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第34話 水路に沈む声

 水音が、通路の奥から響いていた。


 ぽたり、ぽたり、ではない。


 もっと深い。


 岩の下を太い流れが這い、古い石管の中で何度も折れ曲がり、どこかで淀み、どこかで腐り、それでもまだ流れようとしている音だった。


 バルザは先頭を歩いていた。


 右腕には灰印(かいいん)

 首には封環の焼け跡。

 爪には灰切り虫の鋏粉を擦り込んである。


 外縁の戦闘で得た小さな強化だが、効果はあった。石壁に爪を立てると、以前より深く入る。骨を裂く時も、少し引っかかりが少ない。


 バルザはそれを気に入っていた。


「悪くない」


 彼が呟くと、後ろを歩くネイラが鼻を鳴らした。


「爪を研いで喜ぶとは、獣人らしいな」


「爪も牙も、自分のものだからな。お前の火と同じだ」


「同じにするな」


「似ているだろ」


「似ていない」


 ネイラはそう言いながらも、指先に黒炎を細く灯していた。


 黒炎は水路に近づくほど揺れ方が鈍くなる。空気中の湿り気が、黒炎の周囲に薄い膜を張るようだった。だが、完全に消えるわけではない。


 燃やす相手を選べば、まだ使える。


 その後ろで、ルカが慎重に足元を見ていた。


 胸元には小型の灰印。

 布片に炉の灰を染み込ませた、軽い戻り印。


 ルカは時々、胸に手を当てる。


 そこに灰置き場の匂いがある。


 炉。

 水瓶。

 骨杭。

 透の灰。

 戻る場所。


 奈落の道は、人の名前も方向も奪う。けれど、今のルカには小さな芯があった。


「こっち、湿ってる」


 ルカが言った。


 通路は二つに分かれていた。


 左は暗く、乾いた灰が積もっている。

 右は床に薄く水が流れ、壁には青黒い苔が張りついている。


 セイルが術式石を見ながら頷く。


「右です。古い浄水術式の線が残っています。かなり腐っていますが、流れは右へ続いています」


 リィンは封印針を構え、壁の青黒い苔を見た。


「触らない方がいい」


「毒か?」


 バルザが問う。


「毒というより、記憶を吸う苔。水に触れたものの名前を薄く削る」


 ルカが小さく頷いた。


「灰道の川より弱い。でも、いっぱい踏むと迷う」


「面倒だな」


「奈落だから」


 ルカがそう言うと、バルザは笑った。


「いい返しだ」


 その言葉は、灰印を通じて透にも届いた。


 灰置き場の壁際で、透は目を閉じていた。


 直接の声は聞こえない。

 だが、灰印と灰標を通じて、仲間たちの位置と揺れはわかる。


 バルザの重い気配。

 ルカの小さな点。

 リィンの青い封印の輪郭。

 セイルの術式石の震え。

 ネイラの黒炎の熱。


 それらが、暗い水路へ向かっている。


 透の横にはガルドが立っていた。


 骨杭を手にし、入口を見ている。

 シェラは炉のそばに座り、右目を青白く光らせていた。


「接続状態は」


 ガルドが聞く。


「まだ大丈夫。水路に入ると、少しぼやける」


 透は答えた。


 水は灰域の苦手なものだ。


 灰は流される。

 死んだ魔力は水に薄まり、床や壁の揺れも鈍くなる。

 特に今のように、透自身が動けない状態では、無理に深く覗くと頭の奥が痛む。


 リィンがいない分、黒鎖の制御も弱い。


 透は右腕を見た。


 灰殻の手甲には、まだ焼けた灰路が残っている。シェラが仮補修を入れたとはいえ、無理に灰を通せばまた煙を吐くだろう。


 だから、左手を膝に置いたまま、呼吸だけで灰を抑える。


 見る。

 追わない。

 繋ぐ。

 引っ張らない。


 戻る場所でいる。


 リィンに言われた言葉を、胸の中で繰り返した。


 水路側で、バルザたちは右の道へ進んだ。


 足元の水は浅い。


 だが、一歩踏むたび、冷たさが足首を舐める。水の中には小さな骨片や黒い葉のようなものが流れていた。


