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第35話 浄水室の底

 扉が開いた瞬間、冷たい匂いが流れ出した。


 澄んだ水の匂い。


 腐った水の匂い。


 その二つが混ざり合い、喉の奥に重く張りつく。


 バルザは鼻に皺を寄せた。


「水の匂いってのは、もっとましなもんだと思ってたがな」


 セイルが鍵束を握ったまま、青い顔で中を覗く。


「本来なら、ここは奈落下層の地下水脈から水を引き、汚れを沈め、灰置き場や保守室へ最低限の清水を送る設備だったはずです」


「今は?」


 ネイラが問う。


「半分、死んでいます」


「残り半分は?」


 セイルは喉を鳴らした。


「死にきれずに、腐っています」


 扉の奥には、広い円形の空間があった。


 天井は高く、黒い水滴のような鍾乳石がいくつも垂れている。壁には太い石管が何本も通り、その一部は割れ、黒い水を吐いていた。


 床の中央には巨大な水槽。


 深く、丸い。


 縁には古い封印文字と浄水術式が刻まれている。

 だが、その多くは黒い苔に覆われ、文字の隙間から腐った泡が滲み出していた。


 それでも、水槽の奥には光があった。


 底の方で、かすかに青白い水が揺れている。


 完全に死んではいない。


 まだ、澄ませる力が残っている。


 ルカが胸元の小型灰印を握りしめた。


「水、ある」


「ああ」


 リィンが静かに頷く。


「でも、触る前に起きる」


 その言葉の直後、水槽が大きく震えた。


 どぷん、と重い音が響く。


 水面が盛り上がった。


 黒い水の中から、巨大な頭が浮かび上がる。


 魚ではない。

 蛇でもない。

 顔は人に似ていた。だが、目はなく、口だけが横に裂けている。頭部からは石管が何本も生え、水草のように揺れていた。


 その体は水槽の底へ沈んでいる。


 見えているだけで、バルザの背丈の何倍もあった。


 セイルが息を呑む。


「浄水核……」


「核?」


「浄水室の中心です。本来は水を通し、汚れだけを沈めるための魔導核。それが、水骸や腐水を吸いすぎて、守護獣化している」


 巨大な顔が口を開いた。


 声ではなく、水が鳴った。


「みず……わたさぬ……」


 水槽の周囲にある石管が一斉に震える。


 床の水が持ち上がり、黒い槍のように伸びた。


 バルザが叫ぶ。


「散れ!」


 水槍が飛ぶ。


 リィンが封印針を展開する。青い線が空中で輪を描き、正面の三本を止めた。


 バルザは一歩踏み込み、飛んできた水槍を拳で殴り砕く。


 水は砕けない。


 だが、水槍の芯に混じっていた骨片が砕け、形を保てなくなって床へ落ちた。


 ネイラは横へ跳び、指先から黒炎を走らせる。


 黒炎は水面の上を滑り、腐った泡だけを焼いた。


 じゅう、と嫌な音がして、水槽の一部が黒く焦げる。


 だが、巨大な顔は沈まない。


「浅い」


 ネイラが舌打ちする。


「水の底までは届かない」


 ルカは壁際に身を寄せ、足元の流れを見ていた。


 水槽から溢れた水が、床の溝へ流れている。

 だが、流れ方がおかしい。


 外へ流れず、水槽へ戻っている。


