第36話 水を分ける者
水が落ちる音を、灰置き場の全員が聞いていた。
ぽたり。
灰溝の隣に置かれた古い石鉢へ、薄く青い水が落ちる。
ぽたり。
透明とは言えない。
まだ微かに灰色を帯びている。
けれど、黒く腐ってはいない。
腐水の臭いもしない。
奈落で水を知る者たちは、それだけで目の色を変えた。
「水……」
誰かが呟いた。
その一言が、空気を揺らした。
灰置き場の奥で横になっていた女が起き上がる。
焼き印の少年が骨棒を抱えたまま、石鉢を見つめる。
喉を押さえていた老人が、震える足で一歩前へ出る。
水瓶にはまだ水が残っている。
だが、貯蔵庫から持ってきた水は限りがあった。飲む量は決められ、怪我人と子どもが優先される。大人たちは喉を焼かれるような渇きに耐え、唾を飲み込むことすら惜しんでいた。
そこへ、水が戻ってきた。
ほんの一滴。
それだけで、全員の理性が薄く揺れる。
ぽたり。
また一滴。
焼き印の少年が、無意識に前へ出た。
それを責める者はいなかった。
誰もが同じことをしたかったからだ。
だが、少年の手が石鉢へ伸びる前に、透が言った。
「止まれ」
大きな声ではなかった。
怒鳴ってもいない。
それでも、灰置き場の空気が止まった。
少年の手が、水の手前で固まる。
透は壁にもたれていた。
右腕はまだ黒鎖で半ば固定され、脇腹には灰布が巻かれている。先ほど石管を片手で押さえたせいで、左手の指先にも細い裂け目が残っていた。
弱っているはずだった。
なのに、誰もその言葉を無視できなかった。
透はゆっくりと石鉢へ近づく。
足取りは重い。
だが、ぶれていない。
床石に足が触れるたび、灰が薄く震えた。
「まだ飲むな」
老人がかすれた声で言った。
「だが、水だ……」
「だからだ」
透は石鉢を見下ろした。
「水だから、最初に決める。誰が、どれだけ飲むか。どうやって汚さないか。誰が守るか」
誰も言い返さなかった。
けれど、沈黙の奥に渇きがある。
耐えられないほどの渇き。
透はそれを知っている。
奈落に落ちて、毒水を灰で濾して飲んだ時の喉の痛みを覚えている。
水を目の前にして待てと言われる苦しさも、想像できる。
だからこそ、ここで崩せない。
「ここでは奪わせない」
透は言った。
「水も、食い物も、寝る場所も、名前も。力のあるやつが先に取る場所にはしない」
バルザがいれば笑ったかもしれない。
だが、今はいない。
浄水室から戻る途中だ。
代わりに、ガルドが静かに頷いた。
「配分を決める。子ども、怪我人、熱のある者を先にする。大人はその後だ」
灰置き場の何人かが、苦しそうに顔を歪めた。
それでも、声を荒げる者はいなかった。
透が立っていたからだ。
ガルドが指示を飛ばす。
「水瓶を三歩下げろ。古い布は使うな。灰布を濾しに使う。シェラ、石鉢周辺の灰溝を見ろ。汚れが混ざったら止めろ」
「了解」
シェラの右目が青白く光る。
「水質、簡易確認開始」
透は石鉢の縁へ左手をかざした。
灰をほんの少しだけ落とす。
水に触れた灰が、ゆっくり沈む。
黒く濁らない。
腐った泡も出ない。
ただ、底の方で淡く揺れ、細い筋を作った。
「飲めるか」
ガルドが聞く。
「まだそのままは危ない。死んだ汚れが少し残ってる。炉の灰布を一度通す」
シェラが続ける。
「同意。微量腐水残滓を検出。浄化処理後、飲用可能性あり」
老人が目を伏せる。
「飲める、のだな」
「飲めるようにする」
透は答えた。
その言葉に、灰置き場の奥で誰かが泣いた。
声を殺した、細い泣き声だった。
透は振り向かない。
振り向けば、自分まで何かが緩みそうだった。
その時、外縁の灰標が震えた。
