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第28話 黒炎標

 ネイラの黒炎を置く場所は、炉のそばではなく、入口の外に作ることになった。


 灰置き場の中で燃やすには危険すぎる。


 黒炎は普通の火ではない。木や布を燃やすより先に、死んだ魔力や追跡の痕、腐った呪いに食いつく。うまく使えば、屍犬の残骸も、追火蛾の鱗粉も、奈落縛りの薄い残滓も焼き払える。


 だが、暴れれば味方も巻き込む。


 だから、場所を決める必要があった。


 ガルドは外縁の通路に、黒い膜の乾いた残骸を敷いた。毒を抜き、灰布で包み、骨杭で固定する。そこへ腐水の守護腕から剥がした骨片を芯として立てた。


 黒い杭痕から少し離れた場所。


 灰置き場の入口を守るには近く、炉へ火が飛ぶには遠い場所。


 そこに、黒炎の焼き場が作られた。


「ここで燃やせば、追跡痕は外で消せる」


 ガルドが言った。


「内側へ入れる前に、臭いも呪いも焼く。死骸は全部ここを通す」


 バルザは腕を組み、黒い焼き場を眺めていた。


「肉焼き場みたいだな」


「食うなよ」


 透が壁際から言うと、バルザは鼻を鳴らした。


「さすがに食わん」


「今、少し迷っただろ」


「獣人への偏見だ」


「否定が遅い」


 バルザは牙を見せて笑った。


 透はまだ外へ出られない。


 灰杭の反動で右腕はほとんど使えず、脇腹の灰補修も硬いままだ。リィンが封印針を打ち直すたび、傷の奥で灰が動く感覚がある。


 治ってはいない。


 ただ、壊れた場所を灰で押さえているだけだ。


 それでも、外の様子はわかった。


 入口に置いた灰標。

 外縁の灰標。

 バルザの灰印。

 黒い杭痕のそばに残る灰の感覚。


 それらが、透の意識の端に細く繋がっている。


 リィンはその横で、黒鎖を指先で押さえていた。


「今日は見るだけ」


「わかってる」


「灰を伸ばさない」


「わかってる」


「黒炎に触りすぎない」


「わかってる」


「三回言った」


「三回聞いた」


「それでも心配」


「信用がないな」


「あるから心配してる」


 透は返す言葉に困った。


 ネイラは、入口の手前に立っていた。


 まだふらついている。両手首の封環は外れておらず、痛みの棘を表面だけ削った状態だ。だが、黒炎は以前より静かだった。


 彼女は焼き場を見ながら、低く言った。


「私の火を、ここに置くのか」


「置くというより、逃がし道を作る」


 セイルが石板を持ちながら答える。


「あなたの黒炎を直接拠点内へ流すと危険です。だから、外縁に火の受け皿を作ります。燃やす対象は、死骸、追跡痕、腐った魔力、薄い呪い。人や味方には触れないよう、封印線で区切ります」


「術師はよく喋るな」


「す、すみません」


「謝れとは言ってない」


 ネイラは面倒そうに顔を逸らした。


 だが、説明は聞いている。


 シェラが焼き場の前に座っていた。


 立つにはまだ不安定だが、右目の解析機能は使える。彼女は黒い杭の芯を見つめ、淡々と言った。


「黒炎用灰標、形成準備完了。名称未登録」


 透は少し考えた。


 灰標とは違う。


 ネイラの黒炎を通すための印だ。


 灰だけではなく、黒炎も置く。だが、黒炎を縛る印ではない。燃える場所を示す印。


黒炎標(こくえんひょう)


