第27話 黒炎の置き場所
ネイラが目を覚ましたのは、炉の灰が三度ほど小さく揺れた後だった。
灰置き場に朝はない。
けれど、人が眠り、目を覚まし、水を飲み、傷を確かめる。その繰り返しが、ここでは時間の代わりになる。
ネイラは入口側の空洞に寝かされていた。
炉から少し離れた場所。
石床が厚く、黒炎が漏れても燃え広がりにくい場所。
ガルドが選び、リィンが封印針を打ち、セイルが簡単な術式線を引いた場所だ。
両手首の封環は、まだ外れていない。
ただ、痛みの棘は表面だけ削ってある。白い光は弱まり、黒炎も眠るように細く揺れていた。
ネイラは目を開けるなり、上体を起こそうとした。
封環が白く光る。
「っ……」
黒炎が手首から噴きかけた。
リィンがすぐに封印針へ指を置く。
「動かないで。痛みが戻る」
「……触るな」
ネイラの声はかすれていた。
だが、目は鋭い。
弱っている獣の目だった。
透は少し離れた壁際に座っていた。動ける状態ではない。脇腹には厚く灰布が巻かれ、右腕の黒鎖はいつもより緩く、しかし外れないよう固定されている。
立ち上がることもできない。
だから、座ったままネイラを見た。
「起きたか」
ネイラの赤黒い目が透を捉える。
「ここは、まだ奈落か」
「ああ」
「なら、最悪の続きだな」
「少しだけましにする努力はしてる」
ネイラは周囲を見た。
炉。水瓶。骨杭。灰布。壁際で眠る者たち。遠巻きに彼女を見る落とされた者たち。
獣人のバルザ。
元騎士のガルド。
青い封印針を持つリィン。
震えながらも石板を抱えるセイル。
灰の上に座る壊れた機兵シェラ。
骨棒を抱えたルカ。
まともな集団には見えなかっただろう。
実際、まともではない。
だが、ネイラは笑わなかった。
ただ、低く言った。
「魔族を置く気か」
「今のところは」
「王国の連中に見つかれば、魔族を匿ったと騒ぐぞ」
「もう奈落に落とされてる。これ以上どこへ落とすんだ」
ネイラは一瞬、言葉を失った。
バルザが喉の奥で笑う。
「いい返しだ」
「笑うな」
ネイラが睨む。
バルザは楽しそうに牙を見せた。
「噛みつく元気があるなら、悪くない」
「獣人が魔族を笑うな」
「獣人も魔族も、人間様から見ればまとめて邪魔者らしいぞ」
ネイラの目が細くなる。
その言葉は、彼女にも覚えがあったのだろう。
リィンが静かに水の入った小瓶を置いた。
「飲める?」
「毒か」
「ただの水。貴重だから、毒にする余裕はない」
「……変な理屈だ」
「奈落では大事」
ネイラはしばらく小瓶を睨んでいた。
それから、封環が反応しないよう慎重に指を動かし、小瓶を持ち上げる。手首の白い輪がかすかに光ったが、リィンの封印針がそれを押さえた。
ネイラは水を一口飲む。
喉が動く。
次の瞬間、目がわずかに揺れた。
水が、染みたのだろう。
ただの水。
けれど、落とされた者にとっては命そのものだった。
「……本当に、水か」
「水だ」
透が答える。
「エルドが守ってた水だ」
「誰だ」
「貯蔵庫にいた人。もう眠った」
ネイラはそれ以上聞かなかった。
小瓶をもう一度口へ運ぶ。
ルカが少しだけ嬉しそうに見ていた。
「飲めた」
「見せ物じゃない」
ネイラが言うと、ルカは慌てて後ろに下がった。
透が苦笑する。
「悪い。ルカは悪気ない」
「知ってる。だから余計に困る」
ネイラは小瓶を下ろした。
その時、手首の封環がまた白く光った。
痛みが走ったらしい。
彼女の肩が跳ね、黒炎が指先から漏れる。石床に落ちた火は、普通の火のように燃え広がらず、触れた灰を黒く焦がして消えた。
シェラの右目が光る。
「黒炎、死魔力焼却特性を確認」
「わかりやすく言え」
透が言うと、シェラは少し考えた。
「死んだ魔力を焼ける火」
ネイラがシェラを見た。
「機兵が喋るのか」
「喋る」
「なぜ壊れている」
「修復不足」
「なぜ座っている」
「休息命令、登録済み」
「……ここは本当に変な場所だな」
ネイラは疲れたように目を伏せた。
ガルドが一歩前へ出る。
「質問する」
ネイラが警戒する。
「尋問か」
「必要確認だ。答えたくないものは、今は答えなくていい」
「それで信用しろと?」
「信用は後でいい。危険だけ先に知りたい」
ネイラは黙った。
ガルドは続ける。
「お前は魔王軍から逃げたと言った。追跡はあるか」
「ある」
即答だった。
空気が少し重くなる。
「どの程度だ」
「私が生きていると知られれば、黒角狩りが来る」
セイルが小さく息を呑んだ。
