第29話 勇者の光は濁り始める
王都の訓練場には、歓声が上がっていた。
白い石畳。
高い城壁。
青い旗。
その中央で、相良迅が光の剣を振るっている。
剣が空気を裂くたび、眩い光が弧を描いた。
相手をしている王国騎士は三人。いずれも鎧をまとい、盾を構えた正規兵だ。召喚されたばかりの高校生が相手にしていい相手ではない。
そのはずだった。
「はあああッ!」
相良が踏み込む。
光が足元から噴き上がり、剣へ集まる。
次の瞬間、盾ごと騎士が吹き飛んだ。
石畳を転がった騎士が、呻きながら剣を落とす。
観覧席にいた兵士たちが声を上げた。
「おおっ!」
「さすが勇者様!」
「もう王国騎士三人を相手に……!」
歓声の中心で、相良迅は肩で息をしながらも笑っていた。
汗が頬を伝っている。
だが、その顔には疲労よりも高揚が強い。
「まだ、いけます」
相良は剣を構え直した。
その姿を見て、王国の騎士団長が満足げに頷く。
「素晴らしい。勇者殿の成長は、我々の想定をはるかに超えている」
周囲にいた神官たちも、同じように微笑んでいた。
だが、訓練場の端でそれを見ていた三枝美琴は、胸の奥が冷えるのを感じていた。
相良くんは、強い。
それはわかる。
この世界に来てから、彼は毎日のように強くなっている。光の剣も、身体能力も、魔力の量も、元の世界にいた頃とは別人のようだった。
けれど、美琴にはその光が少し怖かった。
明るすぎる。
まぶしすぎる。
相良が剣を振るたび、光の端がちらつく。白いはずの光の奥に、一瞬だけ黒い影が揺れる。
誰も気づいていないのだろうか。
いや、気づいていても、見ないふりをしているのかもしれない。
「相良、やばくね?」
近くで速水陸が笑った。
職能は《疾風騎士》。
足の速さと風の加護を得た彼は、訓練を始めてからやけに調子がよくなっていた。
「マジで主人公じゃん。あいつがいれば、魔王軍とか余裕なんじゃね?」
隣で久世蓮司が木剣を肩に担ぐ。
職能は《剣聖》。
元々剣道部で、自信もあった。異世界で剣聖と判定されてから、その自信はさらに膨らんでいる。
「当然だろ。勇者なんだからな。俺たちもそのうち、あのくらいにはなる」
速水が笑う。
「いや、久世はもうなった気でいるだろ」
「俺は剣聖だぞ。王国の騎士に負ける気はしない」
そう言って、久世は訓練場の中央を見る。
「それに比べて、外れ職だった篠宮は……まあ、運がなかったな」
美琴の指が、無意識に震えた。
左手首の内側に、冷たい輪がある。
監視封環。
見た目は細い銀の腕輪だ。
だが、抗議しようとした時、王国の神官はこれを彼女の手首にはめた。
暴れるものではありません。
あなたを守るためのものです。
異界の方が、余計な不安に惑わされないように。
そう言われた。
けれど、篠宮透の名前を口にしようとした時、この腕輪は冷たく締まる。
奈落。
灰喰い。
追放。
神官長。
その言葉へ近づくだけで、手首の奥が痛む。
美琴は唇を噛んだ。
「久世くん」
「あ?」
「そういう言い方、やめて」
久世が振り向く。
速水も笑いを止めた。
「何が?」
「篠宮くんは、運が悪かっただけじゃない。私たちは、止められなかった」
空気が少し固まった。
久世は不機嫌そうに眉を寄せる。
「またそれかよ」
「またじゃない」
「もう終わったことだろ。王国の人たちが危険だって言った。神官長もそう判断した。俺たちがどうこうできる話じゃなかった」
「でも、篠宮くんは何もしてなかった」
「何もしてなくても、災厄職だったんだろ」
久世の声が少し大きくなる。
