第26話 黒角の少女
バルザの灰印が、外の通路を進んでいく。
透は灰置き場の壁際に座ったまま、目を閉じていた。
体は動かない。
動かせば、脇腹の灰補修が裂ける。右腕もまだ熱を持っている。灰杭を撃った反動は、思っていたより深かった。
それでも、見える。
いや、見ているわけではない。
バルザの右腕に結んだ灰印が、奈落の冷たい空気の中を進むたび、透の意識に細い揺れが届く。
入口から十歩。
赤黒い苔。
砕けた骨蛇の顎罠。
黒い膜の残骸。
そして、灰杭が残した黒い溝。
その先に、倒れている気配があった。
人に近い。
だが、人間とは少し違う。
血の匂い。焦げた布。両手首に絡む封環。奈落縛り。さらに、もっと熱いもの。
火の残り香。
ただの火ではない。
黒く燃え尽きた魔力の灰だった。
「バルザ、近い。杭痕の右側」
透は目を閉じたまま言った。
声は直接届かない。
だが、灰印へ灰置き場の位置を強く灯すと、バルザが小さく反応するのがわかった。足取りが変わる。右へ寄る。
リィンは透の隣で、黒鎖に指を添えていた。
「無理に覗かないで」
「覗いてない。位置だけ」
「少し深い」
「……わかった」
透は灰印への意識を少し緩める。
すぐに情報が薄くなった。
もどかしい。
自分が行けば見える。触れればわかる。灰糸を伸ばせば、倒れている者の封環も呪いももっと読める。
だが、今はそれをしてはいけない。
自分が動けないなら、動ける者に任せる。
それも強さだと、さっきバルザに言われたばかりだ。
透は奥歯を噛んだ。
「バルザが止まった」
ガルドが骨杭を握り直す。
「敵か」
「わからない。倒れてるやつの前に、何かいる」
灰印が低く沈む。
バルザが身構えた気配。
次の瞬間、外の通路で衝撃が走った。
灰印が激しく震える。
バルザが横へ跳ぶ。
その足元を、何かが薙いだ。
「戦闘」
透が言った瞬間、ルカが息を呑んだ。
「バルザ、大丈夫?」
「まだ立ってる。速いのがいる」
透は灰標へ意識を触れた。
黒い杭痕の近くに置いた外縁の灰標。
そこに、影が三つ触れていた。
細い。
低い。
四足。
だが、骨蛇より速い。灰鼠より重い。
死骸を縫い合わせた獣。
犬か狼の形をしている。
口だけが異様に大きい。
「屍犬が三。バルザの周りを回ってる」
ガルドが短く言った。
「処刑路の残飯漁りだ。血の匂いに寄ったな」
バルザの灰印が前へ踏み込む。
衝撃。
一匹が潰れた。
骨が砕け、肉が裂ける感覚が灰標に伝わる。バルザの一撃は重い。屍犬一匹程度なら、正面から食らえば形も残らない。
だが、残り二匹は止まらなかった。
左右から回り込み、倒れている者へ向かう。
「しまっ……倒れてるやつを狙ってる!」
透は思わず立ち上がりかけた。
リィンの手が肩を押さえる。
「座って」
「でも」
「指示して」
その言葉で、透は動きを止めた。
指示。
自分で行くのではなく。
透は灰標を読む。
屍犬二匹。
左は速い。右は低い。
倒れている者の手首の封環が、屍犬の気配に反応している。おそらく、逃げようとすれば痛みを流すための封環。今は倒れている者が動けないせいで、封環だけが白く震えている。
その震えが、屍犬をさらに呼んでいる。
「バルザ、左を追うな。右が本命だ」
声は届かない。
だが、灰印へ強く意識を落とす。
右。
倒れている者の近く。
危険。
戻る道ではなく、危険の位置を灰印に叩き込む。
バルザが反応した。
彼は左の屍犬を追う動きを止め、体を反転させる。右へ滑り込んだ屍犬が、倒れている者の喉へ牙を立てる寸前だった。
バルザの足が落ちた。
屍犬の頭が石床へ沈む。
乾いた破裂音が、灰標越しに伝わった。
残り一匹。
左へ逃げる。
「逃がすな。血の匂いを持って戻る」
ガルドが言った。
透は灰標を探る。
左の屍犬は速い。バルザでも追えるが、追えば倒れている者から離れる。
