表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

30/93

第30話 灰を隠す神殿

 神殿塔の鐘が鳴り終わる前に、訓練場の空気は変わっていた。


 さっきまで勇者の光に沸いていた兵士たちは、声を潜めて神殿の方を見ている。王国騎士たちは持ち場へ走り、神官たちは法衣の裾を翻して塔へ向かった。


 奈落門。


 灰の逆流。


 その言葉だけで、王都の白い石畳に冷たい影が落ちたようだった。


 相良迅は光の剣を下ろし、報告に来た騎士へ近づいた。


「灰の逆流って、何ですか」


 騎士は口を開きかけたが、すぐに目を伏せた。


「詳しいことは、神官長様よりご説明があるかと」


「俺たちにも関係ある話ですよね」


「勇者様には、後ほど」


 騎士はそう言って、逃げるように神殿塔へ走っていった。


 相良の表情がわずかに曇る。


 久世蓮司が舌打ちした。


「何だよ。こっちは訓練中だってのに」


 速水陸は軽く笑おうとして、うまく笑えなかった。


「まあ、奈落がどうとか言ってたし、地下で何かあったんじゃね?」


「奈落なんて、神殿が管理してるんだろ」


 久世が吐き捨てる。


「俺たちが気にすることじゃない」


 三枝美琴は、その言葉に反応しそうになった。


 だが、手首の監視封環が冷たく締まる。


 灰。

 奈落。

 篠宮透。


 それらを結びつけようとしただけで、痛みが走る。


 美琴は唇を噛んだ。


 痛みを顔に出さないようにしたが、小鳥遊芽衣がすぐに気づいた。


「三枝さん、また……」


「大丈夫」


「大丈夫じゃないよ。さっきより痛そう」


 芽衣は職能《薬師》として、最近は王国の治療院で補助をさせられていた。だからだろう。彼女は怪我や魔力の乱れに敏感になっている。


 美琴は腕輪を押さえながら、低く言った。


「芽衣ちゃん。今の報告、聞いた?」


「うん。灰の逆流って……」


 芽衣は周囲を見てから、声を落とす。


「もしかして、篠宮くんの職能と関係あるのかな」


 その名前を聞いた瞬間、美琴の手首が鋭く痛んだ。


「っ……」


「ご、ごめん!」


「違う。芽衣ちゃんのせいじゃない」


 芽衣は青ざめた顔で、美琴の腕輪を見つめた。


「やっぱりおかしいよ、それ。名前を言っただけで反応するなんて」


 美琴は答えられなかった。


 答えようとすれば、また締まる気がした。


 少し離れたところで、綾瀬真由が神殿塔を見ていた。


 彼女の手には、さっきまで魔法陣板が握られていた。今はそれを閉じ、何かを考え込んでいる。


 美琴は真由のそばへ行こうとした。


 しかし、その前に藤堂絵里香が笑顔で相良の方へ歩いていく。


「迅くん、大丈夫?」


「俺は大丈夫。でも、神殿の様子が変だ」


「きっと、勇者の迅くんに頼りたいんだよ」


 絵里香は少し甘い声で言った。


「こういう時こそ、迅くんがみんなを安心させてあげないと」


 相良は一瞬だけ戸惑った後、頷いた。


「ああ。そうだな」


 そのやり取りを見て、久世の眉がわずかに動いた。


 彼は剣聖だ。


 剣なら自分が一番だという自負がある。

 だが、王国の兵士たちも、神官たちも、クラスメイトたちも、まず相良を見る。


 勇者。


 その二文字は重い。


 久世は木剣を握る手に力を込めた。


「勇者、勇者って……」


 小さな声だった。


 だが、美琴には聞こえた。


 その横で、黒瀬真琴が石柱にもたれていた。


 職能は《暗殺者》。


 元の世界では目立たない男子だった。

 目立たないというより、人の会話の隙間にいるような存在だった。


 この世界へ来てからも、彼はあまり喋らない。

 ただ、王国の影付きの者たちと何度か話しているのを、美琴は見たことがある。


 黒瀬は神殿塔を見て、薄く笑った。


「隠したいものが、漏れたって顔だな」


 久世が振り向く。


「あ?」


「神官たちの動き。慌て方が訓練じゃない」


「だから何だよ」


「別に」


 黒瀬は肩をすくめる。


「面白くなってきたなってだけ」


 美琴はその言い方に寒気を覚えた。


 彼は篠宮透のことを心配しているわけではない。

 王国を疑っているわけでもない。


 ただ、誰かが隠しているものに興味を持っている。