 まるで、浄水室そのものが水を抱え込んでいるようだった。


「出したくないんだ」


 ルカが言った。


「水を、外に出したくない」


 セイルが術式石をかざす。


「浄水核が、水を守る命令を歪めているんです。本来は汚れから水を守る。でも今は、誰にも渡さないことを守ると認識している」


「なら、説得するか?」


 バルザが水槍を避けながら言う。


「聞く耳があるようには見えんな」


 巨大な顔が再び水を鳴らした。


「わたさぬ……かわく……みな……かわく……わたせば……なくなる……」


 リィンが眉を寄せる。


「水がなくなるのを恐れてる」


「守っているつもりなのか」


「うん。でも、閉じ込めすぎて腐らせてる」


 ネイラが低く言う。


「よくある話だな」


 その声には、どこか自嘲が混じっていた。


 灰置き場では、透がその声を遠くで聞いていた。


 正確な言葉ではない。


 だが、灰印と灰標を通じて、浄水室の重さが伝わってくる。


 水がある。


 けれど、死んだ水と生きた水が絡まり合っている。


 透の体の奥で、灰がざわめいた。


 水骸たちを眠らせた時に立ち上った薄い灰。

 リィンたちの足元に残った、浄水作業員の残滓。


 それが灰標を通じて、かすかに透へ届いていた。


 喰える。


 水路を知る灰。

 流れを知る灰。

 水を沈め、汚れを分ける役目を覚えた灰。


 喰えば、力になる。


 だが、水路は遠い。

 無理に喰えば、逆に腐水の重さを引き込む。


 透は奥歯を噛んだ。


 右腕が熱を持つ。


 リィンはいない。

 黒鎖を完全には押さえられない。


 ガルドが横から言った。


「無理をする顔だ」


「まだ何もしてない」


「する前の顔だ」


 透は苦笑しようとして、できなかった。


 その時、灰置き場の奥で鈍い音がした。


 水瓶の近く。


 古い石管が震えている。


 浄水室の扉が開いた影響で、死んでいた水路が一部だけ繋がったのだろう。灰置き場の壁に埋まっていた石管から、黒い水が滲み始めていた。


 ルカたちが向かった先から、逆流がこちらにも届きかけている。


 ガルドが即座に動く。


「水瓶を下げろ! 骨網を閉じろ!」


 灰置き場の者たちが慌てて動く。


 だが、黒水の滲みは早い。


 壁の石管が内側から膨らみ、割れようとしていた。

 あれが破裂すれば、水瓶も保存食も汚染される。


 透は立ち上がった。


 リィンに止められていないからではない。


 止める者が今、外にいるからだ。


 ガルドが振り向く。


「透」


「右腕は使わない」


「そういう問題ではない」


「わかってる」


 透は壁へ向かった。


 脇腹の灰補修が軋む。

 右腕の手甲が熱い。

 体のあちこちが、まだ休めと訴えている。


 それでも、足は動いた。


 以前なら立ち上がるだけで息が切れていた傷だ。

 だが、今は歩ける。


 痛みはある。


 けれど、体が崩れない。


 灰が骨を支え、筋を繋ぎ、内側から補強している。補修だけではない。奈落で喰ってきた死骸の灰、骸骨兵の灰、灰切り虫の灰、黒膜の残滓、腐水腕の骨粉。それらが、透の体の奥で少しずつ形を変えていた。