「俺たちだって怖かったんだよ。召喚されて、わけわかんなくて、魔王軍と戦えって言われて。そこに災厄職とか出たら、そりゃ隔離するだろ」
速水が軽く肩をすくめる。
「まあ、今さら篠宮の話しても仕方なくね? 俺らは俺らで生き残らなきゃいけないし」
「生き残るためなら、誰かを落としてもいいの?」
美琴の声は震えていた。
速水は少し困ったように笑う。
「そういう言い方されると、俺が悪者みたいじゃん」
「悪者じゃないなら、忘れないで」
美琴がそう言った瞬間、手首の封環が締まった。
「っ……」
痛みが走る。
美琴は思わず腕を押さえた。
久世が目を細める。
「また痛むのか、それ」
美琴は答えない。
近くにいた小鳥遊芽衣が、慌てて近づいてきた。
職能は《薬師》。
臆病な性格の女子で、追放の時も何も言えなかった一人だ。
「三枝さん、大丈夫?」
「大丈夫」
「でも、顔色悪いよ」
「平気」
芽衣は心配そうに美琴の腕輪を見る。
小さな声で言った。
「その腕輪、やっぱり変だよ」
美琴は芽衣を見る。
「芽衣ちゃんも、そう思う?」
「うん。普通の保護具なら、そんなに痛むのおかしいよ。それに……最近、みんなの魔力酔いも増えてる」
芽衣は周囲を気にしてから、声をさらに落とした。
「姫野さんの回復魔法も、前より濁ってる。治るんだけど、傷口に少し熱が残るっていうか……。賢者の綾瀬さんも、魔法陣がずれるって言ってた」
「透くんがいなくなってから?」
美琴が聞くと、芽衣は一瞬だけ黙った。
その沈黙が答えだった。
けれど、芽衣はすぐに首を振る。
「わからない。そんなの、私が決められることじゃないし……。でも、何か変」
訓練場の中央では、相良がまた光の剣を振るっていた。
今度は騎士団長が出ている。
剣と剣がぶつかり、白い光が爆ぜる。
相良の光は確かに強い。
地上の騎士たちを驚かせるには十分すぎるほどに。
しかし、美琴にはやはり見えた。
光の奥に、薄い灰のような揺らぎがある。
まるで、何かを失った光が、無理に輝いているような。
その時、訓練場の反対側から声がした。
「迅くん、すごい!」
姫野朱里だった。
職能は《聖女》。
元の世界でも明るく、人当たりのいい女子だった。こちらへ来てからは、王国の神官たちに囲まれ、聖女様と呼ばれるようになっている。
白い修道衣のような服を着て、髪には聖印の飾りをつけていた。
朱里は笑顔で相良へ手を振る。
「今の、騎士団長さんと互角だったよ!」
相良は照れたように笑った。
「まだまだだよ。俺がもっと強くならないと、みんなを守れないから」
その言葉に、周囲の生徒たちが安心したように笑う。
勇者がいる。
聖女がいる。
剣聖がいる。
賢者がいる。
だから大丈夫。
そう思いたいのだろう。
美琴は、その輪の中へ入れなかった。
少し離れた石柱の陰に、綾瀬真由が立っていた。
職能は《賢者》。
成績トップで、元の世界でも冷静な女子だった。
彼女は手元の魔法陣板を見つめている。細い光の線で描かれた円が、何度も組み直されては、最後の一筆でわずかに歪む。
真由は眉を寄せた。
「また、ずれた」
美琴は近づく。
「綾瀬さん」
「三枝さん」
真由は魔法陣板を閉じた。
「今の話、少し聞こえた」
「ごめん」
「謝ることじゃない。私も気になっている」
美琴は目を見開いた。
「篠宮くんのこと?」
「それもある。でも、それだけじゃない」
真由は訓練場の中央を見る。
「召喚後の適応が早すぎる。勇者も、聖女も、剣聖も、竜騎士も。普通なら、異界の魔力に体が慣れるまで、もっと時間がかかるはずだと王国の記録にある」
「記録?」
