第30話 灰を隠す神殿
神殿塔の鐘が鳴り終わる前に、訓練場の空気は変わっていた。
さっきまで勇者の光に沸いていた兵士たちは、声を潜めて神殿の方を見ている。王国騎士たちは持ち場へ走り、神官たちは法衣の裾を翻して塔へ向かった。
奈落門。
灰の逆流。
その言葉だけで、王都の白い石畳に冷たい影が落ちたようだった。
相良迅は光の剣を下ろし、報告に来た騎士へ近づいた。
「灰の逆流って、何ですか」
騎士は口を開きかけたが、すぐに目を伏せた。
「詳しいことは、神官長様よりご説明があるかと」
「俺たちにも関係ある話ですよね」
「勇者様には、後ほど」
騎士はそう言って、逃げるように神殿塔へ走っていった。
相良の表情がわずかに曇る。
久世蓮司が舌打ちした。
「何だよ。こっちは訓練中だってのに」
速水陸は軽く笑おうとして、うまく笑えなかった。
「まあ、奈落がどうとか言ってたし、地下で何かあったんじゃね?」
「奈落なんて、神殿が管理してるんだろ」
久世が吐き捨てる。
「俺たちが気にすることじゃない」
三枝美琴は、その言葉に反応しそうになった。
だが、手首の監視封環が冷たく締まる。
灰。
奈落。
篠宮透。
それらを結びつけようとしただけで、痛みが走る。
美琴は唇を噛んだ。
痛みを顔に出さないようにしたが、小鳥遊芽衣がすぐに気づいた。
「三枝さん、また……」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないよ。さっきより痛そう」
芽衣は職能《薬師》として、最近は王国の治療院で補助をさせられていた。だからだろう。彼女は怪我や魔力の乱れに敏感になっている。
美琴は腕輪を押さえながら、低く言った。
「芽衣ちゃん。今の報告、聞いた?」
「うん。灰の逆流って……」
芽衣は周囲を見てから、声を落とす。
「もしかして、篠宮くんの職能と関係あるのかな」
その名前を聞いた瞬間、美琴の手首が鋭く痛んだ。
「っ……」
「ご、ごめん!」
「違う。芽衣ちゃんのせいじゃない」
芽衣は青ざめた顔で、美琴の腕輪を見つめた。
「やっぱりおかしいよ、それ。名前を言っただけで反応するなんて」
美琴は答えられなかった。
答えようとすれば、また締まる気がした。
少し離れたところで、綾瀬真由が神殿塔を見ていた。
彼女の手には、さっきまで魔法陣板が握られていた。今はそれを閉じ、何かを考え込んでいる。
美琴は真由のそばへ行こうとした。
しかし、その前に藤堂絵里香が笑顔で相良の方へ歩いていく。
「迅くん、大丈夫?」
「俺は大丈夫。でも、神殿の様子が変だ」
「きっと、勇者の迅くんに頼りたいんだよ」
絵里香は少し甘い声で言った。
「こういう時こそ、迅くんがみんなを安心させてあげないと」
相良は一瞬だけ戸惑った後、頷いた。
「ああ。そうだな」
そのやり取りを見て、久世の眉がわずかに動いた。
彼は剣聖だ。
剣なら自分が一番だという自負がある。
だが、王国の兵士たちも、神官たちも、クラスメイトたちも、まず相良を見る。
勇者。
その二文字は重い。
久世は木剣を握る手に力を込めた。
「勇者、勇者って……」
小さな声だった。
だが、美琴には聞こえた。
その横で、黒瀬真琴が石柱にもたれていた。
職能は《暗殺者》。
元の世界では目立たない男子だった。
目立たないというより、人の会話の隙間にいるような存在だった。
この世界へ来てからも、彼はあまり喋らない。
ただ、王国の影付きの者たちと何度か話しているのを、美琴は見たことがある。
黒瀬は神殿塔を見て、薄く笑った。
「隠したいものが、漏れたって顔だな」
久世が振り向く。
「あ?」
「神官たちの動き。慌て方が訓練じゃない」
「だから何だよ」
「別に」
黒瀬は肩をすくめる。
「面白くなってきたなってだけ」
美琴はその言い方に寒気を覚えた。
彼は篠宮透のことを心配しているわけではない。
