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第38話 水音の砦

 水の掟が刻まれた翌朝、灰置き場の空気は変わっていた。


 朝と呼べる光はない。


 奈落の底に、空はない。

 太陽もない。

 ただ、炉の灰が淡く揺れ、水管から落ちる音が時間の代わりになっている。


 ぽたり。


 ぽたり。


 石鉢へ落ちる水音。


 その音があるだけで、灰置き場の者たちは眠りから起きる時、少しだけ表情を変えた。


 喉の渇きに怯えて目覚めるのではない。

 今日、飲めるかもしれない水がある。


 それだけで、人の呼吸は変わる。


 水番になった男は、夜明けのない時間から灰溝の掃除をしていた。


 昨日、水を盗もうとした男だ。


 名前はダンと言った。


 処刑路から落とされた農夫で、王国領の村から徴税に逆らった罪で落とされたらしい。昨日まではずっと喉を押さえ、誰とも目を合わせなかった。


 今は灰布を鼻と口に巻き、汚れを骨皿へ移している。


 手つきは不器用だ。


 けれど、逃げてはいない。


 ネイラは外縁の黒炎標の前で腕を組み、その作業を見下ろしていた。


「死んだ汚れだけを載せろと言った」


「こ、これか」


「それは濡れた苔だ。まだ燃えにくい。こっちの黒く固まった方」


「すまん」


「謝る前に覚えろ」


「はい」


 ダンは青い顔で頷き、骨皿の中身を入れ替える。


 黒炎標が小さく跳ね、死んだ汚れを黒い火で舐め取った。


 ネイラの両手首の封環は、まだ残っている。

 それでも、黒炎標を通じた火の扱いは昨日より安定していた。


 火に場所があり、役目がある。

 それだけで、暴れ方が少し変わる。


 透は入口の内側から、その様子を見ていた。


 右腕はまだ使えない。


 灰殻の手甲は、シェラが組んだ仮補修線で固定されている。黒鎖も外していない。灰杭の反動はまだ奥に残っていて、右腕へ強く灰を流すと焼けるような痛みがある。


 だが、歩ける。


 昨日より、足取りは軽い。


 左手の傷もほとんど塞がっていた。


 リィンはそれを見て、少し不機嫌そうだった。


「早すぎる」


「治ってるならいいだろ」


「治ってない。灰で塞がってる」


「昨日より動く」


「だから危ない」


 リィンは透の左手を取った。


 指先を押す。


 傷は閉じている。

 だが、皮膚の下に薄い灰色の線が走っていた。


「ここ。肉じゃない」


「灰か」


「うん。まだ戻せる。でも放っておくと、そのまま固まる」


「固まると?」


「痛みに鈍くなる。力は出る。でも、人の指から少し離れる」


 透は自分の指を見る。


 人の指から離れる。


 その言葉は、思ったより重かった。


 けれど、昨日その手で石管を押さえなければ、水は汚れていた。


 透は静かに言う。


「戻せるなら戻してくれ」


「うん。だから座って」


「今?」


「今」


「水番を見てから」


「座って見て」


 透は言い返そうとして、やめた。


 リィンの目が本気だった。


 近くでバルザが笑う。


「座れ、王様候補」


「その呼び方を定着させるな」


「なら、主か?」


「もっとやめろ」


 ガルドが石板を見ながら言った。


「呼び名は後で揉めるとして、今は処置を受けろ。お前が倒れれば水の管理も灰標も止まる」


「……わかった」


 透は炉のそばへ座った。


 リィンが封印針を出し、左手の灰化しかけた筋に青い光を当てる。


 水を含ませた灰布で皮膚を拭い、灰が固まりすぎた場所を少しずつ緩めていく。


 痛みはない。


 むしろ、痛みがないことが怖かった。


「痛くない?」


 リィンが聞く。


「あまり」


「よくない」


「痛い方がいいのか」


「痛みは、まだ人の体が教えてくれる声。聞こえなくなると、壊れても気づけない」


 透は黙った。


 リィンは小さく続ける。


「強くなるのはいい。でも、戻ってこられなくなるのはだめ」


「戻る場所にいるのに?」


「トオル自身にも、戻る場所がいる」


 炉の灰が揺れた。


 透はリィンを見る。


 彼女はいつものように静かだった。


 だが、その指先は少しだけ強く透の手を握っていた。


「……わかった」


「本当に?」


「ああ」


「あとでまた確認する」


「信用がないな」


「ある。だから確認する」


 その会話を、ネイラが外縁から戻りながら聞いていた。


 彼女は一瞬だけ二人を見て、すぐに顔を逸らした。


「面倒な関係だな」


 バルザが笑う。


