第32話 削られた番人
禁書庫の扉は、神殿塔の北側にあった。
正面から見れば、ただの石壁にしか見えない。
白い神殿の柱が並び、その陰に小さな搬入口がある。そこからさらに奥へ進んだ場所に、古い鉄の扉が沈むように立っていた。
扉には聖印が刻まれている。
だが、綾瀬真由には、その聖印が防ぐためのものではなく、隠すためのものに見えた。
聖なる光で封じているのではない。
見られたくないものに、白い布をかけている。
「見張りは一人」
黒瀬真琴が影の中から囁いた。
彼は廊下の角に立っている。
いや、立っているように見えるだけで、気配はほとんどなかった。職能《暗殺者》を得てから、黒瀬の足音は異様なほど薄い。
真由と三枝美琴は、柱の陰に身を潜めていた。
美琴の左手首には監視封環。
銀の腕輪は、禁書庫へ近づくほど冷たくなっている。まだ激痛ではない。だが、警告のように肌へ食い込んでいた。
「三枝さん」
真由が小さく呼ぶ。
「無理なら戻って」
美琴は首を振った。
「行く」
「痛みは」
「ある。でも、まだ大丈夫」
「大丈夫は信用できない」
「リィンさんみたいなこと言うね」
「誰?」
真由が聞くと、美琴は一瞬だけ戸惑った。
「……ごめん。何でもない」
なぜその名前が出たのか、自分でもわからなかった。
リィン。
聞いたことのない名のはずだ。
けれど、灰の彼を思う時、なぜか青い光のような少女の気配が頭をかすめた。
もちろん、そんなものは知らない。
美琴は首を振り、意識を戻した。
黒瀬が手を上げる。
「見張り、動かすよ」
「傷つけないで」
美琴が言うと、黒瀬は肩をすくめた。
「寝てもらうだけ」
「それも十分危ない」
「じゃあ、静かに休んでもらう」
「言い換えても同じ」
真由は二人を制した。
「早く」
黒瀬は笑い、影から出た。
見張りの神官は、若い男だった。
手に短い杖を持ち、眠気を噛み殺している。
黒瀬は足音もなく背後へ回った。
神官が気配に気づくより早く、黒瀬の指が首筋へ触れる。
神官の体がかくんと崩れた。
黒瀬はそれを抱え、音を立てず壁際へ寝かせる。
美琴は青ざめる。
「死んでないよね?」
「死んでない。眠ってるだけ」
黒瀬は短く答える。
「たぶん」
「たぶん?」
「冗談」
「本当にやめて」
真由は扉へ近づいた。
聖印が薄く光る。
その瞬間、美琴の封環が強く締まった。
「っ……!」
彼女は机を叩く代わりに、壁を二回指で叩く。
真由は頷いた。
「反応確認。扉そのものが、灰に関する情報を封じている」
「開けられる?」
黒瀬が問う。
「見る」
真由は魔法陣板を取り出した。
指先で薄い光の線を描く。
職能《賢者》は、魔法を撃つだけの力ではない。術式を読み、組み替え、意味の隙間を見つける力でもある。
扉の聖印は複雑だった。
表向きは禁書庫の封印。
だが、実際には二重になっている。
一つは侵入防止。
もう一つは、特定の言葉や記録に近づこうとする者を弾く封印。
真由は眉を寄せた。
「この封印、三枝さんの腕輪と似ている」
美琴の顔が強張る。
「じゃあ、神殿のもの?」
「おそらく」
「外せそう?」
「外すのは無理。騙す」
黒瀬が楽しそうに笑う。
「いいね」
「静かに」
真由は魔法陣板に別の線を重ねた。
扉の聖印を破るのではなく、見張りの交代記録を通すための小さな穴を探す。禁書庫は完全に閉じられた場所ではない。記録を搬入する者、神官長の許可を持つ者、古い文書を修復する者。そういう例外が必ずある。
例外を開く。
真由の指先が光を走らせる。
扉の聖印が、一度だけ瞬いた。
「今」
黒瀬が扉に手をかける。
重い鉄扉が、かすかに開いた。
三人は滑り込むように中へ入る。
扉が背後で閉じると、外の音が消えた。
禁書庫の中は暗かった。
光源は壁に埋め込まれた青白い石だけ。
棚は古く、書物は鎖で繋がれているものも多い。巻物、石板、骨に刻まれた記録、黒い革で閉じられた本。
空気は乾いている。
そして、わずかに灰の匂いがした。
美琴は手首を押さえた。
腕輪がずっと冷たい。
真由は息を整え、目的を確認する。
「灰の彼の職能記録。奈落門の旧記録。召喚職能の照合記録」
「時間は?」
黒瀬が聞く。