王国を疑っているわけでもない。
ただ、誰かが隠しているものに興味を持っている。
そういう目だった。
やがて、神官が一人、訓練場へ戻ってきた。
若い神官だった。顔色は悪く、額に汗を浮かべている。
「勇者様。聖女様。賢者様。剣聖様。神官長様がお呼びです」
相良が顔を上げる。
「俺たちだけですか」
「はい。まずは主要な職能を持つ方々に」
久世が口元を歪めた。
「主要ね」
選ばれたのは、相良迅、姫野朱里、綾瀬真由、久世蓮司。
それに、少し遅れて神崎玲央も呼ばれた。
職能は《竜騎士》。
神崎は訓練場の外にいた。王国から与えられた幼竜の世話をしていたのだ。黒に近い青色の小さな竜が、彼の肩の近くで低く唸っている。
神崎は眉をひそめながら近づいてきた。
「何があった」
「奈落門で灰の逆流だってさ」
速水が軽く言うと、神崎の幼竜がびくりと震えた。
竜の鱗が逆立つ。
神崎はすぐに幼竜の首を撫でた。
「どうした、リグ」
竜は神殿塔の方を見て、喉の奥で怯えたような音を出す。
相良が不思議そうに見る。
「竜が怖がってる?」
神崎は答えなかった。
プライドの高い彼にとって、自分の竜が怯えていると認めるのは簡単ではないのだろう。
だが、リグの反応は明らかだった。
神殿塔の方を嫌がっている。
灰の匂いを、竜は感じ取っているのかもしれない。
「行くぞ」
神官が急かす。
相良たちは神殿塔へ向かった。
美琴も一歩踏み出す。
しかし、神官が手で制した。
「三枝様は、こちらでお待ちください」
「私も行きます」
「必要ありません」
「奈落の話なら、私にも関係があります」
言った瞬間、封環が締まった。
痛みが腕から肩へ走る。
美琴は膝をつきそうになった。
芽衣が慌てて支える。
「三枝さん!」
神官は顔色一つ変えない。
「無理をなさらず。腕輪は、あなたの精神を守るために反応しているだけです」
「違う……これは」
「待機を」
それだけ言って、神官は相良たちを連れていった。
絵里香が横を通る時、美琴へ小さく言った。
「無理しない方がいいよ。王国の人たちに逆らっても、いいことないんだから」
心配の声に聞こえた。
だが、その奥には優越感があった。
選ばれた者たちのそばにいられる自分。
腕輪をつけられ、止められている美琴。
その差を、絵里香は見ている。
美琴は何も言えなかった。
腕が痛む。
それでも、真由が通り過ぎる時、ほんの一瞬だけ美琴を見た。
そして、唇だけで小さく動かした。
調べる。
美琴は目を見開いた。
真由はすぐに前を向き、神殿塔へ入っていった。
神殿塔の内部は、外から見た白さとは違っていた。
相良たちが通されたのは、地下へ続く螺旋階段だった。
壁には青白い聖印が刻まれている。
だが、その聖印の隙間に、灰色の細い筋が入り込んでいた。
姫野朱里が不安そうに相良の袖を掴む。
「迅くん、ここ、寒いね」
「ああ」
相良は剣に手をかける。
「何かあっても、俺が守る」
久世が鼻を鳴らした。
「勇者様は忙しいな」
「久世?」
「何でもねえよ」
神崎の幼竜リグは、階段を下りるほどに震えた。
神崎は黙って竜を抱え直す。
真由は壁の聖印を見ていた。
「灰が、聖印の内側から出ている」
若い神官が振り返る。
「賢者様。触れないように」
「外から汚染されたのではなく、内側から漏れているように見えます」
「判断は神官長様がなさいます」
「私は見たことを言っただけです」
神官は黙った。
地下の扉が開く。
そこには、巨大な円形の部屋があった。
中央に黒い門がある。
石でできた門。
重い鎖。
幾重にも刻まれた青い封印文字。
その奥から、冷たい灰が漏れている。
奈落門。
相良たちは初めて、それを間近で見た。
召喚された日、透が連れていかれた地下の扉とは別の区画だった。
だが、同じ奈落へ繋がっていることは空気でわかる。
門の前に、神官長が立っていた。
白い法衣。
皺の刻まれた顔。
