第31話 禁書庫の灰文字
王城図書室は、昼でも静かだった。
高い天井。
磨かれた床。
壁一面を埋める本棚。
窓から差し込む光は柔らかく、革表紙の背に金色の線を浮かび上がらせている。
綺麗な場所だった。
だが、綾瀬真由には、それが作られた静けさに見えた。
見せてもいい知識だけを並べた場所。
見せてはいけないものを、奥へ隠すための場所。
真由は机に数冊の本を置き、淡々とページをめくっていた。
職能《賢者》を得てから、文字を読む速度は明らかに上がっている。知らないはずの異世界文字も、意味の輪郭だけなら拾えるようになった。完全な翻訳ではない。だが、文脈を追い、欠けた部分を補い、術式の構造を読むことはできる。
それでも、《灰喰い》という語は出てこない。
勇者。
聖女。
賢者。
剣聖。
竜騎士。
神弓。
疾風騎士。
大盾使い。
幻術師。
暗殺者。
異界召喚に伴う職能一覧には、彼女たちクラスメイトの職能がいくつも載っていた。
だが、灰喰いはない。
災厄職一覧にもない。
禁忌魔職一覧にもない。
失敗召喚の記録にもない。
にもかかわらず、神官長は召喚初日に即座に言った。
災厄職だと。
処理すべきだと。
真由は指先でページの端を押さえた。
あの時、自分は何をしていた。
篠宮透が連れていかれる時、何を見ていた。
恐怖。
混乱。
神官長の断定。
相良迅の「危険じゃないなら調べてもらえばいいだけ」という言葉。
三枝美琴の抗議。
そして、自分の沈黙。
情報が足りない。
あの時もそう思っていた。
だが、足りないから動かなかった。
それは、正しかったのか。
真由は目を閉じる。
答えは、もうわかっている。
少なくとも、十分ではなかった。
「また本?」
声がした。
藤堂絵里香だった。
彼女は図書室の入口に立っていた。淡い紫のドレス風の服を着て、髪には王国の侍女が結んだ飾り紐がついている。元の世界では制服だった姿が、今では貴族の令嬢のように整えられていた。
絵里香は笑顔で近づいてくる。
「綾瀬さんって、ほんと勉強好きだよね」
「必要だから読んでる」
「勇者様たちが訓練してる間に?」
「役割が違う」
「ふうん」
絵里香は机の上の本を覗き込んだ。
「召喚職能一覧、禁忌魔職記録、異界適応論……。難しそう」
「触らないで」
真由が言うと、絵里香の指が止まった。
一瞬、笑みが薄くなる。
「別に取らないよ」
「ページの順番を崩されたくないだけ」
「そういう言い方、ちょっと怖いよ」
「事実を言っただけ」
絵里香は唇を軽く尖らせた。
その仕草は可愛らしく見えるよう計算されている。少なくとも、真由にはそう見えた。
「でもさ、最近の綾瀬さん、ずっと神殿とか奈落とか灰とかの話ばっかりだよね」
「気になるから」
「また篠宮くん?」
その名を出した時、図書室の隅にいた三枝美琴の肩が震えた。
美琴は窓際の席で、別の本を開いていた。だが、ほとんど読めていない。左手首の監視封環が、篠宮透の名前に反応して冷たく光っていた。
絵里香はそれを見て、小さく笑った。
「三枝さんも、大変だね。そんなに気にしてたら、体に悪いよ」
美琴は顔を上げる。
「藤堂さん」
「何?」
「あなたは、気にならないの?」
「何が?」
「篠宮くんがどうなったか」
絵里香は少し困ったように笑った。
「気にならないって言ったら嘘になるけど。でも、私たちにできることなんてないじゃん」
「本当に?」
「そうでしょ。王国の人たちは危険だって言った。神官長様もそう判断した。それに……」
絵里香は声を少し落とした。
「外れ職だったんだよ」
美琴の手首が強く締まる。
「っ……」
真由は視線だけを動かした。
絵里香は続ける。
「私たちまで巻き込まれてたら、どうなってたかわからないよ。迅くんが勇者でいてくれるから、私たちは守られてる。今はそれを信じるしかないんじゃない?」
「信じることと、考えないことは違う」
真由が言った。
絵里香の笑顔が固まる。
「綾瀬さんって、そういうところあるよね。正しいこと言ってるみたいで、周りを不安にさせる」
「不安になるなら、理由がある」
「迅くんだって頑張ってるのに」
「相良くんの努力と、神殿の隠蔽は別の問題」
「隠蔽って決めつけるんだ」
「隠していないなら、記録を出せばいい」
絵里香は黙った。
だが、すぐに笑みを戻した。
「まあ、いいけど。あんまり変なこと調べて、王国の人たちに目をつけられないようにね」
それは忠告の形をしていた。
けれど、中身は違う。
この場所で浮くな。