追わせるべきではない。
「シェラ」
透が言うと、炉のそばのシェラが右目を光らせた。
「待機中」
「入口の灰標から、細い線を外へ伸ばせるか。直接攻撃じゃなく、足止め」
「現状態、微弱干渉のみ可能」
「十分」
シェラの左手が床に触れた。
入口の灰標が弱く光る。
透はその光に、自分の灰を少しだけ重ねた。右腕は使わない。胸の奥の灰を、ごく薄く。灰標から灰標へ。黒い杭痕の近くへ。
屍犬の足元に、灰がわずかに立つ。
攻撃ではない。
足の裏にこびりついた死んだ肉の灰を、ほんの少しだけ起こす。
屍犬の走りが乱れた。
たった一瞬。
だが、バルザには十分だった。
彼の爪が背後から届く。
屍犬の胴が横に裂けた。
腐った内臓が床へ散り、屍犬は二つに分かれて転がった。
バルザの灰印が落ち着く。
戦闘は終わった。
透は息を吐いた。
脇腹が痛む。
少し灰を伸ばしただけでこれだ。やはり今の体はかなり悪い。
リィンがじっと見ている。
「今の、少し無理した」
「少しだけ」
「少しは無理」
「……悪い」
「後で処置」
「はい」
リィンはようやく手を離した。
外では、バルザが倒れている者の前に膝をついたらしい。
灰印の気配が低くなる。
透は灰標越しに、その者の輪郭を探った。
人間より少し細い体。
背中に焼けた布。
頭に、折れかけた角のようなものが二本。
両手首には白い封環。
足首には、王国のものとは違う黒い鎖痕。
魔族か。
透がそう思った時、倒れている者が動いた。
弱々しく。
しかし、次の瞬間、周囲の空気が熱を持った。
黒い火が灯る。
倒れていた者の手首から、封環を焼くように小さな黒炎が噴いた。白い封環が反応し、激痛を流す。灰印越しに痛みは来ない。だが、暴れる魔力の揺れだけでわかった。
彼女はまだ、戦おうとしている。
「バルザ、下がれ!」
透は叫んだ。
今度は声も届いたのかもしれない。
バルザの気配が一歩引く。
直後、黒い炎が通路を舐めた。
石壁が焦げる。
屍犬の残骸が一瞬で炭化し、灰になって散った。
ルカが小さく悲鳴を上げる。
「火?」
「黒い火だ。倒れてるやつが出した」
セイルが青ざめる。
「黒炎……魔族の上位血統かもしれません」
ガルドの目が鋭くなる。
「魔王軍か」
「わからない」
透は灰標を読む。
黒炎は強い。
だが、安定していない。燃やすというより、傷口から漏れている。彼女自身が制御できていない。封環が痛みで押さえつけ、そのたびに黒炎が暴発している。
このままでは、彼女自身が焼ける。
「封環が暴走してる。外せないまでも、痛みを止めないと死ぬ」
「トオル」
リィンが言う。
止める声ではない。
確認する声だった。
「ここからは届かない」
「俺の灰糸は無理だ。でも、バルザの灰印を中継にしたら……」
「危ない」
「わかってる」
「痛みが逆流するかもしれない」
「それでも、痛みを全部じゃなくて、封環の表面だけ触る」
リィンは迷った。
透も迷っていた。
だが、外では黒炎がまた揺れた。
バルザが近づけない。倒れている魔族の少女は、痛みで自分の火を制御できない。屍犬の血の匂いに、別の魔物が来るかもしれない。
時間がない。
透はバルザの灰印へ意識を合わせた。
バルザの右腕。
灰印。
そこから外へ、ほんの少しだけ灰を伸ばす。
バルザが気づいた。
灰印が強く震える。
透は短く言った。
「バルザ、右腕を前に。近づきすぎるな」
声は届かない。
だが、意図は伝わった。
バルザが灰印のある右腕を前へ出す。
黒炎が揺れる。
透は灰印から、細い灰糸を伸ばした。
遠隔で灰を使うのは、ひどく難しかった。
自分の指先ではない。バルザの腕に結ばれた骨札を通して、さらにその先へ触れる。感覚は鈍く、距離は不安定で、少しでも力を入れすぎれば灰印が焼き切れそうになる。
リィンが黒鎖を押さえる。
「細く」
「わかってる」