「羨ましいか」


「焼くぞ」


「最近そればかりだな」


「便利だからな」


 バルザは肩を揺らして笑った。


 その肩には、昨日の水毒の焼け跡がまだ残っている。リィンが封じたため悪化はしていないが、獣人の回復力をもってしてもすぐには治らない。


 それでも、バルザは立っている。


 そして、灰置き場の入口外では、彼に教わった者たちが骨棒を振っていた。


 焼き印の少年。

 処刑路から落とされた若い男。

 耳長の老人の孫。

 水番の手が空いた者。


 戦士ではない。


 だが、もう震えて隠れるだけではなかった。


 バルザは処置を終えると立ち上がり、彼らの方へ向かう。


「足を止めるな! 棒を振る前に足を置け!」


 骨棒が空を切る。


 乾いた音が響く。


 ガルドはそれを見ながら、透の横に腰を下ろした。


「防衛線を広げる」


 透は顔を上げる。


「どこまで」


「浄水室へ続く水路分岐までだ。水が戻った以上、あそこは捨てられん。水路手前、黒い杭痕、外縁入口。この三箇所に見張りを置く」


「人が足りるか」


「足りん。だから役割を分ける」


 ガルドは石板に線を引く。


「戦える者は少ない。だが、見る者、知らせる者、運ぶ者、汚れを焼く者なら増やせる。全員を兵にする必要はない」


 透は頷いた。


 それはガルドらしい考え方だった。


 戦えない者にも役目を作る。

 役目があれば、ただ怯えるだけではなくなる。


「灰標を増やす」


 透が言うと、リィンがすぐに顔を上げた。


「どれくらい」


「三つ」


「多い」


「外縁入口、黒い杭痕、水路分岐。常時じゃなくて、交代で見る」


「トオル一人で?」


「ルカの小型灰印を補助にする。固定灰標は薄く。異常が出た時だけ俺が見る」


 ルカが近くで水瓶の柵を見ていた。


 自分の名前が出たことに気づき、ぱっと振り向く。


「ぼく?」


「水の道を見られるだろ」


「うん。でも、まだちょっとだけ」


「それでいい。全部見る必要はない。変だと思ったら知らせるだけ」


 ルカは胸元の小型灰印を押さえた。


 昨日の焦げ跡は、セイルが灰布で包み直してくれている。


「見る。ぼく、変な水ならわかる」


「頼む」


 頼む。


 その言葉に、ルカの顔が明るくなる。


 ネイラがそれを見て、ぽつりと言った。


「簡単に頼むんだな」


「嫌か」


「嫌ではない」


「なら、頼む」


「だから慣れないと言っている」


「慣れなくていい。必要な時に動いてくれればいい」


 ネイラは言い返せず、舌打ちした。


 その時、シェラが炉のそばから声を上げた。


「警告。外縁灰標に微弱反応」


 場の空気が一瞬で締まる。


 透は目を閉じた。


 外縁入口の灰標。

 黒炎標の少し外。

 骨蛇の顎罠を置いた辺り。


 そこに何かがいる。


 大きくはない。


 魔物の群れでもない。


 震えている。


 足を引きずるような動き。

 死骸の臭いではなく、生きた血の匂い。

 それに、鉄の焼けた臭い。


「人だ」


 透は言った。


 ガルドが目を細める。


「また落とされたか」


「一人。いや、二人かもしれない。片方はほとんど動いてない」


 ルカの顔が強張る。


「助ける?」


 透は即答しなかった。


 水が戻った直後だ。

 拠点はまだ安定していない。

 外へ出れば危険もある。


 だが、見えてしまった。


 灰標に震える生きた気配。


 奈落で動けなくなった者が、どれだけ早く死ぬかを透は知っている。


「バルザ」


「行く」


 バルザはもう爪を鳴らしていた。


「リィンは?」


 透が聞くと、リィンは封印針を手に取った。


「行く。封環かもしれない」


「ネイラ」


「追跡痕があるなら焼く」


「ルカは残れ」


 ルカが少しだけ不満そうにしたが、透は続けた。


「水番を見る役がいる。変な水が来たら知らせるのはルカだ」


 ルカは胸元の灰印を握り、真剣に頷いた。


「わかった。残る」


「セイルは水管。シェラは灰標を見てくれ」


「了解」


「ガルドは入口」


「承知」


 透は立ち上がった。


 リィンがすぐに眉を寄せる。


「トオルは残る」


「わかってる」


「立った」


「見送りだ」


「本当に?」


「本当に」


 リィンはじっと透を見た。


 透はため息をつく。


「今回は行かない。灰標で見る。右腕も使わない」


「左手も無理しない」


「わかった」


「嘘なら怒る」


「怒られたくないから守る」


 リィンは少しだけ頷いた。