王国に逆らうな。
勇者側の輪を乱すな。
そういう圧だった。
美琴は静かに言った。
「藤堂さんは、王国が正しいと思ってるの?」
「正しいっていうか、頼るしかないでしょ」
「頼るしかないから、疑わなくていいの?」
「疑ってどうするの? 私たち、元の世界に帰りたいんだよね? 魔王を倒さなきゃいけないんだよね? だったら、王国と揉めてる場合じゃないじゃん」
言葉だけなら正論に近かった。
だからこそ、真由は厄介だと思った。
絵里香は悪意だけで動いているわけではない。
自分にとって都合のいい場所を守ろうとしている。
王国に認められ、貴族たちにちやほやされ、勇者の近くにいられる自分。
その足場を揺らすものが嫌なのだ。
真由は本を閉じた。
「王国と揉めたいわけじゃない」
「なら」
「でも、王国が嘘をついているなら、知る必要がある」
絵里香の目が細くなった。
「それ、危ないよ」
「危険性は理解している」
「そういう意味じゃなくて」
絵里香は美琴の腕輪を見る。
「三枝さんみたいになるかもよ」
美琴の顔が強張った。
真由はゆっくり立ち上がる。
「その腕輪があるから、なおさら調べる」
空気が冷えた。
絵里香は一瞬だけ、素の顔を見せた。
苛立ち。
嫉妬。
そして、焦り。
真由や美琴が何かを掴めば、自分の立っている場所が変わるかもしれない。
勇者側の華やかな輪が、王国の嘘で汚れるかもしれない。
それが嫌なのだろう。
「勝手にすれば」
絵里香は笑みを戻した。
「でも、私は巻き込まないでね」
そう言って、図書室を出ていった。
扉が閉まる。
しばらく、誰も話さなかった。
美琴は手首を押さえ、うつむいている。
真由は彼女のそばへ歩いた。
「大丈夫?」
「……うん。少し痛いだけ」
「少しじゃない」
「芽衣ちゃんにも同じこと言われた」
美琴は小さく笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「ごめん。私が篠宮くんの名前を出すと、空気が悪くなる」
「悪くしているのは腕輪と、隠している側」
真由は椅子に座り直し、机の下から小さな紙片を取り出した。
「三枝さん。これを見て」
「何?」
「神殿塔で見た石碑の文字を写した」
紙片には、真由の細い文字でこう書かれていた。
灰は、灰をもって――。
その先は空白。
美琴は息を呑む。
「これは」
「奈落門の近くにあった。削られていたけど、ここまでは読めた」
「灰は、灰をもって……」
美琴が呟く。
その瞬間、封環が鋭く痛んだ。
彼女は歯を食いしばる。
真由はすぐに紙片を伏せた。
「やっぱり反応する」
「今の言葉に?」
「たぶん。灰、奈落、篠宮くん。この三つに近づくと反応している」
美琴は腕輪を見つめる。
「じゃあ、これは私を守ってるんじゃなくて」
「情報に近づけないようにしている可能性が高い」
美琴の目に怒りが宿った。
恐怖ではなく、怒り。
真由は少し安心した。
痛みで折れるより、怒れる方がいい。
「禁書庫に行く」
真由が言うと、美琴は顔を上げた。
「禁書庫?」
「王城図書室には記録がない。神殿塔の石碑は削られている。なら、削る前の記録か、写しが禁書庫にある可能性が高い」
「でも、入れるの?」
「普通には無理」
「じゃあ」
「普通じゃない方法で入る」
美琴は目を丸くした。
真由は机の上の本を片づけながら、淡々と言った。
「黒瀬くんに手を借りる」
「黒瀬くん?」
「彼は神殿塔の地下にいた。呼ばれていないのに」
「それって」
「隠密能力を使っている。職能《暗殺者》なら、神殿の見張りを抜ける可能性がある」
美琴は不安そうに眉を寄せる。
「でも、黒瀬くんって……何を考えてるかわからない」
「同感」
「大丈夫なの?」
「大丈夫ではない。でも、使える」
真由はそこで少し止まった。
「言い方が悪いね。協力させる」
「できるかな」
「彼は隠されたものに興味がある。こちらが情報を持っていると示せば、乗る可能性がある」
美琴は紙片を見る。
「危ないね」
「うん」
「それでも行くの?」
「行く」
真由は短く答えた。
「私は、あの日黙っていた。だから、今度は黙らない」
美琴の目が揺れた。
しばらくして、彼女は小さく頷く。
「私も行く」
「腕輪が危険」
「それでも」
「三枝さん」
「私も黙っていられない」
美琴は左手首を押さえたまま言った。
「篠宮くんのこと、忘れたくない。忘れろって痛みで言われるなら、余計に」
その声は震えていた。
でも、折れてはいなかった。