 ネイラが顔をしかめる。


「この水、死んでいる」


 セイルが術式石を掲げる。


「浄水室の手前で淀んでいます。本来なら、ここは汚れを沈めて、清水だけを先へ送る沈殿路だったはずです」


「今は?」


「汚れが沈まず、起きている」


 答えたのはリィンだった。


 彼女の青い目が、水の奥を見ている。


「下に、何かいる。水と一緒に眠るはずだったものが、起きている」


 バルザが足を止める。


「どこだ」


 ルカが胸元の小型灰印を握った。


「足元じゃない。壁の中。水が壁の中を流れてる」


 その瞬間、右壁が膨らんだ。


 石と苔の隙間から、黒い水が噴き出す。


 水は床に落ちる前に、人の腕の形を取った。いや、腕だけではない。肩、首、崩れた顔。水でできた人影が、壁からずるりと這い出す。


 顔には目がない。


 口だけがある。


 開いた口から、水と一緒に細い声が漏れた。


「みず……かえせ……」


 ルカが息を呑む。


「水骸……」


 水骸は一体だけではなかった。


 壁の中の水路から、次々に黒い水の人影が滲み出す。腐った水と骨粉でできた体。手には石の欠片や錆びた管を握っている。


 数は六。


 いや、奥にまだいる。


 セイルの顔が青ざめる。


「浄水室の作業員の残滓かもしれません。水路を守っていた者たちが、汚れと混じって……」


「説明は後だ」


 バルザが前へ出た。


 一体目の水骸が、錆びた管を振り下ろす。


 バルザはそれを腕で弾いた。


 普通の武器なら、弾けば終わりだった。


 だが、水骸の腕は崩れない。水が散り、すぐに戻る。錆びた管だけが床へ落ちたかと思うと、黒い水が再びそれを掴んだ。


「潰しにくいな」


 バルザが笑う。


 次の瞬間、水骸の口が開いた。


 黒い水が矢のように吐き出される。


 バルザは横へ避けたが、肩に数滴かかった。皮膚がじゅうと焼ける。


「毒水か」


「ただの毒じゃない」


 リィンが封印針を打つ。


 青い線が床を走り、バルザの足元まで広がる。


「触れた場所から、体の熱を奪ってる」


 ネイラが指先の黒炎を上げる。


「淀んだ死魔力なら焼ける」


 彼女は黒炎を一筋、前へ飛ばした。


 黒い火が水骸の胸へ触れる。


 じゅう、と音が鳴った。


 水骸の胸の一部が黒く焦げ、そこに混じっていた骨粉と死魔力が燃える。だが、水そのものは流れて形を戻そうとする。


「遅い」


 ネイラが舌打ちする。


 水骸が二体、同時に口を開いた。


 黒い水が飛ぶ。


 リィンが封印針を三本投げた。


 青い文字が空中で円を描き、黒水の矢を一瞬だけ止める。


「バルザ、左」


 透の声が、灰印を通じてバルザの意識に落ちた。


 言葉ではない。


 位置だ。


 左から来る水骸。

 その足元の水に、濃い灰が沈んでいる。

 そこを踏めば滑る。


 バルザは反射的に右へずれた。


 直後、左から伸びた水の腕が空を切る。


 バルザはその腕を掴んだ。


 水を掴むことはできない。


 だが、水骸の中には骨がある。水に混じった指骨。死んだ作業員の名残。バルザの爪がその骨を捕らえた。


「そこか」


 バルザが腕を引いた。


 水骸の体が大きく歪む。


 ネイラの黒炎が、その歪んだ胸に刺さった。


 水骸の中の骨粉が燃える。


 形を保てなくなった水骸が、床へ崩れた。


 一体。


 だが、まだいる。


 水路の奥から、さらに水骸が這い出してくる。


 ルカが壁を見た。


「奥、違う。そっちじゃない」


「何が」


 セイルが聞く。


「水骸が来る道、そこじゃない。下の管から呼ばれてる」


 ルカは胸元の灰印を握り、目を細めた。


 片目を覆った布の下で、何かがかすかに灰色に光った。


 透は遠くからそれを感じた。


 ルカの小型灰印が、ただの戻り印ではない揺れ方をしている。


 道を読む。


 ルカ自身の感覚と、灰置き場の灰が重なって、水路の中に細い道筋を探っている。