「黒角狩り……」
透が彼を見る。
「知ってるのか」
「魔王軍内部の粛清部隊です。王国側にも噂はありました。失敗した部隊、裏切った魔族、血統を汚した者を処分する、と」
ネイラが皮肉に笑う。
「よく知っているな、人間」
「文書で見ただけです」
「文書の方が、まだ綺麗に書く。実物はもっと臭い」
バルザが腕を組む。
「来るなら潰す」
「簡単に言うな。黒角狩りは魔族を殺すための魔族だ。人間用の騎士とは違う」
「なら、なおさら歯ごたえがある」
「馬鹿か」
「よく言われる」
バルザは悪びれなかった。
透はネイラを見る。
「追跡は今も繋がってるのか」
ネイラは両手首の封環を見る。
「たぶん。これが生きている限り、私の黒炎が暴れた時に痕が残る。すぐではないが、嗅がれる」
「外せば?」
「外せるなら、とっくに外している」
「痛みを止めたみたいに、少しずつなら壊せるかもしれない」
ネイラの目が鋭くなる。
「私の魔力を喰う気か」
「喰わない。封環だけだ」
「そんな器用な真似が、いつもできるのか」
「いつもは無理だ」
透は正直に答えた。
「だから、リィンが止める。シェラが見る。セイルが構造を読む。俺一人ではやらない」
ネイラは意外そうに眉を動かした。
「一人でやらない、と言えるのか」
「言わないと、だいたい怒られる」
リィンが頷く。
「怒る」
バルザも頷く。
「殴るかもしれん」
ガルドも言う。
「寝かせる」
「味方が厳しいな」
ネイラが呟いた。
透は肩をすくめようとして、脇腹の痛みにやめた。
「だろ」
その時、入口の灰標が震えた。
今度は軽い震えではない。
細かく、嫌な揺れ。
外縁の灰標。
黒い杭痕の近く。
屍犬の残骸が転がっていた場所。
そこに、何か小さいものが群がっている。
透は顔を上げた。
「外に何かいる」
ガルドが即座に動く。
「数は」
「小さい。多い。屍犬の死骸に集まってる」
ネイラの顔色が変わった。
「黒炎に寄ったんだ」
「何が」
「追火蛾。黒炎や魔族の血に寄る。見つけると、焼けた鱗粉を残して追跡の目印にする」
セイルが青ざめる。
「それを放置すると?」
「黒角狩りが来る」
ネイラが身を起こそうとする。
封環が光る。
黒炎が噴きかけた。
リィンが針を押さえる。
「動かないで」
「私が焼く」
「その状態で出たら、封環が暴れる」
「なら、どうする。あれを残せば、ここも嗅がれる」
透は灰標に意識を向ける。
小さな蛾のような気配が、屍犬の残骸に群がっていた。羽ばたくたびに、灰標がざらざらと焼けるような感覚を返してくる。
数は二十以上。
バルザが行けば潰せるかもしれない。だが、鱗粉が散れば追跡の痕が残る。
ネイラの黒炎なら焼ける。
だが、ネイラ自身が動けない。
なら。
「ここから焼けるか」
透が言うと、ネイラは睨んだ。
「見えない」
「俺が位置を示す」
「お前が?」
「灰標で場所はわかる。黒炎を細く出せるなら、そこへ通す」
「灰で私の火を操る気か」
「操らない。道だけ作る」
ネイラの目が、さらに険しくなる。
「道?」
「灰印と似たものだ。火を送る首輪じゃない。こっちから命令はしない。お前が燃やすなら、俺が場所を示す」
ネイラは黙った。
黒炎が指先で細く揺れている。
彼女にとって、自分の火を他人の灰に触れさせるのは、簡単なことではないのだろう。
透にもわかる。
自分の力を誰かに預けるのは怖い。
まして、封環で縛られてきた者ならなおさらだ。
バルザが言った。
「首輪かどうかは、わかる」
ネイラが彼を見る。
バルザは右腕の灰印を叩いた。
「これは首輪じゃなかった。だから俺は持っている」
「獣人の感覚を信じろと?」
「信じなくていい。だが、俺は選んだ」
ネイラはしばらくバルザを睨んでいた。
やがて、透へ視線を戻す。
「少しでも私の火を引っ張れば、焼く」
「それでいい」
「命令したら、焼く」
「しない」
「私の魔力を喰おうとしたら」
「リィンが俺を止める」
リィンが頷く。
「止める」
ネイラは小さく息を吐いた。
「……いい。道だけだ」
透は目を閉じた。
入口の灰標。
外縁の灰標。
黒い杭痕。
屍犬の残骸。
その周りを飛ぶ追火蛾。
灰を伸ばす。
攻撃ではない。
黒炎を縛る線でもない。
ただ、場所を示すための灰の道。
灰標から外へ、細い筋を一本だけ伸ばす。
リィンが黒鎖を押さえる。
「細く」
「わかってる」
「ネイラの火には触りすぎないで」
「ああ」
ネイラが両手をゆっくり上げる。