 膂力。

 反応。

 握力。

 踏み込み。

 痛みに耐える力。


 全部が、前の自分から離れている。


 透は石管の前に立った。


 石管が割れる。


 黒水が噴き出そうとした瞬間、透は左手で石管を掴んだ。


 指が石に食い込む。


 自分でも、少し驚いた。


 硬い石管の縁が、粘土のように軋む。


 透は左手だけで、膨らんだ石管を握り潰すように押さえた。


 黒水の勢いが止まる。


 ガルドの目がわずかに見開かれた。


「お前……」


「今の、俺も少し驚いた」


 透は低く言った。


 冗談ではなかった。


 力を入れたつもりはある。


 だが、石がここまで沈むとは思わなかった。


 右腕ではない。


 灰殻の手甲も使っていない。


 左手。


 ただの肉体の力。


 それが、石管を押さえている。


 黒水はまだ暴れようとする。

 石管の奥から圧がかかる。


 透は足を踏みしめた。


 床石が小さく割れた。


 体重をかけたわけではない。

 ただ、踏ん張っただけ。


 なのに、石にひびが入る。


 透の中で、灰が低く鳴った。


 ここまで来ている。


 技だけではない。

 自分の体そのものが、奈落に合わせて作り替わっている。


 怖さはあった。


 だが、今は使う。


「ガルド、骨杭」


「右下だな」


「そう」


 説明しなくても、ガルドは理解した。


 石管の割れ目に、黒水の圧が集中している。そこへ骨杭を斜めに打ち、圧を逃がす隙間を作る。


 ガルドが骨杭を構える。


「どけるか」


「三つ数えたら、少し緩める」


「任せろ」


 透は呼吸を整える。


「一」


 黒水が内側で暴れる。


「二」


 水瓶の近くにいた者たちが息を呑む。


「三」


 透は左手を少しだけ緩めた。


 黒水が噴き出しかける。


 その瞬間、ガルドの骨杭が割れ目へ打ち込まれた。


 ごん、と重い音。


 骨杭が石管と壁の間に刺さり、黒水の流れを横へ逸らす。汚れた水は保存食の方ではなく、灰溝へ流れ込んだ。


 透はすぐに左手へ力を戻す。


 石管が完全に潰れ、黒水の噴出が細くなった。


「シェラ!」


 透が呼ぶ。


 炉のそばに座っていたシェラの右目が光る。


「灰溝、開放」


 彼女の指先から細い灰の線が走り、床の溝に溜まっていた灰が動いた。黒水に触れた死魔力だけを拾い、炉の方へ送る。


 炉が低く鳴る。


 灰置き場の中に、焦げた臭いが広がった。


 黒水の勢いが落ちる。


 透はようやく石管から手を離した。


 左手の指先がじんじんしている。


 皮膚は切れている。

 だが、骨は折れていない。


 むしろ、指先の傷は灰で薄く塞がり始めていた。


 ガルドが透の左手を見た。


「今の石管、騎士二人でも押さえられんぞ」


「そうなのか」


「そうなのか、ではない」


 ガルドの声は低い。


 怒っているのではない。


 警戒している。


 透の変化を、老騎士として正確に見ているのだ。


「自分の体の変化を甘く見るな。お前はもう、ただの少年の力ではない」


 透は左手を握った。


 石を掴んだ感触が残っている。


 怖いほど、はっきりと。


「わかってるつもりだった」


「つもりでは足りん」


「……ああ」


 灰置き場の奥で、黒水は灰溝へ流れ、炉で焼かれている。危機はひとまず止まった。


 だが、浄水室側はまだ終わっていない。


 透は目を閉じる。


 意識を灰印へ戻す。


 浄水室では、戦いが続いていた。


 巨大な浄水核が水槽からさらに身を起こし、石管の触手を振るっている。水槍だけではない。床の水を吸い上げ、足元を奪い、壁の苔を剥がして刃のように飛ばしてくる。


 バルザは正面でそれを受けていた。


 巨体が一歩踏むたび、水が跳ねる。

 爪で石管を裂き、拳で水の芯を砕き、毒水を肩で受けても退かない。


 だが、水の敵は相性が悪い。


 殴っても流れる。

 裂いても戻る。

 芯を砕かなければ終わらない。


 ネイラの黒炎は、腐った泡や死魔力には効く。

 しかし水槽の深部までは届かない。


 リィンは封印針で水の動きを抑えているが、全体を封じるには広すぎる。


 セイルは術式石を見ながら叫んだ。


「浄水核の底に、汚れを沈めるための沈殿核があります! そこが腐っています! あれを止めれば、清水の流れを戻せるはずです!」


「底か」


 バルザが水槽を見る。