「長くて十分。見張りが起きる前に出る」
「じゃあ急ごう」
黒瀬は棚の間へ消えた。
美琴は真由のそばを離れない。
封環が痛むたびに、彼女は壁を二回叩く。それが合図だった。
真由は棚の分類を読む。
異界召喚。
魔王軍記録。
奈落門。
封印史。
災厄職。
神代兵器。
灰――。
その文字を見た瞬間、美琴が壁を叩いた。
封環が強く締まっている。
真由はすぐに言葉を飲み込み、棚へ手を伸ばした。
灰に関する棚だけ、鎖が太い。
しかも、背表紙の多くが削られていた。
文字を読ませないために、表面を刃物で削り取っている。
黒瀬が戻ってくる。
「こっちに古い召喚台帳があった」
「持ってきて」
「重いよ」
「必要」
「はいはい」
黒瀬は石板に近い厚い台帳を抱えて戻る。
真由は机の上へ置き、ページをめくった。
召喚記録。
過去の異界人。
職能一覧。
適応率。
死亡率。
魔力酔い。
封印処理。
真由の指が止まった。
そこには、古い記録があった。
異界召喚直後、召喚者の魔力酔いを抑えるには、灰の番人の同席が望ましい。
美琴が息を呑む。
封環が強く光った。
彼女は声を殺して痛みに耐えた。
真由は続きに目を走らせる。
灰の番人。
その語だけが、何度も出てくる。
ただし、多くの箇所が黒い墨で塗り潰されていた。
「灰喰い、じゃない」
美琴が小さく言う。
腕輪が締まる。
それでも彼女は止まらなかった。
「灰の番人……?」
真由は頷く。
「古い呼称だと思う」
黒瀬が横から覗き込む。
「じゃあ、災厄職じゃなかった?」
「少なくとも、この記録では召喚者の適応を助ける役目と書かれている」
「王国は知ってたんだ」
黒瀬の声は、楽しそうですらあった。
美琴の顔から血の気が引く。
「知ってて、落とした……?」
封環が激痛を流した。
美琴はその場に膝をつく。
「三枝さん!」
真由が支える。
腕輪が白く光り、彼女の手首を締め上げている。まるで、今読んだ内容を忘れさせようとするように。
黒瀬が目を細めた。
「それ、やばいね。情報制限だけじゃない。痛みで思考を折るやつだ」
「黙って」
真由は美琴の腕輪を見る。
術式を読む。
外すことはできない。
だが、反応の中心はわかる。
禁止語。
灰。
番人。
奈落。
篠宮透。
神官長の判断への疑義。
真由は歯を食いしばった。
「最低」
短い言葉だった。
美琴は痛みに耐えながら、台帳へ手を伸ばした。
「読んで……続き」
「でも」
「読んで。お願い」
真由は頷き、台帳の続きを追った。
灰の番人は、死した魔力を眠らせる。
奈落門の維持には、番人の灰路を要する。
灰を拒む封印は歪みを生み、灰を流す道を失えば、門は内側から腐る。
番人不在の奈落門運用は、長期的に禁ず。
真由の指が止まった。
美琴は震える声で言った。
「番人不在……」
「今の奈落門は、その禁じられた状態になっている」
黒瀬が言う。
「しかも、番人になり得るやつを自分たちで落とした」
美琴は目を閉じた。
篠宮透。
教室の隅にいた少年。
あまり笑わず、相良たちの軽口に反応しないようにしていた少年。
召喚された広間で、ただ一人、灰色の職能を示された少年。
彼は災厄ではなかった。
少なくとも、ただの災厄ではなかった。
王国は知っていた。
神官長は知っていた。
なのに、落とした。
美琴の胸に、怒りが湧いた。
封環の痛みよりも熱い怒りだった。
「……許せない」
封環がさらに締まる。
だが、美琴はその言葉を取り消さなかった。
真由は台帳の写しを取る。
全ては無理だ。時間がない。
重要な文言だけ、魔法陣板へ焼きつける。
灰の番人。
召喚者の魔力酔い抑制。
奈落門維持。
番人不在運用禁止。
それだけでも十分危険な証拠だった。
黒瀬が別の棚から一枚の古い石板を持ってきた。
「これも見た方がいい」
「何?」
「たぶん、職能照合記録」
真由は石板を見る。
そこには、召喚当日の記録に近い形式が刻まれていた。
勇者。
聖女。
剣聖。
賢者。
竜騎士。
神弓。
疾風騎士。
守護騎士。
薬師。
幻術師。
暗殺者。
大盾使い。
そして、最後に一行。
灰の番人適性――異界個体、篠宮透。
その文字の上に、後から別の刻印が重ねられていた。
災厄職《灰喰い》として処理。