「ルカ、無理に見るな」


 透の声は届かない。


 だが、小型灰印が温かく揺れた。


 戻る場所の気配が、ルカの胸に灯る。


 ルカは息を吸い、足元の水を見た。


「こっち。右の壁の下。水が変に戻ってる」


 セイルが術式石を向ける。


「逆流点……! 本来の流れと逆向きに、腐水が押し込まれています。そこを塞げば、水骸の増加を止められるかもしれません」


「塞ぐのは?」


 バルザが問う。


「封印で一時停止できます。でも、近づかないと」


 リィンが前へ出ようとした。


 水骸が三体、同時に動く。


 バルザが唸る。


「行け。俺が止める」


 彼は両腕を広げた。


 水骸三体が襲いかかる。


 バルザは一体目の腕を骨ごと引き千切り、二体目の頭を壁へ叩きつけ、三体目の黒水をまともに肩で受けた。


 皮膚が焼ける。


 だが、彼は退かない。


「この程度で止まるかよ」


 バルザの咆哮が水路を震わせた。


 その声に、ルカの肩が跳ねる。セイルも震えた。だが、恐怖ではなく、背中を押されるような震えだった。


 リィンはその隙に右壁へ走る。


 足元の水が絡みつく。


 水骸の手が床から伸び、彼女の足首を掴もうとした。


 ネイラの黒炎が走る。


 水そのものは燃えない。

 だが、その手の中に混じった死んだ骨粉は燃える。


 水の手が形を失った。


「借りは作らない」


 ネイラが言う。


 リィンは振り返らず答えた。


「今は、助かった」


「礼は要らない」


「じゃあ、頼る」


「それも要らない」


「でも頼る」


「……勝手にしろ」


 リィンは右壁の下へ膝をついた。


 青い封印針を三本、水の流れに沿って打つ。


 セイルが震えながら術式石を掲げる。


「そこです。青い線を、下の古い浄水式に重ねてください。完全に塞ぐと水圧が上がります。逆流だけ止めるように」


「どうやって」


「え、ええと、流れの逆向きに閉じるのではなく、横から縫う感じで」


「わかった」


「今ので?」


 セイルが驚く。


 リィンは封印針へ指を置いた。


 青い文字が水の中へ沈む。


 流れを正面から押さえるのではなく、横から縫う。

 破れた布を閉じるように。

 逆流する腐水だけを、古い水路の壁へ縫い止める。


 青い光が水底で走った。


 水路が震える。


 水骸たちが一斉に口を開いた。


「みず……かえせ……かえせ……」


 声が重なる。


 痛みのある声だった。


 怒りだけではない。

 飢えだけでもない。

 長い間、腐った水に沈められ、役目を忘れ、まだ水を守っているつもりの声。


 ルカが耳を塞ぎそうになる。


 だが、胸元の小型灰印が温かく揺れた。


 ルカは小さく言う。


「違うよ。水は、みんなで飲むものだよ」


 その声が届いたわけではない。


 だが、透には聞こえた気がした。


 灰置き場の壁際で、透は目を閉じたまま、水骸たちの残滓を感じていた。


 彼らは敵だ。


 襲ってくる。


 でも、ただの魔物ではない。


 浄水室にいた作業員。

 水を守る役目。

 腐水に呑まれ、役目だけが歪んだ残り。


 全部を喰えば、道は開く。


 だが、それは今の透が遠隔でやるには深すぎる。

 水の中の名前に触れれば、逆に引き込まれる。


 透は奥歯を噛んだ。


「リィン、眠らせられるか」


 言葉では届かない。


 だが、黒鎖の一部と灰標を通じて、意図だけを送る。


 終わらせるのではなく、止める。

 燃やすのでも、砕くのでもなく、眠らせる。


 リィンが一瞬だけ顔を上げた。


 届いた。


 彼女は封印針をもう一本取り出す。


「セイル。作業員の名札、どこ」


「え?」


「浄水室なら、管理札があるはず」


 セイルは慌てて壁を見た。


 苔と腐水の下に、小さな金属札が埋まっている。

 彼は震える指でそれを剥がそうとしたが、苔が絡みついて取れない。