 深い。


 黒い。


 底は見えない。


「潜れと?」


 ネイラが不機嫌そうに言う。


「私は無理だ」


「俺も泳ぎは得意じゃないな」


 バルザが笑う。


「獣人なのに?」


「獣人にも色々いる」


 ルカが水槽の縁へ近づき、覗き込んだ。


 リィンがすぐに腕を掴む。


「危ない」


「下に道がある」


「道?」


「水の底じゃなくて、横。汚れを沈める穴がある。そこに灰、残ってる」


 ルカの胸元の小型灰印が、かすかに温かく揺れている。


 透はそれを感じた。


 ルカが読んでいる道。


 水底ではない。

 水槽の横、沈殿核へ繋がる細い排出孔。


 生きた水は苦手だ。


 だが、沈殿核に溜まっているのは死んだ汚れ。

 そこなら、灰が届く。


 透は灰置き場で左手を膝に置いた。


 右腕は使わない。

 左手も今ので痛む。


 けれど、喰うのは手ではない。


 道を示すのは、灰標と灰印。


 ルカの小型灰印。

 バルザの灰印。

 リィンの封印。

 ネイラの黒炎。

 セイルの術式。


 それらを、細く一つに繋ぐ。


 透は息を吸った。


 水骸の灰が、まだ水路に漂っている。


 ラドム。

 ミナへ水を届けた誰か。

 オルグ。


 彼らの役目の灰。


 水を守るために生き、腐った後も水を渡さなかった者たちの残り。


 透はその灰へ触れた。


 全部は喰わない。


 名前は喰わない。


 役目の残りだけを、少しもらう。


 水路を知る灰。


 沈める灰。


 汚れを分ける灰。


 それが透の中へ流れ込んだ。


 胸の奥が冷たくなる。


 血管の中に水が入ったような感覚。

 肺が重くなり、耳の奥で水音が鳴る。


 同時に、体の感覚が変わった。


 力を入れる場所がわかる。


 水に押されるのではなく、流れを受けて立つ感覚。

 筋肉を固めるのではなく、圧を逃がす感覚。

 踏み込みの時、床を割るほど力を入れるのではなく、力を通す方向を選ぶ感覚。


 単なる技能ではない。


 体の使い方そのものが、灰に補正されていく。


 透は目を開いた。


「ルカ」


 声は届かない。


 だが、小型灰印が反応する。


 ルカの胸元が温かくなった。


 ルカは振り向く。


「トオルが、道を見てる」


 リィンが頷く。


「どこ」


「水槽の横。黒い穴。そこに、汚れの芯」


 セイルが術式石を向ける。


「ありました! 沈殿核への排出孔です!」


「どう壊す」


 バルザが問う。


 透の意図が、灰印を通じて流れる。


 壊すのではない。


 詰まりを抜く。


 腐った汚れだけを引き出し、ネイラの黒炎で焼く。

 同時にリィンが逆流を封じ、セイルが旧術式へ清水の道を戻す。


 バルザが笑った。


「また面倒なことを考える」


 ネイラが睨む。


「誰が焼くと思ってる」


 リィンが言う。


「ネイラ」


「知ってる」


 バルザは水槽の縁へ踏み込んだ。


 浄水核が巨大な口を開ける。


 水槍が一斉にバルザへ向かう。


 リィンの封印針がそれを止める。

 青い輪がいくつも開き、水槍の速度を殺す。


 バルザは止まった水槍を肩で砕きながら、水槽の横へ到達した。


 そこに黒い穴がある。


 大人の腕一本が入るほどの排出孔。

 中は黒い泥と骨粉で詰まっている。


「ここか」


 透の灰が、バルザの灰印から細く伸びる。


 バルザの爪に、灰が薄く絡む。


 命令ではない。


 握る場所を示すだけ。


 バルザはその感覚に従い、排出孔へ爪を突っ込んだ。


 黒い泥が暴れる。


 腕へ絡みつく。


 毒が皮膚を焼く。


 バルザは牙を剥いた。


「ぬるい!」


 彼は泥の奥にある硬い芯を掴んだ。


 腐った沈殿核の欠片。


 それを引き抜く。


 水槽全体が悲鳴を上げた。


「みず……わたさぬ……!」


 浄水核が暴れる。


 石管の触手がバルザの背中を打つ。


 リィンが封印針を投げる。


 ネイラの黒炎が走り、引き抜かれた黒泥に触れる。


 黒炎は水には鈍い。


 だが、死んだ汚れには食いついた。


 黒泥の中に溜まっていた死魔力が、内側から燃えた。


 ぼう、と黒い火が咲く。


 ネイラが歯を食いしばる。


「重い……!」


「持つ?」


 リィンが問う。


「持つ!」


 黒炎が沈殿核の腐りを焼く。


 セイルが術式石を掲げ、旧浄水術式へ線を繋ぐ。