美琴の息が止まった。
真由の手が震える。
黒瀬でさえ、笑みを少し消した。
「処理、ね」
その言葉は、あまりに冷たかった。
人間ではなく、物のようだった。
真由は石板へ手を触れた。
「この記録、召喚後に改竄されている」
「わかるの?」
「刻印の深さが違う。最初の文字は古い照合式。後の『災厄職』は神殿の現行処理印」
「つまり、神官長が?」
「少なくとも、神官長級の権限が必要」
美琴は石板を見つめた。
涙は出なかった。
痛みが強すぎたのか、怒りが強すぎたのか、わからない。
ただ、胸の奥で何かが決まった。
「これを、相良くんたちに見せないと」
黒瀬が眉を上げる。
「見せて信じると思う?」
「信じさせる」
「久世とか藤堂は無理じゃない?」
「それでも」
真由が静かに言った。
「すぐに全員へ見せるのは危険。神官長に潰される」
「じゃあどうするの」
「まず、写しを作る。次に腕輪をどうにかする。美琴さんが話せる状態にしないと、証言が封じられる」
美琴は頷いた。
その時、禁書庫の外で音がした。
足音。
一人ではない。
黒瀬が扉の方を見る。
「起きたかな」
「早い」
真由が台帳を閉じる。
写しは取った。
石板全体は持ち出せない。重すぎるし、失われればすぐに気づかれる。
だが、石板の一部だけなら。
真由は魔法陣板を取り出し、石板の文字を薄い光で写し取った。完全ではないが、証拠にはなる。
足音が近づく。
神官の声が聞こえた。
「扉の封印が揺れた。確認しろ」
美琴の封環が痛み続けている。
このままでは走れない。
黒瀬が彼女を見た。
「運ぶ?」
「大丈夫」
美琴は立とうとしたが、膝が震える。
黒瀬はため息をつき、勝手に彼女の腕を取った。
「大丈夫じゃないやつの動き」
「触らないで」
「走れるなら離す」
美琴は言い返せなかった。
真由は扉の封印を見る。
入ってきた時の穴はもう閉じている。
もう一度開けるには時間がかかる。
時間はない。
「黒瀬くん。別の出口は」
「搬入用の換気路。狭いけど、行ける」
「案内して」
「了解」
黒瀬は棚の奥へ走った。
真由と美琴が続く。
背後で禁書庫の扉が開こうとしている。
聖印が光り、鉄扉が軋んだ。
黒瀬は棚の裏にある古い格子へ手をかける。
錆びた金具を外し、音を殺して開ける。
「ここ」
「狭い」
「文句は後で」
黒瀬が先に入り、美琴を引き込む。
真由は最後に禁書庫を振り返った。
台帳。
石板。
削られた記録。
隠された灰文字。
全てを持ち出せたわけではない。
だが、十分だ。
灰の彼は、災厄ではなかった。
王国は知っていた。
それを示す言葉は、彼女の魔法陣板の中にある。
真由は換気路へ入った。
直後、禁書庫の扉が開いた。
「誰だ!」
神官の声が響く。
三人は暗い換気路を這うように進んだ。
石の隙間から冷たい風が吹く。
美琴は痛みに耐えながら、真由の袖を握っていた。
「綾瀬さん」
「何」
「生きてると思う?」
誰が、とは言わなかった。
言えば、腕輪がさらに痛むから。
真由は前を向いたまま答えた。
「わからない」
正直な言葉だった。
だが、続けた。
「でも、奈落門から灰が戻っている。記録では、灰の番人は奈落門に必要だった。王国が処理したはずの存在に関する記録を、今も必死に隠している」
「うん」
「なら、死んで終わった話ではない可能性が高い」
美琴は目を閉じた。
それだけで、少し息ができた。
黒瀬が前から言う。
「俺は生きてる方に賭ける」
「どうして」
「その方が面白い」
美琴は睨もうとしたが、痛みで力が入らなかった。
真由は淡々と言う。
「理由は最低だけど、結論は同じ」
「ひどいな」
「事実」
換気路の先に、薄い光が見えた。
三人はそこへ向かう。
背後では、禁書庫の神官たちが騒ぎ始めていた。
灰は隠された。
記録は削られた。
灰の番人は、災厄職へ書き換えられた。
だが、完全には消えていなかった。
削られた文字の下から、まだ灰は残っている。
美琴は痛む手首を抱えながら、心の中でその名を呼んだ。
篠宮くん。
封環が鋭く締まる。
それでも、彼女は忘れなかった。
たとえ声に出せなくても。
灰の彼は、王国が隠した真実の中心にいる。