 バルザが水骸を殴り飛ばしながら叫ぶ。


「急げ!」


「急いでます!」


 ネイラが黒炎を細く伸ばし、金属札の周囲の死んだ苔だけを焼いた。


 生きた苔ではない。

 すでに黒く腐った部分だけ。


 金属札が落ちる。


 セイルが拾い上げる。


 文字はほとんど消えていた。


 だが、一つだけ読める。


「浄水補佐……ラド……いや、ラドム?」


 その名を聞いた瞬間、水骸の一体が動きを止めた。


 口から漏れる水音が変わる。


「ら……ど……」


 リィンが封印針を水へ沈める。


「ラドム。水を守る役目は、もうここでは壊れてる。今は、休んで」


 水骸の体が震えた。


 黒い水が落ちる。

 中の骨粉が静かに沈む。


 一体が崩れた。


 倒すのではなく、ほどけるように。


 床の水に戻り、そこから薄い灰が立ち上る。


 透の胸が揺れる。


 喰える。


 その灰には、水路の構造がある。

 浄水室の位置がある。

 古い流れの記憶がある。


 だが、遠い。


 今は喰わない。


 透は自分に言い聞かせた。


 今は、仲間が拾う。


 リィンが二体目へ向かう。


 セイルが別の金属札を探す。


 ネイラが腐った苔を焼く。


 バルザが水骸を押さえる。


 ルカが流れを読む。


 水路の戦いは、単純な殴り合いではなくなっていた。


 バルザが崩れた水骸の残りを避けながら、別の一体の腕を掴む。


「名札だ、セイル!」


「い、今!」


 セイルは水の中に手を突っ込んだ。


 黒い水が肌を焼く。


「痛っ……!」


 それでも彼は手を引かなかった。


 指先が金属に触れる。


 引き抜いた札は半分欠けていた。


「ミ……ナ……?」


 ルカがはっとした。


「ミナ?」


 灰道で、骨札を預かった名前。


 昔、戻らなかった子の名前。


 だが、この水骸は大人の形をしている。


 リィンが札を見る。


「ミナではない。ミナへ水を届けた人かもしれない」


 ルカは唇を噛んだ。


「じゃあ、休ませて」


「うん」


 リィンは青い封印針を水骸の足元へ打つ。


「水を届ける役目は、もう終わっていい」


 水骸が震える。


 口から、かすかな声が漏れた。


「み……な……みず……」


「届いた」


 ルカが言った。


「ミナの名前、炉にある。水も、灰だまりにある。だから、もう大丈夫」


 それが本当かどうか、ルカにはわからない。


 でも、言いたかった。


 水骸の体から力が抜けた。


 黒い水が崩れ、骨粉が沈み、薄い灰が立ち上る。


 二体目。


 残りの水骸たちも、揺らぎ始めていた。


 逆流点はリィンの封印で縫い止められ、増援は止まっている。ネイラの黒炎で死魔力を焼かれ、バルザに骨の芯を砕かれ、セイルに名札を拾われる。


 ただの敵として倒すより、ずっと手間がかかる。


 だが、確実に水が澄み始めていた。


 床の黒水が薄くなる。


 壁の青黒い苔が少しずつ力を失う。


 水音が変わった。


 濁った唸りから、細く流れる音へ。


 最後の一体が、バルザの前でまだ暴れていた。


 大きい。


 他の水骸より骨が太く、体の中に錆びた鍵束を抱えている。


 セイルが息を呑む。


「管理主任……浄水室の鍵を持っています」


「名は」


 リィンが問う。


「札が、見えません。胸の中です」


 水骸の胸の奥に、金属札が沈んでいる。

 黒い水と骨粉と鍵束に覆われている。


 バルザが唸る。


「開ければいいんだな」


「壊しすぎないで」


 リィンが言う。


「難しい注文だ」


「成功して」


 透の言い方が移ったような声だった。


 バルザは牙を見せた。


「いいだろう」


 水骸が口を開き、黒水を吐こうとする。


 その瞬間、ネイラの黒炎が口の中へ走った。


 水ではなく、口の奥の死魔力を焼く。


 吐き出されるはずだった黒水が詰まる。


 水骸の体が大きく揺れた。