黒炎標ではない。
入口でもない。
浄水室と灰置き場を繋ぐ新しい水管、その途中。
細く、嫌な震え。
透の意識がそちらへ向く。
水の流れに、何かが混じっている。
虫に似ている。
魚にも似ている。
黒い水滴のような体を持ち、石管の内側を這ってくる小さなもの。
一匹ではない。
何匹もいる。
「水から離れろ」
透の声が低くなった。
ガルドが即座に動く。
「全員、後ろへ!」
石鉢へ手を伸ばしかけていた者たちが下がる。
次の瞬間、石鉢に落ちる水が黒く跳ねた。
水滴ではない。
小さな黒い虫が、石鉢の中から飛び出した。
丸い胴体。
細い脚。
口だけが異様に大きく、内側に針のような歯が並んでいる。
それは水を飲むための虫ではなかった。
水を腐らせるための虫。
灰置き場に流れ込む清水を嗅ぎつけ、管の内側から紛れ込んできたものだ。
虫は跳ね、近くにいた焼き印の少年の喉へ飛びかかった。
透が動いた。
誰も、動き始めを見られなかった。
負傷しているはずの少年の体が、灰の線を残して一歩分消える。
次に見えた時には、透の左手が黒い虫を掴んでいた。
指が閉じる。
ぐしゃ、と湿った音がした。
虫の体が潰れ、黒い水が飛び散る。
だが、その水が少年へ触れる前に、透の灰が薄く広がって受け止めた。
死んだ汚れだけを拾い、灰溝へ落とす。
焼き印の少年は、息を忘れたように透を見上げていた。
透の目は、石鉢を見ている。
また一匹。
水の中から黒い虫が跳ねる。
さらに二匹。
石管の奥から、黒い点が次々に押し出されてくる。
シェラが告げる。
「腐水寄生体。清水経路汚染目的と推定」
「数は」
「現在確認、十二。増加中」
ガルドが骨杭を構えた。
「水管から引き出すな。ここで散れば、水が汚れる」
「わかってる」
透の声は静かだった。
だが、静かすぎた。
ガルドはその声音に、かすかな危険を感じた。
透は石鉢の前に立つ。
左手の中で潰した虫の残骸が、灰になって崩れた。
その灰が透の皮膚へ吸い込まれる。
腐った水の中を這う感覚。
清水を濁らせるための本能。
管の内側の狭い道。
群れの繋がり。
いらないものが多い。
喰えば濁る。
だが、道だけは使える。
透は目を細めた。
石管の奥にいる虫たちの動きが見える。
正確には、石管の内側にこびりついた死んだ汚れの震えがわかる。
虫がそこを這うたび、汚れが動く。
水は苦手だ。
だが、汚れは灰の領分だ。
透は左手を石鉢の水面へ近づけた。
リィンはいない。
黒鎖は右腕に固定されているだけ。
止める声は、ここにはない。
それでも、透は暴れないよう灰を絞った。
水は喰わない。
清水は触らない。
腐った虫と、虫が持ち込んだ死んだ汚れだけを見る。
石鉢の水面に、灰色の筋が浮かぶ。
次の瞬間、石管の中で何匹もの虫が一斉に動きを止めた。
ガルドが目を細める。
「何をした」
「足場を消した」
透は短く答えた。
虫たちは石管の内側にこびりついた腐水の膜を足場にしていた。
透はその膜だけを喰った。
生きた虫には直接触れない。
水にも触れない。
だが、足場を失った虫は流れに耐えられず、清水の中で回転する。
そこへ、灰が細く伸びる。
針ではない。
網でもない。
石管の中に浮かぶ死んだ汚れを拾い集め、虫たちの周囲だけを縛る灰の輪。
虫が暴れる。
水が跳ねる。
透のこめかみに痛みが走った。
水路を遠隔で読むよりは近い。
だが、水管の中の細い動きを捉えるのは、かなり神経を削る。
それでも、透は表情を変えなかった。
「シェラ、灰溝を炉へ」
「開放済み」
「ガルド、石鉢を動かすな。揺らすと水に散る」
「承知」
透は左手を握った。