 透が言うと、ネイラが眉を寄せた。


「勝手に名付けるな」


「嫌なら変える」


「……わかりやすいから、それでいい」


 シェラが右目を光らせる。


「黒炎標、登録。黒炎誘導および追跡痕焼却用補助点」


「登録が早い」


「必要」


 ネイラは小さく息を吐いた。


 リィンが焼き場の周囲に封印針を打つ。


 青い文字が床に浮かび、黒い膜の上を円のように囲んだ。セイルがその外側に細い術式線を刻み、ガルドが骨杭を深く打ち込む。


 最後に、透が灰標から灰を伸ばす。


 ほんの少しだけ。


 入口の灰標から、外縁の灰標へ。そこから黒炎標の芯へ。細く、薄く、道を示すだけ。


 右腕ではない。


 胸の奥の灰を、呼吸に合わせて少しずつ流す。


 リィンがすぐに黒鎖を押さえた。


「細く」


「ああ」


「痛みは?」


「あるけど、大丈夫」


「大丈夫は信用しない」


「じゃあ、痛い。でもできる」


「それなら、まだいい」


 灰が黒炎標へ届く。


 骨片の芯に、薄い灰色の線が走った。


 ネイラが両手を上げる。


 封環が白く光る。


 痛みが走ったのか、彼女の肩がわずかに揺れた。だが、黒炎は暴れない。指先に小さく灯るだけだった。


 黒い火。


 普通の火より暗いのに、見ていると目の奥が焼けるような火。


 ネイラはその火を、灰の道へ落とした。


 黒炎が走る。


 灰を喰うのではなく、灰が示す筋に沿って流れる。封印線の内側へ入り、黒炎標の芯に触れた。


 黒い杭の先に、小さな黒火が灯った。


 燃え広がらない。


 消えもしない。


 ただ、そこに留まっている。


 シェラが告げる。


「黒炎標、形成確認。燃焼範囲、封印線内に固定」


 セイルが震えた声で言った。


「成功、です」


 ガルドが頷く。


「これで外に焼き場ができた」


 ネイラは黒炎標を見つめていた。


 自分の火が、誰かを焼かず、何かを壊さず、場所として留まっている。


 それが意外だったのかもしれない。


「……私の火が、止まっている」


 リィンが言う。


「閉じただけ。縛ってはいない」


「同じじゃないのか」


「違う。出たくなったら、ネイラが消せる」


 ネイラは指を動かした。


 黒炎標の火がわずかに揺れる。


 消すこともできる。


 燃やすこともできる。


 彼女の意思が残っている。


 その事実を確かめるように、ネイラは何度も小さく火を揺らした。


 バルザが笑う。


「首輪じゃなかっただろう」


「うるさい」


「照れたか」


「焼くぞ」


「その火は外に置いたばかりだ」


「手元にもある」


 バルザは楽しそうに肩をすくめた。


 その時、黒炎標が小さく跳ねた。


 全員がそちらを見る。


 炎が、何かに反応している。


 透は灰標へ意識を触れた。


 外縁のさらに奥。


 黒い杭痕の向こう。


 屍犬や追火蛾とは違う気配が近づいていた。


 数は四。


 いや、五。


 地面を這うのではなく、壁を伝ってくる。細長い腕。薄い胴。頭がない。代わりに胸の中央に丸い穴がある。


 そこから、かすかな笛のような音が漏れていた。


「何か来る。壁沿い。五体」


 ネイラの顔色が変わった。


「追い笛だ」


 ガルドが問う。


「何だ」


「黒角狩りが使う追跡魔。獲物を見つけると、胸の穴で音を出して位置を知らせる。まだ狩り本隊じゃない。先触れだ」


 空気が一気に重くなった。


 来た。


 早すぎる。


 ネイラの黒炎を使ったことで、追跡痕は焼いた。だが、それ以前に放たれていたものが近づいてきたのだろう。


 バルザが前へ出る。


「潰す」


 ガルドが頷く。


「外で止める。音を出される前に処理しろ」


「もう少しで鳴く」


 ネイラが言った。


「胸の穴が開ききったら終わりだ。あれは音が壁を通る」


 透は灰標を読む。


 追い笛たちは速い。


 壁を這い、天井を滑り、黒い杭痕を避けるように近づいてくる。屍犬ほど重くはないが、殺すためではなく知らせるための魔物だ。


 逃がせない。


 バルザ一人では、五体同時は厳しい。


 シェラはまだ撃てない。


 ネイラは動けない。


 透も出られない。


 だが、黒炎標がある。


 外に置いた火。


 透は目を閉じた。


「ネイラ。焼けるか」


「見えれば」


「灰標で場所を示す」


「全部は無理だ。火を通す前に、胸の穴が開く」


 リィンが言う。


「なら、閉じる。少しだけ」


「どこを」


「胸の穴」


 透は灰標を見る。


 追い笛の胸の穴。


 そこに鳴るための死んだ膜がある。音を出すために震える薄い残骸。生きた肉ではない。魔物の中で、すでに死んだ音だけが残っている部分。


 そこなら、灰で触れる。


「俺が穴の膜を止める。ネイラが焼く。バルザが残りを潰す」


 ガルドが即座に指示へ変える。


「バルザ、正面二体。透とネイラで奥三体。リィンは透を止めろ。セイル、黒炎標の封印線を保て」


「は、はい!」


 バルザが灰幕をくぐる。


 灰印が強く灯る。


 外縁の通路へ、獣人の気配が飛び出した。


 追い笛の一体が、胸の穴を開きかける。


 透は灰標から灰を伸ばした。


 右腕は使わない。


 薄く、細く。


 穴の奥で震えようとした死んだ膜だけを押さえる。


 音が詰まった。


 追い笛の体がびくりと震える。


「一体、止めた!」


「火を通せ!」


 ネイラが黒炎標へ黒炎を流す。


 黒い火が外縁の道を走った。


 透が押さえた追い笛の胸に、黒火が咲く。


 穴の内側から燃えた。


 追い笛は声を出せないまま、壁に張りついた形で黒く縮んだ。