 バルザ、リィン、ネイラが外へ出る。


 黒炎標が揺れ、外縁の灰幕が開いた。


 透は入口の内側で目を閉じる。


 バルザの灰印。

 リィンの青い封印。

 ネイラの黒炎。

 外縁灰標。


 それらを繋ぐ。


 水の時ほど濁らない。


 灰の道は、前より見えやすくなっていた。


 水骸の灰を少し喰った影響か、足場の圧や流れの向きがわかる。通路の床に残る薄い湿り、血の滴り、鉄の焼けた臭い。そういった情報が、灰を通じて透の中へ入ってくる。


 外へ出たバルザたちは、黒い杭痕を越えた。


 そこはまだ、透の灰杭が刻んだ黒灰色の溝を残している。


 一直線に床を喰い抜いた痕。


 見る者が見れば、ただの破壊ではないとわかるだろう。

 何かが、石床の芯を食い破った痕。


 ネイラがその溝をちらりと見た。


「これを、あいつがやったのか」


 バルザが笑う。


「ああ。やって倒れた」


「馬鹿か」


「リィンもそう思っている」


「言ってない」


 リィンは短く否定した。


 少し間を置いて、


「でも、近い」


「近いのか」


 ネイラは呆れたように言った。


 やがて、三人は灰標が震えていた場所へ辿り着いた。


 そこには、二人倒れていた。


 一人は痩せた男。

 背中に矢傷があり、服は王国の囚人服に近い。手首には粗末な鉄輪。処刑路から落とされた者に見える。


 もう一人は少女だった。


 透は灰標越しに、その姿を感じた。


 小柄。

 髪は短い。

 足に深い傷。

 胸元に割れた木札。


 木札には王国文字で何かが刻まれている。


 セイルがいれば読めただろう。


 だが、今の透でも一部はわかる。


 奴隷識別札。


 少女は奴隷だ。


 リィンが駆け寄り、封印針を構える。


「生きてる」


 バルザは周囲を見る。


「追ってきたやつがいるな」


 ネイラの黒炎が指先に灯る。


「追跡痕がある。王国の犬じゃない。商人の狩り札だ」


「商人?」


 バルザが低く唸る。


「奴隷商か」


 ネイラが少女の足元を見た。


 そこには、黒い札が貼りついていた。

 魔力で逃亡者の位置を知らせる追跡札。


 少女の血に反応して、じりじりと焼ける臭いを放っている。


 ネイラの目が冷たくなる。


「逃げた奴隷を、魔物の餌にして追跡痕だけ回収するつもりか」


 リィンが少女の足へ封印針を当てる。


「札、痛みを出してる」


 バルザの喉から低い唸りが漏れた。


 透の意識にも、それが伝わる。


 首輪。

 封環。

 追跡札。

 逃げた者を痛みで止める仕組み。


 灰置き場の空気が、透の中で冷える。


 水を奪おうとした虫とは違う。


 これは、人が人を縛るために作ったものだ。


 透は入口の内側で目を開けた。


 左手が無意識に握られている。


 床石が小さく軋んだ。


 ガルドが横を見る。


「透」


「……わかってる」


「まだ何も聞いていない」


「行かない」


「それを確認したかった」


 透は深く息を吐いた。


 怒りが、灰を揺らす。


 だが、今ここで暴れれば、リィンたちの邪魔になる。


 灰標を通じて、透は追跡札を見る。


 生きた肉には触れない。

 少女の血にも触れない。

 札に刻まれた魔力の焼け跡だけを見る。


 そこには命令線があった。


 逃亡者を痛ませる線。

 位置を送る線。

 所有者の刻印へ繋がる線。


 所有者。


 その言葉だけで、透の灰が鋭くなる。


「リィン。札の痛みだけ止められるか」


 意図が伝わる。


 リィンは頷き、青い封印を少女の足へかけた。


 少女の体がびくりと震える。


 ネイラが黒炎を細く伸ばす。


「追跡痕は焼く」


「位置は送らせるな」


 バルザが言う。


「もう送っている」


 ネイラの声は低かった。


「けど、途中で焼ける」


 黒炎が追跡札に触れた。


 札は燃えない。

 しかし、そこから伸びていた見えない線だけが、黒い火で焦げる。


 遠くへ向かっていた追跡の匂いが、途中で途切れた。


 透は灰を伸ばした。


 遠隔で、札の中の死んだ魔力へ触れる。


 リィンが痛みを止め、ネイラが追跡を焼き、透が所有者の刻印を削る。


 札が震える。


 少女が苦しそうに声を漏らす。


 透は奥歯を噛む。


 雑に喰えば、足の肉まで持っていく。

 焦れば、血に混じる。


 だから、細く。


 命令線だけを拾う。


 痛みを送る死んだ筋だけを砕く。


 灰が札の文字を撫でる。


 一文字。

 二文字。