封環が白く光るが、リィンの封印針が押さえた。
黒炎が指先に灯る。
熱い。
その場にいるだけで、空気が乾く。炉の灰がざわめき、ルカが一歩下がる。
だが、炎は広がらない。
ネイラは歯を食いしばりながら、細く言った。
「道を出せ」
透は灰の筋を灯す。
ネイラの黒炎が、その筋の上を走った。
喰わない。
支配しない。
ただ、灰が示した場所へ、黒い火が滑る。
外縁の灰標が焼けるように震えた。
追火蛾の群れが、屍犬の残骸の上で一斉に羽ばたく。
その瞬間、黒炎が到達した。
音はなかった。
黒い火は、蛾の群れを包むのではなく、内側から灯った。羽の根元、鱗粉の奥、追跡の臭いを宿す小さな核。その全部に、小さな黒火が咲く。
次の瞬間、追火蛾は一匹残らず燃え落ちた。
灰標が強く震える。
外の空気が一瞬だけ熱を持ち、すぐ冷えた。
屍犬の残骸も焼け、黒く縮み、臭いが消える。
追跡の鱗粉は残らない。
ただ、石床に黒い花びらのような焦げ跡が散っていた。
透は息を吐いた。
「消えた」
ネイラの肩が落ちる。
黒炎が消え、両手が膝に落ちた。
封環が弱く白く光るが、痛みの反応は小さい。
リィンがすぐに針を当てる。
「大丈夫?」
「……気安く聞くな」
「わかった。生きてる?」
「生きてる」
「なら、よかった」
ネイラは返事をしなかった。
だが、さっきより少しだけ険が薄れている。
シェラが淡々と告げる。
「黒炎誘導、成功。追跡性小型魔獣の完全焼却を確認」
「完全か」
ガルドが外へ目を向ける。
「なら、使える」
ネイラが鋭く言う。
「私は道具ではない」
「道具とは言っていない」
ガルドはまっすぐ答えた。
「力として使えると言った。お前自身が選ぶなら、ここを守る火になる」
ネイラは黙った。
その言葉は、彼女の中に落ちたようだった。
透は静かに言う。
「嫌ならやらなくていい」
「それで、追火蛾が来たら?」
「別の手を考える」
「甘い」
「かもな」
「そんなことで生き残れるのか」
「今のところ、まだ死んでない」
バルザが笑う。
「こいつの決まり文句だ」
ネイラは呆れたように透を見た。
「本当に変な奴だな」
「よく言われる」
「礼は言わない」
「まだ何も求めてない」
「そういうところが変だ」
ネイラは手首の封環を見る。
白い輪はまだそこにある。
だが、黒炎は少し落ち着いていた。
「この火は、魔王軍では失敗作と言われた」
ぽつりと、彼女が言った。
誰も遮らなかった。
「敵を燃やすには遅い。味方を巻き込む。命令されると暴れる。血統の黒炎としては欠陥だと」
ネイラは外の方を見る。
追火蛾が焼かれた場所。
「でも、死んだ魔力や追跡の痕は焼ける。魔王軍は、それを役に立たないと言った」
透は言った。
「ここでは役に立った」
ネイラの目がわずかに揺れる。
「……そうだな」
短い返事だった。
けれど、それは彼女が初めて自分から認めた言葉だった。
リィンが小さく言う。
「黒炎は、炉から離した方がいい。でも、外縁の焼却には向いてる」
ガルドが頷く。
「なら、外縁防衛に黒炎の焼き場を作る。追跡痕、死骸、腐った魔力を焼く場所だ」
セイルが石板に書き込む。
「灰標と黒炎を直接繋ぐのは危険ですが、間に封印線を入れれば安定するかもしれません」
シェラが続ける。
「黒炎誘導用の灰標、別系統化を推奨」
ルカが首を傾げる。
「つまり?」
透は少し考えた。
「ネイラ用の火の場所を作るってことだ」
「火の場所」
ルカはネイラを見る。
「じゃあ、ネイラも守る係?」
ネイラは答えなかった。
だが、否定もしなかった。
灰置き場の中で、それは小さくない意味を持った。
魔族だから置かれるのではない。
危険だから縛られるのでもない。
黒炎を持つ者として、役割を持つ。
ネイラはそれを、まだ受け入れたわけではない。
けれど、拒絶もしなかった。
透は壁にもたれ、息を吐いた。
体は限界に近い。
だが、灰置き場はまた一つ強くなった。
追跡を焼く黒炎。
それを示す灰標。
封じるリィン。
読むセイル。
記録するシェラ。
配置を決めるガルド。
外に出るバルザ。
戻る道を覚えるルカ。
拾った力が、それぞれの場所を持ち始めている。
ネイラはまだ警戒したまま、水の小瓶を握っていた。
その指先に、小さな黒炎が灯る。
今度は暴発ではない。
静かに、細く。
まるで、この場所で燃える場所を探しているようだった。
炉の灰が揺れる。
灰色の火と、黒い火。
二つの火が、奈落の底で並んでいた。