真由は少しだけ口元を緩めた。
「わかった。ただし、無理に言葉を出さない。腕輪が反応する言葉は避ける」
「うん」
「合図を決める。痛みが来たら、机を二回叩いて」
「わかった」
図書室の奥の時計が、低い音を鳴らした。
夕刻が近い。
王城では、訓練後の食事と神殿の祈りが始まる時間だ。
見張りが交代し、神官の動きが少し薄くなる時間でもある。
真由は本を元の位置へ戻し、紙片を袖の内側へ隠した。
「黒瀬くんを探す」
「どこにいるかな」
「向こうから来ると思う」
美琴が不思議そうにした、その時だった。
窓の外、石造りの柱の影から声がした。
「呼んだ?」
美琴がびくっと肩を跳ねさせる。
真由は驚かなかった。
驚きはしたが、顔には出さなかった。
窓の外に、黒瀬真琴がいた。
夕暮れの影に半分溶けるように立っている。黒い訓練服の上に薄い外套を羽織り、口元には薄い笑みがある。
「盗み聞き?」
真由が言うと、黒瀬は肩をすくめた。
「聞こえたんだよ。偶然」
「図書室の窓の外で?」
「散歩」
「暗殺者の散歩は窓の外を通るの?」
「便利だから」
美琴は警戒したまま言った。
「どこから聞いてたの」
「藤堂さんが、巻き込まないでねって言ったあたりから」
「ほとんど全部じゃない」
「重要なところだけだよ」
黒瀬は窓枠に手をかけ、音もなく中へ入った。
床に着地しても、ほとんど音がしない。
真由は彼を見る。
「禁書庫に入りたい」
「だと思った」
「協力できる?」
「できるかもしれない」
「条件は」
黒瀬の笑みが深くなる。
「そこで見つけたものを、俺にも見せること」
「それだけ?」
「あと、篠宮が本当に死んだのか知りたい」
美琴の封環が冷たく光る。
黒瀬はそれを見た。
「へえ、本当に反応するんだ」
「面白がらないで」
美琴が言うと、黒瀬は軽く手を上げた。
「悪い。でも、面白いのは事実だよ。王国がそこまでして隠すなら、篠宮の職能はただの外れじゃない」
真由は黒瀬の目を見る。
「あなたは篠宮くんを心配しているわけじゃない」
「うん」
黒瀬はあっさり認めた。
「でも、嘘を暴く役には立てる」
「信用はできない」
「信用しなくていい。利用して」
「その言い方、嫌い」
「じゃあ、協力で」
真由は少し考えた。
危険だ。
黒瀬は善意で動いていない。
だが、今必要なのは善意だけではない。
隠された場所へ入る手段だ。
「わかった。協力して」
「交渉成立」
黒瀬は窓の外を見た。
「禁書庫は神殿塔の北側地下。入口は二つ。表の扉は神官が三人。裏は記録搬入用の小扉で、見張りは一人。ただし、聖印がある」
「調べてたの?」
「暇だったから」
美琴が小さく呟く。
「絶対暇じゃないと思う」
「まあね」
黒瀬は楽しそうだった。
真由は魔法陣板を手に取る。
「聖印は私が見る。三枝さんは腕輪が反応したらすぐ合図。黒瀬くんは見張りを避ける」
「了解」
「目的は《灰喰い》の記録。奈落門の古い記録。召喚職能の照合記録。この三つ」
「多いね」
「優先順位は灰喰い」
その言葉に、美琴の腕輪が強く痛んだ。
彼女は机を二回叩いた。
真由はすぐに頷く。
「反応確認。今後は直接言わない」
黒瀬が目を細める。
「じゃあ、呼び名を変えようか」
「何に」
「落とされたやつ」
美琴が睨む。
「やめて」
「じゃあ、灰の彼」
腕輪は少し反応したが、さっきより弱い。
真由は記録するように言った。
「それでいく」
美琴は複雑そうだったが、頷いた。
灰の彼。
篠宮透の名を避けるための、不本意な呼び名。
けれど、今はそれでもいい。
忘れないための言葉なら。
三人は図書室を出た。
廊下には夕暮れの赤い光が差し込んでいる。
遠くでは、勇者たちの食事の準備を告げる鐘が鳴っていた。
相良迅たちは、きっと今頃、神官たちから奈落門の説明を受けている。
久世は剣の訓練に苛立ちをぶつけているかもしれない。
絵里香は貴族令嬢たちの輪の中で、今日の出来事を自分に都合よく話しているかもしれない。
その明るい場所から少し離れて、真由、美琴、黒瀬は神殿塔の北側へ向かった。
石畳の端に、薄い灰が落ちていた。
ほんの少し。
風が吹けば消えるほどの灰。
真由はそれを見下ろす。
神殿は灰を隠している。
だが、隠したものは、すでに床の隙間から滲み始めている。
美琴は手首を押さえながら、その灰を見つめた。
痛みの奥で、彼女は思う。
灰の彼は、まだ生きている。
証拠はない。
でも、そう思わずにはいられなかった。
禁書庫の扉は、夕暮れの影の中に沈んでいた。