 三文字。


 所有者を示す印が、灰になって剥がれた。


 追跡札が砕ける。


 少女の足から、黒い煙が上がった。


 ネイラの黒炎がそれを焼き払う。


 リィンが封印針で傷口を押さえる。


「止まった」


 透は息を吐いた。


 左手の爪が、自分の掌に食い込んでいた。


 痛みはある。


 まだ、痛みはある。


 それに少しだけ安心する。


 バルザは痩せた男を担ぎ上げる。


「こいつも連れて帰る」


 ネイラは少女を見下ろした。


「この子は?」


「私が抱く」


 リィンが言う。


 ネイラは一瞬だけリィンを見た。


「軽そうに見えて、足場が悪い。火を避けるなら私が持つ」


「ネイラが?」


「文句があるなら置いていくか」


「ない」


 リィンは短く答えた。


 ネイラは少女を抱き上げた。


 驚くほど慎重な手つきだった。


 黒炎を使う手とは思えないほど、壊れ物を扱うように。


 少女は意識を失っている。


 それでも、ネイラの服を小さく掴んだ。


 ネイラの表情が、一瞬だけ崩れた。


「……行くぞ」


 三人は灰置き場へ戻り始める。


 透はその気配を追いながら、入口で待った。


 しばらくして、灰幕が開く。


 バルザが痩せた男を担ぎ、ネイラが少女を抱き、リィンが後ろから封印針を構えて戻ってきた。


 灰置き場の者たちがざわめく。


 また増えた。


 水が戻った直後に、また救う者が増えた。


 不安がないわけではない。


 だが、透はそのざわめきの前に出た。


「水番を一組増やす」


 第一声がそれだった。


 誰も予想していなかったのか、場が止まる。


 透は続ける。


「人が増えた。水の量はまだ少ない。なら管理を増やす。怪我人には先に薄めた水を飲ませる。食料はガルドが見る。リィン、処置を頼む。セイル、札の文字を後で読め。ネイラ、追跡痕が残っていないか確認。バルザ、外縁に敵が来るかもしれない。見張れ」


 次々に言葉が出た。


 命令ではない。


 だが、迷いはなかった。


 バルザが牙を見せた。


「了解だ、主」


 透は否定しようとした。


 けれど、言葉が出なかった。


 今、否定している場合ではなかった。


 透はただ頷いた。


「ああ。頼む」


 バルザの笑みが深くなる。


 ガルドはそのやり取りを見て、静かに目を細めた。


 リィンは少女を寝かせ、封印針を並べる。


 ネイラは追跡札の燃え残りを黒炎で焼く。


 セイルは震えながらも石板を用意する。


 ルカは水番の石板へ、新しい器を一つ増やした。


 灰置き場が動く。


 新しく落ちてきた者を、ただ受け入れるのではない。


 場所を作る。

 水を分ける。

 追跡を断つ。

 傷を塞ぐ。

 外を警戒する。


 それは、小さな砦の動きだった。


 透は入口に立ったまま、外の暗闇を見た。


 奴隷商。

 追跡札。

 所有者の刻印。


 地上には、そういうものがある。


 王国だけではない。

 神殿だけではない。

 誰かを持ち物のように扱い、逃げた者を奈落へ落として、まだ追跡しようとする者たちがいる。


 透の中で、灰が静かに沈んだ。


 怒りは消えていない。


 ただ、形を変えた。


 いつか地上へ出た時。


 その時、何を見るのか。


 騎士か。

 冒険者か。

 商人か。

 勇者か。

 クラスメイトか。


 何であれ、誰かを鎖で縛り、名前を奪い、逃げた先まで痛みを送るものなら。


 透は左手を握った。


 石床は、もう割れなかった。


 力を抑えたからだ。


 抑えられる。


 それもまた、昨日とは違う。


「ここでは、所有者なんて認めない」


 小さな声だった。


 だが、近くにいたガルドには聞こえた。


 老騎士は静かに頷く。


「なら、その掟も刻むか」


 透は少しだけ考えた。


 それから言った。


「刻む」


 ガルドは石板を用意した。


 水の掟の下に、新しい一文が加えられる。


 一つ、この場所で人を所有しない。


 セイルの手が、その文字を刻む。


 彫られた線に、炉の灰が薄く入り込む。


 灰置き場の掟が、また一つ増えた。


 外では黒炎標が揺れ、水管からはぽたりと水が落ちる。


 そして入口の前で、透は静かに立っていた。


 もう、ただ拾われた少年ではない。


 拾う側に立った者。


 奪わせないと決めた者。


 その背中を、灰置き場の者たちは無言で見つめていた。


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