「バルザの魔力に触らないで」
「触らない」
透は封環を探った。
魔族の少女の両手首。
白い封環。
王国神殿のものと似ているが、少し違う。人間用ではない。魔族の魔力を押し潰すために、より強い痛覚線が入っている。
痛みの棘。
命令線。
魔力を焼く抑制印。
バルザの首輪より荒い。
雑で、残酷で、壊れても構わないという作りだった。
透の灰が冷える。
「ふざけるなよ」
小さく漏れた。
リィンが黒鎖を握る。
「怒りすぎないで」
「ああ」
痛みの棘だけを撫でる。
全部は無理だ。
遠すぎる。
だから、表面に出ている棘を削るだけ。
灰糸が白い棘に触れた瞬間、激痛の名残が透の指先へ跳ねた。
痛い。
自分の痛みではない。
だが、痛い。
透は歯を食いしばる。
棘を落とす。
一本。二本。三本。
黒炎の揺れが少し弱まった。
倒れていた少女の呼吸が整う。
バルザがその隙に踏み込んだ。
黒炎を避け、少女の背後へ回る。大きな腕で、彼女の体を布ごと抱え上げた。
少女が目を開ける。
灰標越しに、その視線が伝わった気がした。
赤黒い瞳。
焼けた金のような瞳孔。
折れた黒角。
彼女はかすれた声で何かを言った。
聞こえない。
だが、バルザが一瞬止まった。
次に、灰印が強く震える。
バルザは走り出した。
「戻ってくる」
透が言うと、灰置き場が動いた。
ガルドが入口を開ける。
リィンが封印針を準備する。
ルカが水を持ってくる。
セイルは白い顔で、魔族用封環の構造を思い出そうとしている。
シェラが静かに言った。
「黒炎反応、危険。炉から離して収容推奨」
「どこへ」
ガルドが問う。
「入口側の空洞。石床、耐熱性あり」
「そこだ」
バルザが戻ってきた。
腕の中に、黒角の少女を抱えている。
年は透と同じくらいか、少し上に見えた。長い黒髪は焼け焦げ、額から伸びる二本の角のうち片方は途中で折れている。肌は灰をかぶったように白く、唇には血が滲んでいた。
両手首の封環が、まだ白く光っている。
その内側から、黒炎が時々漏れた。
近くにいた者たちが後ずさる。
魔族。
その言葉だけで、地上なら恐怖と敵意を向けられる存在。
灰置き場でも、全員が平気なわけではなかった。
だが、バルザは彼女を床に下ろす時、丁寧だった。
「噛みつかれなかったのか」
ガルドが聞く。
バルザは肩をすくめた。
「噛む力も残ってない」
少女の目が、薄く開いた。
赤黒い瞳が周囲を見回す。
透を見る。
その目に、警戒が宿った。
彼女は声を絞り出す。
「……ここは、王国の牢か」
「違う」
透は座ったまま答えた。
立てない。
だが、目は逸らさなかった。
「奈落の灰置き場だ。落とされた者が集まってる」
少女の眉がわずかに動く。
「奈落……」
「名前は」
透が聞くと、少女は口を閉じた。
答えない。
当然だ。
いきなり落とされ、屍犬に襲われ、獣人に抱えられ、灰置き場へ連れてこられたのだ。信用しろという方が無理だった。
透は言った。
「言いたくないなら、今はいい」
少女の目が少しだけ揺れた。
命令されると思っていたのかもしれない。
リィンが封印針を構える。
「手首を見る。痛みを止めたい」
少女は反射的に腕を引こうとした。
封環が白く光る。
黒炎が漏れる。
リィンが動きを止める。
「動かないで。封環が反応する」
「触るな」
少女の声は弱いが、鋭かった。
「触ったら、焼く」
バルザが低く笑う。
「元気はある」
「笑うな」
透はバルザを軽く睨んでから、少女へ言った。
「俺たちは封環を外せるかもしれない」
少女の目が見開かれる。
希望ではない。
疑いと怒りが先だった。
「嘘だ」
「完全にはまだ無理かもしれない。でも、痛みは少し止められる」
「なぜ」
「俺も落とされた側だから」
透は右腕の黒鎖を見る。
「勝手に呼ばれて、勝手に危険だと決められて、奈落に落とされた」
少女は黙った。
透は続ける。