冷たい目。
彼は相良たちを見て、静かに頷いた。
「勇者殿。聖女殿。賢者殿。剣聖殿。竜騎士殿。来ていただき感謝する」
相良が一歩前に出る。
「何が起きているんですか」
「奈落門の一部に、灰の逆流が見られた」
「危険なんですか」
「今はまだ小さい。だが、放置すれば王都の地下水脈に影響する恐れがある」
朱里が青ざめる。
「地下水脈……?」
「ゆえに、聖女殿の浄化と、勇者殿の光を試したい」
神官長の視線が、相良へ向く。
「勇者の光は、魔を退ける。奈落より漏れる灰も、浄化できるはずだ」
真由が口を開く。
「灰は魔なのですか」
神官長の目がわずかに細くなる。
「賢者殿。何を疑問に思われた」
「分類です。魔王軍の瘴気、死霊の残滓、呪い、灰。全てを同じ魔として扱ってよいのか、確認したいだけです」
「危険なものは、清めねばならぬ」
「分類ではなく、方針の話ですね」
空気が冷えた。
久世が小さく舌打ちする。
「綾瀬、今そんなこと言ってる場合かよ」
真由は彼を見ない。
「今だから確認している」
神官長は穏やかな声で言った。
「知識を求める姿勢は賢者にふさわしい。だが、今は対処が先です」
相良が頷いた。
「俺がやります」
「迅くん」
朱里が不安そうに呼ぶ。
相良は笑った。
「大丈夫。俺は勇者だから」
その言葉は力強かった。
けれど、真由の目には、それが彼自身を縛る言葉にも見えた。
相良は奈落門の前へ立つ。
剣を抜き、光を集める。
白い輝きが部屋を満たした。
神官たちが安堵の表情を浮かべる。
勇者の光。
この世界で魔を退けるもの。
そのはずだった。
「はああっ!」
相良が剣を振る。
光が奈落門へ注がれる。
灰が押し返された。
門の隙間から漏れていた灰色の靄が、白い光に触れて散る。
神官たちが息を吐いた。
「おお……」
「やはり勇者様の光なら」
相良の顔にも安堵が浮かぶ。
だが、次の瞬間。
散った灰が、門の下で黒く沈んだ。
光で消えたのではない。
ただ、奥へ押し込まれただけだった。
門の鎖が震える。
灰色の筋が、聖印の内側を逆に走る。
真由が叫んだ。
「下がって!」
灰が跳ねた。
白い光の影から、黒灰色の粒が逆流する。
相良の足元へ絡みついた。
「っ!」
相良は剣を振り、光で払う。
灰は一度離れる。
だが、完全には消えない。
むしろ、勇者の光に触れた部分だけ、濃い影を作って床に沈んだ。
朱里が前へ出る。
「私が!」
彼女は両手をかざし、聖女の回復光を放った。
柔らかな白金の光が広がる。
灰は少し薄くなった。
しかし、朱里の顔が歪む。
「え……?」
自分の光の端に、灰色の滲みが混じっていた。
細い濁り。
まるで綺麗な水に墨を一滴落としたように。
神官長の声が飛ぶ。
「続けなさい、聖女殿」
「で、でも、私の魔法が」
「恐れてはならぬ。聖女の光は清浄です」
朱里は唇を噛み、さらに魔力を込めた。
だが、濁りは消えない。
相良が朱里を庇うように前へ出る。
「朱里、下がれ!」
「でも」
「俺がやる!」
相良が再び光を強める。
部屋が眩しさに包まれる。
その光の中で、神崎の幼竜リグが悲鳴を上げた。
小さな竜は神崎の腕から逃げようと暴れ、背中の鱗を逆立てる。
「リグ!」
神崎が押さえる。
だが、竜は奈落門ではなく、相良の光の影を見ていた。
光が強くなればなるほど、床に沈む灰の影も濃くなる。
真由はそれを見ていた。
勇者の光は灰を消していない。
押し込んでいる。
押し込まれた灰は、聖印の内側を通って別の場所へ流れている。
流れの先は、神殿塔のさらに下。
王都の地下。
神官長は、それを知っているのか。
真由は視線を上げた。
神官長の顔は、動揺していなかった。
彼は焦っていない。
困ってはいる。
だが、予想外ではない。
そういう顔だった。
「勇者殿、十分です」
神官長が言った。
相良は荒い息を吐きながら剣を下ろす。
「止まったんですか」