「王城図書室にあった。閲覧制限の浅いものだけど」
真由は声を低くした。
「でも、私たちは召喚直後からほとんど動けた。魔力酔いも少なかった。それを神官たちは、勇者召喚が成功した証だと言っている」
「違うの?」
「わからない。ただ、召喚初日の記録から一つだけ抜けている」
美琴の心臓が鳴った。
真由はゆっくり言った。
「《灰喰い》についての記録が、王城の公開資料に一切ない。災厄職だと言われたのに、禁忌職一覧にも、魔王軍由来の職能一覧にも、失敗召喚の記録にも名前がない」
「なかったの?」
「ない。隠されているか、最初から書かれていないか。でも、神官長は即座に判断した」
美琴の手首が、冷たく痛んだ。
真由はそれを見て、声を落とす。
「その腕輪もおかしい。監視用なら、何を監視しているのか説明が必要。でも、神官は教えない」
「綾瀬さん、王国を疑ってるの?」
真由はすぐには答えなかった。
訓練場では、相良が騎士団長を押し始めていた。
光の剣が眩しく輝き、周囲の歓声がさらに大きくなる。
「疑っているというより、情報が足りない」
真由は言った。
「情報が足りない時に、誰か一人を落として終わりにしたことが、気になっている」
美琴は唇を噛んだ。
その言葉は、胸に刺さった。
気になっている。
それだけでも、今は救いだった。
しかし、その会話に割り込む声があった。
「まだ篠宮のこと話してるの?」
藤堂絵里香だった。
職能は《幻術師》。
元の世界でもクラス内の目立つ女子で、周囲の空気を読むのが上手く、強い相手に寄るのも上手かった。
異世界へ来てからは、貴族の令嬢たちに囲まれ、華やかな服を与えられている。本人もそれを悪く思っていないようだった。
「三枝さんって、ほんと篠宮くんのこと気にするよね」
絵里香は笑う。
その笑みは柔らかいが、目は少し冷たい。
「別に仲良かったわけでもないでしょ?」
「そういう問題じゃない」
「でも、もういないじゃん」
美琴の手が震えた。
絵里香は続ける。
「私たちは前を向かないといけないんだよ。迅くんは勇者で、朱里は聖女で、久世くんは剣聖で、綾瀬さんは賢者。みんな頑張ってるのに、いつまでも外れ職の話してたら士気が下がるよ」
外れ職。
その言葉に、美琴の封環が強く痛んだ。
怒りなのか、禁じられた言葉へ近づいたせいなのかわからない。
美琴が言い返すより先に、真由が口を開いた。
「士気のために、事実を確認しないのは危険」
絵里香は真由を見る。
「事実って?」
「篠宮くんの職能について、私たちは何も知らない」
「神官長が災厄職だって言った」
「神官長が言っただけ」
空気が変わった。
絵里香の笑みが少し薄くなる。
「綾瀬さん、それ王国を疑ってるってこと?」
「確認しているだけ」
「賢者って大変だね。何でも疑わなきゃいけないんだ」
嫌味だった。
真由は表情を変えない。
「疑わない賢者よりはまし」
絵里香の頬が引きつった。
その時、訓練場の中央で大きな光が爆ぜた。
相良の剣が騎士団長の盾を弾き飛ばしたのだ。
騎士団長は片膝をつき、相良は剣を止める。
一瞬の静寂。
次に、大歓声。
「勇者様!」
「素晴らしい!」
「これなら魔王軍にも勝てる!」
相良は少し照れながらも、周囲に手を振った。
久世が舌打ち混じりに笑う。
「やっぱ派手だな、勇者は」
速水が肩を叩く。
「嫉妬か?」
「馬鹿言え。剣なら俺の方が上だ」
「出た出た」
久世は相良を見ていた。
その目には、憧れだけではないものがあった。
対抗心。
嫉妬。
自分も特別であるはずなのに、相良の光ばかりが称賛されることへの苛立ち。