 そういう目だった。


 やがて、神官が一人、訓練場へ戻ってきた。


 若い神官だった。顔色は悪く、額に汗を浮かべている。


「勇者様。聖女様。賢者様。剣聖様。神官長様がお呼びです」


 相良が顔を上げる。


「俺たちだけですか」


「はい。まずは主要な職能を持つ方々に」


 久世が口元を歪めた。


「主要ね」


 選ばれたのは、相良迅、姫野朱里、綾瀬真由、久世蓮司。

 それに、少し遅れて神崎玲央も呼ばれた。


 職能は《竜騎士》。


 神崎は訓練場の外にいた。王国から与えられた幼竜の世話をしていたのだ。黒に近い青色の小さな竜が、彼の肩の近くで低く唸っている。


 神崎は眉をひそめながら近づいてきた。


「何があった」


「奈落門で灰の逆流だってさ」


 速水が軽く言うと、神崎の幼竜がびくりと震えた。


 竜の鱗が逆立つ。


 神崎はすぐに幼竜の首を撫でた。


「どうした、リグ」


 竜は神殿塔の方を見て、喉の奥で怯えたような音を出す。


 相良が不思議そうに見る。


「竜が怖がってる?」


 神崎は答えなかった。


 プライドの高い彼にとって、自分の竜が怯えていると認めるのは簡単ではないのだろう。


 だが、リグの反応は明らかだった。


 神殿塔の方を嫌がっている。


 灰の匂いを、竜は感じ取っているのかもしれない。


「行くぞ」


 神官が急かす。


 相良たちは神殿塔へ向かった。


 美琴も一歩踏み出す。


 しかし、神官が手で制した。


「三枝様は、こちらでお待ちください」


「私も行きます」


「必要ありません」


「奈落の話なら、私にも関係があります」


 言った瞬間、封環が締まった。


 痛みが腕から肩へ走る。


 美琴は膝をつきそうになった。


 芽衣が慌てて支える。


「三枝さん!」


 神官は顔色一つ変えない。


「無理をなさらず。腕輪は、あなたの精神を守るために反応しているだけです」


「違う……これは」


「待機を」


 それだけ言って、神官は相良たちを連れていった。


 絵里香が横を通る時、美琴へ小さく言った。


「無理しない方がいいよ。王国の人たちに逆らっても、いいことないんだから」


 心配の声に聞こえた。


 だが、その奥には優越感があった。


 選ばれた者たちのそばにいられる自分。

 腕輪をつけられ、止められている美琴。


 その差を、絵里香は見ている。


 美琴は何も言えなかった。


 腕が痛む。


 それでも、真由が通り過ぎる時、ほんの一瞬だけ美琴を見た。


 そして、唇だけで小さく動かした。


 調べる。


 美琴は目を見開いた。


 真由はすぐに前を向き、神殿塔へ入っていった。


 神殿塔の内部は、外から見た白さとは違っていた。


 相良たちが通されたのは、地下へ続く螺旋階段だった。


 壁には青白い聖印が刻まれている。

 だが、その聖印の隙間に、灰色の細い筋が入り込んでいた。


 姫野朱里が不安そうに相良の袖を掴む。


「迅くん、ここ、寒いね」


「ああ」


 相良は剣に手をかける。


「何かあっても、俺が守る」


 久世が鼻を鳴らした。


「勇者様は忙しいな」


「久世?」


「何でもねえよ」


 神崎の幼竜リグは、階段を下りるほどに震えた。

 神崎は黙って竜を抱え直す。


 真由は壁の聖印を見ていた。


「灰が、聖印の内側から出ている」


 若い神官が振り返る。


「賢者様。触れないように」


「外から汚染されたのではなく、内側から漏れているように見えます」


「判断は神官長様がなさいます」


「私は見たことを言っただけです」


 神官は黙った。


 地下の扉が開く。


 そこには、巨大な円形の部屋があった。


 中央に黒い門がある。


 石でできた門。

 重い鎖。

 幾重にも刻まれた青い封印文字。

 その奥から、冷たい灰が漏れている。


 奈落門。


 相良たちは初めて、それを間近で見た。


 召喚された日、透が連れていかれた地下の扉とは別の区画だった。

 だが、同じ奈落へ繋がっていることは空気でわかる。


 門の前に、神官長が立っていた。


 白い法衣。

 皺の刻まれた顔。

 冷たい目。


 彼は相良たちを見て、静かに頷いた。


「勇者殿。聖女殿。賢者殿。剣聖殿。竜騎士殿。来ていただき感謝する」