「一時的には」
「一時的?」
「逆流は弱まりました。勇者殿の光は確かに有効です」
真由は思わず口を挟んだ。
「有効なら、なぜ灰は消えずに下層へ流れたのですか」
神官長が真由を見る。
「賢者殿。今見えたものだけで判断してはならぬ」
「見えたものを無視する方が危険です」
久世が苛立ったように言う。
「綾瀬、しつこいぞ。勇者の光で止まったんだろ」
「止まったように見えただけ」
「お前、さっきから何なんだよ。そんなに相良の活躍が気に入らないのか」
真由は久世を見た。
「これは嫉妬の話ではない」
「じゃあ何だよ」
「現象の話」
久世は顔をしかめた。
彼にとって、真由の冷静さは苛立つものだった。
勇者が光を放ち、神官たちが称える。
その流れに水を差す言葉は、今の彼には敵意に聞こえるのだろう。
相良は剣を収め、困ったように二人の間に入った。
「やめよう。今は言い合ってる場合じゃない」
久世は鼻を鳴らす。
「勇者様は余裕だな」
「久世」
「何でもねえって」
その声には棘があった。
相良はそれに気づいたが、どう扱えばいいのかわからない顔をしていた。
神官長は静かに手を叩いた。
「皆様、今日はここまでにしましょう。勇者殿、聖女殿、よく務めてくださいました。賢者殿の観察も、今後の参考にいたします」
真由は何も言わなかった。
だが、彼女は見ていた。
神官長の背後にある古い石碑。
法衣の影に隠れているが、そこに削られた文字がある。
完全には読めない。
けれど、一部だけ見えた。
灰は、灰をもって――。
その先は削られている。
真由は視線を動かさず、記憶した。
神殿塔から出る頃には、相良はまた勇者としての顔を取り戻していた。
神官たちは彼を称えた。
朱里も、少し不安を残しながら笑った。
久世は不機嫌そうに黙り、神崎は幼竜を抱えたまま何かを考えていた。
真由は最後尾を歩いた。
階段の途中で、黒瀬真琴が壁の影に立っていた。
呼ばれていなかったはずだ。
だが、彼はそこにいた。
「見えた?」
黒瀬が小さく聞く。
真由は足を止めない。
「何のこと」
「隠された文字」
「あなたには関係ない」
「あるかもよ。俺、隠れて見るの得意だから」
真由は無言で通り過ぎた。
黒瀬は笑う。
「灰ってさ、外れ職の名前にも入ってたよね」
真由の足が一瞬止まる。
黒瀬はそれ以上言わなかった。
ただ、楽しそうに影へ戻る。
地上のクラスメイトたちは、もう一枚岩ではない。
疑う者。
信じたい者。
見下す者。
嫉妬する者。
隠れたものに興味を持つ者。
それぞれの視線が、少しずつ違う方向を向き始めていた。
訓練場へ戻ると、美琴が待っていた。
腕を押さえ、顔色は悪い。
真由は彼女のそばを通り過ぎる時、小さく言った。
「神殿は知っている」
美琴の目が揺れる。
「何を?」
真由は周囲を見た。
神官がいる。
騎士がいる。
相良たちも近い。
だから、言葉を選んだ。
「灰は、消すものではないのかもしれない」
美琴の封環が冷たく光った。
痛みが走る。
それでも、美琴は真由の袖を掴んだ。
「篠宮くんは……」
名前を出した瞬間、腕輪が強く締まる。
美琴は顔を歪めた。
真由はその手首を見た。
「その腕輪も、調べる」
「できるの?」
「今はまだ無理。でも、構造を見る方法を探す」
美琴は小さく頷いた。
遠くでは、相良が神官たちに囲まれていた。
勇者の光は称えられている。
だが、美琴には、その光の端に灰色の影が残っているように見えた。
真由は神殿塔を振り返る。
削られた石碑の文字が、頭の中に残っていた。
灰は、灰をもって――。
その先にあったはずの言葉。
誰かが削り、隠した言葉。
そして、その言葉の中心にいたはずの少年。
篠宮透。
王国は彼を落とした。
だが、灰は戻ってきている。
真由は魔法陣板を握りしめた。
次に調べるべき場所は、王城図書室ではない。
神殿の禁書庫だ。