美琴はそれを見て、胸が重くなった。
地上組の中でも、すでに亀裂がある。
相良を中心にまとまっているようで、実際には、それぞれが自分の職能と立場に縛られ始めている。
勇者。
聖女。
剣聖。
賢者。
疾風騎士。
幻術師。
名前は輝かしい。
けれど、その輝きの下で、何かが歪み始めている。
相良がこちらへ歩いてきた。
「みんな、見てた?」
朱里が嬉しそうに駆け寄る。
「見てたよ! 本当にすごかった!」
「ありがとう。でも、まだまだだよ。もっと強くならないと」
相良は笑いながら、美琴たちの方へ視線を向けた。
「三枝、また腕痛むのか?」
美琴は反射的に手首を隠す。
「大丈夫」
「無理するなよ。神官さんたちも、三枝を守るためにつけてくれたんだろ?」
守るため。
その言葉が、美琴にはひどく遠く聞こえた。
「本当に、守るためだと思う?」
美琴が聞くと、相良は困ったように眉を寄せた。
「何だよ、急に」
「篠宮くんのことを話そうとすると、痛むの」
相良の表情が固まった。
久世が露骨に顔をしかめる。
「またその話かよ」
相良は久世を手で制し、美琴を見る。
「三枝。気持ちはわかるけどさ、今は俺たちが強くなることを考えないと。篠宮のことは……」
少しだけ間が空いた。
「神官長が、ちゃんと判断したんだと思う」
美琴の胸の奥で、何かが冷えた。
相良は悪人の顔をしていなかった。
本当にそう思っている顔だった。
それが余計につらかった。
「迅くん」
朱里がそっと相良の腕に触れる。
「三枝さんも不安なんだよ。でも、迅くんがみんなを守ってくれるんだよね?」
「ああ」
相良は頷いた。
周囲の生徒たちが、また少し安心したように笑う。
その輪の外で、真由だけが静かに魔法陣板を握っていた。
美琴は空を見上げる。
王都の空は青い。
奈落の暗闇とは違う。
けれど、美琴には、その青さが作り物のように見えた。
その時、訓練場の端にある神殿塔の鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
低く、重い音。
歓声が止まる。
神官たちが顔色を変えた。
王国騎士の一人が駆け込んでくる。
「神官長様へ報告! 奈落門、第三封印側に灰の逆流を確認!」
その言葉に、神官たちは一斉に動き出した。
相良が眉を寄せる。
「灰の逆流?」
騎士は言いよどんだ。
「詳細は、神殿にて確認中です」
真由の目が鋭くなる。
美琴の手首が、今までで一番強く痛んだ。
「っ……!」
腕輪が締まる。
まるで、その言葉に近づくなと警告しているように。
灰。
奈落。
逆流。
篠宮透。
美琴の頭の中で、それらが一本の線になりかける。
だが、封環の痛みがそれを邪魔する。
相良は神殿塔を見上げていた。
久世は不満げに剣を握る。
朱里は不安そうに相良の袖を掴む。
絵里香は顔を青くしながらも、周囲の貴族令嬢たちの視線を気にしている。
速水は軽口を言おうとして、言葉を失っている。
真由は小さく呟いた。
「灰喰いの記録がないのに、灰の逆流はある」
美琴は痛みに耐えながら、訓練場の石畳を見つめた。
勇者の光が残した白い焦げ跡。
その端に、一瞬だけ灰色の影が揺れた気がした。
誰も気づかない。
でも、美琴は見た。
あの暗い奈落の底で、まだ燃え尽きていないものがあるのではないか。
篠宮透は、本当に死んだのか。
答えはまだない。
けれど、王都の明るい空の下で、美琴は初めてはっきりと思った。
神殿は、何かを隠している。
そしてたぶん、その隠したものは、まだ奈落の底で息をしている。