 相良が一歩前に出る。


「何が起きているんですか」


「奈落門の一部に、灰の逆流が見られた」


「危険なんですか」


「今はまだ小さい。だが、放置すれば王都の地下水脈に影響する恐れがある」


 朱里が青ざめる。


「地下水脈……?」


「ゆえに、聖女殿の浄化と、勇者殿の光を試したい」


 神官長の視線が、相良へ向く。


「勇者の光は、魔を退ける。奈落より漏れる灰も、浄化できるはずだ」


 真由が口を開く。


「灰は魔なのですか」


 神官長の目がわずかに細くなる。


「賢者殿。何を疑問に思われた」


「分類です。魔王軍の瘴気、死霊の残滓、呪い、灰。全てを同じ魔として扱ってよいのか、確認したいだけです」


「危険なものは、清めねばならぬ」


「分類ではなく、方針の話ですね」


 空気が冷えた。


 久世が小さく舌打ちする。


「綾瀬、今そんなこと言ってる場合かよ」


 真由は彼を見ない。


「今だから確認している」


 神官長は穏やかな声で言った。


「知識を求める姿勢は賢者にふさわしい。だが、今は対処が先です」


 相良が頷いた。


「俺がやります」


「迅くん」


 朱里が不安そうに呼ぶ。


 相良は笑った。


「大丈夫。俺は勇者だから」


 その言葉は力強かった。


 けれど、真由の目には、それが彼自身を縛る言葉にも見えた。


 相良は奈落門の前へ立つ。


 剣を抜き、光を集める。


 白い輝きが部屋を満たした。


 神官たちが安堵の表情を浮かべる。


 勇者の光。


 この世界で魔を退けるもの。


 そのはずだった。


「はああっ!」


 相良が剣を振る。


 光が奈落門へ注がれる。


 灰が押し返された。


 門の隙間から漏れていた灰色の靄が、白い光に触れて散る。


 神官たちが息を吐いた。


「おお……」


「やはり勇者様の光なら」


 相良の顔にも安堵が浮かぶ。


 だが、次の瞬間。


 散った灰が、門の下で黒く沈んだ。


 光で消えたのではない。


 ただ、奥へ押し込まれただけだった。


 門の鎖が震える。


 灰色の筋が、聖印の内側を逆に走る。


 真由が叫んだ。


「下がって!」


 灰が跳ねた。


 白い光の影から、黒灰色の粒が逆流する。


 相良の足元へ絡みついた。


「っ!」


 相良は剣を振り、光で払う。


 灰は一度離れる。


 だが、完全には消えない。


 むしろ、勇者の光に触れた部分だけ、濃い影を作って床に沈んだ。


 朱里が前へ出る。


「私が!」


 彼女は両手をかざし、聖女の回復光を放った。


 柔らかな白金の光が広がる。


 灰は少し薄くなった。


 しかし、朱里の顔が歪む。


「え……?」


 自分の光の端に、灰色の滲みが混じっていた。


 細い濁り。


 まるで綺麗な水に墨を一滴落としたように。


 神官長の声が飛ぶ。


「続けなさい、聖女殿」


「で、でも、私の魔法が」


「恐れてはならぬ。聖女の光は清浄です」


 朱里は唇を噛み、さらに魔力を込めた。


 だが、濁りは消えない。


 相良が朱里を庇うように前へ出る。


「朱里、下がれ!」


「でも」


「俺がやる!」


 相良が再び光を強める。


 部屋が眩しさに包まれる。


 その光の中で、神崎の幼竜リグが悲鳴を上げた。


 小さな竜は神崎の腕から逃げようと暴れ、背中の鱗を逆立てる。


「リグ!」


 神崎が押さえる。


 だが、竜は奈落門ではなく、相良の光の影を見ていた。


 光が強くなればなるほど、床に沈む灰の影も濃くなる。


 真由はそれを見ていた。


 勇者の光は灰を消していない。


 押し込んでいる。


 押し込まれた灰は、聖印の内側を通って別の場所へ流れている。


 流れの先は、神殿塔のさらに下。


 王都の地下。


 神官長は、それを知っているのか。


 真由は視線を上げた。


 神官長の顔は、動揺していなかった。


 彼は焦っていない。


 困ってはいる。

 だが、予想外ではない。


 そういう顔だった。


「勇者殿、十分です」


 神官長が言った。


 相良は荒い息を吐きながら剣を下ろす。


「止まったんですか」


「一時的には」


「一時的?」


「逆流は弱まりました。勇者殿の光は確かに有効です」


