻って、また立てるなら。
それは力だ。
透は掌を閉じた。
灰は静かに巡っている。
穴を塞ぐためではない。
生きるために。
リィンがその手を上から押さえた。
「覚えて」
「何を」
「灰は、戻るために使う」
透は少しだけ目を伏せた。
「ああ」
炉の灰が揺れる。
水管から、水が落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
灰と水の音の中で、透の体はまた一つ、奈落に適応し始めていた。
ただの補修ではなく。
人の形を保ったまま、より速く、より強く、傷から戻るために。