 バルザが踏み込む。


 爪を胸へ突き立てる。


 水は逃げる。

 骨は滑る。

 だが、鍵束は逃げない。


 バルザの爪が鍵束に絡み、さらにその奥の金属札を引っかけた。


「取ったぞ!」


 彼は胸から札を引きずり出した。


 同時に、水骸の腕がバルザの肩へ食い込む。


 黒水が焼く。


 バルザの皮膚が煙を上げる。


 それでも彼は札を離さない。


 セイルが受け取り、震える声で読む。


「オルグ……浄水主任、オルグ!」


 水骸の動きが止まった。


 リィンが前へ出る。


 足元の水が彼女の膝まで跳ねた。

 青い封印針を、鍵束の中心へ打つ。


「オルグ。水路はまだ死んでない。あなたの鍵は、私たちが使う」


 水骸の口が震えた。


「みず……まも……」


「守る。だから、眠って」


 水骸は動かない。


 まだ、役目にしがみついている。


 その時、ルカが胸元の小型灰印を握りしめ、一歩前へ出た。


「水、持って帰る。みんなに飲ませる。だから、守るのは、ぼくたちがやる」


 小さな声だった。


 けれど、水路に響いた。


 水骸の黒い体から、音が抜けた。


 鍵束が床へ落ちる。


 水が崩れ、骨粉が静かに沈み、胸の奥から薄い灰が立ち上った。


 最後の水骸が眠った。


 水路に、静けさが戻る。


 だが、さっきまでとは違う静けさだった。


 腐った沈黙ではない。


 流れの前の静けさ。


 セイルが震える手で鍵束を拾う。


「これで、浄水室の扉を開けられるかもしれません」


 バルザは焼けた肩を回しながら笑った。


「かもしれないじゃ困るな」


「開けます。たぶん」


「お前も透に似てきたな」


「やめてください」


 ネイラは水路を見下ろした。


「黒炎は、思ったより使えた」


「役に立った」


 リィンが言う。


「礼は」


「言わないでいい」


「じゃあ、頼ってよかった」


 ネイラは顔をしかめたが、何も言わなかった。


 ルカは胸元の灰印を押さえていた。


 透は灰置き場から、その小さな点を感じている。


 少し震えている。


 怖かったのだろう。


 でも、消えていない。


 戻る道を持った子どもは、水路の奥で確かに立っていた。


 透は静かに息を吐いた。


「よくやった」


 言葉は届かない。


 だが、小型灰印が温かく揺れた。


 ルカがふと顔を上げる。


「トオル?」


 リィンが少しだけ微笑んだ。


「たぶん、見てる」


「うん」


 ルカは頷いた。


 水路の奥に、古い扉が見えていた。


 黒い苔に覆われ、錆びた管に囲まれた大きな扉。


 中央には、水滴の形をした紋章。


 その下に、古い文字が刻まれている。


 セイルが読み上げた。


「浄水室。汚れを沈め、流れを返す場所」


 鍵束が、彼の手の中で小さく鳴った。


 灰置き場が求めていた水は、この先にある。


 だが同時に、扉の奥からは、重い水音が聞こえていた。


 ただの水ではない。


 何か大きなものが、深い槽の中でゆっくり身じろぎする音だった。


 バルザが牙を見せる。


「まだいるな」


 リィンは封印針を構える。


「いる」


 ネイラの黒炎が細く灯る。


「水の底か。嫌な場所だ」


 ルカは胸元の灰印を握り直す。


「でも、道はここ」


 セイルは震える手で鍵を選んだ。


 灰置き場では、透が目を閉じたまま、遠い水音を聞いていた。


 行けない。


 けれど、繋がっている。


 戻る場所でいる。


 彼は左手を握りしめた。


「開けろ」


 その意図が、灰印を通じて薄く届く。


 バルザが笑った。


「了解」


 浄水室の扉に、古い鍵が差し込まれた。


 錆びた音を立てて、扉が開き始める。


 その奥から、澄んだ水と腐った水が混ざった匂いが流れ出した。


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