 真由は思わず口を挟んだ。


「有効なら、なぜ灰は消えずに下層へ流れたのですか」


 神官長が真由を見る。


「賢者殿。今見えたものだけで判断してはならぬ」


「見えたものを無視する方が危険です」


 久世が苛立ったように言う。


「綾瀬、しつこいぞ。勇者の光で止まったんだろ」


「止まったように見えただけ」


「お前、さっきから何なんだよ。そんなに相良の活躍が気に入らないのか」


 真由は久世を見た。


「これは嫉妬の話ではない」


「じゃあ何だよ」


「現象の話」


 久世は顔をしかめた。


 彼にとって、真由の冷静さは苛立つものだった。

 勇者が光を放ち、神官たちが称える。

 その流れに水を差す言葉は、今の彼には敵意に聞こえるのだろう。


 相良は剣を収め、困ったように二人の間に入った。


「やめよう。今は言い合ってる場合じゃない」


 久世は鼻を鳴らす。


「勇者様は余裕だな」


「久世」


「何でもねえって」


 その声には棘があった。


 相良はそれに気づいたが、どう扱えばいいのかわからない顔をしていた。


 神官長は静かに手を叩いた。


「皆様、今日はここまでにしましょう。勇者殿、聖女殿、よく務めてくださいました。賢者殿の観察も、今後の参考にいたします」


 真由は何も言わなかった。


 だが、彼女は見ていた。


 神官長の背後にある古い石碑。


 法衣の影に隠れているが、そこに削られた文字がある。


 完全には読めない。


 けれど、一部だけ見えた。


 灰は、灰をもって――。


 その先は削られている。


 真由は視線を動かさず、記憶した。


 神殿塔から出る頃には、相良はまた勇者としての顔を取り戻していた。


 神官たちは彼を称えた。

 朱里も、少し不安を残しながら笑った。

 久世は不機嫌そうに黙り、神崎は幼竜を抱えたまま何かを考えていた。


 真由は最後尾を歩いた。


 階段の途中で、黒瀬真琴が壁の影に立っていた。


 呼ばれていなかったはずだ。


 だが、彼はそこにいた。


「見えた?」


 黒瀬が小さく聞く。


 真由は足を止めない。


「何のこと」


「隠された文字」


「あなたには関係ない」


「あるかもよ。俺、隠れて見るの得意だから」


 真由は無言で通り過ぎた。


 黒瀬は笑う。


「灰ってさ、外れ職の名前にも入ってたよね」


 真由の足が一瞬止まる。


 黒瀬はそれ以上言わなかった。


 ただ、楽しそうに影へ戻る。


 地上のクラスメイトたちは、もう一枚岩ではない。


 疑う者。

 信じたい者。

 見下す者。

 嫉妬する者。

 隠れたものに興味を持つ者。


 それぞれの視線が、少しずつ違う方向を向き始めていた。


 訓練場へ戻ると、美琴が待っていた。


 腕を押さえ、顔色は悪い。


 真由は彼女のそばを通り過ぎる時、小さく言った。


「神殿は知っている」


 美琴の目が揺れる。


「何を?」


 真由は周囲を見た。


 神官がいる。

 騎士がいる。

 相良たちも近い。


 だから、言葉を選んだ。


「灰は、消すものではないのかもしれない」


 美琴の封環が冷たく光った。


 痛みが走る。


 それでも、美琴は真由の袖を掴んだ。


「篠宮くんは……」


 名前を出した瞬間、腕輪が強く締まる。


 美琴は顔を歪めた。


 真由はその手首を見た。


「その腕輪も、調べる」


「できるの?」


「今はまだ無理。でも、構造を見る方法を探す」


 美琴は小さく頷いた。


 遠くでは、相良が神官たちに囲まれていた。


 勇者の光は称えられている。


 だが、美琴には、その光の端に灰色の影が残っているように見えた。


 真由は神殿塔を振り返る。


 削られた石碑の文字が、頭の中に残っていた。


 灰は、灰をもって――。


 その先にあったはずの言葉。


 誰かが削り、隠した言葉。


 そして、その言葉の中心にいたはずの少年。


 篠宮透。


 王国は彼を落とした。


 だが、灰は戻ってきている。


 真由は魔法陣板を握りしめた。


 次に調べるべき場所は、王城図書室ではない。


 神殿の禁書庫だ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