石管の中で、灰の輪が締まる。
虫たちの体が次々に潰れた。
水管の奥から、黒い濁りが押し出される。
シェラが灰溝を開き、死んだ汚れだけを炉へ送る。
炉が鳴る。
焦げた臭いが広がる。
だが、石鉢の水は黒くならない。
灰が、濁りを水の手前で拾っていた。
それでも、最後の一匹が灰の輪から逃れた。
そいつは他より大きかった。
丸い胴が裂け、中から細い舌のようなものを伸ばす。水管の内壁に張りつき、清水の流れを逆らって進む。
狙いは水瓶ではない。
人だ。
水を待つ者たちの喉。
虫は石鉢から飛び出し、今度はルカよりさらに幼い子どもの口元へ跳ねた。
ガルドが動くより早く、透が踏み込んだ。
床石が割れる。
その音に、灰置き場の全員が肩を震わせた。
透は虫の前に出る。
左手を振るう。
速い。
刃でも鎖でもない。
ただの素手。
だが、その手刀が虫の胴を空中で叩き落とした。
虫は床に叩きつけられ、跳ねようとする。
透の足がその上に落ちた。
踏む、というより、潰す。
石床がへこみ、虫の体が黒い水ごと平たく潰れた。
透の灰がそこへ落ちる。
汚れを拾い、死んだ魔力を炉へ送る。
何も残さない。
水を狙った虫の痕を、一欠片も残さない。
透は足をどけた。
そこには、黒い染みすらほとんどなかった。
ただ、石床に小さな円形のへこみがある。
踏み抜いた跡。
それを見た灰置き場の者たちは、息を呑んだ。
透は怒鳴っていない。
声を荒げてもいない。
けれど、その背中から滲むものが違った。
水を奪おうとするもの。
やっと戻った一滴を汚そうとするもの。
子どもの喉へ飛び込もうとするもの。
それを許さないという、冷たい怒り。
ガルドは初めて、透の中にあるものをはっきり見た気がした。
これはただの優しさではない。
拾う者の怒りだ。
奪わせない者の怒りだ。
透は石鉢へ戻る。
左手を水の上へかざし、灰を細く落とす。
しばらくして、シェラが告げた。
「腐水寄生体、反応消失。水質、再確認。灰布濾過後、少量飲用可能」
灰置き場に、深い息が広がった。
透は振り返った。
さっき水へ手を伸ばしかけた少年が、まだ固まっている。
その後ろで、幼い子どもが泣きそうな顔をしていた。
透は少しだけ息を吐く。
怒りを飲み込む。
それから、言った。
「最初の水は、あの子に」
幼い子どもが目を見開く。
女が子どもを抱き寄せた。
「でも……」
「虫に狙われた。汚れが残ってたら一番危ない。確認も兼ねる。少量だけ」
理由をつけた。
ただ与えるのではなく、必要だからと言った。
そうすれば、大人たちも受け入れやすい。
ガルドがすぐに続ける。
「聞いたな。灰布を二重に通せ。最初は小匙一杯だ。急に飲ませるな」
老人が頷く。
「そうだ。乾いた体に急に水を入れれば、腹を壊す」
小鳥のように震えていた女が、深く頭を下げる。
「ありがとうございます……」
透は首を振った。
「俺じゃない。水を開けたのは、外に行った連中だ」
その時、外縁の灰印が揺れた。
バルザたちが戻ってくる。
足音。
水の匂い。
血の匂い。
黒炎の残り香。
リィンの封印針の青い気配。
ルカの小型灰印の温かい点。
透は入口へ目を向けた。
しばらくして、灰幕が揺れた。
最初に入ってきたのはバルザだった。
肩は焼け、腕には黒泥がこびりつき、爪の間には浄水核の汚れが残っている。だが、牙を見せて笑っている。
「戻ったぞ」
その後ろからルカが顔を出した。
「水、流れた?」
「ああ」
透が答える。
「流れた」
ルカの顔がぱっと明るくなる。
「やった」
だが、その胸元の小型灰印は少し焦げていた。水路の負荷を受けたのだろう。
リィンが続いて入ってくる。