 バルザが正面の二体へ突っ込む。


 一体目を壁ごと殴り潰す。


 石片が飛び散り、細い腕がばらばらに裂ける。二体目が天井へ逃げようとしたが、バルザは跳んだ。天井に爪をかけ、体を捻り、踵で追い笛を叩き落とす。


 落ちたところへ拳。


 胸の穴ごと砕けた。


 だが、残り二体が左右へ分かれた。


 まずい。


 透は灰標を二方向へ向けようとして、頭に激痛が走った。


 リィンが黒鎖を締める。


「広げすぎ」


「二体、分かれた」


「片方だけ」


「でも」


「片方だけ。もう片方は任せる」


 誰に。


 そう思った瞬間、黒炎標が強く揺れた。


 ネイラが立ち上がっていた。


 封環が白く光る。


 痛みが走っている。


 それでも彼女は、両手を前へ突き出した。


「私の火だ。場所くらい、自分で選ぶ」


 黒炎が二筋に分かれた。


 片方は透が示した灰の道を走る。


 もう片方は、ネイラ自身の感覚で壁を這う追い笛へ向かった。


 彼女の黒炎は乱れていた。


 だが、狙いは鋭い。


 追い笛の胸の穴が開ききる寸前、黒い火がそこへ刺さった。


 音が出るより早く、穴の奥が燃えた。


 透はもう片方の膜を押さえる。


 黒炎が到達する。


 四体目が燃え落ちる。


 五体目は、バルザが走り戻りながら爪で壁から引き剥がし、そのまま床へ叩きつけた。


 胸の穴が潰れる。


 音は鳴らなかった。


 外縁に、黒い焦げ跡が五つ残った。


 追い笛は全滅した。


 透は肩で息をした。


 ネイラもその場に膝をついた。


 封環がまだ白く光っている。だが、黒炎は暴走していない。手元に戻り、指先で細く震えている。


 リィンがすぐにネイラの手首へ封印針を近づける。


「痛み、押さえる」


「……触れ」


 ネイラは短く言った。


 拒絶ではなかった。


 リィンが針を当てると、封環の光が少し弱まる。


 ネイラは荒い息を吐いた。


「鳴らなかったか」


 透は灰標を確認する。


 外縁の空気。


 壁の奥。


 音の残響。


 何もない。


「ああ。鳴ってない」


 その言葉で、灰置き場の者たちが一斉に息を吐いた。


 バルザが戻ってくる。


 腕には追い笛の残骸がこびりついていた。彼は黒炎標を見て、満足そうに笑う。


「使える火だ」


 ネイラは顔を上げる。


「私は道具ではない」


「だから、火と言った」


「同じだ」


「違う。お前が焼いた。俺は潰した。透は止めた。役割が違うだけだ」


 ネイラは言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。


 ガルドが静かに言う。


「今の火で、灰置き場は見つからずに済んだ」


 ルカが小さく続ける。


「助かった」


 ネイラはルカを見た。


 子どもの素直な言葉にどう返せばいいのかわからない、という顔だった。


「……礼を言われることはしていない」


「したよ」


 ルカは言った。


「怖いやつ、鳴かなかった」


 ネイラは黙る。


 黒炎標の火が、静かに揺れていた。


 透はその火を見る。


 追い笛の焦げ跡は、黒い花びらのように壁と床へ散っている。バルザが潰した二体の跡は、石が砕け、壁に爪痕が深く残っている。


 視覚的に、はっきりとわかる。


 ここはもう、ただ襲われるだけの場所ではない。


 外へ防衛線が伸び、黒炎の焼き場があり、バルザの爪が壁を砕き、透の灰が音を止める。


 灰置き場は、また強くなった。


 シェラが記録するように告げる。


「黒炎標、実戦成功。外縁防衛能力、上昇。防衛段階二への移行条件、一部達成」


 ガルドが頷く。


「段階二か」


「最低限の外縁火力、確認」


 ネイラがシェラを見る。


「私の火は、段階とやらに入れられたのか」


「肯定」


「勝手に入れるな」


「戦力登録は必要」


「私はまだここに残ると決めたわけじゃない」


 透が言う。


「出ていくなら、止めない」


 ネイラは透を見た。


「本当に?」


「ああ。ただ、今は封環がある。追っ手もいる。出るなら、せめて歩けるようになってからにしろ」


「甘い」


「よく言われる」


「その甘さで、死ぬぞ」


「かもな。でも、無理に残せば首輪と同じだ」


 ネイラは口を閉じた。


 手首の封環を見る。


 それから、外縁に灯る黒炎標を見る。


 自分の火が、あそこに残っている。


 縛られているのではなく、役目を持って。


 ネイラは小さく息を吐いた。


「……出ていく時は、私が決める」


「ああ」


「残る間、追跡は焼く」


「助かる」


「礼は要らない」


「じゃあ、頼む」


 ネイラは少しだけ眉を寄せた。


 礼よりも、頼まれる方が戸惑うらしい。


 リィンが透の脇腹を確認する。


「トオルも処置」


「今?」


「今」


「ネイラの方が」


「ネイラは終わった。次はトオル」


「順番制か」


「うん」


 透は逃げられなかった。


 バルザが笑い、ルカも少し笑った。


 灰置き場の空気が、ほんの少し緩む。


 外には黒い焦げ跡が五つ。


 そのさらに手前には、黒い杭の溝。


 そして入口には、黒炎標の小さな火。


 奈落の底に、灰と黒炎の防衛線が生まれた。


 それはまだ細く、未熟で、危うい。


 けれど、確かに外から来るものを焼き、鳴く前に黙らせた。


 灰置き場は、もうただ隠れるだけの場所ではない。


 近づくものに、痕を残させる場所になり始めていた。


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