「今です! 清水側の門を開きます!」


 青白い文字が壁に走った。


 古い石管が震える。


 ずっと閉じていた清水の道が、ぎしぎしと音を立てて開く。


 浄水核の巨大な顔が歪んだ。


 黒い水が剥がれる。


 その下から、青白い水の光が現れる。


 まだ濁っている。

 だが、確かに澄んだ流れだ。


 ルカが叫んだ。


「流れた!」


 その声と同時に、水槽から細い清水が石管へ流れ込んだ。


 浄水室の奥にある管を通り、灰置き場の方へ向かう。


 灰置き場では、潰れた石管の隣にある別の細い管が震えた。


 透明とは言えない。


 けれど、さっきの黒水とは違う。


 薄く青い水が、一滴、灰溝の隣へ落ちた。


 ぽたり。


 透はそれを見た。


 ガルドも、シェラも、灰置き場の者たちも見た。


 もう一滴。


 ぽたり。


 水だ。


 飲めるかどうかは、まだ確認が必要だ。


 だが、浄水室から水が戻ってきた。


 透は静かに息を吐いた。


 浄水室側では、巨大な浄水核が水槽の中へ沈み始めていた。


 完全に倒したわけではない。

 腐った部分を焼き、詰まりを抜き、清水の道を開いただけ。


 まだ奥に残っている。


 しかし、守護獣はもう暴れていない。


 リィンが水槽の縁へ封印針を打つ。


「眠って。水は、流れていい」


 浄水核の口がかすかに動いた。


「ながす……みず……」


「うん」


 ルカが言う。


「みんなで飲む」


 水槽の奥で、青白い光が揺れた。


 それは返事のようだった。


 セイルはその場にへたり込んだ。


「開いた……本当に、開いた……」


 バルザは排出孔から腕を引き抜く。


 腕は焼け、黒泥にまみれ、ところどころ皮膚が剥がれていた。


 だが、笑っている。


「水は取れたな」


 ネイラは黒炎を消し、荒い息を吐いた。


「水場は嫌いだ」


 リィンが言う。


「でも、助かった」


「だから、礼は」


「頼ってよかった」


「……それもやめろ」


 ルカは胸元の灰印を握りしめた。


「戻ろう。水の道、できた」


 その言葉に、全員が頷いた。


 灰置き場では、透が壁にもたれた。


 体が重い。


 水骸の灰を少し喰った反動だ。

 だが、ただ疲れただけではない。


 体の奥に、新しい感覚が残っている。


 流れを読む感覚。

 圧を受ける感覚。

 力を逃がす感覚。


 そして、左手には石管を握り潰した感触。


 透は自分の掌を見た。


 傷はすでに薄く塞がっている。


 人間の治り方ではない。


 でも、それで水を守れた。


 ガルドが静かに言う。


「透」


「ああ」


「お前の体は、もう地上の兵士の基準では測れん」


 透は少しだけ目を細めた。


「地上の兵士って、どのくらいなんだ」


「王国正規兵なら、鍛えている。冒険者の上位にも強い者はいる。だが、今の石管を片手で押さえる者はほとんどおらん」


「ほとんど?」


「上澄みの中の上澄みだ。それも無傷では済まない」


 透は黙った。


 まだ自分は動けないと思っていた。

 実際、灰杭は使えない。灰装も危ない。右腕は焼けている。


 それでも、ただの膂力だけで、地上の兵士を超え始めている。


 奈落では、それでも足りない。


 水路の敵には工夫がいる。

 腐水の腕には灰杭が必要だった。

 喰屍や追跡魔や水骸は、少し間違えれば死ぬ。


 だから、実感が薄かった。


 この程度では、まだ足りないと思っていた。


 透は左手を握る。


「奈落の方が、基準がおかしいんだな」


 ガルドは低く笑った。


「今さら気づいたか」


「少しだけ」


 地上に出た時、自分は何を見るのだろう。


 勇者。

 騎士。

 冒険者。

 王国兵。


 かつて、自分を何もできない外れ職として見下した場所。


 そこに戻った時、この奈落で死にかけながら得た力は、どう見えるのか。


 透はまだ知らない。


 だが、少なくとも今の自分は、落とされた日の自分ではない。


 水が、ぽたりと落ちる。


 その音は小さい。


 けれど、灰置き場の者たちは誰も目を逸らさなかった。


 奈落の底に、水が戻り始めた。


 そして透の体もまた、奈落の底で、人の限界から少しずつ離れ始めていた。


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