彼女は透を見るなり、すぐに眉を寄せた。
「何したの」
「水管から虫が来た」
「それで?」
「止めた」
リィンは透の左手を見る。
指先の裂け目。
床に残った踏み跡。
石鉢の周囲に残る灰の筋。
全部見て、静かに言った。
「あとで処置」
「わかってる」
「逃げない」
「逃げない」
ネイラがその後ろから入り、石鉢を見た。
「本当に水が出ている」
「そっちが開けたからだ」
透が言うと、ネイラは顔を逸らした。
「私は焼いただけだ」
「それが必要だった」
「……そうか」
セイルは最後に入ってきた。
疲労で足元がふらついているが、鍵束を胸に抱えている。
「浄水室は完全復旧ではありません。でも、細い清水経路は開きました。定期的に封印と灰の処理が必要ですが、水は、少しずつ送れます」
その言葉に、灰置き場の者たちが一斉にざわめいた。
水が送れる。
少しずつでも。
生きる場所になる。
ガルドが手を上げ、静める。
「騒ぐな。水は逃げん。だが、汚せば終わる。これから規則を決める」
透は石鉢の前に立ったまま言った。
「水は共有する。隠して持つな。奪うな。汚した者は、まず自分で灰溝を掃除する。怪我人、子ども、術式を扱う者、外へ出る者を優先する」
誰かが小さく言った。
「それは、王様みたいだな」
場が静かになった。
言った本人も、しまったという顔をした。
透はその声の方を見た。
以前なら、否定していた。
王じゃない。
そんなつもりはない。
勝手に言うな。
そう言っていたかもしれない。
だが、今は違った。
水を前にして、全員が自分を見ている。
誰が飲むか。
誰が守るか。
どう分けるか。
その決まりを、自分が口にした。
それを誰も笑わない。
透はゆっくり息を吸った。
「王様かどうかは知らない」
彼は言った。
「でも、ここで奪わせないと決めるやつは必要だ」
灰置き場の奥で、炉が低く鳴った。
バルザが牙を見せて笑う。
「いいじゃねえか」
ガルドは何も言わず、ただ頷いた。
リィンは透を見つめていた。
心配と、少しだけ違う感情を混ぜた目で。
ルカは胸元の灰印を握り、嬉しそうに笑った。
ネイラはそっぽを向いたまま、けれど否定しなかった。
シェラが淡々と告げる。
「灰置き場、水資源確保。防衛段階二、達成条件を更新。生活維持能力、上昇」
透は石鉢を見る。
灰布を通された最初の水が、小さな器に注がれている。
幼い子どもが、それを両手で受け取った。
母親に支えられながら、ほんの少しだけ口をつける。
水を飲む音。
ただそれだけの音が、灰置き場に響いた。
子どもは目を丸くした。
それから、泣き出した。
苦しいからではない。
嬉しいからでもない。
たぶん、体が水を思い出したのだ。
その泣き声を聞いて、透は目を閉じた。
水を取り戻した。
次は、もっと必要になる。
水。
食料。
武器。
道。
帰る場所。
守る力。
そして、奪いに来るものを踏み潰す力。
透の左手が、かすかに灰色に光る。
指先の傷はもう塞がりかけていた。
その治りの速さを、ガルドが無言で見ている。
地上の兵士なら、今の傷だけでも数日は剣を握れない。
冒険者なら治療師を探す。
騎士なら包帯を巻き、休ませる。
けれど透は、もう次を見ていた。
奈落では、それが普通になりつつある。
いや、普通にならなければ死ぬ。
透は水を飲む子どもを見て、静かに思った。
奪うなら、許さない。
灰置き場に落ちた小さな水音は、ただの救いではなかった。
そこから、この場所の決まりが生まれた。
そしてその決まりを口にした少年の背に、灰置き場の者たちは初めて、ただの生存者ではない何かを見始めていた。