「お前を信用しろとは言わない。俺たちもまだお前を知らない。でも、その首輪みたいなものは嫌いだ」
少女の視線が、両手首の封環へ落ちる。
白い輪が、肉に食い込んでいる。
透はゆっくり言った。
「痛みだけ、止める。肉は喰わない。記憶も触らない。嫌ならやめる」
少女は長く黙っていた。
黒炎が小さく揺れる。
やがて、彼女はかすれた声で言った。
「……痛みだけだ」
「ああ」
「命令線に触るな」
セイルが驚いたように顔を上げた。
「構造がわかるのか」
少女は彼を睨んだ。
「何度も焼かれた。嫌でも覚える」
その言葉に、場が静まった。
透の胸の奥で、灰が冷たく揺れる。
彼はリィンを見る。
「頼む」
「うん。深く行かせない」
リィンが少女の腕のそばに封印針を置く。
透は左手を伸ばした。
右腕はまだ使えない。
灰糸を細く出す。
封環の表面に触れる。
少女の黒炎が反射的に揺れた。
熱い。
だが、灰は燃え尽きたものに触れる。
黒炎そのものは生きた魔力だ。喰わない。触らない。見るだけ。
白い痛みの棘。
封環の表面に浮いたそれだけを、灰糸が撫でる。
少女が歯を食いしばった。
痛みの棘が灰になって落ちる。
一つ。二つ。三つ。
封環の光が少し弱まった。
黒炎が落ち着く。
少女の肩から、わずかに力が抜けた。
「……本当に、痛みが」
「全部じゃない」
透は息を吐く。
「深いところはまだ無理だ」
「それでも」
少女は自分の手首を見た。
そして、初めて透を真正面から見た。
「名は、ネイラ」
短い名だった。
「黒角族、ネイラ。魔王軍から逃げた」
バルザの耳が動く。
ガルドの目が細くなる。
魔王軍。
王国だけではない。
奈落は、魔王軍からも捨てられた者を拾う。
透はネイラを見た。
黒角の少女は、まだ警戒している。今にも牙を剥く獣のような目をしている。けれど、手首の封環から漏れる黒炎は、さっきよりずっと静かだった。
「逃げたなら、追われてるのか」
透が聞くと、ネイラは苦く笑った。
「追われる価値があると思われていればな」
「捨てられたのか」
「失敗作だと」
その言葉は、灰置き場の空気に沈んだ。
失敗作。
外れ職。
災厄。
反逆者。
呪われた子。
都合の悪い証人。
呼び名は違う。
でも、ここに落ちる理由はよく似ている。
透は静かに言った。
「なら、ここにいていい」
ネイラは目を細める。
「魔族だぞ」
「獣人もいる。元騎士もいる。元神殿術師もいる。機兵もいる。俺は灰喰いだ」
バルザが笑う。
「今さら魔族一人で驚く場所でもない」
リィンが頷く。
「危ないなら止める。でも、名前があるなら、ここでは名前で呼ぶ」
ネイラはリィンを見る。
次に、透を見る。
「……変な場所だな」
「俺もそう思う」
透が答えると、ネイラは少しだけ目を伏せた。
疲れが限界に来たのだろう。
体から力が抜ける。
黒炎が完全に消える前に、リィンが封印針を一本、近くの床に打った。
「寝て。封環が暴れたら止める」
「信用はしてない」
「今はそれでいい」
ネイラはそれ以上言わなかった。
意識を失うように目を閉じる。
ルカが小声で言った。
「また、一人増えた」
「ああ」
透は答えた。
バルザが腕の灰印を叩く。
「拾ってきたぞ」
「助かった」
「次は何を拾う?」
「できれば、しばらく何も拾わず休みたい」
ガルドが淡々と言う。
「無理だろうな。奈落門がずれているなら、また落ちる」
「だよな」
透は目を閉じた。
痛みは強い。
疲労も深い。
だが、灰置き場にはまた一つ、新しい火が増えた。
黒い火。
捨てられた魔族の少女。
彼女が味方になるかは、まだわからない。
けれど、少なくとも今は、喰屍にも屍犬にも食わせなかった。
それで十分だ。
炉の灰が静かに揺れた。
その火の横で、黒炎の残り香が細く漂っている。
灰置き場はまた一つ、捨てられた力を拾った。




